Thursday, February 11, 2016

「大いに喜ぶ」1ペテロ1:6−9


哲学者、科学者、また熱心なキリスト者ブレーズ・パスカルは、こう書きました。「喜び、喜び、喜びの涙。」キリスト者の喜びとは何でしょうか?

不思議な事ですが、天地を創られた神は、人となりました。イエス・キリストのことです。これを最近クルスマスでお祝いしました。この方は、30年の間、待って、公の奉仕をはじめました。はじめのステップは、12弟子を選ぶことでした。その中の一人は、この1ペテロの手紙のペテロでした。ペテロは、イエスの一番弟子でした。最後の晩餐の時に、イエスは、ペテロにこう言いました。ルカ22:31−34「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」皆さんは、この話を良く知っていますが。ペテロは、失敗し、イエスを否みました。しかし、イエスの言葉を思い出してください。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロは、神の偉大な恵みによって立ち直ったのです。彼は、教会のリーダーとなり、最後に殉教もしました。彼が書いたこの手紙1ペテロを通して「兄弟たちを力づけて」います。。。今日のメッセージを一言で、アメージング・グレース〜驚くばかりの恵みです。それを体験すると、喜ばざるおえないのです。

1ペテロ1:1−5にあるよう、私たちも、神の恵みとあわれみ、イエス・キリストの十字架と復活、「朽ちない遺産」と「生ける望み」を体験したのです。このキリストの「アメージンググレース」(驚くばかりの恵み)に対する私たちの最大な返事は何でしょうか?先ず、伝道に夢中に成る事ですか?ルールをいっぱい守る事ですか?まじめに生きる事ですか?。。。いいえ!6節「そういうわけであなたがたは大いに喜んでいます。」8節にもまた繰り返されます。「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

パスカルは、この恵みの喜びについてこう書きました。「炎。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢者の神ではなく。確信、確信、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神、イエス・キリストの神。私の神、あなたの神。世界と全てが忘れられ、神のみ覚える。人間の魂の偉大さ。福音で教えられている方法のみによって神は発見される。喜び、喜び、喜びの涙。」。。。「喜び、喜び、喜びの涙!」。。。キリスト者の喜びとは何ぞや?

1. 6節後半、私たちの恵みによる喜びは、「試練の中」にあるのです。

ペテロは、こう書いています。「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのです。」「悲しみ」とありますが、信者たちが決して木や石でないのです。人間としての感情はあるのです。私たちは、苦悩に傷つけられ、危険を恐れます。貧しさは苦しみであり、迫害に耐えるのは厳しいのです。

ここの「やむをえず」(ギリシャ語でエイ・デオン)は、「仕方なしに」とか、「いやいやながら」ではなくて、「必要ならば」という意味合いがあります。「必要とあれば」試練に出会い、「必要とあれば」激しく悩むのです。光栄と試練、喜びと苦しみ、天のような金と地上の泥との混ざった人生です。「大いに喜ぶ」ことと、「悩む」こととは矛盾しないで、大いに喜ぶがゆえに悩み、悩むがゆえに大いに喜ぶという不思議な人生です。このように小畑進牧師が説明していました。

御利益宗教と違って、キリスト教は、十字架の苦しみの宗教です。先ず、私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみの恵みによって、キリスト者、神の子どもに成ります。私たちの行いや道徳によるものではなく、神の一方的な恵みによってです。しかし、この上もない恵みにあっても、キリスト者は、「試練の中」にある者です。キリストに従うことはイバラの道でもあります。「出る釘は打たれる」のです。「悲しむ」時もあるのです。でも、主の恵みは、あまりにも優れているから「大いに喜ぶのです。」恵みを思い巡らすと、試練の辛さは、喜びに変えられるのです。

インド、マドラスの司教がトラヴァンコールで、ある子どもに会いました。この子どもは、多くの方にイエス・キリストを伝え、彼女の静かな忍耐によって何人かの方がイエスを信じるようになりました。しかし、言葉に表せないような試練と迫害にあったのです。司教にあった時、体中に叩かれ傷の跡があったのです。司教がこう聞きました。「我が子よ、どうやってこれを耐えたのですか?」驚いた彼女は、彼にこう答えました。「司教様、あなたは、キリストのために苦しむことを好まないのですか?」

2.6−9、私たちは、「試練の中」にあっても喜べるもう一つの理由は、その試練に目的があるからです。

数年前の3.11の東北での9.0の大地震と10メーター以上の大津波が押し寄せて来ました。20,000程の尊い魂が亡くなりました。ある人は、聞くでしょう。“Where is God?”(神はどこにいたのか?)『神が愛と力を持っているなら、なぜ神はその災難を許したのか?』。。。しかし、試練に意義があるのです。私たちには、その苦しみの意義は全ていや全然分からないかもしれないが、無意味ではなく、意味や、目的があるのです。

試練は、クリスチャンでない方にとって理解できないと思います。しかし、この箇所は、クリスチャンに試練の目的を教えています。この箇所に、試練の三つの目的を書いています。

一、    7前半、試練は、信仰の尊さを証明する。
金を掘り出すと、必ずし純金ではないのです。金も「かねかす」や「かねくそ」を落とさなければ、金本来の光を発揮することが出来ません。ですから、高い熱の「火で精練」されるのです。ペテロは、こう言っています。「あなたの信仰は、その精練されながらも、朽ちる純金よりも『尊い』です。」

試練で磨かれた信仰は、金にひとしいどころか、金よりも尊いと断言しているのです!試練を通った信仰の前には、輝かしい黄金でさえも、何でも無いのです。私たちはそれほどの宝を抱いているのです。

ある方は、クリスチャンに「あなたは信仰をもっておられてよいですね」と言いました。我に返ったクリスチャンはこう思いました。「そうなのだ。僕は信仰をもっているのだ。それは実によいことなのだ。いや、それどころか、とても『尊い』のだ。」

この「精練された」と言う言葉は、神の賞賛を受けるためにテストする、と言う意味です。多くの場合テストは、人を落とすためです。しかし、神からの試練やテストは、神の賞賛を受けるためです。試練の最中に落ちるためではなく、失敗しながらも合格するためです。人の称賛を求めると不合格に成ります。しかし、十字架のイエスの愛とその称賛を仰いでいる私たちは必ず合格します。

二、    7節後半、神が誉め讃えられる。
この「称賛」と言う言葉は、「讃美」と言っても良いです。私たちが試練を通ってより尊くなり、合格すると、神が誉め讃えられるのです。しかし、神への「讃美」だけではなく、神への「栄光」とさらに神への「栄誉」ともなるのです。ペテロが似たような言葉を繰り返しているのは、『神の栄光』は(試練を含めて)全ての究極的な目標であると言っているのです。

ウェストミンスター大教理問答書のはじめの質問。「人間のおもな、最高の目的は、何であるか?」その答え。「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」試練の中にあっても、イエスの恵みを喜んでいれば、神を讃美することは可能です。試練も神の栄光となるのです。

三、  9節、救いに導く。
私たちは、過去、主イエス・キリストの十字架によって救われました。イエスが十字架上で代わりとなって罪の罰を受けて下さいました。また、私たちは、その救いを体験しました。私たちは、現在、聖霊さまの力によって、罪の力から救われています。聖化とも言われています。9節では、将来/未来の救いを語っています。私たちは、罪のある世から、天に救い上げられます。

父は、10年以上前に、屋根から頭先から落ちました。私は、病院で、意識がはっきりしていなかった父に詩編23編を読みはじめました。父は、いやがりました。なぜなら、詩編23編は良くお葬式で読まれます。父は、まだ天国に行きたくはなかったのです。私や母は、違います。できるだけすぐ天国に行きたいのです。なぜでしょうか?自分の罪、他人の罪は、多くの試練を生み出すからです。自分の罪を含めて、罪のある世から罪のない天国へと逃れたいのです。今は、自分の天に召される時ではないが、神の時に、その救いが必ず来るのです。試練の原因となる罪の存在から救出される時を期待しています。

無心論や進化論では、ただ宇宙は、ビッグバンによってはじまり、混乱の状態から、不思議にこの秩序ある宇宙と世界が偶然にできたと教えています。進化論によると、宇宙にも、人間にも、目的がないのです。すなわち、苦しみにも目的が無いのです。逆に、弱肉強食の世界で、物や人が死に、滅亡すると、進化論は教えています。しかし、聖書は、逆です。聖書は、全てに目的があると教えています。人間が車を作る目的があるように、神が人を創った目的がるのです。あなたの人生に目的があるのです。この箇所のように、試練にも目的があるのです。

3.8節、私たちの恵みによる喜び、試された喜びは、色んなふうに表現されます。

「二目惚れでした」と私は家内にあった時のジョークを言います。大きな両目で見て惚れました。普通は「一目惚れ」と言いますね。キリスト者のキリストに対する気持ちは、「一目惚れ」でもないのです。「ゼロ目惚れ」です。「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じて」いるのです。ペテロは、3年半、イエス様と一緒にいたのです。でも、信じたり、愛したりしたが、イエス様を3回も知らないと言って、否みました。しかし、私たちは、過去も今も一回もイエス様を見たことがないが、愛し信じているのです。私たちの「信仰」そのものも、とても「尊い」のです。

「ああ、どうせ生まれるなら、二千年前にパレスチナに生まれればよかった。あのころイエスを見ていたら、もっと恵まれ、もっと幸いで、もっと熱い信仰をもてた」などと言ってはなりません。「見ないで信じる者は幸いです」という主イエスは約束しているのです。

ペテロはこう言ったのではないでしょうか?『私たちは見ての聞いての信仰だった。けれどもあなたがたの信仰は全く純粋な信仰なのだ。なんと、あなたがたは主イエスに会ったこともなく、一言も耳にしたことがなかった。それなのに、それなのに、君たちは熱心だ』小畑進。ペテロが聖霊様に導かれてこう書きました。「あの人々は見てもいないのに信じて、生命がけで苦難と試練にあっても喜んでいる!」神ご自身を、見ないで信じ、生命をかけて喜ぶ私たちを、どれほどいつくしんでいるのでしょうか?

しかし、そこで終わらないのです。彼らは「ことばに尽くすことができない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」試練にあったのに、イエス・キリストを見たこともなかったのに、阿波踊りではないでしょうが、少なくても心は踊っていたのです。ペテロは、また言葉を重ねています。1枚「ことばに尽くすことができない」ほど喜んでいる。2枚「栄えに満ちる」ほど喜んでいる。3枚「おどる」ほど喜んでいる。

これはキリスト者のより深い,高い、広い喜びを意味しています。私たちは、確かにイエス・キリストを信じ、愛し、喜んでいます。しかし、聖霊様の特別な恵みによって、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」時があるのです。

天国に召されたロイド・ジョンズ牧師は、このように例えました。私たちは、人生の中でイエス・キリストと歩んでいます。確かな信仰、愛と喜びがあるのです。しかし、突然一方的な恵みによって、イエス様が抱き上げて下さるのです。「我が子よ、愛しているよ」とささやいて下さるのです。その時に、この世にないような、天国のような「喜び」を体験するのです。前は、信仰の確信がありながらも、疑ったのです。しかし、もう疑いは、晴れて、確かな確信を持つのです。。。個人としてこれを体験することができます。が、リバイバルを通して教会として体験できるのです。神が下す体験ですから、強引に体験できるものではありません。しかし、そのために熱心に祈り、イエス・キリストの十字架と復活の恵みを心に抱くと、それを体験する可能性は高まるのです。

14世紀ごろの思想家・聖職者、トマス・ア・ケンパスは、こう言いました。「喜びて神のささやきの鼓動を聞く人は、幸いなり。」「神のささやきの鼓動」は何ですか?試練のまっただ中にあっても、『あなたは私の愛する子』と言う神のささやきです。パスカルは体験をこう書きました。「炎。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢者の神ではなく。確信、確信、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神、イエス・キリストの神。私の神、あなたの神。世界と全てが忘れられ、神のみ覚える。人間の魂の偉大さ。福音で教えられている方法のみによって神は発見される。喜び、喜び、喜びの涙。」冷静な学者でもある、パスカルは、取り乱しているのです。なぜなら、恵みのキリストにあったのです。まじに喜んでいるのです。試練にあっても、キリストの恵みを知っているから、試練の目的をも知っているから、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」のです。キリスト者の阿波踊り!


この喜びがあると人々は、イエス・キリストに引かれるのです。テモシー・ケラー牧師はこう書きました。「私たちの人生に福音が働き、喜びという効果をもたらすと、証の莫大なエネルギーとなる。こんなに素晴らしいことを黙っていれるだろうか?(。。。でも)このエネルギーがなければ、私たちは悔い改め、そのエネルギーが流れるまで、神を求めなければならない。」。。。悔い改めましょう。主イエスとその福音を新たに信じましょう。喜び踊りましょう。

Wednesday, February 3, 2016

謙遜


シリーズ

謙遜と母
「謙遜」エペソ4:1−2
謙遜と十字架
謙遜の実践
「謙遜」

ヤコブ4:6、「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」

Thursday, January 28, 2016

謙遜と母


私の天国にいる母親(左、パトリシア・ジャンカー)は、論文のために謙遜(humility)についての調査をしました。それで、発見したのは、両国の日本も、アメリカも、謙遜の重要性を強調することです。日本の諺でこうあります。「実のるほど頭を垂れる稲穂かな。」プーリタンのトマス・ワトソンはこう書きました。「木が多く実っていれば、その枝は、低く垂れる。」似てますね。

ヤコブ4:6、「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」

Wednesday, January 20, 2016

謙遜の実践


笑う。自分がへまをおかす時笑えるのです。テリー・ラインダバルは、こう書きました。「笑いは、謙虚な人に与える神の賜物です。高慢な人は、笑えません。なぜなら、自分の気品を守らなければなれませんから。。。喜びのある人は、思い切って笑えます。なぜなら、自分のエゴにはあまり注目していないから。」

天国にいる母は、父の事を『とても謙虚な人』と言っていました。父は、今90才で、そろそろ天国に行くでしょう。父は、冗談が好きで、自分の失敗を笑えたのです。でも、とても印象的なのは、当時、礼拝の少し前の時間でした。父は(松本警察署真前にあった)松本聖書福音教会の前で、帚で清掃していたことです。今もはっきり覚えています。父は、謙虚でしたから、笑えて、仕えたのです。

祈る。過剰な自信あれば、個人も、教会も、進まないのです。祈りを通して、神を必要とすることを告白して、神に頼っているのです。個人のクリスチャンも、朝一番、一日中、祈るのです。教会として常に祈るのです。主の前に頭を下げて祈る男性ほど、素晴しい姿は無いと私は、思うのです。。。毎日、聖書を読こともも、御言葉の神の前に謙り、従う心を表しています。

感謝する。感謝の無い人は、高慢な人です。マイカル・ラムシーは「感謝という土には、高慢は、そだ育たない」と言いました。私たちは、恵みに値しないものですが、主は、恵みを注いで下さいます。毎日、寝る前に、全ての恵みは、神から来ると告白し、感謝するのです。

心配を主に委ねる。心配や思い煩いの根っこには、高慢があります。心配している時は、自分で十分であると思っているのです。不安を与える試練によって、神は、私に謙遜を教えているのです。試練がある時、謙虚に応答するのです。ルカ23:46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」謙虚な人がプライドを捨て、信仰を持って、主に委ねる事が出来ます。

注意を与える事が出来る。謙虚な人だけが本当本の意味で注意を与える事が出来るのです。先ず、相手から注意をも受け入れます。謙虚でなければ注意を受け入れられないのです。自分の心を知るためには、他の人の助言が必要です。。。でも、人に注意する時、自分が罪人だと忘れない事です。そして、注意と共に、福音を伝え、希望を与えるのです。

参考:Humility: True Greatness (謙遜:真の偉大さ)C.J. Mahaney (C.J. マハネー)

Thursday, January 14, 2016

謙遜と十字架



謙遜は、キリストの十字架抜きではありえないです。私たちは、十字架の素晴らしさを心に抱くのです。が、その素晴しさは、主の十字架の苦しみと謙りにあるのです。主は、裏切られ、責められ、バカにされ、つばかけられ、むち打たれ、そして、死刑にされました。このキリストの犠牲によって、私たちも、謙れるのです。十字架のふもとで、謙るのです。

ドナルド・イングリッシュは、こう言いました。「この世でのキリスト者の奉仕の源は、私たちを解放するために十字架につけられた復活された主にあって、またこの方によって仕えるのです。」ジャン・オーウェンは「罪が無くなるように、キリストの十字架で心を満たしなさい」と書きました。

ロイド・ジョンズは、歌を含めてこう語りました。「私を地まで砕く、ちりまで低くするのは、私が知っているものの中では、ただ一つ。そして、それは、神の子、特に十字架、を仰ぐ事です。
十字架に架かった
主イエスを仰げば、
たからも誉れも、
あくた(かす)と変わらず。
他によってでは無理。自分が罪人だと分かる時、十字架の神の子のみが私を救う事が出来る事が分かる時、私は、ちりまでに低くされます。十字架のみが謙遜の霊を与える事が出来ます。」

ジョン・ストットは、このように書きました。「歴史にあるもの、宇宙にあるもの何も、十字架ほど私たちを小さくして下さるものは無い。カルバリーという所を尋ねるまで私たちは、皆自分についての慢心した思いを持ち、特に自己義認があります。そこで、十字架のみもとで、私たちの本来の小ささを見て小さくなっていくのです。。。十字架は、けしてお世辞を言わずに、私たちの自己義認の土台を崩します。(十字架の前に)頭をかがめ、砕かれた心で立つしかありません。」

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」ガラテヤ6:14

Monday, January 4, 2016

「謙遜」エペソ4:1−2


11月、神田英輔先生が来た時、『たこ壷』について話したのを覚えていませんか?彼は、私たちや教会を『たこ壷』に例え、物事をただ狭く、正しく見えていない、と言いました。私は、そのメッセージの後、彼を問いつめました。「ジャー、解決は何ですか?」彼はこう答えました。「謙遜」。。。ですから、今日、私自身と豊かな命教会の為に「謙遜」について共に学たいです。

私は、30年ほど前、宣教師に成ったはじめの頃、「山上の説教」のはじめの「幸いである」と言う箇所から軽井沢の若い宣教師達にメッセージしました。「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者は幸いです。」自分の罪を認め、その罪を悲しみ、謙ることの幸いを語りました。当時、私は『自分の宣教の秘訣の一つは、ここにある』と感じていたのです。私は、今も、ここからほど遠いですから、また語りながらも、学んでいます。あなたと一緒に。

私たち皆がこのテーマを心に留める必要があるのです。ザビエルは、日本に来て、間もなくこう書いたそうです。「第一に、私たちが交際する事によって知り得た限りでは、この国の日本は今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般的に善良で、悪意がありません。」しかし、またこう書きました。「彼らは驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉心を重んじます。すなわち名誉は、富よりもずっと大切なものとされているのです。。。(日本人は)侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人々ではありません。」。。司馬遼太郎は、この言葉を重んじたそうです。「名こそ惜しけれ。」昔、名誉は武士にとって命より重い物であったのです。名誉を保つことで、どんな欠乏をも辞さないで、身体的精神的苦痛の最も厳酷なる試練にも耐えたのです。この考えには、光はあるでしょうが、陰は、あまりにも多いです。傲慢に結びつくのです。。。私と同様、日本人にもこの高慢の罪が根強いです。

ある”Good to Great(良いから最高まで)というリーダーシップの本にジム・コリンズは、こう書いています。5年間リダーシップにつして調査して、色々出て来ましたが、成功しているリーダーの特徴の一つに驚きました。謙遜でした。本当のリーダー達は「自分に注目が来るのを避け、他の方の貢献を誉める。ヒーローに成りたくない、棚におかれたくない。」

数人の日本人の牧師に日本人の“謙遜についての考え方”について聞きました。「日本人的な美学・美意識において、『謙遜』はとても重要です。『謙遜』ではないこと、すなわち、『うぬぼれ』や『高慢』を恥ずべき事ととらえる傾向が強いと思います。それが良いかたちで作用している場合には、まさしく『謙遜』とか『慎み』という日本人的な美徳として表れて来ますが、悪い形で表れると、自己卑下(じこひげ)やうわべだけ謙遜さを装うことになるのだと思います。神さまから与えられた賜物を、自己卑下によって否定的にとらえ、それを活かすことや感謝することを見失ってしまうならば、神さまの恵みを無駄にしてしまうことになるでしょう。。。日本で謙遜というと『控え目なつつましい態度でふるまうこと』となります。ですから、思っていることも口に出さない、正しいと思っていることでもそれを主張しない、表立って人に反対意見を言うこともしない、そのような人が謙遜であると思われます。『雉(キジ)も鳴かずば撃たれまい』という諺通りに生きる人が謙遜な人。聖書の教えてくれる『謙遜』とは違うようです。」

エペソ4:1、パウロは、私たちのキリストにある「召し」についてエペソ1−3で書きました。その後、その「召し」に相応しく生きる一番目のポイントを語りました。2節、先ず「謙遜。。。(先ず)謙遜。」謙遜がキリスト者の一番目の特徴です。高慢は、ほど遠いはずです。。。2後半〜16、謙遜があって、主イエスを中心にして、一致で来るのです。分裂、争いのある教会には、高慢がはびこっています。クリュソストモスは、こう言いました。「力を愛するほど教会を分裂させるものはない。」。。4:17〜5:21、謙遜があって、従順に、光の子らしく、キリスト者らしく、生きれるのです。高慢なら、誘惑に弱いです。謙遜な人は、御言葉に従うのです。。。5:21−6:9、謙遜があって、家族で互いに従い愛し合う事が出来て、真実な家族関係が成り立つのです。仕える心こそ謙遜です。。。6:10−20、自分の力に頼らないで、主に頼りながら、悪魔と戦う力があるのです。謙遜があって、やっと霊的戦いが出来るのです。

高慢や名誉心は、何でしょうか?目をそらして「たいしたものではないですよ」と言いながら、心の中で自分を誉めている事ではないでしょうか?建前では謙虚ですが、心の中では高慢なのです。名誉、尊敬に飢えている心の状態です。これは、人々から「あなたは、いい人ですね。大事、尊い、と言われるのに飢え乾いているのです。」人に会う時、なんとかして、この人から、尊敬と愛を絞り出そうとします。信仰や教義についても、自分は、いつも正しい、と思うのです。アドバイスを受け入れられない、学べない、注意を受けない、すぐ傷つくすぐ、バカにされていると思う、批判されるのに敏感なのは、高慢から来ます。自分にあまりにも注目している状態です。常に自分について考えていることが高慢です。。。痛いですね。

「謙遜」という言葉は、当時のギリシャの世界では、マイナスな意味があり、奴隷の態度だと思われました。当時、力や権力を大事にしていました。ギリシャの哲学者の道徳を見ると、謙遜という言葉は出て来ません。聖書では、この言葉は、270回出て来て、プラスな意味がほとんどです。当時の世界では、これは革命的でした。。。謙遜は、建前ではなく、内成る思いと心の状態であり、キリスト教の最高の徳です。神の子どもたちの特質であります。自尊心、高慢、自己主張、強引、自己宣伝の反対です。自分を低くすることであり、つつましさです。自分自身、自分の能力を評価しない、自分を信頼しないことであり、心にある優しさ、柔和さです。。。謙遜は、丁寧さ、親切さです。状況に満足している、自分自身が不完全であっても満足することです。自分を忘れる事、自分に注目しない事です。自分を高くしないし、自分を自己卑下もしない事です。自分について思わないし、話さないことです。自分はどうであるか、人はどう思っているかを気にしないのです。ニューヨークのケラー牧師は、自分を忘れている、とまとめています。これが謙遜です。。。でも、自分達は、これからほど遠いから、圧倒されませんか?どのようにして謙るのですか?

1.エペソ2:1−3、自分の罪を認め悲しむ。

1節「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」でした。1テモテ1:15後半、使徒パウロは「私は罪人のかしら」と言いました。。。神の特質、特に聖さ、を学ぶと、自分の罪が分かります。ジョン・カルバンは、こう言いました。「神に向き合うまでは、人は、自分を真実に知らない。そして、その(神に向き合った)後、自分と向き合う。」ジョン・オーウェンは、こう語りました。「人の魂を謙らせるものは、二つある。神を十分に考えること、そして、自分たち。神について、彼の偉大さ、栄光、聖さ、力、威光と権威。自分について、私たちの卑しい、みじめな、罪深い状態。自分の罪についての理解から離れないようにしなさい。そうすると、自分の高慢が見えます。」謙遜は、神の聖さと自分の罪を見て、正直に自分の評価することです。。。ジョン・ストットは「高慢は、全ての罪の本質である」と言いました。ヨナタン・エドワーズは「高慢が働く時、私は、愚かな、ばかげた、みじめな、盲目な、だまされたウジ虫だ」と告白しました。。。私たちは、素直に神を見つめ、正直に自分を吟味するなら、自分の罪深さが分かり、その罪を悲しみます。そして、謙ります。そして、自分の罪が見えるから、人を見下せません。

2。エペソ1−3、神の愛に抱かれる。神の愛に抱かれて、謙虚になれるのです。これが鍵だと思います。神に愛されているから、名誉や人の賞賛は、どうでもいいのです。私たちは、自分の罪を認め、謙虚になれるのは、神の賞賛と愛を受けているからです。

1:3−14、私たちは、4節、神に愛され『選ばれている』のです。チャールス・スポルジオンは、こう言いました。「神は、。。。私を選びました。。。そこまでの愛を持って私を見てくれる理由なんかは、自分には、見えないが。」私たちの行いは、いっさい関係無いのです。神の側から近よって、愛し、選んだのです。神は、私の道徳と関係なく、私を選んだのなら、それはただあわれみです。誇る事は出来ないのです。私は、この選びの愛によって抱かれているのです。

私のいとこのパテー・アレンは、男の小何人も生みました。が、それでも、中国人の赤ちゃんオリビアを選び、養子にしました。赤ちゃんが素晴しかったからですか?いや、足に障害があったのです。最近、さらに数人を養子にしたようです。。。神は、ただ一方的な愛によって、私たちを選んだのです。私が素晴しいからではなく。このようにして、永遠の永遠から愛されたのです。

2:1−10、私たちの道徳的なパーフォマンスによるのではなく、9節、ただ「恵みによって」、1節、死んでいた私たちが、6節、生かされたのです。ある人は、神様にこう話します。「クリスチャンになりたいですが、私の功績を見て下さい。」しかし、神様は、こう答えます。「あなたは、そう言うのは、私を知らないからです。あなたはあなた自身を知っていないからです。十字架の意味も知らないからです。」でも、逆に、私たちは、神様にこう話せます。「悔い改めます。恵みが必要です。あなたの恵みを受けるべきものではないです。でも、イエス様のゆえに、私を救って下さい。」私達は、恵みによって、信仰によって、生かされ、恵まれ、救われているのです。このようにして、神の愛に抱かれています。救いは、プレゼントなら、その為に何一つ努めません。ですから、9節、誇れないのです。しかし、逆に、「驚くばかりの恵み」に感動するのです。

ジョン・ニュートンの賛美歌『アメージング・グレース』の言葉を知っていますね。「驚くばかりの恵みなーり、この身の汚れを知れるわれに。」ニュートンは、奴隷船の船長でありました。そして、クリスチャンになり、牧師にも成って、その罪を覚えていました。「この身の汚れを知れるわれに。」「知れる」は、現在系です。今も、自分の罪を覚えていました。でも、彼は、確かに「驚くばかりの恵み」を体験したのです。ただただ恵みによって、あわれみによって、引き上がられ、生かされたのです。私たちも、過去現在の罪を覚えます。でも、その時、神の恵みを覚えるのです。十分に、十分にあります。。。この恵みと愛に圧倒されましょう。

2:11−22、キリストの十字架の償い贖いによって、13節、聖い神に近より、19節、他のあらゆる人種と国々のキリスト者と一つとなったのです。高慢を解決するには、イエスを仰ぎ、崇めるのです。主の十字架で、神の素晴しい愛が分かります。3:18−19、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」に抱かれると、謙遜に成れるのです。世界の国々を包み込む「広い」愛です。永遠の「長さ」のある止らない愛です。栄光の「高さ」まで引き上げる愛です。地獄まで代わりに行ってくれ「深い」愛です。。。私たちは、自尊心で、自分をいっぱいにしようとするのです。心理学は、それで良いと言うのです。。。イエスは、栄光に満ちていた方ですが、外見的な栄光を捨てたのです。これがクリスマスですね。自分を無にしたのです。ですから、私たちは、神から見て、尊いのです。私たちは、神にとって、キリストによって、世界の全てのなんの宝石よりも尊いのです。それを信じて、それに捕われれば捕われるほど、自分ではなく、神様を讚美せざるお得ないのです。どうして軽蔑されるのを気になるの?どうして外見をそんなに強調するの?名誉心は、どうでもいいでしょう?天の神があなたを愛し、どんな宝石よりも尊んでいますから。でも、自分を見るのではなく、主、その十字架、その愛を仰ぐのです。イエス様は、十字架上で全ての罪の代価を支払って、近くに引き寄せて下さいました。死ぬまで私を愛して下さったので、私は、その十字架の愛に包まれているのです。で、私たちは、誇らないのです。謙るのです。

今日聖餐式に預かります。が、ある女の子は、聖餐式を遠慮していました。そして、彼女の牧師は、近よって、”It’s for sinner”(「それは罪人のためだよ」)とささやきました。十字架は、それを意味する聖餐式は、キリストの愛は、謙る罪人のためです。あなたの罪を覆う愛は、十分にあります。あなたは、愛されています。愛に包まれているから、威張らずに、謙れるのです。

こんな私が神に選ばれ、引き上げられました。イエスが私の為に死なれたのなら、私たちは、この愛に安らぐ事は出来ます。強引でなくても、自分に注目をもって来なくても、誇る事はしなくても良いのです。自分の罪を謙虚に認める事が出来るのです。なぜなら、神の愛に包まれているからです。チルダーズ博士はこう言いました。「あなたは、あなたが想像出来る以上に罪深いです。でも、あなたは、あなたが想像出来る以上に愛されています。」

ジョン・ストット牧師は、こう書きました。「キリスト者の成長の全ての段階で、キリスト者の弟子化の全ての範囲では、傲慢は、一番の敵であって、謙遜は、一番の友である。」。。ザビエルの時代のオルガンテーノ宣教師は、日本人についてこう言いました。「かくも世界的に聡明で明敏な人々は他にいないと考えるに至った。ひとたび日本人がキリストに(謙って)従うならば、日本の教会に優れる教会は他に無いだろうと思われる。」。。でも、真の謙遜が鍵です。

Friday, January 1, 2016

「謙遜」



「謙遜の喜びは、この世の喜びの中で最も上品な、内成る、優れたものです。」ジョナサン・エドワーズ 

ヤコブ4:6、「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」