Wednesday, December 23, 2015

「さらされる」


「アドベント(クリスマス)のお祝いは、魂の苦悩を知っている人のみに可能、自分が貧しく不完全であると知っている人、先に何か素晴しい事を期待できる人(のみに可能)。」ディートリッヒ・ボンヘッファー

“The celebration of Advent is possible only to those troubled in soul, who know themselves to be poor and imperfect, and who look forward to something greater to come.” Deitrich Bonhoeffer

12月20日のクリスマス礼拝の朝、英語の“vulnerable”という言葉について黙想していました。日本語にどうやった訳すか、考えました。Vulnerableは、さらされる(exposed)、という意味があります。例えば、危険にさらされる、と言います。

私たちは、お母さんのお腹にいた時、安全で、安心していました。でも、出て来ると、泣きます。危険にさらされている、と感じているのではないでしょうか?

こないだ、教会に真夜中に電話がありました。男性の話し方は、とても乱暴でした。話したい、と言って、1時間以上教会に来て話しました。彼は、何回も、刑務所を出入りした、と言いました。泊る所が無かったので、教会の一階の母子室に泊めました。でも、私は、2階にいた家族を危険にさらしているのか?と思い、不安でした。守られるように、祈っていました。私たちは、vulnerable (exposed)、いろんなものにさらされたり、不安や、恐れを感じます。人生にそのようなものが多いです。

私たちの主イエスは、栄光の天にいらしました。が、この世に来て下さいました。クリスマスの事ですね。はじめは、お母さんの温かさの中にいました。が、生まれた時は、馬小屋のいろんなものにさらされました。また、イエスの家族は、貧乏な家庭でした。そして、後、主イエスは、奉仕をはじめた頃から、宗教家などの批判にさらされました。罪の無い方なのに、不正な裁判にかけられ、死刑にされました。その十字架上で裸にまでされたのです。そして、父なる神に捨てられます。マルコ15:34「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

私たちは、危険にさらされたり、弱い立場におかれたり、人に噂されたり、経済的に足りなくなったりします。しかし、主イエスの十字架上でさらされたのは、私たちがさらされても、キリストのゆえに、私たちが神の強い愛に守られ、覆われる為です。不安がありながらも、安心できるのです。この生ける神を信頼するのです。

Monday, December 14, 2015

全てが恵み


「全てが恵みによる。はじめから恵みであり、最後のも恵みである。」マーティン・ロイドジョンズ

"It is all of grace.It is grace at the beginning, grace at the end. " D.M. Lloyd-Jones

エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

Wednesday, December 9, 2015

神のささやきの鼓動



14世紀ごろの思想家・聖職者、トマス・ア・ケンピスは、こう言いました。「喜びて神のささやきの鼓動を聞く人は、幸いなり。」

詩篇 18:19「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。」


Wednesday, December 2, 2015

「見える御言葉:聖餐式」



私たちは、クリスチャン生活をあまりにも複雑にしているのではないでしょうか?私たちの主イエス・キリストは、聖餐式をはじめに行った時にこう言われました。ルカ22:19「私を覚えてこれを行いなさい。」(1コリント11:24−25)礼拝、また人生の全て、は、イエスを覚えることにまとめられる、と私は、確信します。

メッセージの聞く御言葉だけではなく、見える言葉が必要です。聖餐式が必要です。宗教改革のジャン・カルヴァンはこう言いました。「(カトリック)が伝える一つの祝福の代わりに、私たちは、三つの祝福を強調しています。一、主は、御言葉(聖書)の中から私たちを教えます。それで、聖礼典(洗礼と聖餐式)を通して、それ(御言葉)を確証します。そして、最後に、聖霊の光によって私たちの思いの中にそれを照らして下さいます。。。でなければ、それらは、ただ私たちの耳を叩き、ただ目まで来て、内なるものを影響しません。」

聖礼典は「外から見える印であって、それによって、主の私たちに対する善意を証明し、証しします。。。神の恵みであり、外から見える表象によって宣言されます。()御自身へと導く肉体的なものであります。そして、肉体にある私たちは、霊のものを仰ぎ見るようにさせられます。」

聖餐式をラテン語やギリシャ語で言うと「ユーカリスト」です。「ユー」(eu)は、『よく』で、「カリスト」(charist)は、は『感謝する』という意味です。よく感謝する、と言う意味です。聞くユーカリストは、説教ですが、見るユーカリストは、聖餐式です。聖書を語る説教も、口に入れる聖餐式も、両方、生ける神へと、その救いの感謝と讚美に導くのです。

カルヴァンは、少なくても毎週、聖餐をお祝いするように、勧めています。他の全ての集会にでも、行うように、勧めています。カルバンのいたスイスのジネーブでは、御言葉と共に、常にしていました。

ここまで大事なのです。そして「主を覚える」必要は、私たちの毎日の歩みにあるはずです。常に、主を思い、信じ、崇め、また、主の御言葉を行うのです。

「主は、私たちの信仰の弱さを知っています。ですから、見えるように、味わえるように、触るように、聖礼典を下さいました。パンと杯が確かに見えるように、神は、確かにあなたを、キリストを通して、愛しています。。。確かに、キリストは、あなたのために死なれました。この食卓で、信仰は、見えるものに成るのです。」

聖餐は、確かに福音を全ての人に「告げ知らせるのです。」(1コリント11:26)それによって、活かされ、活きるのです。