Friday, January 31, 2014

自殺者一万人を救う戦い


良く知っているように、日本で年間3万人が自分の命を取っている。悲しい映画ですが、自殺者一万人を救う戦いを見て下さい。

自分もそうですが、人は、頼りない。が、愛に満ち満ちている神が確かにいるのです。で、人格的な神です。人となられました。イエス・キリストのことです。聖書・詩篇42:5「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」確かに「キリスト(が)、栄光の望み」です。(コロサイ1:27)

この尊い方々に手を差し伸べましょう。話しを聞きましょう。希望のキリストを宣べ伝えましょう。

(写:自殺の多い東尋坊)

Tuesday, January 21, 2014

キリストにおいて取りあげたもう


「われわれの犠牲の中には本質的に神に喜ばれるような清らかさは決して見られないからである。かって、われわれは自己を完全に放棄したことがない。いまだかって、われわれは善をなす熱意も辛抱も、十分になしたこともない。それゆえに、われわれのわざは不完全であり、多くの悪徳に包まれている。。。われわれのわざが喜ばれるのは、それらのわざによる十分の功績によるのではなく、キリストを通ずることによってである。そして、このことは、神がそれ自体ではなんの値打ちもない人間のわざを、キリストにおいて取りあげたもうほど、やさしくわれわれを遇(ぐう)したもう、とわれわれのうちに烈しい(はげしい)愛着を燃えたたしめるのである。」ジョン・カルヴァン

「しかし、以前は(神から)遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの(十字架の)血によって近い者とされたのです。」聖書・エペソ2:13

Wednesday, January 15, 2014

ひとえに神の恵み


「クリスチャンになったばかりの青年が熱心に路傍でトラクトを配ることにしました。ところが通行人はクシャクシャに丸めて捨てて行くのです。青年は憤りました。『なんということを。』しかし、やがて三つのことに気づきました。一つは、誰もが皆キリストを信じ頼もうとしていないこと。二つは、自分だって彼らの仲間の一人であってよいはずだということ。三つは、自分が彼らと違ってキリストを信じ頼んでいるのは、ひとえに神の恵みによって選ばれているからだということ。」小畑進

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」聖書・エペソ2:810

Wednesday, January 8, 2014

キリスト中心のメッセージ 第三回キリスト中心のメッセージの希望


ブライアン・チャペル博士による学び
    キリストを宣べ伝える、聖書全体にあるめぐみを伝えよう
キリスト中心のメッセージ 第三回キリスト中心のメッセージの希望

2 前の2回の学びではクリスチャン的メッセージをするにはキリストをしっかり 中心にすえることが大事だと語ってきました。これは単純に聞こえますが、しかし 自分がこれまでどんな説教をしてきたかを考えれば、そうでもないことが分かりま す。キリストをメッセージから外すことは、いとも簡単にできるのです。  

なので最初の学びでは”イエス様の声とともに語るにはイエス様ご自身のメッ セージを保つこと”といい。クリスチャンのメッセージにキリストを保つ大切さを お話ししました。2回目は具体的にはどうするのかを話しました。聖書の釈義方法 について、上っ面をなでただけではありますが、しかし新しいレンズをつければど の聖句をとっても、贖いの真理を見極められることを学びました。皆さんにとって 聖書のどこを読んでいても、贖い的に読む道が開けたなら嬉しく思います。  

では、重要な点を復習しておきましょう。どのみことばでも贖い的に考えるため にはどのようなレンズを使うのでしょうか?一枚目のレンズはこの聖句は贖いを与 えられる神様の本質、特性について、何を教えているか?です。そして二枚目は贖 いを必要とする人間の本質ついて何を解き明かしているか?これら2つの問いかけ を忘れないでください。神様の本質や特性は何だと言っているか、 人間の本質や 特性は何だと言っているかこれらの問いを忘れなければ、自ずと贖いの要素がつか めるようになります。

目標:
3 今回の学びの最終的な目標は、贖いのメッセージの影響を知ることです。聖書 を贖い的に分析することは重要であると理解した上で、私たちはその手段を得まし た。ではそれはどんな聖化をもたらすのでしょうか?私は皆さんにキリスト中心の メッセージが信者の生活にどのような影響を与えるか、分かっていただきたいので す。日常生活に与える影響はどうか?ここに隠された主題があります。あなたに とって変えるとはどういうことですか?何が人を変えると思いますか?説教も宣教 も、カウンセリングも果ては子育ても、どの働きをとってもそのゴールは、主が 人々を変えていくことです。しかし教理的には結局、何が人々を変えていくと思い ますか?

I.キリスト中心のメッセージを通して聖さを刺激する
A.何が人を聖くするのか? 4 今回は何が人を聖くするか考えます。まずキリスト中心のメッセージを通して それをするために、次の質問からはじめましょう。何が人間を聖くするのでしょう か?特にすでに救われた人々について考えてましょう。何が彼らをより聖くするの でしょうか?避難を浴びせまくることでしょうか?それとも恵みの約束を強調する ことでしょうか?この質問は昔からありました。ローマ人への手紙6章1節をみる と明らかです。パウロは恵みばかり強調しすぎたと感じたので”恵みが増し加わる ために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか”といいましたね。つまり何世 紀も前から人は恵みについていろいろと考えてきたのです。そして未だにそれぞれ の世代が議論を重ねています。恵みについて私たちはいくらでも語れます。でもそ のうちのどれくらいがよくて、どれくらいが放蕩をうながすことになってしまうの でしょうか?

5 ここで面白い話をひとつご紹介しましょう。ブラッドフォードというピューリ タンが獄中で死を間近にしているときにあるアナバプテストと議論しました。おも しろいですね。二人とも牢屋で死を待っているのに、恵みの本質について神学的な 議論をしていたのですから。まずはこのアナバプテストが言いました。”神の愛を 人々に保証し続けてはいけない、もしそんなことをしたら、人間は何でもしたいこ とをしでかしてしまう”これにブラッドフォードはどう答えたでしょう?”とんでも ない、神の愛を保証し続ければ、人間は自分ではなく主の望むことをやるようにな る。”これが基本です。神によって心から生まれ変わった人間の性質がどう働くの かを言い表しています。

6 恵みを保証することに対する懸念は、「堅忍」にまつわるそれと似ています。 私たちは信者について不安を感じているのです。「神に拒絶される心配はないと 言ったら、何のために信徒はまっすぐで狭い道にとどまるでしょうか」そう思う と、「神様は絶対拒絶することはないと言うのはよくない。さもないと、みんなや りたい放題になってしまう」と考えるのです。「一度救われれば永久に救われる」 とするのは堅忍と同じで信徒を自由にします。同じ理由で次の事も思います。「恵 みの保証ばかりしていたら、何のために神の民は聖くなくてはならないということ になるだろう?」ここでもう一度あなたに問います。「裁きがあると脅すことと、 恵みの約束とでは、どちらが人間を真の聖さに導くのでしょうか?」

1.ウェストミンスター信仰基準は何と言っているか?
7 信仰基準は何と言っているでしょうか?オーソドックスな方法をとってみま しょう。正しい方向性を教えてくれるといいですね。ウェストミンスター信仰基準 20章キリスト者の自由について、中略があるのでご承知ください。  

キリストが福音の下にある信者のために買い取られた自由は、罪責・神の断罪的 なみ怒り・道徳律法ののろいからの自由と、(中略)罪の支配から(中略)の彼らの解 放と、彼らの自由な神への接近、奴隷的恐れからではなく子のような愛と自発的精 神から神に服従をささげることにある。 (後略) 

8 なぜ人間は神様に仕えるようになれたのでしょうか?キリストに与えられた自 由によって恐れから解放されたからです。では何が理由となって人間は抑制される のでしょうか。奴隷のような恐怖からではなく、子供のような愛情と自発的精神か らです。19章の6をみるとこうあります。  

(前略)それで、人が善を行い悪をやめることは、律法が一方を奨励し他方をとめ ているゆえ、彼らが律法の下にあって恵みの下にいないということの証拠にはなら ない。  

つまり服従しているからといって恵みの下にないということではないのです。 信仰基準はさらに続きます。 

 (7)上に述べた律法の用途は、福音の恵みに反対せず、かえって、見事にそれに かなっている。

次はキリストの霊による抑制についてです。  

すなわちキリストのみたまは、律法に啓示された神のみ旨が行うように求めてい ることを、自由に喜んでなすように、人間の意志を従わせ、またそれをなす力を与 えられる。  

つまり聖い行いとは、自由に喜んで行われるのです。ではそのために論理的に必 要なものについて話していきます。ここでもう一度最初の質問に戻ります。何が人 を聖くするのでしょうか?裁きがあるとの脅しか、恵みの約束か?

9 無理強いや脅しによってしたことは義とかけ離れています。それは実は自分を 守りたいとか自己をアピールしたいという思いであり、神の栄光には値しません。 そこには、救われた者の身勝手さがあるだけなのです。礼拝堂に座っている平均的 信者にとって神様に奉仕しようという動機は一体なんなのでしょう。なぜ教会に来 ている人たちはすべきだと思われることをするのでしょうか?かなりの割合の人は 次の理由で奉仕していると思います。 

「だって奉仕しないと神様が怒るから」さて、もし私が神様に奉仕する理由が神様 が怒るからだったとしたら、私は誰に仕えているのでしょう。それは自分です。自
分が得したい、自分を守りたいのです。もうひとつ多くの信者が惑わされる大きな 理由があります。私たちもその理由をもとに神に仕える様、訓練しているくらいで す。すなわち「神様にどんどん奉仕して、この世でもあの世でもご褒美をもらお う。」天国に豪邸を建てようとゆう動機です。信者の多くは何かをもらうために仕 えています。でもご褒美が欲しくて奉仕しているとしたら、結局誰に仕えていると 思いますか?やはり自分ですね。ここにも救われた者の強欲があるだけです。

では 奉仕を聖くする唯一のものは何なのでしょうか?それは自分が良いことをしても何 も得るに値しないと深く信じることです。人間の善行など何も得るに値しません。 悪を遠ざけることもできなければ、褒美をもらうこともできないのです。さあ、何 も得しないと知りながら奉仕しているとしたら、誰に仕えていることになるでしょ うか?やっと神様に仕えていることになります。自分のためではなく、自己を真に 無にして、神に仕えているのです。神を愛しているから、仕えているのです。  ではもう一度聞きます。人を聖くするのは何でしょうか?行動の変化だけを言っ ているのではありません。本当に人を聖くするのは何でしょう?それはズバリ恵み の約束です。私たちは恵みのみによって救われ、恵みのみによって聖くされます。 もし他のことが動機だったら、よく働けないでしょう。裁きが恐いなどの理由で神 に仕えていたら、その奉仕は律法的な行いにはなるでしょうが、聖いとは言えませ ん。むしろ聖くないと言えるでしょう。正しい行動をとっていたとしても、間違っ た動機でしていれば、それは神ではなくて、自分に仕えていることになるのです。 私たちの働きを聖くするのはただひとつ、恵みの本質を深く理解することです。神 様だけが人間を御前に正しくしてくださいます。人の働きではありません。  

神に仕えるにあたって個人的な動機が少しもあってはいけないとは言っていませ ん。人間的な例で見てみましょう。例えば仕事の帰りに妻に花を買ってきたとしま す。それを渡すと妻が言います。「まあ、あなたありがとう!でもどうして?」 「そりゃあいいことだからだよ。僕にとって」さあ、妻はその花をどうするでしょ うか。もし自分のためというのが最大の動機で花を贈ったのだとしたら、これは妻 に対する侮辱です。でもただ愛しているから、花を贈りたかったというのであれば 妻への愛が最大の動機となります。動機にも上から下へ順位というものがありま す。花を贈れば夫婦の仲も上手く行く、人にものをあげると心が豊かになる。結婚 生活の祝福にもなる。そんなことは分かっています。でも最大の動機は妻への愛で なければならないのです。他にもあって構いませんが。つまり神に従えば結果的に 祝福を受けると知って奉仕したとしても、それはそれでいいのでしょう。ただし最 大の動機が自分のためでは神のために仕えていることにはなりません。恵みのおか げで私は自分の仕事がなんであるかいつも教えられ、それてしまわずにいられま す。自分の働きには神様の好意を勝ち取る力はありません。もし私たち奉仕者が自
分のためを思って必死に働いたら、信仰基準の最初のところさえ、満たせないこと になります。すなわち神の栄光を表すものとして、不十分なのです。 

2.聖書は何と語っているか? 
10 信仰基準ばかりでなく聖書も見ましょう。資料をごらんください。第二コリ ント5章14節ですが、「キリストへの愛が私たちを取り囲んでいる」とあり、キ リストへの愛が福音を伝えることへと駆り立てることが分かります。ローマ人への 手紙8章15節「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた のではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『ア バ、父』と呼びます。」第一ヨハネ4章18節「愛には恐れがありません。全き愛 は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」さらにキ リスト降誕が書かれている、ルカの福音書1章68節と74節にはこうあります。 「主はその民を顧みて、贖いをなし、...恐れなく、主の御前に仕えることを許され る。」 

11 ではもう一度最初の質問を繰り返します。恵みの約束か、裁きがあるとの脅 しか、どちらが神の民を奉仕へ導くでしょうか?今聖書を読んで明確になりました ね?どんなに脅されても、ひとは聖くなりません。

12 ハーマン・リダボスの「パウロとその神学概要」Paul,An Outline of His Theologyにコロサイ人への手紙3章3節以下に関する注解があります。中略しな がら読みます。 

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に、神の 内に隠されている」というという御言葉にこたえるように、命令が後に続いてい る。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い 欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」人は、キリストと共に死んだとたん に、地上のからだの諸部分、むさぼりを殺したことにはならないとあり、そして いっときも早くそうすべき理由が続いている。(中略)このように叙述に基づいて命 令があります。(中略)一目でわかるが、叙述のあとに命令がされており、その順序 が逆になることはない。どの場合も、叙述のあとに(「ですから」、「そういうわ けで」などの言葉によって)命令がきて、まとめられている。

13 要点はこうです「叙述のあとに命令がきて、その順番は逆にはならない」こ れはどうゆうことでしょう?命令とは、”しなければならない”、”神に従わなけれ ばならない”、といったことで、”盗んではならない”、”妻には忠実でなければなら ない”、”主の名をみだりに唱えてはならない”などです。
 
そういう命令のあとでキリストのうちにあるあなたが必ず、理由や事情を叙述し なくてはならないということです。その順番は逆になってはいけません。「キリス トに受け入れられたいなら、これこれしなさい」では、恵みも何もあったものでは ありません。神様に受け入れられたいなら、神様に好かれたいなら、あれあれしな さい。違いますね?すでにキリストのうちにいるから、命令に従えるのです。本当 の自分を生きられるのです。順番は大事です。人間はすぐ順番をめちゃくちゃにし ます。かわいがってあげるから、いい子になりなさい。神様が祝福してくださるか ら、福音をオーソドックスに説教しなさい。私も親切にしてあげますから、もっと 私に優しくしてください。しかし、福音はまったくその逆なのです。それを今私た ちは理解しつつあります。まだ私たちが敵であったときから、神様は私たちをすで に愛してくださいました。愛してくださったのです。  

神は私たちが成長するようにもして下さいました。それはすべてを変えます。私 たちの説教の方法を変えます。講壇に立ち、命令について説教するときは、そうし たからといって神様から愛されるわけではない、と伝えなくてはなりません。”愛 されるのは、あなたが神の民だから。神様があなたを神のものとしたから。あなた の働きではなく、あなたが今神のために生きているからだ”と伝えなくてはなりま せん。  

子育ても変わります。妻と私は子供がまだ幼い頃に、自分たちの間違いに気づき ました。そして実際、子供に対する話し方を変えることにしたのです。”それまで は悪いことをするのは、お前が悪い子だからだ”という傾向がありました。でも神 学を全面にうちだすと、言うことがガラリと変わったのです。”それはしてはいけ ない、お前はお父さんの子だし、神様の子だから。本当の自分らしくありなさい” そういうようになりました。本来の自分でありなさい。それを元に生きなさい。人 の性質をその行動ではなく、置かれている状況をもとに判断してみましょう。 ”お前はキリストのうちにあって、家族の一員であり、お父さんの子供だ。その本 来の自分を生きなさい。何をしようともお前が誰であるかは変わらないのだよ何を するかという以前に、お前とお父さんの間には絆があるのだから”ここで中心にあ るのは、絆です。命令の後には叙述しましょう。順番は変えずに。

14 これがしっかりと理解できれば、キリスト者として生きるための一番大切な 動機が見えてきます。規則は変わりません、しかしそれに従う動機は変えられるの です。恵みの下にあっても盗むのは良くないことです。盗みに行っていいのか?い いえ、規則は変わりません。盗みを働くのはやはり間違っています。ではなぜ盗ま ないのですか?罰が怖いからですか?褒美がもらえなくなるからですか?違いま す。従う動機は変わりました、自分を愛してくださった神を私も愛するからです。 神はたとえ私が盗みを働いたとしても、なお愛してくださるでしょう。それほどまでに大きな愛を見せてくださったのです。だから、神が与えてくださった人生を、 相応しく生きていくのです。規則は変わらないが、従う理由は変わると分かりまし たね?

3.なぜ議論されるのか? 
15 ではなぜ罪悪感を使って脅すべきかどうか、昔から議論されていると思いま すか?信仰基準はもとより、聖書でも明確にされているのに。クリスチャンは自分 の行動を正して欲しいと思っているからです。私たちは罪人である他人や私が、ど うすればもう罪を犯さなくなるだろうかと考えます。  

少なくとも短期的にみれば、一番明らかで効果的な方法は神様に拒絶されると か、罰が下るとか言って脅し、おまけにあなたの救いは疑わしいとか言うことで しょう。そういった言葉は人の行動を変えるのには、かなり効果的です。しかし果 たして適切でしょうか?仮に適切だとしても、制限無しに言っていいのでしょう か?  

この質問を煮詰めると、最終的に行き着くところは、ここです。「人間の行動 と、神様の受け入れとの関係について、何を信じているか?」

16 人間は神の受け入れの前に聖くなるのか?それとも神の受け入れの後に聖く なるのか?神様の受け入れによる結果か?それとも原因か?言い換えれば、人間は 聖いから神様に受け入れてもらえるのでしょうか?それとも神様に受け入れても らったから聖くなるのでしょうか?どちらでしょう。  

前回、ポール・ポイストラという良友と出会い、共通点を見つけたときの嬉しさ と驚きについて話しましたが、私と彼はまさに神の摂理によって、まったく違う場 所から導かれ、出会えたのだと思います。カベナント神学校には、まったく違う バックグラウンドをもった教授が集まっていますが、みんな同じように経験を通し て、恵みのメッセージの必要性を実感した様です。私自身は神学校を卒業後、多少 説教が上手いとか、特技があるとかで評価されて、すぐに専任牧師の職に就くこと になりました。そして2つの教会で牧会をしましたが、いずれも歴史の古い教会 で、最初のところは100年以上、次のところは200年位の歴史を持っていまし た。二番目の教会は、イリノイ州で最初の長老派教会で、スコットランドから来 た、サムエル・ワイリーという宣教師によって開拓されたものです。ワイリーの名 は歴史の本にも載っていますね。そういう教会で働くのは、ある意味素晴らしいも のでした。でも時にはその歴史が、一番頭痛のたねとなりました。ひとつの理由 は、知識面でも信仰生活の長さでも、私を越えている人がいたことです。私なんか よりずーっとよく聖書を知っていましたよ。ところが信仰生活の長さや知識の豊か さにも関わらず、律法に重きを置き、愛や、喜び、平安、自制といったことには関心がないようでした。だから信徒も牧師も、互いに怒っていることがよくありまし た。比較し合う傾向もありましたね。新しい信者が来ても、クリスチャンらしい慣 習やきまりを守らないと、容赦しませんでした。タバコを吸ってはいけない、ガム をクッチャクッチャかんではいけない、そういうことをする女の子と出歩いてもい けない。それはみ~んな知っていることで、それを知らない人は疎ましく、出て 行ってくれた時には、正直喜んでいました。でもある時私は思いました。”なんで こんな風なんだ?”主イエスについて、信徒も私もよく語っていましたが、実際に はイエス様に相応しい性質をすこしも持っていませんでした。はっきりいうと、私 は信者たちに本気で腹を立てたことが何度もありました。でも次第に問題は信者で はなく、牧師である自分だと気づいたのです。説教は悪くないと思えました。言っ ていることも、示していることも、教理的な面も、ところがカウンセリングがどう かしていたのです。例えばふしだらな行いをした、ある夫婦にカウンセリングして いたとしましょう。そこで私がいろいろ話して、なにやらプロセスを経て行けば、 とりあえず行いは変わりました。でもその夫婦を一年、二年、三年と見ていると問 題となった行いはたしかに収まっているのですが、頻繁に鬱状態におちいっていた り、ほかの不品行を働いていたりしていたのです。こんなはずではないと思いまし た。行動は変わったが、霊的に健康ではない、そこで私は自分が何を言っているの か確認してみました。するとこんなことを言っていたのです。”いいですか、神様 に愛してほしいと思うなら、そういう不道徳なことはやめなさい。神様にかわい がってもらいたいなら、神様が喜ぶことをしなさい”聞こえましたか?叙述の後に 命令がきていました。神様の好意を受けたいなら、何かしろだなんて、これでは祝 福も何もあったものではありません。神様との間柄について、話してはいました が、私が教えていたのは”行いさえよくすれば、神様に愛してもらえる”というもの だったのです。この夫婦が三年間どんどん鬱状態に入っていったのは当然です。あ る意味で私は彼らと神様の間をどんどん広げていっていたのです。私のひどいカウ ンセリングが、神様と彼らの間に人の働きという恐ろしいくさびを打ち込んでしま いました。彼らの行いがよければ、神は愛してくださる。悪ければ、神は彼らを見 捨ててどこか他の星へでも行ってしまう。私は自分のしていることを見直さなけれ ばいけませんでした。正直なところ、これまで教えてきたことを振り返ると、絶望 し、おまけに他の教え方を知らないという事実に愕然としました。要するに、私の 説教は信徒に向かって、”変わりなさい”というだけのものでした。”みことばにあ ることを言っているのに、どうしておかしくなったんだろう。盗んではならないと 書いてあるから、盗むなと教えているだけなのに。どうしてこんな風になってしま うんだ”そこで本当に聖書の贖いのメッセージとは何なのか、釈義しながらも恵み の本質を説くにはどうしたらいいのかと考え始めました。そのとき、シドニー・グ レイダナスの本や、ポール・ポイストラのような人と出会ったのです。
 
そして影響を受け始め、聖書全体のメッセージが何であるか分かりだすと、きっ とそれが私の言うことを変えるだろうと確信しました。カウンセリングや説教はも ちろん、子育ても、また妻との仲において。”妻よ、君にあきれたり、夫婦喧嘩を したりしたときも僕は愛を持って振る舞っているから。この先も夫婦であることは 変わらない。そりゃ喧嘩もするだろうが、夫婦の絆はしっかり守る。そうしないと 僕らは条件付きの愛の中に生きることになる。それは破局を呼ぶだろう。君は僕の 妻で、僕らは契約の絆を結ぶ、究極的にはお互いのためを思ってとる行動も、お互 いを憎んでとる行動もこの絆を左右することはない。この絆はあらゆるものを含ん でいるのだ。お互いがどれほど違うかということも。”  先ほども言いましたが、最終的な質問はこうです。人間は聖いから神に受け入れ られるのでしょうか?それとも神に受け入れられているから聖いのでしょうか?ま た、人の行動が変わったとか、変わらないとかを理由に愛するか、愛さないか決め るべきでしょうか?また罪悪感を植え付けたり、罰で脅かせば、人は聖くなるので しょうか?それとも恵みを保証すればよいのでしょうか?

4.聖さの方程式
聖さと受け入れの順番を逆にした2つの方程式 
17 資料をみてください。聖さの方程式を考えてみましょう。私たちは本当は何 を信じているのでしょうか?知的にではありません。知的には同じことを信じてい るはずです。しかし実際に信徒に話しているときはどうでしょうか?疎ましくいら つく相手にどうやって語っているでしょうか?

18 聖さと受け入れの順番を逆にした方程式は、たぶん次のようになります。も し罪悪があるなら、何か悪いことをしでかしたのならば、それを捨てて正しくしな さい。罪悪は行動を正すことによって、帳消しにされます。では行動を直せば、罪 悪が帳消しになるとしたら、結局それは何とイコールになるでしょう。律法主義で すね。(1罪悪÷(行動×正す)=律法主義(パリサイ主義))長老派は改革的であ りますが、同時に律法も続けて用いられると信じています。ですからやはり行動が 正しくなるべきだとしていますが、ではそれは方程式にどう当てはまるでしょう?

19 罪悪を帳消しにするただひとつものはなんでしょう?キリストの働き、神の 恵み、一言で言えば、そう十字架です。十字架が空欄に入ります。では自分の力で はなく、神の働きによってのみ罪悪がなかったことにできると分かったら、次は何 が起きるでしょうか?愛と感謝であって欲しいですね。感謝を持って答えるので す。感謝から生まれた行動の実体は何でしょうか?それは悔い改め。これが真の悔 い改めです。自分の罪が十字架によって消されたこと、自分ではなく、神の働きに
よって罪が赦されたことが分かれば、心の中に神への愛が芽生えます。恐怖感では ありません。良い行いを小銭のようにためて、自動販売機から赦しを買うのではな く、私たちは無条件に愛してくださる神様を愛しているのです。その愛のうちから 感謝が生まれ、真の悔い改めへと導かれます。みことばはぜんぶがそのように語っ ていることを忘れないでください。(2罪悪÷十字架=帳消し=感謝×行動の変化 =悔い改め)

20 放蕩息子の父親は息子が反省の言葉を言う前に、既に受け入れていました。 もちろん言葉の後にも受け入れていました。息子が遠くにあらわれ、まだその声も 聞かれないうちに父親はどうしたでしょう?走っていって、抱きしめて、口づけし たのです。それから息子は、「私は天にもあなたにも罪をおかしました。」と言い ましたが、その前にもう父は愛を示していました。息子に父の愛が分かったのはそ れよりさらに前、豚のエサを食べたいと思ったときです。お父さんの雇い人ですら これほどひどい扱いは受けていない。そう思い、父親の本質を悟ったのです。神様 の本質は人間を引き戻し、連れ戻してくださるのです。放蕩息子が帰郷前から父親 の愛を確信していたのは、恵みが悔い改めより先に与えられていたからです。ロー マ人への手紙2章4節にはこうあります。”神の慈愛があなたを悔い改めに導くこ とも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。”もし 神様が閻魔みたいに怖いだけの存在だったら、だれがそのような方のところに戻り たいと思うでしょう?自分がどれだけ失敗しても、どれだけひどい罪をおかしても お父さんは両腕を大きく広げて何時でも待ってくれている。それが分かるから、こ ういう神様のところに戻りたいと思うのではないですか?

21 私はいやというほど自分の罪を見てきました。あまりにもひどすぎて、奉仕 の職に就いてからも何度も嫌気がさしました。でも私は神様の優しさや、神様が誰 であるかが分かっています。罪にも関わらず、愛と恵みを注いでくださること。だ から私は神に帰るのです。神は私を罪から遠ざけ、みもとに引き寄せてくださいま す。恵みの約束が悔い改めの力となります。

22 真の悔い改めは自分ではなく、神様へ導きます。

II.キリスト中心のメッセージにおけるふさわしい動機付け
23 では次のトピックに移りましょう。大きな2です。キリスト中心のメッセー ジにおけるふさわしい動機付けですが、根本的には、単に昔ながらの改革的信仰の 原則を実行することなのです。すなわち神様のご計画の全体像を見せる。早い話が
それです。説教でも、カウンセリングでも、学びでも、神様のご計画の全体像を伝 えましょう。

A.神のご計画の全体像を見せる 
24 なぜかと言えば、理由も説明せず、正しいことをしなさいと命令だけされれ ば信徒は間違いなく傷つくからです。また、その信徒は神様に受け入れてもらった り、愛されたりするのは、自分の行いや能力次第なのだと思い込むでしょう。その 結果、こちらが人助けのつもりで言ったことが逆に人を傷つけることになります。 新しい信者はやるべきだと教えられたことを一人で一生懸命しようとします。でも 一人でできるわけがないのです。だから私たちは常にキリストが力を与えてくださ るのだと伝えなくてはなりません。いつもいつも、すべきことばかり言われ続けた ら、新しい信徒はめげてしまうか、思い上がるしかありません。神様から遠ざかる と、この二つのどちらかしかないのです。完全にめげるか、すべてをやり遂げたと 思い上がるか。

25 聖化をテーマに説教していても、人の働きと神様による受け入れの関係を表 す方程式に恵みを入れ忘れたら、それは道徳主義か律法主義で終わってしまいま す。人間は恵みによってのみ神様に受け入れられます。どんな善行もしょせんは不 潔な着物にすぎないのですから。聖化も恵みによってのみ起こるのです。すばらし い働きをしたから聖化が起きるわけではありません。よいおこないは、聖化された 結果、生まれるのです。救いに感謝して捧げた働きを神様は恵みをもって受け入れ てくださいます。でもその受け入れも、人間の聖化も、恵み以外の結果ではないの です。

26 恵みはすでに保証され、神の愛もすべて間違いなく与えられているので、今 以上に神の愛を受けることはありませんが、神様に従えば、さらなる祝福を受けた り、神様とより親しい交わりを持つことができます。しかし従うのに失敗したから といって、拒絶されることはないのです。

27 訓練を受けることはあるかもしれません。きっとあるでしょう。罪の結果と して、訓練されるのです。しかし、それがどれだけ厳しいものであろうと、父から の訓練であり、間違いなく子供のためを思う愛の印です。  私だって、車の激しく行き交う通りに息子が飛び出そうとすれば、きつく叱りま す。なぜ厳しくしつけるのか?簡単ですね、愛しているからです。ヘブル書にもあ ります。”神様は愛する者たちを訓練される”と、そりゃそうです。愛していなけれ ば、しつけも訓練もできません。それが箴言のメッセージでしょう?”自分の子供をしつけない親は、子を憎んでいるのです。”訓練、すなわちしつけのなっていな い子供はどこへいっても一生鼻つまみです。ですから、もしわが子を愛しているの なら、しっかりと訓練し、しつけることです。神様も私たちを愛されているから訓 練してくださいます。ここで注意すべきなのはあくまでもそれは愛によるべきで、 罰が中心ではいけません。”言うことを聞かないと怒るべ~、叩くべ~、お仕置き だべ~”ではないのです。訓練と罰の間には雲泥の差があります。  

しかし、混乱しやすいのは確かなので、言葉の意味から理解してみましょう。罰 という言葉には処罰、刑罰という概念があります。悪事を働いたから処罰する、と いうわけですね。ではここで聞きましょう。イエス様は私たちの罪の処罰のどれだ けを背負ってくださったでしょうか?すべてです!神様はあなたの罪を、あなたの 子供の罪も、教会に集う信徒の罪も、すべてご自分のひとり子に負わせました。で すから、あなたはもう処罰を受けることはないのです。なのでキツ過ぎるというよ うな訓練を受けることがあっても、神様からの愛が減ったということではありませ ん。神様の目的は私たちを傷つけるものから守り、私たちの家族や教会に災いをも たらすものから守り、愛の道へ引き戻すことなのです。愛だけが人間を連れ戻して くれます。ですから神様を愛に満ちた父親としてみましょう。言うことを聞いたと か聞かなかったとかの理由で、罰を与えるような閻魔ではないのです。人間は心の 中で神様とサタンの場所を入れ替えていることがあります。

28 神から訓練を受けることはあっても、罪に対する処罰を受けることはもうあ りません。親から無条件に愛されていると信じている子は精神的に健康です。それ と同じように、天の父から無条件に愛されている、それは疑いないと教えられてい れば、神の子も霊的に健康でいられます。これから非常に単純なことを言います。 意味をはっきりさせるために。

29 人間は恵みのみによって救われる。人間は恵みのみによって聖化される。

30 人間は努力しなくていいと言っているのではありません。でも、たとえ何か 神様を称えることをしたとしても、それをする力は誰に与えられたのでしょうか? 神の霊です。人間は恵みによってのみ聖化されます。そして、恵みによってのみ守 られるのです。

B.行動を正すふさわしい動機とは?
31 それはそうでしょう。人間の善行はしょせん不潔な着物であり、そんなもの では、御前で自分を守れるわけがありませんから。ということは行動を正すにふさ わしい動機付けは、福音の働きから出てくることになります。しかし行いを正すに
ふさわしい動機とは何でしょう?盗んではいけないと教えるのは当然ですが、それ
にはどうゆう動機が隠れているのでしょう。

1.キリストによって示された愛に感謝し応えたい。
32 ひとつはこれ、”イエス・キリストによって示された愛に感謝し応えたい”と いう動機です。この感謝の応答こそが、聖書が示されている、クリスチャンらしい 行いをしたいという最大の動機ではないでしょうか。罪悪感は聖さを求める動機と して使われてもいいのでしょうか。講師の権限で言ってしまいましょう。答えはイ エスであり、ノーです。誤った形で罪悪感を使うと、信徒は神の愛の確かさを疑い ます。そして聖さを単に神に受け入れられるための手段と考えてしまうでしょう。 これは”不潔な着物でも神様に受け入れられる”としてしまうので、誤りです。  

罪の意識にかられた信徒は、神に従いますが、それで愛されようとしたり、罪悪 感を取り除いてもらおうとしたりしてしまうので、よくありません。しかし、罪悪 感が適切に用いられると、愛に応えたいという気持ちを呼び起こします。自分が罪 をおかせば、ひとり子までも犠牲にしてくださった神の愛を裏切ってしまうことに なる。そうなりたくないから、従いたいと願うのです。  

神学者は時々、主観的罪悪と客観的罪悪という言葉を使い分けます。何か悪いこ とをすると罪悪感を覚えますが、これは主観的罪悪です。では客観的罪悪は何かと 聞かれれば、何と答えますか?イエス・キリストの義の衣に包まれた私たちは、ど れだけの罪悪を背負っているのでしょうか?キリストの十字架のわざの後、神の法 廷で私たちは客観的にどれだけの罪悪があると言われるでしょうか?ゼロです。実 際には、罪悪感は聖霊が人間に罪を自覚させるために、使っているのです。”私を 愛し、ひとり子さえくださった神様に私は背きました”と分からせるため、罪を自 覚できるから、”神様が見せてくださったこの愛を裏切ったなんて、自分は何とい うことをしてしまったのだろう”と思えるのです。すると神に向かって、あふれる ばかりの愛が湧き出てきて、神に従いたいという気になります。  

罪の自覚によるのです。神様からの客観的な贈り物に気がつけば、罪悪はすでに 取り除かれていることが分かります。すでに処理されているのです。私や皆さんの 罪のために、世の始めから子羊がほふられ、罪悪はすでに帳消しにされています。 罪を悟ることは告白へとつながります、さらには悔い改めとなり、そこから新たな 気持ちで神に従うことになります。神の民に向かって次のように言うのは絶対にや めましょう。すなわち”神に仕えなさい。そうすればこれまでの悪行のおかげで肩 の上にどっさり乗っかった罪悪を自分で取り除けるようになるから”罪悪を背負っ て、来る日も来る日も神様に仕えて欲しいと願う者、がいると思いますか。”どれ だけ自分が悪かったか分かっているのだったら、もっと神様に仕えなさい。自分の したことはもう分かっているだろう。どれだけ間違っていたかも知っているな。どれだけ神様を悲しませたかも。神様との関係を正したいなら、まだまだ罪の意識を 感じ続けろ!”そんなこと言って誰が喜ぶでしょう?サタンです。サタンは人間の 弱みを突きます。つけ込む方法を心得ているのです。そして山ほどの罪悪感に、人 が押しつぶされていくのを、見たがっているのです。でも、神様はこうおっしゃい ます。”頭を上げなさい、わたしはお前が何をしたか、よく知っている。どれほど 間違っていたかも、でももうそれはしっかり取り除いてやった。お前の罪悪も、心 に感じていることも、わたしに従わなかったことも、すべてをイエス・キリストの 十字架に持ってきなさい。すべての罪が完全に赦されていることが分かるから。キ リストの恵みと、愛のすばらしさを確信して、新しい人生を歩むのだ”まさにこれ が力、主にある喜びこそが、我らの力なのです。神様の恵みが人を御前に正しくし てくださる。究極的にはそれが力となって、新たに従い、聖くなれます。

33 ですからキリストを見上げましょう。神がなされたわざ、教え、十字架で示 された憐れみを見上げること、神様から逃げるのではありません。神様を閻魔みた いに思うのはやめましょう。神様から逃げず、いつもキリストを見上げているこ と、それがサタンには脅威なのです。なぜなら、そうしていれば、罪が人間から離 れていくからです。良い罪悪感は恵みが与えられ、神に近づいていくことへの感謝 となり、喜んで従うことへと結びつきます。これは奴隷的な恐れとか、へつらいで はありません。主が私たちの力である以上、神に仕える最大の動機が、奴隷的な恐 れや、へつらいであるわけがありません。なぜならクリスチャンは、キリストとと もに御国を相続するもので、勝利の人生を送っているのですから、何も恐れること はないのです。

34 ハイデルベルグ信仰問答の86番がこれを要約しています。あまりにも正直 な質問で、私は好きです。 
「それでは、わたしたちが、一切の、わたしたちの功績なしに、ただ、キリストの 恩恵によってのみ、悲惨から救い出されたのであれば、なぜ、わたしたちは、善き 業を為さねばならないのでしょうか。」鋭い質問ですね。信仰を通し、恵みのみに よって救われたのならなぜ、よくあらねばならないのでしょうか?良い行いをし たって、何も変わらないではないですか。  

答えはこうです。それは私たちが、この恵みに対して全生活を持って、神に感謝 を示し、わたしたちによって、神があがめられるためであります。すべては恵みに よるのになぜ神に従うのか、それは神様を深く愛しているから。神がして下さった ことに心から感謝しているから。恵みに満たされた人間は自然と神に服従するよう になるのです。

35 みことばにその証拠を探してみましょう。
ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あ なたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生 きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。  

なぜささげなさいと言っていますか?”神のあわれみのゆえに”です。

2コリント 5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。  

ここはさきほども引用しましたが、神の愛が取り囲んでいるから、私たちは和解 のメッセージを取り次げるのです。  

テトスへの手紙2:14以下には恵みの厳しい面が書かれています。神の恵みが 全人類を救うために現れたからには、不敬虔と、この世の欲に対し、しっかりノー と言いなさいと教えているのです。なにがそう教えているのでしょうか?恵みで す。恵みはすべきことを教え、してはならないこともしっかりと教えてくれます。 恵みは教えています。イエス様を深く愛しているなら、裏切るような行いは我慢で きないはず。だから、イエス様の栄誉を傷つけるようなことには、ノーと言いま しょう。これこそが、最大の動機となるべきだと聖書は教えています。神を称える 方向へと人間の行動を変えてあげたいなら、私たち説教者はこの動機を与えてあげ ましょう。”感謝の気持ちで答えるのです”と。

2.愛の神が啓示された、罪の結果を避ける。
36 動機付けの2番目は、愛する神が啓示された、罪にともなう結果を避けた方 がいいというものです。言い換えれば、命令に背かないのはいい事だ、と教えるこ とになります。ローマ人への手紙の一章では、悲しい表現が3回繰り返されていま す。神様は人間を罪に引き渡された、とあるのです。罪がどれだけ悲惨な結果を生 むか神は知っておられました。しかしそのままにしておいたのです。救われた者に 対する訓練が、お仕置きのような処罰とは違うことは、先ほど話しました。より多 くの罰を与えて、痛めつけるのが神様のやり方ではありません。しかし、もし私が 車道に飛び出そうとすれば、神様は止めて”怪我をするぞ”と言って警告なさるで しょう。同様にふしだらな行いをすれば、家庭が崩壊してしまいますよと、私たち が信徒に言うのは、その罪の結果を避けさせたいからです。神様は人間を愛してい て、それをしっかりと伝えられています。愛していなければ警告なんかされないで しょう。警告すらも、愛から出た結果なのです。

3.神が愛している信徒をあいする
37 最後に、どうしたら信徒たちを神に従うように、動機付けできるのでしょう か、と聖書そのものに聞いてみました。すると答えはこうでした。神様が愛してい る信徒たちをあなたも愛することです。神様は信徒たちを愛しておられます。だか
ら私たちも、赦しと尊敬をもって接するべきなのです。困難なことも対処しなけれ ばなりません。なぜわざわざ自分に敵意を示す相手に、みことばを述べ伝えなくて はならないかといえば、神様が彼らを愛しているからです。私たちは神様を愛して いるのですから、神様が愛している信徒をも愛するのです。  

今回の学びをまとめてみましょう。本質的には規則は変わらないということ。恵 みがあるからといって、盗んでもいいということにはなりません。

38 規則は変わらないけれども、動機は変えられます。また、キリストを中心に した贖いのメッセージは、子育て、説教、教え、交わり、カウンセリング、生活の すべてに通じます。

39 最終的にしたいことは、罪悪感ではなく、恵みによる動機付けです。恵みに よる動機付け。

40 次は歯の浮くようなセリフですが、本当だからいいます。愛より強いものは ありません。恐れはそれほど強くありません。脅しも、強欲さもさほど強くないの です。罪悪感だってそう、この世で、愛に勝るものはありません。教理はみことば をどう読むかに影響を与えますが、私たちが考えるべきことは、神との絆で合理性 ではありません。聖書を解釈するとき、合理的に考え、シンボルを探ったりするの は確かにいいことです。しかし、基本的には私はそうゆうことには興味がありませ ん。合理的なことよりも、絆の方に目がいきます。究極的に伝えたいこと、それは 私たちのような罪人に注がれる、神様の愛がどれほど素晴らしいか、それはもう溢 れるばかりだということです。この愛を動機にして、仕えるべきです。他の何かで はうまくいきません。本当です。長続きしません。私たちが語る説教の核、原動力 は神様への愛でなくてはならないのです。他のものでは、福音の働きを伝えるパ ワーがありません。

41 多くの説教者が、説教の目的は信者に、罪悪感を与えることだと思っていま す。また聴く方にも、恵みをもらうためには、罪悪感を感じる義務があると考えて いる人がいます。説教などで、こう言われたことはないですか?”いやあ、今日の メッセージはよかったですよ先生、なかなか痛いところをついてくれました。実に すばらしい”こういう信者は、罪悪感を取り去って欲しいとは思っていません。懺 悔の思いに酔いしれたいのです。それが義務だと思っています。聴く人を聖書で叩 きまくって、罪悪感を植え付けるのが仕事だと思っている説教者も多くいます。そ れをそのまま受け取るべきだと考えている信者も、同じ位たくさんいます。”先生 の仕事はムチでぶつことです。それを受けるのが私の義務です。自分が悪いものだと感じたとき、「あぁ神様との関係を正した」と実感できるのです”こうではなく て、主を喜ぶことがちからとなるのです。罪はすでに遠くに取り去られました。 

 確かに人は神様に背きました。正しいものは一人としていません。私たちは神様 の前に罪人です。しかし、神様の恵みは我々の罪よりも、遥かに大きいのです。で すから、クリスチャンならば、イエス・キリストの恵みのうちに強くありなさい。 このメッセージは忘れてはなりません。

III.キリスト中心のメッセージをふさわしく用いる 
42 まとめて言うならこうなります。私たちがしなければならないことは、信者 に自分自身を、いやしの道具とさせないことです。これが基本です。キリスト中心 のメッセージや証しについて話すと、よく聞かれます。”本当にすべてのメッセー ジに、キリストの名前を言わなければいけない、ということですか?どのメッセー ジもイエス様の名や、十字架を出せばいいのですか?”これじゃポイントがずれて います。私はいろいろな同義語を入れ替えて使っていました。キリスト中心、贖い 的、福音、神の愛、つまり本質はこうです。人はスイスチーズみたいに穴だらけ、 その穴を埋めるものは何であるか、伝えるのです。人々が帰っていく時、穴は自分 で埋めなければいけない、と思わせてはダメ。自分のちからではなく、神様により 頼むように、しっかりと理解してもらってから、帰すのです。何千、いえ何万通り もの方法があると思いますが、これらの事を中核として押さえていれば、キリスト 中心のメッセージとなるのです。イエス様の名前を入れるかどうかではありませ ん。人間が自分の手で、自分を直すことはできない、と理解させること。そうすれ ば、神様により頼むようになるでしょう。伝える方法はほんとに何千通りもあると 思います。ウェストミンスター信仰基準19章にあります。「キリストの御霊は... 人間の意志を従わせ、またそれをなす力を与えられる」私たちはちからを与えてく ださる方に、信徒を導くようにしましょう。あれとこれをしなさい、だけでおわっ ていないでしょうか。

43 キリストの恵みとちからを充電するコンセントが、どこにあるかきちんと教 えてあげなくてはいけません。罪を告白し、悔い改めたあと、恵みによって、キリ スト・イエスの養子となったことを、信徒が分かっているかどうか、確認してくだ さい。私たちが彼らを神の子にしようというのではなく、神様がすでにそうされて いるのです。彼らの聖霊の働きを祈っていけば、いつでも頼れる神のちからが用意 されていることを、認められるようになります。それができれば、次のみことばに も確信を持つようになるでしょう。第一ヨハネ4章4節「あなた方のうちにおられ る方が、この世のうちにいる、あの者よりも、力がある」神様が聖霊を通して、も う示されているように、真のちからはすべてに打ち勝ちます。単にそう感じるだけでなく、みことばがそう語っているから”自分はキリストにあって生まれ変わった のだ”と信じた時、信徒は勝利者となれます。聖霊が示した罪をおかさない者とな るでしょう。私たちの語ることはすべて、神様の元に行かなければいけないと、信 者に納得してもらうためのものなのです。説教の終わりに”今週とるべき新しい5 つの行動”を与えても、効果はありません。確かに規則は変わりませんから、行い は正しくなって欲しいです、でも従う理由はどうなっているでしょうか。神様を愛 しているから、従っているでしょうか?人々は自分では作れないものを神様から受 け取っていると分かっているでしょうか?

結論:2回、ひれ伏す
44 頭に描いてください。フランシス・シェーファーという人はこう言いまし た。”手ぶらで神様のところに行きなさい”これは義認のときです。神様のところに 来て”私はこれこれを持ってきて、今から捧げますから、私を受け入れてくださ い”と言うのはいけません。だから手ぶらで行くべきだと、シェーファーは言った のです。次はとても強烈です”私たちが神のもとにきて聖化を求め、神に従おうと するときは、2回ひれ伏さなければならない”ここがシェーファーらしいところで すが、最初は形而上学的な神秘にひれ伏す、すなわちキリストにおいて、神様がな してくださったことにひれ伏すのだ。次は服従を表すためにひれ伏すのですが、で もこれが、神様のみわざに対して、先にひれ伏していなければ、無意味で間違って いるとシェーファーは言うのです。ですから、最初に神様がなしてくださったこと にひれ伏し、そしてもう一度ひざまずく。これはどういう意味でしょう?  

私たちが説教をする時、テーマが救いでも、聖化でも、基本的に人々に伝えるこ とは、”手ぶらで神様のまえに来なさい”です。いつも、なぜ神様が私たちを愛し、 また私たちの子供や妻を愛してくださるかを、宣べ伝えましょう。自分の働きやお こないによるのではないと教え、つねにキリストのみわざを指差してあげましょ う。神にはクリスチャンとして生きるための愛と、ちからと、喜びがあります。あ なたのメッセージの真ん中にキリストのメッセージが据えられますように。

45 祈りましょう。天のおとうさま、福音が私たちの語ることばを形作りますよ うに、そしてその言葉が、あなたが愛し、私たちも愛する信徒のこころを捕らえま すように。私たちのこころを開き、イエス様の素晴らしさを分からせてくださいま すように。あなたのうちにある喜びによって、強められますように、イエス様の御 名によってお祈りします。アーメン。

キリスト中心のメッセージ 第二回キリスト中心のメッセージの手


ブライアン・チャペル博士による学び
    キリストを宣べ伝える、聖書全体にあるめぐみを伝えよう
キリスト中心のメッセージ 第二回キリスト中心のメッセージの手

2 前回の学びの目標は聖書全体を通してキリストに焦点を置くことの重要性を理解する
ことでした。

目標: 
3 さて今回の学びの目標は資料の一番上にあります。そこにおられるキリストをのべ伝 えるため、どのように聖書を解釈するかを理解すること、です。この目標と同じことをカ ルヴァンはこう言い表しました。”われわれは聖書から益となることはすべて集めなけれ ばならない、常に我らの主イエス・キリストのところに行き一時も背を向けず、目を注が ねばならない。一生懸命聖書を読んでいる人がいるが、ただただページをめくっているだ けだ。なぜかといえば特定の焦点となるものがないのである。それ故にページを行ったり 来たりするだけで終わってしまう。いろんな文章をあつめるものの結局何の価値も見いだ せないでいる。そうやって骨を折っている割には、すべてが支えられている点すなわち我 らの主イエス・キリストを知らずにいるのだ”今のはカルヴァンがエペソ書2章について した説教から引用しました。さてカルヴァンが言うすべてが支えられている点、とは何で しょう?常に何を見つめればいいのでしょうか?カルヴァンはそれがまさにイエス・キリ ストであると言っています。聖書のすべての言葉はひとつ残らずその点について書かれて いるのです。

I、第1回の復習
A. 
4 くわしい方法論に移る前に一回目の議論の復習をかねて大切なポイントを押さえてお きます。模範的な説教とか、模範的なメッセージとか呼ばれるものが実は道徳主義や律法 主義に凝り固まっていることをお話ししました。ポール・ポイストラという先輩がある有 名な本の付録を紹介してくれました。著者の名前は伏せますが、その付録は”教会学校の 脅威”と題され、中にこう書かれていたのです。”悪気はないのだが、教会学校の先生が子 供たちに福音の理解を難しくさせている”と。”花子ちゃんいい子になったらイエス様は愛 してくださるよ。太郎君もいい子でいたらイエス様が一緒にいてくれるからね”これは普 通ですよね。でも何がおかしいかもうお分かりでしょう?これはクリスチャン的メッセー ジではなくて反クリスチャン的メッセージです。神様は太郎君と花子ちゃんが何かしたか らといって、愛したりかわいがったりするわけではありません。

B. 
5 本当のクリスチャン的メッセージとは必ず贖いに焦点を置いているものなのです。

C. 
6 では贖いの要素のないメッセージの見分け方をおさらいしましょう。まずは頑張りま くる主義のメッセージ、努力のみをうったえます。今週はもっと頑張りましょう。自分を 起こしてさらによくなりましょう。こういう頑張る主義的メッセージは危険なBeで表さ れます。Be like、誰それのようになれ。 Be good、よくあれ。Be disciplined、訓練さ れよ。しかしここで重要な条件があったことを覚えていますね?このBe自体は間違った 内容ではないのです。何が間違いを生むのか覚えていますか?それだけしか出さないこと です。私たちのいうことがすべて誰それのようになりなさい、よくありなさい、訓練され なさいでは駄目なのです。脈絡を考慮すればただよくありなさいと教えている箇所は聖書 にはありません。脈絡はキーワードでしたね?

7 資料も合わせてご覧ください。繰り返しますが脈絡を無視すればクリスチャン的では なく反クリスチャン的メッセージとなります。なぜでしょうか?それはこういうメッセー ジをすると必然的に本当の意図とはうらはらなことを語ってしまうからです。それは次の ようなことです。

8 1、自己聖化は達成できる。自分のやることが自分を聖くするのである。2、神様に 受け入れられるかどうかは自分の行い次第である。3、道徳的な行動は人間の益となる。 これは聖書の教えと相反します。

9 イザヤ書64章4節は人間の義は何であると言っていますか?”不潔な着物”です。ル カの福音書17章10節も”自分に言いつけられたことをみな、してしまったら「わたし は役に立たない僕です、なすべきことをしただけです」といいなさい”と書いています。

10 ウェストミンスター信仰基準の16章5節にもこうあります。「わたしたちは、自 分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績とし て得ることはできない...」とあり、さらに続けて「わたしたちはよきわざによって神を益 することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時 にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるの は、それがみたまからでているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚 れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないか らである。」なんという驚きでしょう。人間の善行は神の裁きに耐えられないのです。そ れどころか最高の善行すらも裁きに値します。しかし信者たちはキリストを通して受け入 れられています。その善行も神にあって受け入れられます。人間にあってではありませ ん。善い行いはキリストにあって受け入れられるのです。あたかも人生すべてが神の御前 に非の打ち所がない叱りようのないものになるというのではありません。人間の良い行い が神様に受け入れられる唯一の理由は何ですか?キリストの義によってそれが包まれるか らです。人間的な視点で見て善いことだからではありません。人間の徳ではなくキリスト のわざ故に神様は受け入れて下さるのです。
 
このことを考えると子供の頃の思い出がひとつよみがえってきます。テネシー州西部で は子供の頃覚えなくてはならないことがありました。大きなのこぎりの使い方です。家の 家族が電気のこぎりを知らなかったのではありません。父親もおじいさんもひいおじいさ んも男は代々二人用の大きなのこぎりを使えるように仕込まれてきたのです。アメリカ南 部ならみんなそう、二人用の大きなのこぎりを習うのは伝統でした。心地の良い秋の朝の ことです。そののこぎりを使って丸太を切っていました。一本の丸太を台の上に乗せて、 のこぎりをかけていたら内側が腐っていたのですね、全部切り終わる前に割れて台から落 ち地面に勢いよく当たったのです。その衝撃で腐っていた切り口は妙に面白い形になりま した。子供時代は想像力が豊かですから、わたしは”ふーん腐った所が馬の頭みたいにみ えるなぁ”なんて思いました。そしてその日の仕事が終わると、その腐った丸太をもって 脇に抱えて家に帰りました。それからクリスマスだったか父の誕生日だったかはっきり憶 えてはいませんがそ、の腐った木の馬の頭に厚い板を釘で打ち付けて棒で足をつけロープ でしっぽをつけました。それから打ち付けた板に釘を何本も打ち、それを肉屋の包み紙で くるみリボンを巻いて父にプレゼントしたのです。父は包みをあけてまじまじと見、こう 言いました”これはすごいなぁ、ところで何だい?””これはネクタイ掛けだよ、横に釘が何 本もあるでしょ?ここにネクタイを掛けるんだ””ふ~ん素晴らしいな、ありがとう”父はこ の腐った木で出来た馬の頭を自分の部屋にもっていきました。ぐらぐらしてまっすぐ立た なかったのでタンスに立てかけ、それから何年間もネクタイ掛けとして使ってくれたので す。正直言って最初にこれをプレゼントしたときはすごいものをあげたと思いましたよ。 まさに芸術、いつでも美術館に飾ってもらえると思いました。本当に素晴らしかった。  しかし私はすぐに成長し、”お父さんいいかげんにそれ捨ててよ、頼むから”と言うよう になったのです。でも父は愛をもって受け取ったからと言って大切にしてくれました。物 が良かったからではなく、父の心が優しかったのです。愛をもって父は受け取った。プレ ゼントが受け取られたのは父の善意のため、馬の頭に秘められた善ではありません。人の 善意は確かに良いものですが、それが神様の前に人間を正しくするものではありません。 確かに人間は神を愛していますからその愛をもって善い贈り物をささげますし、神様はそ れを受け取って下さいます。しかし神様が受け取って下さるのはあくまで神様が人間を愛 する優しい心があるからで、人間に善意があるからではないのです。人間の善良さなんて 神の受け入れに値するものではありません。というわけで次の事が分かります。

11 私たちが語るメッセージは聖書的でなくてはなりません。すべて恵みのこと、救い のこと、それからそう聖化、聖化も救いです。「すべてのことが、神から発し、神によっ て成り、神に至る。(ローマ11:36)」と聖書は語っています。恵みはそれぞれの世 代が再発見しなければならないものだと考えます。それは聖さを増すとか純潔さをうなが すということを考えるあまり、見失われがちになるからです。  それにしてもなぜ私たちは恵みについて、これほど心配するのでしょうか?そしてなぜ 神様の恵みを得るために何かをしなければいけないのではないかと心配したり、あるい は”すべては恵みによるのです”と言ってしまうと、何でもしていいと思われてしまうので はないか、などと恐れる必要があるのでしょうか?さらに聖い生き方を強制してしまうの ではないかという心配が恵みを語るのを恐れさせるのです。このような心配が私たちにあ
るので各世代の人々は恵みは何を意味するのか、恵みは私たちに何をもたらすのかを再発 見しなければならないのです。

12 バベルの出来事が聖書の最初の方で描かれているのは、私たちの誰もがしそうなこ とだからです。これは人間への警告です。神への道を自分でたてる人間の働きによって神 様の所にたどり着けるわけがない。人間は一人残らずこういうことをしそうになります。 だからこの危険信号は聖書の始めの方に出されているのです。そして神様は何度も何度も それが違うことを教えて下さいます。

13 マルチン・ルターは晩年「キリスト者の人生の総決算」という有名な説教でこう言 いました。中略がいくつかあるのでご承知置きください。「愛の行いと信仰をはっきりと 区別する。この新たな考え方を身につけるのは、極めて難しいことです(中略)信仰のう ちにあるとは言え、(中略)心はいつも神の前で奢り高ぶり、考えます『なんだかんだ 言っても、ずっと御言葉を宣べ伝えてきたし、よく生き、多くのことを成し、あちこちで 宣教をしてきた。このことを当然、神様は考慮に入れてくださるだろう。』しかし、そう はいかないのです。人前では奢ることができます。(中略)ですが神の御前に立つ時は、 すべての奢りを捨てなくてはなりません。裁きではなく恵みを懇願することを覚えなけれ ばならないのです。  

生まれてこのかた、義のために働こうともがいてきた人間が、唯一の仲介者を信じて、 自分を引き上げよう、心のすべてを立て直そうとするのが、いかに険しく苦しいことか。 それを試みる者は誰でも分かるでしょう。  

私自身、およそ20年間福音を語ってきましたが、今もって、古く下劣な取り引きの願 いにしがみついていると思います。それは、自分が何か貢献すれば、神が私にめぐみを与 え、報酬として聖化をもたらしてくださるという考えです。めぐみの前に完全に降伏しな ければならないことが、未だに頭に入っていないのです、そうすべきであることは分かっ ているのに。」”私も貢献します、だから神様このおこないゆえに私を認めてくださるで しょう?神様このおこないゆえに私を好いてくださるでしょう?神様もちろん天国に行っ てもこのおこないゆえに私を思い出してくださるでしょう?”そう言いそうです。  

本当は”主よ私が申し上げたいのはただひとつ、あなたがすべてして下さいました。だ から私の信仰もあるのです。”と言わなければならないのに。

II.贖いの(キリスト中心の)メッセージの組み立て方
14 説教するにも布教するにも宣教するにも、メッセージの中にクリスチャンの本質を 保つことが重要です。ではどうやって、そのようなキリスト中心のメッセージを組み立て られるのでしょうか?資料の大きなIIにあります。

15 出発点はもうご存知ですね?特別難しいものではありません。第一回でお話しした 堕落した状態に焦点を合わせる( Fallen Condition Focus =FCF)です。覚えていま すか?すなわち聖書が宛てられた相手、つまりめぐみの御言葉を必要とする人々と、現代
人が共有する状態です。ここが出発点となります。この共有状態は次のように見定めま す。  

この御言葉に出てくる人物たちと自分は似ていないだろうか?その悩みは?問題は?彼 らを救うために神様は恵みを与えた。私と彼らはどこが似ていないか?  

このように始めれば律法的になったり道徳的になったりしない道が自ずと見えてくるで しょう。人々を穴いっぱいのチーズと見てください。その穴は真の堕落であり、人間の力 では埋めることは出来ませんね?そこが出発点、チーズの穴がスタートポイントなので す。むろん”穴は自分の力で埋めるべきだ”などと言って始めたらそのメッセージはそれで 終わってしまいます。そうではなくて堕落の状態をベースとして始めれば、メッセージは 間違いなくどんどん展開していくのです。  

では堕落の状態はどう見極めればいいのでしょうか?手っ取り早い3つのステップがあ ります。適切な出発点を見つけるにはどの御言葉についても次の質問をするのです。出発 点は必ずしも一カ所とは限りません。いくつかあり得ます。資料をごらんください。


16 第一ステップ/そのみことばは何と言っていますか?ハッドン・ロビンソンの本を 使って説教を学ばれた方はお分かりでしょうか、彼はまずこう訪ねます。主旨は何か?こ のみことばは何を言っているか?何が起きていているのか?書き手は何を伝えようとして いるのか?私が聞く福音主義の説教の90%はこれを出発点ではなく、最後のステップに もってきています。何が起きているのでしょう?何を伝えようとしているのでしょうね? 思い出してください、なぜ聖霊がその句を聖書に含めたのか。理由が分からない限り、説 教する準備はできていません。なぜその句、その節が聖書にあるのか問いましょう。


17 第二ステップ/その聖句がふれている困りごとは何か?基本的な脈絡は何か?何が 起きているのか?主旨をただつかむだけではなく、なぜそこにそのことが語られているの か?脈絡は何か問いましょう。

18 第三ステップ/なぜその聖句は単なる文字情報ではなく、人を変える力をもった言 葉となっているのでしょうか?その句を書き送られた人々、その句が語っている人々、ま たその句を書いた人々、彼らと自分とには何か共通点はないでしょうか?たとえば疑い深 いトマスについて考えます。なぜそこにいたのでしょう、私は彼とどうゆう所が似ている だろう。またある詩篇の作者は”自分の涙は一晩中自分の夢となった”と言っていますが私 たちは作者とどう似ているでしょうか?この作者がその詩を書いた時の状況に共通点を見 いだし始めると、なぜ聖霊がその句を聖書に含まれたのか見えてきます。単なる文字情報 ではなく聞き手を変えるのがみことばです。

19 「みことばの中にある共有の困りごとを探すことから始める。」このことが納得で きた方は私とともにどのような堕落状態に焦点が絞り込まれているか考え、例をいくつか 資料に書き出してみましょう。貪欲、高慢、利己的、不品行、不信仰、心配...そのほか十 戒のどれでも当てはまります。いま挙げたことには特徴があります。それを明確にしてい きましょう。これらは説教の題材として使えるものばかりなのです。つまりどれも人間の
罪となっています。ぜんぶ罪です。 貪欲、高慢、利己的、不品行...すべてメッセージのい い題材になります。

20 次ですが罪ではない堕落状態もあることを認識しておいてください。堕落した世界 の堕落した存在であっても聖書において必ずしも罪ではないこともあるのです。たとえば 堕落した世界に堕落した者として生きていて、予期せぬ悲劇に直面することがありません か?予期せぬ悲劇は罪でしょうか?違いますね。それは罪ではなく堕落した世界に生きる 堕落した生き物としての成り行きです。例をあげると孤独でいることは必ずしも罪ではあ りませんが、私たちが直面する困難のひとつです。それは聖書にもいろいろ書かれていま す。病気、病気も罪ではありません個人の罪の結果であることもありますが、必ずしもそ うではないと聖書は言っています。病気は堕落状態のひとつで、人生の中でもつらいその 状況をどのように乗り切れるか聖書は示しています。しかし必ずしも避難されたり、罪と されたりするものではありません。ただなお堕落状態のひとつなのです。聖書はそうゆう ことにも対処するのです。  

違いが聞き取れましたでしょうか?両者とも間違いなく堕落した状態に焦点が絞られて います。すべては人間の堕落した状態の結果ですが、すべてが罪ではないのです。こう やって堕落状態から見ることを始めたら、どの聖句も理解できます。聖書が人間を完全な ものとするために与えられたということは、みことばのすべて残らずすべてがこの堕落状 態に希望を与えるために書かれているわけです。  さて堕落状態が見つかったら、次にみことばがそれにどう対処しているか話しましょ う。この話をするにはまずキリスト中心のメッセージの独自の特色を押さえる必要があり ます。特徴づけるものは何か、資料をごらんください。

21 最初は逆にキリスト中心をぶち壊す要素、ただしい贖い的聖書解釈ではない要素を 見てみましょう。  

一番目のぶち壊し要素は律法不要論です。ある人たちは言います。”恵みを強調すると いうことは、律法に従う話はしないということだ。”これは聖書で正しい行いが求められ ていることや、神の掟に目をつぶる律法不要論です。私たちはそんなことは言っていませ ん。恵みを強調しても律法に従うよう求められていることは無視できません。メッセージ を堕落の状態に焦点を絞ることから始めたならそれは明らかです。神に従わなかったから 問題が生じているのですから、必ずやその問題について解き明かすことになります。律法 不要などもってのほかです。

22 キリスト中心のメッセージにつきまとうぶち壊し要素の二番目は、寓話的話作りで す。無理矢理イマジネーションを働かせ、キリストを旧約聖書のらくだの隊列の中に登場 させたり、言葉遊びをしたりします。シドニー・グレイダナスは「聖書のみSola Scrip- tura」という本のなかでこれを「ゴルゴダへの飛躍」と呼びました。イメージ的な遊びを するのです。例えば”エリヤは神の敵と出くわした時ある分かれ道にいた、それでイエス 様も何々をしている時やはり分かれ道にいた”といった感じで言葉遊びをします。”あるい はモーセはイテロの娘と井戸で出会った、そのようにイエス様も女と井戸で出会った”と
か。これも寓話的な言葉遊びです。みことば全体を通してキリストを宣べ伝えるというこ とは、こういうことではありません。寓話でもなく、律法不要的でもない本当の特色をこ れからお話ししましょう。

23 正しい贖い的な聖書解釈を特徴づけるものは3つあります。

a.聖書全体が神の救いの業を伝える一貫したひとつの歴史であると認識すること。
 聖書はひとつの歴史なのです。

b.すべての人物と出来事がこのひとつの歴史に関係してくると認識すること。
 聖書の中のすべてがひとつの歴史につながっています。

c.適切な解釈が部分部分を全体につなげると認識すること。

私とポール・ポイストラに強い影響を与えた本が先ほども紹介したシドニー・グレイダ ナスの著書「聖書のみ」でした。実はポールと私はこの本を通じて出会ったのです。もう 絶版になっていますが、私の過去の説教は自分でも失敗であったと感じさせてくれまし た。伝え方に問題があったとかではなく、福音がもつ人を変える力を見いだせていなかっ たのです。人々の道徳的な変化は見ました。でも霊的な生活がよくなるのは見なかったの です。人々のプライドが高くなりどんどん冷たくなっていくのを目撃しました。彼らは同 時に律法に従おうとしていました。自分で思う限り、なぜ自分の説教がこういう態度を増 長しているのか分からず迷いをもち始めました。自分は聖書に書いてあることを言ってい るだけなのに”これこれをしなさい、ヨシュアのようになりなさい”こういうことの何がお かしいのだろう?ところが「聖書のみ」を読んで、それが大間違いであることを知ったの です。非常に専門的な本でしたが私の人生で一番必要な時に出会ったと思います。私は神 学校で教えるようになって、近くの公園でポール・ポイストラとよくジョギングしたので すが、出会った頃お互い感が働いたのか二人とも「聖書のみ」を読んでいることがわかり その話で大いに盛り上がったのです。”私も読んだ””君もか!”と。それからというもの、 恵みのメッセージについて聖書全体から何を発見したかお互い意見を交換するようになり ました。著者のグレイダナスの言うことがすべて正しいとは言いません。大きな間違いも あると思います。しかし私たちの軌道修正をしてくれたことは間違いありません。そのう ちのひとつは聖書をひとつの歴史として捉えることでした。資料にもありますが鍵となる 部分を引用してみましょう。

24「聖書を、伝記の集大成として読む断片的な解釈に対して、贖いの歴史書として見、 贖いの歴史の集大成と見ることができる。(中略)贖いの歴史の集大成ということは、内 容すべてにキリストを中心とする本質があることを意味する。贖いの歴史とはキリストの 歴史である。キリストが真ん中に立ち、同様に始めにも終わりにもいる。(中略)聖書は そのテーマを最初に示している。創世記3章15節は、後に起きる出来事がすべて、女の 子孫と蛇の子孫の間の戦い、つまり、この世にこられるキリストとこの世を支配するサタ ンとの大戦争であることを示唆している。また、すべての出来事において、女の子孫が圧 倒的な勝利を納めることも示唆している。ということは、誰一人として、この歴史、また この偉大な戦いと無関係な人間はいないということだ。誰が敵で、誰が戦友か、その位置 づけはキリスト論的にのみ定められよう。」

25 グレイダナスがいうには、また私が正しく聖書をみても鍵となる節はヨハネ3章1 6節ではなく、創世記3章15節です。” わたしは、おまえと女との間に、また、おまえ の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼の かかとにかみつく。」”これは福音の原型、福音の始まりです。のちに悪魔の力を打ち砕 く贖い主が現れるのです。ではその部分以外の人間の歴史は何なのでしょうか?グレイダ ナスはそれが大戦争だと言っています。現代はサタンの力対女の子孫の力の戦いなので す。つまり人間の歴史はこの大戦争の展開ということになります。自分が大きな戦場にい ると思えば聖書がかなり分かりやすくなるでしょう。  あなたが丘に立って戦場を見下ろすと、こちらには騎兵隊、あちらには歩兵隊また向こ うには物資支援隊が見えます。斥候は前線から下がり砲撃隊はやや離れたところ、いろい ろな部隊で構成されていますがすべての部隊はこの戦いに参加しているわけです。戦争の 全体像と結びつけなければあっちで騎兵隊が何をしていて、こっちで歩兵隊が何をしてい るのか到底説明できません。ここにサムソン、あそこにヨシュア、そして向こうにモーセ の律法これらはすべてひとつの大戦争に参加しているのです。カルバリの丘に立って見下 ろしてみましょう。全部隊がこの丘に向かって集おうとしています。すべてはこの大戦争 の一部なのですから。

26 聖書を解釈するとき私は言葉遊びができないだろうか、ここに井戸が出てくるから 井戸で出会った女の話をしよう。などということはしません。言葉遊びや寓話は駄目で す。聖書のどの部分をとっても実際どのように大戦争に加わっているか、論理的に見てそ の位置づけがどうなっているか、解釈します。ですから私はみことばについて検討する 時”モーセの十戒はモーセの十戒、王の記述は王の記述、だから別もの”とは考えません。 またダビデ王について考える時”ダビデと言えば、イエス様の生涯でこんなことがあった な”というやり方もしません。こういう「~といえば~を思い出す。」というのがゴルゴ ダへの飛躍です。そうではないのです。どれもこれも人の子が蛇を打ち負かす大戦争の一 部、歴史に書かれていることはすべてこの戦いなのです。エデンの園であれ、大洪水であ れ、律法であれ、初代の家長であれ、王も、降誕も十字架も昇天も再臨も歴史上の出来事 はみんなこの戦争に結びつきます。その戦いはいずれ神が勝利するもので、神のご計画な のです。歴史的なところも教理的なところも神様は何らかのかたちで全体像に繋げていま す。聖書のある箇所では神が勝利者なのだと示し、またある箇所では大戦争の一部分を見 せています。すると分かってくるのはヨシュアが英雄ではないということです。だれが英 雄なのでしょう?すべての戦いの英雄は神です。神はやがて偉大なる戦いに最後の勝利を おさめます。我々はそれを見るでしょう。契約の民のために神が約束してくださいまし た。歴史のどの場所にも同じことが起きています。ヨシュアの記述はただ雄々しく強くあ れば、私たちも巨大な相手を倒せるという主旨ではありません。そうではなく、”人より 遥かに偉大で、すべてを克服される神に信頼せよ。神から離れてはなにもできない。”と 教えているのです。自分が掘っていない井戸や、建てていない町を与えてくださるのが神 です。神はすべてを与えてくださるかた、人間は何も自分に与えられません。神様が人間 に何を教えようとしておられるのか、それは脈絡の中で捉えましょう。歴史の中で現在は どこに当てはまるのか。資料をみてください。そういえばこうだとかゴルゴダに飛躍し
ちゃおうというつもりはないのですが、それぞれの出来事や聖句が贖いの歴史、またご計
画の中にどう当てはまるかみてみましょう。

27 サムエル・ブロッカーという人が1955年に書いた「講壇の力の秘密」という本 から引用します。「聖書のメッセージとは単に贖いの聖戦の布告だ。すなわち人類の苦境 に敷かれた神の逃げ道だ」もしブロッカーが苦境といわず堕落状態と言っていたら。私は 本を書く必要はありませんでした。しかしブロッカーは苦境という言葉を使いました。神 の逃げ道とは、人間が自分で切り開く道ではありません。人類が苦境から脱出するための 神の道、それを啓示するのが聖戦であり、聖書のすべてなのです。ではどうすればこの贖 いの啓示を掘り起こるのでしょうか?聖書全体に聖戦が啓示されていると言いましたが、 そこにある贖いの要素、特定の真理はどうやって掘り起こしたらいいのでしょう?

28 ひとつの間違ったやり方は資料にもある主題別アプローチです。これは意図はすば らしいのですが人間の権威しかありません。主題別アプローチがどんなものかご存知です か?神の家族としてのあり方とか、よりよい祈りの生活などそれがなんであれ贖いの真理 がクリエイティブに主題に付け加えてあるものを指します。これの最悪の例ともいえる説 教を聞いたことがあります。ぐずぐずして怠けない、それだけの内容でした。今日できる ことは明日までのばさない、神様の時間を忠実に使う者になりなさい。ぐずぐずするのは やめましょう。そして最後には新たな決心をした人は前にでるようにと招きの時がありま した。で、”神様のメッセージが聞けて嬉しいです”というのです。すばらしいですね。し かしそのメッセージには時間を上手に使いましょうということ以外何もないのです。なの にキリストに招くとはどうゆうことでしょう?本当に何も神に結びついていません。ただ 人間の権威が”これをするとよいですよ。今日読んだ聖句とは何の関係もないけれど、よ いことだからぜひやりましょう”そういっているだけ。まったく人間の権威です。

29 しかし私たちのほとんどは聖書を聖書の権威のもとで解釈する、釈義的なアプロー チを好むと思います。贖いの真理は次の3つの方法のいずれかの形で論理的に聖書に示さ れています。聖書にある贖いの真理をどう示すか?

30 第一はみことばそのものです。当然なことですが釈義的な説教はみことばを用いま す。実際にみことばはキリストやその救いの働きを語っているからです。マタイの26章 を読んで、神様の贖いの業が分からなければ、何も読んでいないことになります。ここに は十字架に付けられたイエス様について書いてあるのです。贖い的なメッセージとは、み ことばに書かれたとおりに言ってしまえばよい場合があるのです。救い主である神の優し さが表れ、人間の行いの義によってではなく、神のあわれみによって人間が救われたと書 いてあったら、その通りいえば良いでしょう。そして新約聖書に限らず、同じ意味を語っ ている聖句を探します。救い主に関する詩篇、福音書、書簡など。ほかにもたくさんある でしょう。ただしひとつ問題があります。もし実際にキリストが贖いについて述べている 節でしか贖いのメッセージができないとしたら、聖書のどれだけが使えるでしょう。1 0%くらいでしょうか?15%?実際にイエス様が贖いを語っている所からしか贖いの
メッセージができないなら、聖書のほとんどを逃してしまうはめになります。このアプ ローチはすばらしいのですが、これだけに限定されてはいけません。

31 贖いの真理の見つけ方の二番目はその聖句のひな形を見つけることです。キリスト の贖いの働きが表わされているひな形がどこか、だいたい旧約に表されています。  

特に改革派の間では宮、ダビデの王政、ヨセフの一生のように”これはキリストを表し ている”と、新約で示していない限り、型としては認めていません。旧約の中にキリスト の贖いのわざが表れているとする予型論はありますが今回は議論しません。非常に時間が かかりますので。それにしてもまださっきと同じ問題がのこります。もし神の贖いのわざ を直接書いてある聖句、また予型論のみに限定してメッセージをしてしまったら聖書のど れだけを無駄にすることになるでしょうか?かなりです。聖書の大半が贖いの真理を表さ ないことになってしまいます。では他にどのような方法があるのか見てみましょう。

32 贖いの真理はそれぞれの聖句からだけでなく、型からだけでもなく、脈絡のうちに あらわにされます。神の贖いの業という全体的な啓示のどこに当てはまるかを見極めま しょう。この視点から見ると、すべての聖句は次の4つのいづれかにあたります。もちろ んこれだけに制限する必要はありませんので、さらに他の分類を思いつかれたのならばそ れもいいでしょう。しかし私は次の4つでほとんど押さえられると思います。

33 a.キリストの働きを預言する。    
      b.キリストの働きを準備する。    
      c.キリストの働きを反映する。    
      d.キリストの働きの結果となる。 例を資料にあげてみました。

a.キリストの働きを預言するみことば 
34 最初はキリストの働きを予告している聖句です。もちろん預言の書はこれに当ては まります。救い主についての詩篇や、旧約聖礼典もキリストが人に変わってなす業を予告 しているのです。

b.キリストの働きを準備するみことば(ガラ3:24、ローマ4:23~25) 35 次にキリストの働きの準備となっている聖句があります。前に啓示された内容があ るからこそキリストが何を達成しなければならなかったかが理解できるのです。つまりそ れらは人間の理解を準備するためのもの、それらの聖句についてはキリストがなさなけれ ばならなかった働きに向かって人間を準備させていると理解した上で、私は説教したり教 えたりしています。前回の学びで引用したガラテヤ書3章24節を思い出してください。 律法は人間が信仰によって義と認められるためにキリストに導く養育係です。つまり律法 にはキリストが達成することを人に分からせるという準備の目的があったのです。おもし ろいことに律法だけでなく、旧約時代の信仰を説明しているところも準備のためにありま す。ローマ人への手紙4章23節から25節を覚えているでしょうか?「しかし、『彼 (アブラハム)の義とみなされた』と書いているのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる 私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは私たちの罪のために死に渡さ れ、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」ここでなぜアブラハム の話がわざわざ出てくるのでしょう?それはアブラハムのためではなく、そのほかの人間 のためです。アブラハムが神を信じたから義とみなされたのだと、人間が理解するために です。昔の出来事によって私たちはキリストの働き、また人間がそれに頼るべきであるこ とを理解します。律法と、信仰による恵みの記述の両方を理解することで、人間の準備は なされたのです。過去の出来事は人間の理解を整えました。 

c.キリストの働きを反映するみことば
36 次のものにはより焦点を当てたいと思います。これは実質的に聖書全体を通してど こでも使えます。預言的な聖句も、救い主の理解を準備する聖句も、やはり数に限りがあ りましたね。しかしキリストの働きを反映する聖句はそこに向かっていくことも、そこか ら発展させることも、聖書全体を通して出来るのです。そしてねじ曲げたり、何かを付け 加えたりすることもなく、贖い的に考えられます。そのように聖句にアプローチするには ある2つの問いを投げかけることが絶対的に不可欠です。ひとつはキリストの働きを与え た神の本質と特性について、その聖句はどう示しているか。もうひとつはキリストの働き を必要とする人間の本質や特性について、その聖句はどう示しているか。カルヴァンのレ ンズについてご存知ですか?人間は聖書というレンズを通して、現実を見ている。つま り”聖霊を通して私たちは真理の本当の姿を見ることが出来る”というものです。  

さて私は2枚のレンズがある眼鏡を思い出してほしいと思います。先ほどの2つの質問 つまり2枚のレンズを通せば、聖書のどこを読んでいようとも贖いの真理が見えてくるの です。旧約聖書、新約聖書、系図、律法どこを読んでいても2つの質問を繰り返すので す。贖いを与えている神について、この聖句が示している神の本質や特性は何だろうか? そして2枚目のレンズ、贖いが必要な人間について この聖句が示している人間の本質や特 性は何だろうか?これは皆さんの聖書感を変えることになるでしょう。  

例を考えてみましょう。家族と一緒に夕食後のデボーションで歴代史を読んでいたら、 イスラエルの民がバビロン捕囚から帰った時に、土地を振り分ける場面に出くわします。 子供たちにその土地の長いリストを読ませようとすれば確実に嫌な顔をするでしょう。そ こで大人も”なんで聖霊はこんなことを聖書に入れたんだ?”と思います。まさに退屈その もの、意味もよく解らない、何々の家系はどこそこの○○河と☓☓河の間の土地をもらっ た。何でこれを読まなくてはならないのでしょうか?  

考えてください、イスラエルの民は罪と不実のために70年も捕虜として捕らえられて いたのです。別に聖くなったわけではないけれども、とにかく帰ってきました。神様の言 葉であるヘブル語も律法も思い出せません。もともと自らの罪のため捕囚となった彼らは 約束の地カナンに戻ってきたのです。そこで神様がもう一度土地を割り振りました。この 家系はここの土地、そこの家系はあそこの土地という感じに目的は何でしょうか?聖書の 別の箇所と比べてみましょう。歴代史でひとつの家系が受け取っている土地はどういう土 地ですか?そう、エジプトから約束の地に戻ってきた時に先祖が受け取った土地です。先 祖たちに約束された通り、全く同じ土地が同じ家系に戻されたのです。この民は神様に対
してちっとも誠意がなかったのに、神様はどうだったでしょう?誠意そのものでした民に 人徳があったからですか?とんでもない。神の憐れみのみによるのです。ではここで何を 学べるでしょうか?贖いを与える神様の本質として、何が分かりますか?”人間は不信仰 で神は絶対に誠意を失わない方だ”そういうことです。では人間の本質としては何を学び ましたか?”人間は人徳によって契約の民となるのではありません。完全に神様の憐れみ のみによる”そういうことです。ですから聖書のどの句を読んでいようとも、同じ質問を してください。贖いを与えてくださる神様の本質や性格は何か?この聖句は贖いを必要と する人間についてどういう本質をもっていると教えているか?最も道徳的、律法的といえ る句を読んでいようとも、この質問を投げかけていれば贖い的に考え、教え、反応できる ようになります。箴言5章のわが子よ遊女のうつくしさに誘惑されてはいけない。といっ て内容をとってみましょう。キリストの姿はみえませんね。そこで自分に質問してみま す。この聖句は贖いを与える神様の本質はどうだと言っているのだろうか?神様がわが子 よ遊女のうつくしさに誘惑されてはいけないと言っているのです。こういう命令を与える 神様とはどのようなお方でしょうか?ご自身について何を語っているでしょうか?何を重 んじられるでしょうか?その性格はどのようなものでしょう。神が重んじられるのはそれ は義、忠実さ、純血、契約そうではないですか?また”わが子よ”と呼んでおられることも 忘れないでください。これはどういう意味ですか?神が父だということです。この命令を 通して神様はご自分が聖く、愛のある方だと示していらっしゃいます。次に人間について 何が分かりますか?人間の本質とは何でしょう?人間はうつくしさにそそのかされる者だ ということです。誘惑に弱いのです。  

こうして贖い的に考えてみますと、神様は聖く、人間は弱い、神様は父で、人間は子供 神はふらふらしている人間に善良なものを与えてくださる。以上のことが学べました。し かしそんなことはここに書いてないじゃないか、そう言う方もいるかもしれません。いい え、実際に書いてあるのです。脈絡をみればそれがポイントであることが理解できます。 聖書は箴言5章の何節といった具合に、狭い範囲に限定してみるものではないのです。カ ルバリの丘の上に立てば、神様がすでに説明された歴史全体を見渡せます。こうするのは 神様の本質と目的を解き明かし、神の民を神自身に引き寄せるためなのです。それが神の 目的ですから。神様はみことばの中で私にたくさん教えてくださいました。だからみこと ばをひも解く時には、神様が与えてくださった脈絡をみます。脈絡から遠ざかり、聖書に ついて他に知っていることを無視し、そんなことはとるに足らないなどというのは間違っ ています。小さい断片だけを詳しくみるというのは駄目です。神様はご自身の本質と神の 道をみせてくださいました。ですから聖書を読む時に私に与えられた義務はここでは神様 が反映していると教えてくださったものが、どういう風に反映されているかと問うことな のです。贖い的に考えながら、聖書を読み進んでみてください。そのうち神様が与えられ た脈絡にそって、それぞれの聖句にある恵みを解き明かすようになるでしょう。

 *それらを示す聖句は、歴史的な結末である場合も、推論の場合もある。また明示されて いることもあれば、含蓄のみの場合もある。 

*旧約の聖者と呼ばれる人間はみなひどい欠点があり、人間に贖い主が必要であることの 証明となっている。

37 資料にある空欄を埋めていきましょう。聖書を通して贖いのわざをみる新しいレン ズについてですが、ここの空欄には何が入るでしょうか?
     1、聖書のこの部分は、贖いを与える神様について何を解き明かしているか?
     2、聖書のこの部分は、贖いを必要とする人間について何を解き明かしているか?
以上の2つがみことばについて贖い的に考えるため何度も何度も通してみるレンズです。

d.キリストの働きの結果をあらわすみことば(ロー8:1,2,ピリ2:12,13,ヘブル4:14-16) 
38 最後のカテゴリーを見てみましょう。キリストの働きの結果を表す聖句です。私 は”祈りの生活を向上させる”と題したすばらしい説教を覚えています。長く祈ること、み ことばを使って祈ること、などこれらの事をすれば祈りの生活は向上しますといった内容 でした。でも忘れられている要素があります。仲介者です。その方が神の右に座している からこそ人間は恵みの御座に近づけるのです。その方がいるから、人間は神に近づくのを 赦されています。長く祈ったからというだけで、祈りは通じるでしょうか?時々は私もそ んな勘違いをしてしまい、祈りを空回りさせてしまいます。大切なのはこう自問すること です。“ちょっと待て、自分が神様に近づけるのは甦られたキリストが神にとりなしてくだ さっているからだと忘れていないか?そこをちゃんとおぼえているか?”イエス様がいなけ れば祈りはしょせん無駄です。すべてはキリストの働きの結果なのですから。時にはみこ とばに対する私たちの見方が、キリストの贖いのメッセージをどうみるかを表すことにな ります。ここまでは方法論をお話ししてきました。では最後に贖い的メッセージの仕上が りについてみてみましょう。

III.贖い的なメッセージはどういう風に聞こえるか
39 贖い的なメッセージは最終的にどういう風に聞こえるのでしょうか。聖句の中に贖 いの真理をみようとしたら、そのメッセージはどんな印象になると思いますか。メッセー ジの中で贖いのテーマは強く響くでしょうか。頑張りまくる主義や「危険なBe」のよう なメッセージとは違うことは間違いないでしょうが、実際はどうなのか。聖書全体を通し てキリストの目的をとらえた贖いのメッセージは千通りも考えられますが、基本的には次 の通りです。

40 第一にそれは罪にも関わらず恵みが降り注がれることがわかる、保証と養子縁組の メッセージとなります。典型的な題材は神の愛にあるなぐさめとか、聖書の安息日の概念 などです。安息日がテーマといえば日曜にしていい事としてはいけない事のリストを並べ るようではまだ贖い的とはいえません。ところで聖書的な贖いの概念とは何ですか?神様 は世界を造られたあと、休まれました。すべての労働を休みました。七日目には朝と夕が なかったというのは議論の的になっていますし、どう読み取るかにもよりますが、ともか く人間も神の休息に入った事が分かります。神様が休まれたので、人間も神が休む間休ん だのです。エデンにいた頃の人間は安息日を知っていました。人は神とともに休みまし た。しかし罪をおぼえたなれの果てに、エジプトの奴隷、召使い、労働者となってしまい
ました。やがて神はイスラエルの民に束縛から解放すると約束しこう言ったのです。”あ なたたちは束縛の地からカナンと呼ばれる地に行くことになる”カナンの地は安息の地と も呼ばれます。”カナンの地、すなわち安息の地で束縛から休息へと導こう”神はそう言っ たのです。契約の民は何度も転びます。自分たちでは契約の目的を果たすことができませ んでした。だから神様は仲介者を送らなければなりませんでした。ヘブル人への手紙3章 には何とありますか、ここでも神の民のために安息があると記されています。神は安息に 入りなさいと言います。なぜならイエス様の元に来る時、人間は一生懸命働かなくていい からです。骨折って働いてもイエス様に認めてもらったり、好いてもらったり、恵みを得 たりすることにはなりません。受け入れてもらうために自力で頑張ることから人間は解放 されたのです。人間はいま、神様の安息の中にいて、自分の労働はずっと休んでいます。 再び神の労働に入ることができたので、人間の労働は休んでいるという意味です。人間が 神によく仕えることができるのは、しっかりとした休息があるからです。まだ現在の状態 は完璧ではありませんが、やがては涙で満たされたこの世界から解放されて、天の御国の 新しい天と地で永遠に主とともに住まうことになります。黙示録がこのことを何と呼んで いるかご存知ですか?やはり神様の安息に入るとあります。安息日は保証をしているので す。人間の働きではなく、神の働きによって。神のものとして人間が創られたこと、また 人間が神の王国に入ること。人間は神の民で、神の王国は人間ではなく、神の業により創 られたのです。そして人間は神の休息に入ります。安息日は素晴らしい保証のメッセージ なのです。

41 さて次に神との養子縁組について話しましょう。神様との親子関係をしっかり理解 するまではキリスト者の生活を送ることはできないとさえ言われます。自分ではなく、神 様との働きによって、神様と結ばれていることを理解しましょう。  

この結びつきを保つのは人の良さでも悪さでもありません。あなたが神の子ならば、こ の関係を変えることはあなたにはできないのです。あなたもわたしもこの間柄、神との中 に影響を与えることはできます。しかし神の子でなくなることは決してありません。それ が分かっているからこそ私は安心していられます。私が強さと能力を持って神に仕えるこ とができるのは神の愛のおかげなのです。いい子でいたらかわいがってあげるというよう な条件付きの愛の中で親に育てられた人はたくさんいると思います。しかし神様は親子関 係だけしっかり把握していなさいと言うだけです。”私はお前を愛する。それはお前が私 の子供だからだ”これは無条件の愛です。この愛のおかげで私たちは神に仕えることがで き、危険を冒しても伝道に出かけられるし、どんなに落胆しても冷や汗をかいても、いら ついても、何とかやっていけるのです。神があなたを子供とされたのです。この揺るぎな い結びつきがあればこそ強さと力をもって生きていけます。これこそ人間の罪にもかかわ らず降り注ぐ神の恵みです。

42 さて贖い的なメッセージがどのようになるか、その2番目は罪(責)を打ち砕く恵み にあふれた義人とゆるしのメッセージです。反律法主義とはまったく違い、真にキリスト 中心的なメッセージは悔い改めの必要性をよく題材にします。私たちは毎日悔い改め、福 音を自分の心に伝えなければならないのです。ルターの有名なセリフをご存知でしょう
か?”私たちは救い主がいかに偉大であるか認め、罪をしっかり認め、日々自分に向かっ て福音を説教しなければならない”つまり悔い改めだけではなく、神が浄化してくださる ことも語らねばなりません。人々が自分の罪の重みを実感するだけでなくキリストがそれ をすでにぬぐい去ってくださったことをも教えるのです。

43 3番目は罪の支配を打ち砕く恵み、聖化のメッセージです。この世のもの、肉と悪 魔に対する勝利が典型的な題材です。何をもって勝利できるのかといえば、聖霊による備 えとみことばによる力です。イエス・キリストにあって私たちは新しく生まれ変わりまし た。以前は罪を犯してばかりでしたが、今は罪を犯さない能力が与えられたのです。根本 的に本質が変えられたためです。罪から遠ざかる力があります。もちろんこれからもう絶 対に罪を犯さないという意味ではありませんが、しかし以前はまったく持っていなかった 能力が今は与えられたのです。かつてはやることなすことすべて罪という時がありまし た。しかしもう違います。主は人間を神のものに変え、聖霊を与え、また勝利をもたらす みことばも与えてくださいました。ですから私たちは神がくださった罪を犯させない能力 について宣べ伝えられるのです。

44 では贖い的メッセージがどう仕上がるのかの最後、4番目です。それは聖さをうな がす恵みをテーマにした、礼拝と服従についてのメッセージです。典型的な題材は神を愛 するがゆえに人は聖くなるというもの。イエス様を愛すればイエス様を悲しませたり、傷 つけたりする生活に我慢できなくなるのです。つまり愛すればこそ従うという生き方にな ります。愛に基づいて仕えるのです。この4番目のタイプがキリスト中心のメッセージと して一番よくみられるものでしょう。すなわち愛を持って仕えること。神様を愛すること が動機となって、仕えることです。昔から神への服従というテーマは激しい論争を生んで きました。神への服従が恵みを受けるための資格だとする考え方は排除しなくてはなりま せんが、かといって服従を人生に必要のないことだとすることは違うからです。もしも神 への服従が恵みを受ける資格にはならないと私が言ったら、”え?従う必要がないってこ と?”とつっこみが入るでしょう。そうではないのです。しかし服従そのものが恵みを勝 ち取るわけではありません。恵みを正しく理解することでこころが変えられ、自然と従え るようになるのです。でもこれを言い表すのは難しいですね。教えるのも難しいです。

45 聖さの必要性と適切な動機を伝えていくのは福音主義にとって一番難しい課題かも しれません。聖さの必要性とその動機付けは次回の講義をまるごと使って話していきたい と思います。今はこう考えてみましょう。皆さんはアンソムという人が語ったキリスト教 史の中でも非常に古いたとえ話をご存知でしょうか?それは”アンソムの花”としてよく知 られています。野原で父親のために花を摘んでいる女の子がいました。その子は花束を 作ってまずお母さんのところにやってきて見せました。”これね、お父さんにあげるの”お 母さんはその花束を見ました。すると野菊に混じってとげや雑草が入っていたのです。こ れではお父さんにあげるのに相応しくありません。そこでお母さんは花束を預かって、と げと雑草を取り除き、庭から数本の花を加えて”これをお父さんにあげようね”と言いまし
た。アンソムいわく、キリストは人間の良い行いを束ね、その中からとげやら雑草やらを 取り除き、さらにご自分の義をもって加え、父親に渡すに相応しくしてくださるのです。  

次回は神の贖いがはっきりと分かる方法で、人々にみことば全体を語ることを学んでい きます。どうか神様がその必要性と正しい動機づけについて見せてくださいますように。 お祈りします。お父様、学びを続けていくにあたって私たちを導いてください。イエス・ キリストのみにある贖いと、神の恵みのメッセージを聖書から解き明かす方法について今 回わずかですが知ることができました。聖書のメッセージをさらに知るにつれ、私たちの 口から出る言葉はどう変わっていくのでしょうか。私たちを助けてください。教えてくだ さい。変えてください。そして私たちがあなたのひとり子の栄光について表し、その名が すべての名にまさって知られるようになりますように。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

キリスト中心のメッセージ 第一回キリスト中心のメッセージの中核


ブライアン・チャペル博士による学び
    キリストを宣べ伝える、聖書全体にあるめぐみを伝えよう
キリスト中心のメッセージ 第一回キリスト中心のメッセージの中核

目標
2 キリスト中心のメッセージ、このテーマに従ってこれから3回にわたってお話しした いと思います。聖書のみことばと信仰によって神様の言葉を取り次ぐ時、イエス様の声と ともに語るにはイエス様ご自身のメッセージを保つ事が条件で警告とも言えます。わたし たちはいろいろな場所でみことばを取り次ぎますが、みことばの中でもいろいろな聖句を 取り次ぎます。そのさい大切なのが今言った事がいつも守られる事、すなわち聖書全体を 通して書かれているキリストのメッセージを常に心に刻み込んでおく事です。今日皆さん にお配りした資料は題して「キリスト中心のメッセージの中核」みことば全体を結びつけ るただ一つの原則を理解する事が目的です。

序説  3 その原則について私は危惧しています。それは私の住む町で毎朝起きている出来事に も言えるのです。平日の朝、セントルイスではCBS系列の大手のラジオ局がある番組を流 しています。何キロヘルツか覚えていませんが町の代表的なラジオ局で局のキャッチフ レーズは”万軍のモックス”その局が毎朝7時5分になると”今日の教訓”という番組を流 し、一人の男性が黙想を呼びかけるのです。驚くなかれ聖書を引用する事もあってキリス ト者が魅かれそうな内容を話すこともあります。この”万軍のモックス”には郊外から都心 に通勤している何十万人もの人がチューニングしています。”今日の教訓”の語り手はリ チャード・エヴァンズといい、次のようなことを言います”父親たちよ子供たちを怒らせ てはなりません主にあって教育し、さとしながら育てるのです。それが子供たちの重荷と なってはなりません。父親である自分の益になるようにではなく子供たちの益になるよう に育てなさい”とか”通勤中のあなた今日職場に行ったら主に仕えるように上司に仕えなさ い、自分のために働くのではなく、主に仕えるのです。自分の利益ばかり考えてはいけま せん”とか都心に向かって運転している人たちについて考えてみましょう。数十万人いま すからそのうち数万人はクリスチャンでしょう。彼らはリチャード・エヴァンズが話して いる間うんうんとうなずき思うでしょう。”その通りだリチャードよく言ってくれた。昨 日までこの言葉を聞いた事の無かった人も今日はあなたの言う事を聞いて聖書に従って行 動するだろう”確かに聞こえはいいわけです。でもリチャード・エヴァンズには2、3問 題があります。その一つは彼が既に死んでいる事、もう何年も前に亡くなりました。全部 録音されたものです。余談ですがおもいっきりエコーがかけられて、まるでシナイ山から 響いてくるみたいな所もあります。”父親たちよ...”といった感じでそれは強烈です。でも 死んでからずいぶん経ったことだけが問題ではありません。実はリチャード・エヴァンズ はクリスチャンではなかったのです。彼はあるカルト集団のリーダーでした。ところが彼 の声は何回も何回も放送され墓の中から未だに語っているのです。  

どう思われますか?正しいことを言っているように聞こえるのに実は間違っているのは 何故でしょう?本当にこれは良くないことなのです。リチャード・エヴァンズが話す内容 の何かが誤っていることはまずありません。”労働者の皆さん人に仕えるのではなく主に
仕えなさい”とか”父親たちよ子供を怒らせてはなりません”など聖書を引用しているくらい ですから。内容自体にはほとんど問題はないのです。ではいったい何が問題か?それは彼 が言わないことにあります。リチャード・エヴァンスがいっさい口にしないこと、そのリ チャード・エヴァンスが絶対触れないことこそが、本物のクリスチャンメッセージの絶対 的な中核、本質、必須の要素なのです。メッセージの内容を考えるときは始めにこのこと を思って下さい。どの聖句を取り次ぐにしてもみことばに忠実でありたいと願うなら、真 実クリスチャンらしいものをメッセージの真ん中に常に据えることそれはキリストです。

I.すべてのみことばに通じるメインテーマ
A.FCF 
4 そのメインテーマいつも忘れてはならない本質を考えるにあたって、一つの概念を紹 介したいと思います。資料に空欄がありますがそこにはわたしが「堕落した状態に焦点を 合わせる」Fallen Condition Focus(FCF)と呼ぶものが入ります。聖書はどの箇所を とっても堕落した状態に焦点を絞って書かれているのです。聖書が何に焦点を当てている か推し量る必要もないほどです。福音主義者にとってはモットーともなっている第二テモ テ3章16と17節を見てみましょう。

2テモテ 3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練との ために有益です。

2テモテ 3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられ た者となるためです。  

ここで”ふさわしい”にあたるギリシャ語はαρτιοςアルティオスといい、”完全 な”とか”欠けたところのない”という意味です。ここには必然的にある意味が含まれます。 わたしたち人間を完全なものにするために聖書が与えられているとはどういうことでしょ うか?つまり今人間は何かが欠けている不完全な状態だということです。わたしたちには 足りないものがあって、それを仕上げてもらい補ってもらわないといけないのです。それ を人間のためにして下さるのが神です。第二テモテには聖書の一部ではなく”聖書のすべ て”が人間を完全なものにする目的で与えられていると書いてあります。人間は堕落し世 界は堕落しています。堕落状態です。ですから聖書の狙いはこの堕落をどうにかすること にあります。ローマ人への手紙15章4節にはこうあります。

ローマ 15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、 聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。  

昔書かれたものは、すべて人間に希望を与えるために書かれました。堕落した世界で堕 落した状態にある人間には助けが必要であり抜け道が必要です。希望を与えるために昔そ れは書かれたのです。結論はもうお分かりでしょう。聖書全体が堕落した状態に焦点をし ぼっているのは堕落状態の人間に希望を与える目的ですべてが書かれたからなのです。こ れにはさらに深い意味が含まれます。聖書のすべてが堕落した状態に焦点をしぼっている ということは、わたしたちに次のように考えなさいということです。”この聖句をみてい くにあたってこれは希望を与えるために書かれたことをおぼえよう。希望のためにこれは 聖書にのっているのだ。”さらに聖書が人間の欠けた所を補い、希望を抱かせるために書
かれたという事実は、わたしたちがメッセージを話す相手についても新たな見方を与えて くれます。

B.FCFが示唆する意味(「なぜ」という問いかけが意味を解き明かす)

5 時々神学生に進めることで今皆さんにもお進めしますが、人をみる時その人が穴だら けのチーズだとみて下さい(スイスチーズ効果)。人はみんな穴だらけ、だからイエス様 の声として語るわたしたち説教者はこの穴を埋めるために何を話すべきだろう、何が彼ら を補えるのだろうと自分に問うべきです。子供を怒らせなければ素晴らしいお父さんにな れますよ、そうすれば何も問題なし。上司に正しく仕えていれば万事上手くいきます。こ んなことを言っていて本当にメッセージを語ったことになるのでしょうか?ところがわた したちはつい軽率にこうゆうことを言ってしまっているのです。それは”聖書に書かれてい ることを言っているのだから何も問題ないだろう”と考えてしまうからですが、注意しな ければ穴だらけの人達に向かって”良いことをすれば穴をふさぐことはできる、だから もっともっとがんばって穴をふさぎましょう”と言い続けることになります。後でも述べ ますがここでもはっきりと申し上げます。これはクリスチャン的メッセージではなく、ま さに反クリスチャン的メッセージです。”全力投球でがんばれば穴はふさがります”と言っ ているのです。中にはこうおっしゃる方もいるでしょう。”それはまだ福音に達していない だけだ”と。でも待って下さい、もし人々が自分自身の行いで問題を解決できると思うよ うになったら、これはクリスチャン的メッセージでしょうか?反クリスチャン的でしょ う。だからこそわたしたちは次の2つのことを明確にすべきなのです。

6 第一に一つの聖句について何故それが書かれたのか知ること。さもなければそれにつ いて真実がいくつ言えたとしても意味が分かったことにはなりません。例えば私は”怒ら せる”という言葉の意味を説明することができます。70人訳で神がイスラエルに対して 抱いた正義の怒りを表すのにこの単語が使われたとお話しすることもできます。これは真 実です。私はこの箇所について他にいくらでも真実を言えます。しかしここで何故父親が 子供に関心を示す様みことばが教えているのかを言えなければ、他にどれだけ真実を語っ たとしても意味がありません。何故書かれているのかを知らなければまだその聖句の意味 をきちんと理解したとは言えないのです。

7 第二になぜ聖霊がその一節をみことばに加えたかを見極めなければ、それが何を意味 しているのか分かったとは言えません。”神様のお考えを見極めるなんて”と思われるかも しれませんがでも結局わたしたち奉仕者が置かれた目的は神のこころを見極めることにも あるのです。何故この一節が聖書にあるのか?何故聖霊はこれを聖書に載せたのか?どの ような堕落の状態がこの聖句を書かせるに至らしめたのか?

8 要約してみるならば、堕落した状態に焦点を合わせるFCFとは、次のように定義でき るかもしれません。すなわち聖書が当てられた相手、つまり恵みのみことばを必要とする 人々と現代人が共有する状態。ある聖句をとり、そのことばを送られた人と、書いた人に ついて考え、その人々と私とに共通点はないか考えます。またそのときの困難、問題、堕
落の状況、それが書かれなければならなかった理由、どう受け取られ、何が解決したのか など、なんでも。みことばを送られるだけの理由を抱えた人々に自分は何か似ていないだ ろうか?何故なら真の堕落について本気で考え始めると、私はそのみことばを次のような 気持ちで求めるようになるのです。”この状況で神が与えようとした恵みは何なのか?私 がこの人たちに似ているのならその恵みは私にも必要なはずだ”

II.贖いの目的はすべての聖句に含まれる。 
9 資料の大きなIIに移ります。どの聖句にも贖いの目的が含まれているということをお 話ししましょう。皆さんもお気づきのようにいままで私はみことばが示す否定的な側面に ついて話してきました。では聖書全体が人間の堕落状態に焦点を絞っているのはなぜで しょう?答えは明らかです。それぞれの聖句に含まれる贖いの要素について保証とその ニーズを示すためです。  

つまりみことばが人間の欠けたとこばかり繰り返し語るのは、救い主の働きが人間を完 全なものにすると、形を変えて合図しているからなのです。聖書を読み教える説教者に与 えられた目標はこの合図、信号を判読すること。それぞれの聖句には神の働きによって人 間がどのように補われるか書いてありますから、その信号が解読できなければ本当に理解 したとは言えません。 

正しい言葉を使って話していても誤った信号を送ることは有り得ます。例えば”良き従 業員でありなさい”ということの何が悪いのでしょうか?それは”そうしていれば自分の得 となって神に愛され守られる”という信号を送りかねないからです。  これでは正しい言葉を使っていながら間違ったメッセージを送ることになります。私た ちは自分のためではなく聞き手のために聖書から正確に信号を判読しなくてなりません。

III.ひとつひとつの聖句からどのように贖いのメッセージを解読するか? A.虫めがね 対 魚眼レンズ 

10 では次にひとつひとつの聖句からどのように贖いのメッセージを解読していくかを お話しましょう。どうしたら脈絡とバランスを適切にとらえ、要点を逃さないでいられる のでしょうか?ここで仮にちょっと漫画的かもしれませんが、単純な比喩をもとに組織神 学と聖書神学の差を考えてみたいと思います。2つの神学の違いを同じ箇所を2枚の別の レンズで覗きこむことと想定して下さい。わたしは日曜学校に行くようになってから聖句 一つ一つを虫眼鏡を使って細かく読むようになりました。皆さんも神学校でそのように学 ばれたことでしょう。もちろんこれは良いことです。かなり拡大してみるわけですね。こ の動詞の時制は何であるか?この人物は誰か?この単語の定義は何だ?この語は他ではど う使われているか?最後まで詳しく見ていきます。組織神学とはそうゆうものです。観察 して細かく切り刻み、そして部分部分を体系立てて繋ぐ。詳細をみていく過程は必要で良 いものです。  

しかしもうひとつ聖書を見る方法があります。虫めがねで細かいところをみるのではな くこころの中に一眼レフのカメラをもって魚眼レンズを通して全体像をみるのです。魚眼 レンズを通して何が見えるでしょうか?対象物が周囲のものと一緒にみえますね。聖句の もう一つの見方というのは細部に視点をせばめるのではなく、常に周囲に目を向ける方法
です。これは大きな構造のどこに当てはまるか?脈絡はどういったものか?みなさんもそ れは習ったでしょう。どんな異端者でも聖書から引用できるのは脈絡を無視して使うから です。最高の組織神学もそうしていますが、一般に聖書神学は組織神学と違っていかにし てそれぞれの箇所が脈絡に、特に贖いの背景にそっているかを一番重要に考えています。 歴史を通して神様が徐々に解き明かされている恵みのメッセージにこの聖句はどう当ては まるだろうか?父親が子供を怒らせてはいけないことや従業員が主に仕えるように働くべ きだと私たちが語るのはなぜか?これらのみことばは贖いの脈絡にどう当てはまるのか? 脈絡に当てはめられない限り、そのみことばの意味を本当に理解したことにはなりませ ん。また脈絡を無視して本当の意味を語るのも無理です。資料の虫めがねと魚眼レンズと いう見出しの下の最初の空欄は次のようになります。

11 聖書神学とは、聖書の詳細を統合する一貫したテーマに重点をおいた聖書解釈の訓 練である。詳細も大事ですがテーマが何であるか、また個々の聖句がいかに結びつくかを 追求する訓練も重要です。聖書神学は単にこの聖句が明かす真理とは何か?だけを問うの ではなく、それがどのように聖書全体のメッセージに関わってくるのかも問うのです。

B.ドングリの考察 12 20世紀聖書神学の権威となったゲハーダス・ボスの著書「聖書神学」Biblical Theologyをみてみましょう。ボスは聖書のどの聖句であろうとも常に脈絡に目をやる方 法、贖いを念頭におく方法を書いています。

1.発展的(進展的)原則 13 ボスの第一の原則は発展的または進展的原則と言います。私たちはこの発展的原則 を念頭に置きながら聖書を読まなくてはなりません。ボスはこう書いています。”聖書神 学とは釈義神学の一分野である。”つまり聖書神学は釈義的にみことばが何を意味するか を追求するのです。しかしまた”聖書に記された神の自己啓示をあつかう釈義的神学の一 つの分野も指す。”とも言っています。さらに続けて”啓示とはみわざに関連する働きを示 す名詞だ、神は次々にご自身を明らかにされる。つまり啓示は歴史を通して発展しつつあ る過程で長期の継続的な働きなのである。”複雑な言い回しですがつまりこうです。サムソ ンよりパウロの方が贖いの計画をもっと知っていた。サムソンが知っていたことが間違い だったのではなく、パウロが更に知っていただけのことです。それは啓示は継続的で発展 的だからです。神はどんどん神の計画と目的を明らかにされています。これが発展的原則 です。

2.有機的原則 14 2つ目の原則は有機的原則と呼ばれます。有機的原則です。ボスは発展的原則は有 機的であると言います。初めは種の形をしていた啓示はやがて成長しますがすると違うも のが出来上がるのではなく、姿だけが様変わりしたものになるのです。真理の初めの姿は 後の形の意味を正しく理解する上で不可欠です。またその逆も真と言えます。
 またしても複雑ですがこういう意味です。すべては結びついています。後に明かされた ものがあるから、先のものが理解できる。逆に後のものも先に明かされたものがあるから 理解できるのです。例をあげましょう。イエス様は言いました。”モーセが荒野で蛇を挙 げたように人の子もまた挙げられなければなりません。”これをどう理解するでしょう か?何が起きたかを思い出してみましょう。イスラエルの民は何度もつぶやきました。神 様にまで文句を言ったので毒蛇が送られました。そして咬まれて、泣き叫び、モーセに助 けを求めたのです。神はモーセに青銅の蛇を荒野に掲げるように命令されました。そこで モーセがそうすると神はモーセを通して民に語られました。

15 ”これを見上げて生きよ。これを見て生きよ、自分に信頼せずに、私が与えるもの を信頼せよ。”ではイエス様が先ほどのことばを言われたときは何を意味したのでしょう か?それは”私を見上げて生きなさい。自分に信頼するのではなく、神様が与えるものに 信頼しなさい。”ですね。さてなぜイエス様がこう言う意味で言ったと分かるのでしょう か?それは前と結びついているからです。前のものがあったのでイエス様の言われたこと が理解できます。また逆にイエス様のことばによって、青銅の蛇についても理解が深まり ます。イエス様が前のものを語られた様子を見れば私たちも信仰のメッセージが何を意味 していたのかもっともっと分かるようになるのです。これが有機的な結びつきです。後に 来るものとの関連によって先のものが分かるようになり、また後のものは先のものとの関 連によって理解できます。すべてはつながっています。このような視点がなければなりま せん。

3.贖いの原則
16 ボスの最後の原則は発展的で有機的なものは さらに贖い的であるというもので す。これは贖いの原則と言います。神はみことばの発展性と有機性のうちに目的を持たれ ています。啓示は贖いの原則と切っても切り離せません。啓示は贖いの解釈でもあるので す。ですから啓示を適切に見るためには贖いを脈絡的に覚えなくてはなりません。  魚眼レンズを通して見れば贖いの脈絡は見えてきます。啓示の脈絡と内容は贖いに関し てはまだ種の形かもしれません。しかしそれは後に実るメッセージと複雑に関わってい て、そのつながりが明らかになるまでは適切に理解したり伝えたりできないのです。  種の形が成長した形と結びつくまではその意味を本当に理解したとは言えません。

ドングリのたとえ
17 また例をあげましょう。今わたしの手にドングリがあると仮定して、これについて お話ししてみます。全体は茶色で片方の端は薄く、もう一方の端は濃い褐色です。いろの 濃い方の端はずんぐりとして、木の株のように切れています。いろの薄い方は流線型で先 が尖っています。秋になったら地面に転がり、リスが集めて冬に食べます。今私はこのド ングリについて真実の情報をお伝えしました。では皆さん、ドングリが何であるか分かり ましたか?私は何か言いませんでしたね。そう樫の木について何も言わなかったのです。 真実の情報はいっぱい伝えましたが完全に育った形にまで結びつけませんでした。ですか た皆さんもドングリがまだ分からないのです。もう一つドングリがあります。それは一つ
の戒めです。”汝盗んではならない”これについて説明しましょう。これは自分に属さない ものを盗ってはいけないという意味です。他人の所有物を盗ってはいけないし、他人の名 声も取り上げてはいけません。この戒めは旧約聖書の十戒に出てきます。新約聖書にもで てきます。ということで”汝盗んではならない”について真実の情報を伝えました。そして 結論はやってはいかん、これは悪いことだ。なのです。さあ、この戒めについて理解した と言えるでしょうか?ここで私は何を言い忘れたでしょう?キリストのことを言い忘れて います。”律法は私たちをキリストに導く養育係、または家庭教師である”とパウロはガラ テヤで言っているのに。でもこの節にはキリストの名前など書いていないから的外れじゃ ないのか?と思われているかもしれませんね。いいえ、そんなことありません。ここの目 的はなんでしょうか?なぜ与えられたのでしょうか?なぜここに書かれたのでしょうか? 盗みは悪いことでやってはいけないと教えるためでしょうか?ゆっくり考えてみましょ う。  

神が与えられた戒め”汝盗んではならない”を通して、神について何か分かりませんか? 神の性質は?神は何を重んじているのでしょうか?神とは誰?どんな方?他人のものは取 り上げてはいけないと言われる神の性格とはどういったものか?このような戒めを与える 方はどんな方か?それは誠実さを重んじる方です。正直さを大切にされ、他人を傷つけな いことを考える方です。聖い方です。私たちはこういう律法を与えられる方を理解しなけ ればなりません。よく聞いて下さい。この律法について理解できたら神についても理解で きたわけで、さらには自分についても理解できたことになります。この盗んではならない という戒めのドングリの本当の意味です。他人のものは盗らない、他人の名声も盗らな い、自分のものでなければ絶対に盗ってはいけない。だからこの律法をこのように学ぶ時 自分について何が分かるのかといえば、それは自分は盗人であるということです。神は聖 なる方であり、私は違う。この律法を与えた方は聖く、受け取るこちらは聖くない。希望 としては誰かにその辺を何とかしてもらいたいところですが。でもともかく脈絡をみる限 り”私は盗人だ”という理解に至ります。”律法がキリストに導く養育係”だとパウロが言っ た理由はただひとつ、常に私たちには恵みが必要だと教えるためです。もし私が道徳的な ことだけを語っても真実を伝えたことにはなるでしょう。”盗んではいけませんよ、悪い ことですから”まさに事実です。しかしこれでは聖書がこの戒めを与えた目的に結びつい ていません。私たちは十戒を十戒だけの脈絡でみることに制限されていないのです。  啓示の中で神が約束されている贖いは発展的で有機的ですから脈絡にそってこの律法を みていかねばなりません。この聖句を大きな背景から外したら聖書に忠実だと言えないの です。その脈絡とは神がキリストの内に贖いを明らかにしたということです。詳細はすべ てこの全体像に結びつきそこに収まります。  

資料をご覧下さい。樫の木に触れずにドングリのことは語れないようにたとえ啓示につ いていくつ真実が言えようとも、それを贖いと結びつけなければ啓示の内容を適切に理解 したことにはなりません。ここで疑問があります。聖書を読んでもイエス様の名前がない ところはいっぱいあるのです。イスラエルの民が荒野を歩き回っている所でイエス様は出 て来ないぞ、らくだの背に乗っているとか茂みに隠れているってことか?イエス様はどこ だ、どこにいる?

C.プディングの穴
18 では目に見えて書かれていない時、神の贖いの真理はどうやって見いだせばいいの でしょうか?ちょっとばかりクリエイティブになりましょう。ここで私の母のことをお話 ししましょう。6人の子供を育てていたときのこと、母にはどんなに便利であっても子供 たちのためにしてはいけないこだわりが幾つかありました。その一つはその頃になって初 めて売られたインスタントのプティングを作ることでした。インスタントは手抜きそのも ので母からみればそんなものを子供に与えるなんてもってのほかでした。何しろ牛乳と粉 を混ぜればできる代物でしたから。ですから母はわざわざ手作りしました。一生懸命料理 したものを冷蔵庫に入れ、一日かけて固めるのです。子供たちのためにこれだけのことを 一日かけてして、夕食の時にはプディングの入った大きなボールを冷蔵庫から出して、食 卓に並べました。ところがある日の午後、6人の子供のうち誰かが親指くらいの大きさの 穴をプディングに残したのです。犯人は親指をつっこんでそれにたっぷりとプディングを つけてぺろりと食べたのでしょう。母は”誰がやったの?”と全員に問いただしました。す ると私たち6人はいっせいに素晴らしいハーモニーで”自分じゃないよ”と答えたのです。 まるで教会の聖歌隊みたいに。でも母は頭の良い人で”一列に並んで親指を出しなさい”と 言い、一人づつ順番に親指の大きさを測ったのです。犯人は兄のゴードンでした。プディ ングの穴はどれだけの大きさの指が入るか表していたのです。そう穴はどれだけの容積が そこに入るか示しているのです。聖書全体が人間の堕落した状態を示しているということ はつまりどの箇所もそれが書かれなければならなかった程の問題があったということで す。穴、すなわち堕落状態が示されている時は同時に穴を埋めるべき容積の神ご自身につ いても何かが明らかになっています。

19 したがって神が聖書の中で何度も示された人間の不完全さは堕落だけを言っている のではありません。それは私たちを満たし欠くところのない者に変えるために必要な神様 の本質、特性を表しているのです。聖書にみられる穴、つまり人間の堕落は人間が実際に 盗みを働く盗人であるが故に神様が何をしなければならなかったのか何をしているのかを 示しています。人は生まれつき盗人ですから自分を正しく変えることはできません。でき るのは神だけ、神様が何かをして下さらないといけないのです。

鍵となる原理
20 このように聖書を見ていくと神の性質とともに人間の性質も明らかになり、鍵とな る原理が分かってきます。 1.不完全さの原理 人間は堕落しています。だから聖書は人間が自分を完全にするため、 あるいは神に受け入れてもらうために何をすべきか教えてはいません。そんなことができ る位ならもともと堕落していないのです。

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2.無力さ、無能さの原理 聖書のどの箇所をとっても、コレコレのことをすればよりよ い人間になる、神にもっともっと受け入れられるようになる。だから頑張って自分を向上 させよう、とは書いてありません。聖書は自己啓発の本ではないのです。巷にはこの手の
自己啓発の本があふれていますが、聖書は断じてそんなものではありません。もし私たち 説教者がこれこれしていれば神様とあなたの関係は良くなりますよなどと語ったらそれは クリスチャン的でなく反クリスチャン的なメッセージになります。

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3.統合の原理 聖書にはただ一つ、一貫した有機的なメッセージがあります。それはキ リストをいかに求めるか、キリストは唯一の救い主であり、神が「なすべきこと」とされ たことをなさせたまう力の源です。「良き従業員であれ、良き父親であれ」などなすべき ことはいろいろありますが、それらをなさせてくださる力の源から離れて語っては聖書の 教えを曲げることになります。個々の聖句を脈絡に沿って理解できるよう統合してくださ るのがキリストなのです。

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鍵となる聖句 今言ったことは決してチープなセオリーではありません。鍵となる聖句を 少し見てみましょう。 第一コリントの2章2節おそらく大方の神学者にとって鍵となる 所です。
1コリント 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架 につけられた方のほかは、 何も知らないことに決心したからです。 次のようには言っていないことに気づいてください。

24 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリストのほかは何も知らないことに 決心したからです。イエス様はなんとも良い人で私たちも頑張ってイエス様みたいになる べきです。そうではなくて”イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは 何も知らない”とあります。キリストは人類のためにあることをして下さいました。 ですから私のメッセージのすべて、伝えたいことのすべてはキリストの贖いの働きなので す。これが鍵です。第一コリントの1章に戻って23節を読んで下さい。パウロは十字架 の贖いがユダヤ人には問題なのを知っていて”私たちは十字架につけられたキリストを宣 べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、”と書 いています。パウロが”盗んではならない”と叫んだらユダヤ人は反発するでしょうか?何 か問題があるでしょうか?ありませんね。”自分の妻には忠実であれ”これも問題無し。で も”あなたは盗人だから神様の贖いの働きが必要だ、あなたは姦淫を犯すものだから神様 の贖いの働きが必要なのだ”と言えば反感を買うのです。しかしこれはクリスチャン必須 のメッセージです。神から離れてしまっては私は何者でもありません。単に律法を破るも のです。神様から離れては希望のかけらもありません。私のうちに良いものはひとつもあ りません。神様だけが私をその御前で正しい者に変えて下さるのです。ルカの福音書24 章27節を見てみましょう。イエス様が復活されてからエマオという村への道中で語られ たことについてです。

ルカ 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の 中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 聖書神学者にとってここの”全体”という言葉は非常に重要です。聖書全体がイエス様に ついて書かれた本なのです。

25 こことあそこだけでもなければ新約聖書だけでもありません。預言の書だけでもあ りません。すべての箇所が何らかの形で神様の贖いの働きを啓示していて、それはイエ ス・キリストによって成就されたのです。これを目に見えるように表したのがマタイ17 章のキリストの変容です。ご存知ですね。山の上で表れたのはモーセとエリヤです。モー セが表しているものは律法です。そしてエリヤは預言者を表しています。律法と預言者の すべてがイエス様を称えるために表れたのです。律法も預言もキリストのうちに成就する ものであり、それらはキリストについて書かれたもの、またキリストに導くためのものな のです。常にイエス様が脈絡として存在します。聖書のどの句であってもメッセージを語 る時、私たちはこのことを考えなくてはなりません。

D.メッセージを区別する印
26 どの聖句を取り次ぐにしても、それをクリスチャンのメッセージとして他と区別す るために欠かせない印があります。十字架の上での恐るべき犯罪、すなわち贖いのメッ セージです。これに相反してあるのがユダヤ教の会堂やイスラム寺院で聞けるような”盗む なかれ、忠実であれ、悪いことはするなかれ”という道徳主義です。  

J・アダムズが”目的を持って説教をする”という本に書いていましたが、”ユダヤ会堂や イスラム寺院で受け入れられるような説教をしていては根本的に何かおかしい”のです。  

もしも私が”盗みは悪いことだからしてはいけません、良き父親でありましょう、言っ て素晴らしい人になりなさい”とだけ言っていたら誰が反論するでしょうか?道徳主義そ のものが悪いわけではありませんが、それしか言っていないとするとやはりそのメッセー ジは根本的に何か間違ってます。伝えることすべてにキリストの存在を貫かなければ人間 中心の行い主義的メッセージと一線を画すキリスト中心のメッセージとなりません。

IV.贖いのないメッセージを見破る
A.贖いの要素のないメッセージの本質 
27 この違いをしっかりと押さえると贖いの要素のないメッセージを見破れるようにな ります。時には自分でもしてしまう贖いの要素のない説教はどうやって見つけたら良いの でしょう。その本質をみれば良いのです贖いの要素のないメッセージや説教は本質的にキ リストを中心にせず贖いからそれて人間を中心にしています。用心しなければ私たちは次 のような間違いを犯します。  

頭の中でメッセージの性質を計る天秤を描いてみて下さい。左に傾くと自由主義、もう 一方に傾くと律法主義だとします。皆さん本当のキリスト教というのはちょうど真ん中の バランスのとれた所だと思っていますね?しかしです実は自由主義も律法主義も同じもの なのです。律法は神の前で正しくあるためにはどうすれば良いと教えていますか?”よい 人でありなさい、よい行いをしなさい”ですね?律法主義で言う良い行いというのは大 体”ある種の映画は見に行かないとか大酒を飲んではいけないタバコも吸わない”といったものでしょう。そうすれば神様の前であなたは正しくあるのでしてはいけない!とんでも ない。これらの事をしなかったからといって神の前で正しくなんかなりません。  

では天秤の対極の自由主義はどうでしょうか。神様の前で正しくあるためにどうすれば 良いと言っていますか?やはりよい行いをすることです。よい行いの種類が違うだけで す。隣人を愛し、貧しい人に施しをするなど。もうお分かりですね?結局両方とも同じこ とを言っているのです。良い人でありなさい。そうすれば神様との関係はもう大丈夫。実 をいえばクリスチャンのメッセージはこういう秤では捉えられないのです。天秤の上には ありません。神様のわざだけが人間を御前で正しくして下さる。それがクリスチャンの メッセージです。人間が前で何をしてもそれで神様との関係が良くなることはありえませ ん。私たち説教者のメッセージが善行を促すばかりで”よい事をすれば神様と良い関係に なれますよ。”というようなものであればこれはクリスチャン的なメッセージではなく反 クリスチャン的メッセージとなります。

28 ”人間がどれだけよい事をしても神様が人間のためにお働きにならない限り、神様 との関係は正しくならない。”そう語るのが私たち説教者です。一生をかけどんな宗教、 人、哲学に対してもとにかく人間のすることが神様との関係を正しくすると主張する相手 には終始変わらず立ち向かわなくてはなりません。もちろんまず自分が誤ったメッセージ を語っていない事を確認しましょう。神様だけが御前で人間を正しくしてくださいます。 人間の内にあるものではありません。

B.贖いの要素のないメッセージの「危険なBe」
29 もうひとつ贖いの要素のないメッセージを見抜くコツをご紹介します。悲しい事に 私も時々こういう説教をしてしまってるのですがそれは名付けて「危険なBe」です。Be とはBe動詞、英語で「~である」とか「~になる」という意味です。

30 危険なBeのひとつはBe like...つまり”誰それのようになりなさい”というメッセー ジです。ダニエルであれ、モーセであれ、ダビデであれ、 聖書の中の手本となる人をあ げて”ダビデのようになりなさい”というのです。”賛美の歌をかき、寛大で、強く、温かい 父親になりなさい”など。でも”姦淫を犯して部下を殺しなさい、 ダビデのようになりなさ い”とは言わないですよね。果たしてダビデ自身は自分のようになれというでしょうか? もしダビデがそう言わないならなぜ私たちが言うべきでしょう。もちろんダビデは素晴ら しい品性をもち、それを通して神様が私たちに教えを与えているのは事実です。しかし聖 書では道徳的な人物は律法のような働きをしているのです。道徳的な行いがどのようなも のか知るのは大切ですが、その行いの上に神の好意が注がれたと考えるのは非常に危険で す。彼らの様になりその行いをまねすれば神様といい関係が保てると思ったら先ほどの天 秤に逆戻りしてしまいます。またメッセージを聞いている人に嫌気をさそうと思ったらこ う言えばいいでしょう。”Be like Jesus.””イエス様のようになりなさい”イエス様は本当い 素晴らしい方でどう生きるべきかを示して下さいました。でもイエス様以外の誰にそんな 事ができるでしょうか?だからこそ十字架に架かったのではないですか。みなさんで出来 たらこれから言う事をどこかに書きとめて蛍光ペンでマークして下さい。神が聖書の英雄
です。ダビデではありません。ヨシュアでもありません。ギデオンでもありません。聖書 の登場人物はどんなに信仰の強い人でも何かとんでもない問題を抱えています。巨人を倒 すために少年をもちいたのは神様です。敵の軍勢を負かすのに弱虫のイスラエルを使った のも神様です。”ヨシュアのようになれ、 雄々しくあれ、強くあれ。主の敵を打ち負かす のです”などと言うのは神様の目的を取り違えています。のちにヨシュアはどうなりまし たか?神様があれ程の事をしてくれたにも関わらす神の前に失敗したのです。神様は自分 の素晴らしい業をなすためにこういう後でこけたり、躓いたりする半端者をもちいられる のです。英雄は神様で人間という器はもちいられるだけ。しかし本当におそろしい事です 何しろ私たちですらもちいられるのですから。だからこそ私たちは神様を見て、神様の業 を称え、よくもちいていただくよう祈るべきです。注意してみれば聖書のほとんどの登場 人物は薄汚れています。”だからアブラハムのようになりなさい”なんて言えたものではあ りません。”嘘をついて、しらを切り、自分の妻を他人に差し出しなさい。アブラハムの ようになるのです”なんて口が裂けても言ってはいけません。聖書の登場人物で汚れてな い人も僅かですがいます。”エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はい なくなった。”でもここは余り多くの事は語られていません。ほとんど誰もが神様の前で 大失敗をするのです。それは何故?そうすれば”神様がなされた事を見よ”と言えるからで す。神が英雄だから私たちは人間という器ではなく神を指差すのです。道からそれぬ様、 神の意志に逆らわぬ様。

31 二番目の危険なBeはBe good...”良くありなさい”のメッセージです。何を語って いるかと言えば”自分で自分を救いなさい!酒を飲まず、タバコを吸わず、そんな事をする 女の子とは付き合わずいい子でいなさい!頑張りなさい!もっと頑張りなさい!先週は悪 い子だったから今週は死ぬ気で頑張りなさい!!ガールスカウトもボーイスカウトも良い 事です!クリスチャンはいい人です!いい人であるのは良い事で悪い人であるのは悪い事 です!!”メッセージのすべてがこの調子です。”良い人であれもっともっともっと頑張っ て頑張り抜きましょう!先週の自分にどんどん嫌気がさしてくるでしょう?だから今週は もっと必死で頑張りなさい!良い子になれば神様はほほんで満足してくれます!!” ハァ~...。

32 さて最後の危険なBeはBe disciplined...”訓練されなさい”のメッセージです。こ れは私たち説教者の大方の者がおかす典型的な間違いでしょう。”自分を聖くしなさい、 もっと祈って聖書を読んで教会に行きなさい。何なら私の教会に来なさい。そうすれば神 様との関係は良くなります。ほらもっと、もっと鍛えて。もっと訓練されなさい”という 調子で。こういうメッセージは何が悪いのでしょうか?それは人に自分で自分の堕落した 状態が変えられると暗に示しているからです。恵みへの道は自分で作るという意味が含ま れてしまいます。聞いている人は自分の行いが神様に受け入れられるかどうかを決めるも のだと思い込むでしょう。ほとんどの場合これはメッセージに隠れて入り込んでいます。 もちろん神学的にそう信じているわけではないのに私たちはつい”いい人になりましょ う”とかもっと”聖書を読みましょう”とばかり言いがちなのです。  こういうメッセージは明示していようが、暗示していようが結局ユニテリアン派や仏教
ヒンズー教、またロンパールームといっしょです。ロンパールームは昔の子供向けのテレ ビ番組でニコちゃんとコマッタちゃんを使って”良い事をしましょう、悪い事はしないよ うにしましょう”と教えていました。でも聖書はもっと深くたくさんの事を教えています。  神の命令を行っても得する事はありません。祝福を受ける事は得する事とは違いますか ら。

33 また救いに授かる前か後かに関わらず恵みを自分で勝ち取れる事はありません。勝 ち取れるようなものは恵みではないのです。イザヤ書64章6節では人間の最高の行い、 義すらも神様の前で何だと言っていますか?”不潔な着物”です。さらにルカの福音書17 章10節にはこうあります。”すべてなすべき事をやっても、それは義務をしただけであっ て人間は役に立たない僕に過ぎない”神に従ったからといって立派なわけではないので す。最高の善行ですら不潔な着物なのですから。ウェストミンスター信仰基準にもありま すが人間が行う善と神の聖さとはまったく格が違うので人間の最高の善さえも無価値で神 様の好意を増す事はまったくできず、それどころかお叱りさえ受けてしまうものなので す。  

人々は皆私たちを含めて自分を天秤にのせたがります。そして言うのです”確かに私は 完全ではないけれど、悪い行いよりも良い行いの方が多い”と。そして全部善行の皿にの せようとするわけですが、実際はそれはどちらだと神様はおっしゃっていますか?残念な がら反対の悪事の方なのです。最高の行いですら、立派な行いではないのですから。もっ とよい人になれば神様は喜んで下さる。なんて事は私たちは断じて言うべきではありませ ん。

34 これまであげた危険なBeですが、実際に聖書に出てくる事を覚えておいて下さ い。そしてその脈絡をしっかり捉える事、どこにあったと思いますか?使徒パウロが”私 を見習いなさい私のようになりなさい”なんて言った事あったでしょうか?え~少なくと も5回ありました。でも聖句は必ず終わりまで読まなくてはなりません。そこは”私がキ リストを見習っているようにあなた方も私を見習って下さい”とあるのです。脈絡を忘れ ないで下さい。脈絡。脈絡!脈絡!!人間がすることでなく人間がする事の力、動機そし て基盤となるキリストのわざが大切なのです。人間のする事が神様の前に自分を正しくさ せるのではありません。

35 危険なBeはそれ自体は間違いではないのです。”盗んではいけない”と教えるのは 誤っていません。逆に”盗みなさい”なんて当然教えられません。それ自体が間違いなので はなく、それだけしか言わないのが間違いになるのです。”盗むなかれ”しか言わないと誤 りを生みます。危険なBeそれ自体は間違いがなくて、それだけしか言わない事が問題な のです。

36 聖くなることをうながすメッセージは、キリストを中心に置いていなければいけま せん。さもなくば、人間中心の宗教になってしまいます。

37 仮に破壊的な行動や態度の人がいて、それを変えてあげたいと純粋な気持ちで手を 差し伸べても、そこにキリストがいなければ、実際はその人を傷つけることになります。  なぜならキリストから離れてはしなければ、ならないと言われたことができないからで す。その人は結局は絶望するか聖い振りをするでしょう。  

もし私が皆さんに”ぬすんではなりません。そんなことをしたら神様との関係は永遠に 破壊されますよ”といったらどうでしょうか?  

皆さんには選択肢が二つあります。ひとつはみことばにある通り、自分は根っからの盗 人なんだと絶望すること。もうひとつは”もう自分はそのレベルの罪は卒業した、もう盗 人じゃないんだ”といきがること。絶望か思い上がりか、どちらにしても霊的には致命傷 です。”盗むなかれ”だけのメッセージは間違いなく人々を霊的に傷つけるのです。絶望す るか、自己正義に酔いしれるか。ともかく彼らは霊的に傷を負います。

38 たとえ意図的にではなくても人を傷つけたら、それをいやす義務があります。聖さ を与えられる唯一の方に導くようにするのです。パウロがどのようにしたか考えて下さい エペソ人への手紙6章で声高く語っています”神のすべての武具を身に着けなさい、悪い 者が放つ火矢に立ち向かいなさい、突撃せよ、戦うのだ、強くあれ!”ただどうゆう言葉 遣いをしていたでしょう?

39 だれの力にあって強くあれと言いましたか?主にあってです。わたしたちはどこに 助けを求めるのでしょう?どこに希望を見いだすのでしょうか?どこで癒されるのでしょ う?自分ではなくてキリストに向かわねばならないのです。ただ単に”強くあれ、雄々し くあれ”だけでは本当の力の源に導いていないので、聞いている人にダメージを与えてしま います。  

ある状況を思い浮かべてみましょう。この後の2回の学びで具体的にお話ししますが今 こう考えてみて下さい、カウンセリングでもいい、教師か通訳もちろん牧師でもいい、と にかくあなたは今ある人のために働き、導く立場にあります。あなたの話はあとちょっと で終わり、その人はすぐにドアを開けて帰ります。そして今あなたは聖書にあるしなけれ ばならないことだけを言ったところです。さて、その人はいったい誰と一緒に帰っていく のでしょうか?目に浮かべてみて下さいドアを開けて出て行く時その人は誰とともに歩き 去りますか?その人はあなたがやらなければいけないと教えたことをしようとするでしょ う神様の御意志に従おうとするその手には何が握られていますか?

結論
40 自分だけではありませんか。41 あなたはその人を救い主と一緒に送り出してあ げることも出来るのです。その人が神の命令を行おうとしても救い主と一緒に行かないな ら結局は途方にくれるだけです。救い主とともに歩めるようにその人を送り出してあげな ければならないのです。この脈絡を理解しなければなりません。次回具体的にどのように するか話していきますがまずはその必要性が見えたことを期待します。命令を与えるだけ では駄目で、救い主とともに歩ませてあげなければならないのです。救い主が導いてくだ さるからこそ、希望といやしへと行き着くのです。