Tuesday, April 30, 2013

キリスト中心の説教



「福音中心、恵み中心、キリスト中心の説教が語られるべきだということ。恵み中心ということは、自分自身の生き方に焦点を点当てて、罪悪感や自分の行いからではなく、神からの愛によって私はきよくなりたいという願いを伝えることです。神の愛を深く知ることによって、人はきよくされるのです。。。。恵みによる救いが分かることが必要です。自分の努力や行いではなく、神が愛してくださっているという、神の愛によって動機づけられた人は、神が愛するように動きます。この恵みは、聖書全体に表されているので、教会がこれを発見するならば、新しい力になります。」
米国ミズーリ州・カベナント神学校の学長・ブライアン・チャペル

「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。1コリント1:22-24

Monday, April 22, 2013

「福音そのものの輝き」


「教会の福音伝道に無くてならないものは、長老教会の裃ではなく、福音そのものの輝きではありませんか。十字架と復活の福音は、それを聴く者に、罪の赦しと永遠のいのち、そして神の子とされる特権を与えます。この福音が率直に告げられ、受け入れられる礼拝は、神の恵みへの感謝の応答として、明るく楽しく、愛と喜びに満ちています。それこそ、救いを求める人々の必要に応えるものなのです。」村瀬俊夫

「日本の教会の現状と展望」より

村瀬師の翻訳The Discipline of Grace:恵みに生きる訓練 聖性の追求を果たすために: ジェリー・ブリッジズ, 村瀬俊夫: 本 最高の本です。

Monday, April 15, 2013

「グッドニュース!。。。」



「グッドニュース!クリスチャンにとっての素晴らしいニュースは、私たちの冷たく、かたくなな心のための神様の治療法があるということです。その治療法は、人の心を変える福音の力にあるのです。そしてその治療法は、私たちの再生だけでなく、私たちがキリストの似姿に変えられることをも目的とします。そしてその目的は、ただ単に罪の赦しを得させるだけでなく、私たちを真実に神を礼拝し、人々を愛する者へと変えるのです。」

『ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』ローマ1:15−17

Wednesday, April 10, 2013

「神を知っている人々は、何よりも先ず祈る人々であります。。。」



「神を知っている人々は、何よりも先ず祈る人々であります。そして、神の栄光のために彼らが抱いている熱心さと力とは、まず、祈りによって示されるのです。ダニエル書九章においてダニエルが『文書によって』、イスラエルの補修の期間が終わりに近づいていると予告されているのを知ったとき、そしてまた、自分の罪が、依然として、あわれみでなく、神の裁きを招くようなものであることを知ったとき、『顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願いを求め』る決心をし(三節)、エルサレムの回復のために、われわれのほとんどが知ることもできないような、はげしいと熱意、苦難と精神的苦悩をもって祈りました。しかも、神を正しく知ることの変わることのない結果は、神のために祈る力が与えられることでありーまことに、肉的緊張の唯一はけ口であり、救いとして祈りに注ぎ込まれる力であります。そして、神についての知識が増せば増すほど、力が増すのです。このことによって、われわれは、自分自身を試すことができます。われわれは、おそらく、不敬虔や背教に対して、公の行動をとるような地位にはいないでしょう。あるいは、年を取っているか、病人であるか何らかの意味で肉体的状態に限界があるかもしれません。しかし、毎日の生活の中で、われわれの周囲に見られる不敬虔や背教について、祈りことは、だれでもできます。しかし、われわれの中にこのような祈りをなす力が少しもなく、祈りの結果も少しもないなら、それはわれわれが神を少しも知っていないということの、確かな証拠であります。」ジェームズ・パッカー、「神について」より

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」1テモテ2:1

Friday, April 5, 2013

キリストと贖いに見られる偉大な愛



1700年代、アメリカ東海岸の”Great Awakening”(大覚醒ーだいかくせい)という素晴らしい信仰復興の頃、ジョナサン・エドワーズ師がリバイバルに多く用いられました。その祖父ソロモン・スタダード師がニューハンプシャー州のノースハンプトンの教会で聖餐式を行っていました。彼は、パンとブドウ液を手にして突然、福音の意味の素晴らしい啓示を頂きました。キリストと贖いに見られる偉大な愛を鮮明に見たのです。彼は、圧倒されたので、かろうじて聖餐式を進めることが出来たのです。

教会は、聖餐式を通して、キリストの素晴らしい贖いに感動しているのでしょうか?会衆が牧師を通してここにある福音への感動に導かれているのでしょうか?ただ頭だけではなく、心も、手と足まで。

『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』マタイ26:26−28

Thursday, April 4, 2013

恵みですね!



こないだ百瀬兄と私が教会の床下の工事をしました。百瀬兄は、10万円以上かかる工事を3000円の材料費でなおしてくださいました。恵みですね!

「この世は、教会と同じように、それとも教会以上に、良い働きができます。クリスチャンでなくても家を作り、貧しい人を食べさせ、病人を癒すことができます。この世には出来ない一つのことがあります。それは恵みを与えることです。」ゴードン・マクドナルド牧師

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」聖書・エペソ2:8−10

Wednesday, March 27, 2013

『キリストに導く道は何なのか?』


「したがって、より頼んでいるあなたがたには(キリストは)尊いものです。」1ペテロ 2:7

ある若手の説教者が尊敬する先生の前で説教していた。
終わった後、老いた牧師にこう聞いた。「私の説教はどうでした?」
「下手なメッセージでしたね。」と彼は答えた。
「下手のメッセージ?準備するために時間がいっぱいかかりました。」
「多分そうですね。」
「箇所の説明が足りなかったのですか?」
「とても良かったですよ」と老いた説教者がいった。
「じゃー、なぜ下手なメッセージと言うのですか?比喩が不適切で、理論が決定的でなかったと思うのですか?」
「説教としては良かったですが、下手なメッセージですね。」
「じゃー、なぜ下手のメッセージであるか説明して下さい。」
「なぜなら、キリストがそこになかったからです。」
若者はこう答えた。「でも、キリストは箇所に存在しなかったです。私達は、常にキリストを語るのではなく、箇所にあるものを語らなければならないのです。」
老いた男はこう言った。「若者よ、知っていないのか?全ての村、全ての町、全ての小村、どこからであっても、ロンドンに導く道があるのです。」
「はい」と若者が答えた。
「そうです。聖書全ての箇所から、聖書の大都市、すなわちキリスト、に道が続くのです。そして、愛する兄弟よ、あなたの聖書箇所に来る努めは、『キリストに導く道は何なのか?』と聞くことです。そして、キリストという大都市に走る道を説教することです。また、私は、キリストのない箇所を一つも見つけてないのです。そして、キリストに導く道が見つからなかったら、私は道を作ります。私は、垣根と水路を超えても、私の主のみもとに行きます。なぜなら、キリストの香りのないメッセージにはなんの効果もないです。」
チャールズ・スポルジョンによる例え

[元の英文: A young man had been preaching in the presence of a venerable divine, and after he had done he went to the old minister, and said, "What do you think of my sermon?" "A very poor sermon indeed," said he. "A poor sermon?" said the young man, "it took me a long time to study it." "Ay, no doubt of it." "Why, did you not think my explanation of the text a very good one?" "Oh, yes," said the old preacher, "very good indeed." "Well, then, why do you say it is a poor sermon? Didn't you think the metaphors were appropriate and the arguments conclusive?" "Yes, they were very good as far as that goes, but still it was a very poor sermon." "Will you tell me why you think it a poor sermon?" "Because," said he, "there was no Christ in it." "Well," said the young man, "Christ was not in the text; we are not to be preaching Christ always, we must preach what is in the text." So the old man said, "Don't you know young man that from every town, and every village, and every little hamlet in England, wherever it may be, there is a road to London?" "Yes," said the young man. "Ah!" said the old divine "and so form every text in Scripture, there is a road to the metropolis of the Scriptures, that is Christ. And my dear brother, your business in when you get to a text, to say, 'Now what is the road to Christ?' and then preach a sermon, running along the road towards the great metropolis—Christ. And," said he, "I have never yet found a text that had not got a road to Christ in it, and if I ever do find one that has not a road to Christ in it, I will make one; I will go over hedge and ditch but I would get at my Master, for the sermon cannot do any good unless there is a savour of Christ in it."] Christ Precious to Believers