ぜひ、先ず、詩編51編を読んで下さい。
私の名詞には、レンブラントの有名な絵「放蕩息子の帰還」があります。そこの右の方に、冷たい兄の視線が描かれてあります。しかし、父の愛の手、放蕩息子の悔い改め、回復が描かれてあります。放蕩息子は「私です」とよく言う時があります。この詩編51編で、似たような豊かな神の御恵みが祈られています。
51編の条文に「ダビデの賛歌」とあります。ダビデ王は、造り主に選ばれた王様でした。恵みを奏でていた人でした。しかし、高慢になって、ウリアの妻「バテ・シェバ」と姦淫を犯してしまいました。罪を隠そうとし、ダビデに忠誠を誓って戦線にいたバテ・シェバの夫ウリアまで殺してしまいました。そこに「預言者ナタン」が来て「あなたです」と、ダビデの罪を指摘しました。。。ある方は『私は、このような罪を犯しません』と言うでしょう。危ないですね。ダビデは、偉大な人でした。彼は、芸術家、音楽家、指導者、つわもの、神に愛されて者でした。ダビデの心にそのようなものがあれば、あなたの心にないと言えるでしょうか?
でも、罪に陥る時どうするのでしょうか?また、罪から守られるようにどうするのでしょうか?神の言葉、詩編51によると、主とその恵みに寄り頼み、祈るのです。。。二通りの恵みにすがるのです。一つは、1−9、罪を赦す恵み。二つは、10−19、力を与える恵み。罪が赦され、従う力が与えられるように、祈るのです。
1.1−9、罪を赦す恵み。
1節「神よ。御恵みによって」とあります。この基盤に立って、祈り、また赦され、力が与えられるのです。この「恵み」という言葉は、ヘブライ語で「ヘセド」で、神の『真実な恵み』(約束された愛、誓いによるあわれみ、変わらないいつくしみ)という意味です。。。この恵みがダビデの心に溢れていなかったから、バテ・シェバとウリアに酷いことをしたのです。
「ヘセド」の意味を考えましょう。。。創世記15章、神様は、アブラハムにあらゆる約束をしました。そして、その誓約を結ぶ為に当時の世界によくあった儀式を行いました。動物を二つに切って、約束を結んだ2人両方がその間を通るのが通常でした。「約束を破ったら、この動物が裂かれたように、私も裂かれても良い」と誓っていたのです。しかし、神は、アブラハムを眠らせ、神お一人が、その裂かれた動物の間を通りました。神お一人で約束を結んだのです。恵みです。神は、私たち人間の弱さ罪深さを知っていたのです。神は、こう言っていたのです。『人々の罪と不真実さのゆえに、私が裂かれる時が来る。その代償は、私が払う。』1800年ほど後、イエスは、十字架上で、私たちの代わりに裂かれ、裁かれたのです。「私が全てを払う」と神の側から約束を誓ったのです。揺るがない基盤です。。。1節、この真実な「御恵み、情け、あわれみ」があるから、直感に反することですねが、つまずいて罪を犯しても、赦しを祈り、神と回復出来るのです。。。この優しい強い恵みに感動し、心をいっぱいにするなら、勇敢に長く従う力もあるのです。
1節「私のそむきの罪、(2節)私の咎、私の罪、(3節)自分のそむきの罪、私の罪、(4節)私は罪を犯し、(5節)私は咎ある者、罪ある者」。特に3節後半「私の罪はいつも私の目の前にあります。」預言者ナタンの忠告の後、ダビデは、責任転換していないで、罪の責任を取ったのです。神に対して反逆罪を犯しているのを認めたのです。4節前半、ただ人に対してしたのではなく、「私は(聖い神様)あなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」神の愛を裏切ったのです。神を悲しませ、神の恵みを踏みにじったのです。。。他の人になすり付けないで、あなたも、罪の責任を取りなさい。自分の罪を正直に見て、その罪を告白し、それを悲しみ、罪を憎みなさい。
英国の有名な新聞が質問を出しました。「この世界の何がまちがっているのか?」この問いに対して、クリスチャンの作家であるG・K・チェスタトンがこう返事を出しました。「記者殿、私です。敬具。G・K・チェスタトン。」。。直感に反することですが、あなたも「私です」と言えますか?。。。私たち自身のいわゆる小さな罪をも悔い改めましょう。犯罪学で「割れ窓理論」(broken window theory)と言って、窓を壊すような小さな犯罪をも取り締まると、大きな犯罪を抑制出来ると言うことです。私たちの間違った心や態度から解決を見いだしましょう。
「赦し」をある幾つかの似た言葉によって、描かれています。1節後半「ぬぐい去って、(2節)洗い去り、きよめて、(7節)除いてきよめて、きよく洗って、(9節)ぬぐい去って。」繰り返されています。。。赦しを意味する言葉の一つは、「帳消し」と似て、金銭などの借金や債務が消えることを描いています。帳簿のいわゆる「棒引き」です。。。私たち豊かな命教会は、最近、すごい額の返済を全て帰しました。私は、はじめ、どうなるかな?と不信仰でした。ある時は、ぎりぎり。ある時は、お金がなかったから、休んだり。ある時は、他から助けを得たりしました。神の恵みと私たちの努力によって、今のいわゆる「帳消し」になっているのです。。。でも、第三者返済という制度もあるそうです。他の人が身代わりに払うことです。。。私たちの罪の負債は、主に神に対してですから、私たちの努力や、行いによって、償いきれないのです。ですから、値なしの恵みによって、キリストが十字架上で身代わりとなって、償ったから「赦して下さい」と懇願できるのです。「私の(いわゆる)債務を除き、帳消しにして下さい」と叫ぶのです。
7節後半「そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」恵みと赦しの結果です。これは何を描いているか、私たち信州人は、よく分かります。雪が降る時、普通汚れているところが、奇麗になります。すでに奇麗なところも、さらに奇麗になります。あの小さな罪も、大きな罪も、つまずいている私たちは、キリストの血によって「雪よりも白く」なり、神様から見て、奇麗で、清いと見なされるのです。。。子供の時、雪を見て楽しんで喜んだ以上に、8節、赦され癒されると、「楽しみと喜び」の踊りが帰ってくるのです。
2.10−19、従う力の恵み。
ある人は、こう言うでしょう。「私は、何回も同じ罪を犯してしまいます。もうむりです。」ここで、ダビデは、従う恵みをも願うのです。本当の神様と交わりをもっているキリスト信者は、続けてこう祈るのです。
10−12、「私の罪を赦すだけではなく、私の心の修正ではなく、10節『神よ。天地を劇的に造ったように、私にきよい心を全く造り変えて下さい。ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』(11節)聖い聖霊を豊かに与え、御霊によって、従えるようにして下さい。主よ、罪赦されるだけではなく、(12節)『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』」。。「苦しい時の神頼み」ではないです。「ゆるがない霊、喜んで仕える霊」を願っているのです。。。スコットランドの牧師であったロバート・マリー・マックシェーンはこう祈りました。「主よ、赦された罪人がなれる限り聖くして下さい。」
恵みによって、罪が赦され、力が与えられているダビデ王は、神へと回復されるだけではなく、人へと回復されました。確かに、ダビデは、罪を犯した時、家族や国に大きな苦しみを与えました。でも、それと同時に、確かに敗者復活したのです。。。あなたが恵みを真実に、更に体験すると、12節「仕える霊」が与えられます。
13節、私たちは、新たに教えることが出来るのです。回復された私たちは、「そむく者たちに」回復と従順の「道を教える」のです。そして、13節後半「罪人は、(神よ)あなたのもとに帰りましょう。」ダビデがこの詩編で回復の道を教えているように、私も、あなたも、新たに教えることが出来るのです。
小畑進牧師は、こう語りました。「いったい説法、説教とは何なのでしょう。人一倍品行方正な者が透(す)き通った規律を垂示(すいし)する(示し教える)ことだったのでしょうか?否。否々(いや)。人一倍罪深く、人並みはずれた前歴の者が、己の俎(まないた)の上にのせ、たたき台として、『われが如き極悪人にして赦されたり。さらば、皆さんが、どうして救われないことがありましょうや。臆せず、この神に帰り、よりすがれや』と語ることだったのではありませんか?」
「『宗教法人法案』が出された時のことです。キリスト教会は一致団結して反対に回りました。その理由は、その法案に、『前科のある者は宗教法人の役員になることができない』という一頁があったからでした。他の宗教の人々は、『…宗教法人の役員たる者は、清浄潔白でなくてはならぬ。したがって、前科者を役員から排除することは当然』としたのに対し、『とんでもない。宗教法人だからこそ、前歴がどうあろうと役員になれないことがあるべきでない。むしろ前科者が役員をつとめるくらいでなければ』というのがキリスト教の立場だったのです。」
14−15、私たちは、新たに讚美すること出来るのです。ダビデは、罪指摘された時、暗闇と失望に落ちたでしょう。どのようにして、ダビデは、この深い淵から舞い上がって歌うことができたのでしょうか?14節前半「救い」と赦し、その恵みを真実に体験したのです。ですから、14節「舌」は「高らかに歌う」のです。15節「誉れを告げ」伝道までするのです。
豊かな命教会で「花も」という素晴しいプレーズソングを歌います。一節「ここにいずみはわく、涙をすぎるとき、やがて実を結び、笑い声に満ちる。(折り返し) 花も雲も風も大海も、かなでようかなでようイエスを、空にひびけ、歌え魂よ、恵みを 恵みを 恵みを」「涙をすぎるとき、。。。歌え魂よ、恵みを!」
16−17にクリスチャン生活の聖く歩む秘訣が書かれています。真の謙遜です。。。ある伝道師は、英国のウェールスで多く用いられていました。でも、ベテランの牧師達は、こう言っていました。「彼は、まだ低くされてない。砕かれてない。」。。16節、ダビデは、外見的な宗教や慣習に捕われることは、危ないと言っているのです。長くクリスチャンいわゆる『やっている』と危険です。恵みを忘れ、高慢になります。その時、つまづきます!神が望んでいることは、先ず、形式的な宗教ではなく、17後半「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」全ての罪の根っこは、高慢です。それは、神に対して心が堅く、柔軟でなく、敏感でない心です。真に謙遜な心、自己主張が砕かれた心、頑固な高慢が謙虚な悔い改めの心に成る必要があるのです。良いことしても、それをも悔い改めるのです。。。宗教改革を起こした「九十五か条」の「1」で、ルターは、こう書きました。「1、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、〔マタイ4.17で〕『悔い改めよ』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを願ったのである。」悔い改め謙る心があると罪の力は弱まるのです。より聖く歩めるのです。。。多く用いられているニューヨークのケラー牧師は、一日に何回も、退いて、悔い改めの時を持ち、謙るのです。ですから、広く用いられているのではないでしょうか?
18−19、社会も、広く回復出来るのです。「どうぞ私ばかりか、この国、この民に御いつくしみを、また、堅固さを。」『社会がしっかりして、すこやかになりますように。』ダビデ王の罪によって、国家は、一番暗い危ない時にありました。しかし、回復されたダビデは、個人個人に教え、個人で讚美しただけではなかったのです。18節、都市の「エルサレム」、19節、公の礼拝にまでもインパクト残せるようになったのです。18節前半「ご恩寵」とありますが、1節の「恵み」のテーマに戻ります。恵みを真に体験する私たちは、個人だけではなく、教会、社会、隣人をも影響することができるのです。
ある人は「本当は、人は、変わらない」と言ってしまうのです。でも、ひどい罪を犯したダビデは、恵みと悔い改めによって、赦され、変わったのです。本や映画で有名なの「レ・ミゼラブル」に出て来る警察官ジャベールは、ジョン・バルジャンについて「しょせん人は変わらない」と言うのです。でも、ジャベールは、バルジャンの事を知らないのです。バルジャンは、高価なロウソクを盗んだ罪を神父さんに赦され、そのロウソクまで与えられたのです。深い恵みを体験したバルジャンは、劇的に変わるのです。彼の善良な人柄と言動が町の人々に高く評価され、市長にもなっていくのです。フォンテーンやコゼットを犠牲的に愛するのです。著者ヴィクトル・ユーゴーは、回復の福音を知っていたと確信しています。