詩篇1:2−3「まことに、その人は主のおしえ(御言葉)を喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
朝日放送の「大改造!!劇的日フォーアフター」の匠の一人は、”自然素材の伝道師”となっています。。。私は”キリストの十字架の伝道師”で、私のこだわりです。ガラテヤ 6:14前半「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」1コリント 1:23 「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」私は、特にキリスト者のために、神の恵みと主イエスの十字架を強調したいのです。これが私たちの生命線です。。。特に、右の「キリスト中心のメッセージ」、「日本の教会の現状と展望」&「人を造り変える福音の力」を読んでほしいです。
Thursday, October 19, 2017
デボーションの習慣
詩篇1:2−3「まことに、その人は主のおしえ(御言葉)を喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
Wednesday, October 11, 2017
「ダンケルクの奇跡」
歴史の大好きな私は、歴史の好きな長男、ジャシュア、と一緒に映画『ダンケルク』を見に行きました。とても良かったです。
1940年の5月、ヨーロッパの第二次世界大戦のはじめの頃です。ナチスは、すごい勢いで、西のフランスやベルギーのほうに攻めて行きました。ダンケルクという町を囲みました。フランス軍やイギリス軍を絶滅に追い込むことは出来たのです。でも、不思議に将軍達に反対し、ヒットラーが前進を止めたのです。
英国首相ウィンストン・チャチルは、イギリス本土への撤退を命じました。でも、せいぜい300,000人の中から20,000人が逃れると思いました。脱出の為に多くの大きな船から小さな船まで国民にお願いしました。渡った時、ドーバー海峡は、不思議に静けさがありました。
不思議に、ちょうどそのころ大陸のほうでは、嵐があって、ナチスの飛行機は、飛べなかったのです。後、ダンケルクの港や砂浜を攻撃しました。撃たれそうになった時も、イギリス軍の負傷者は、比較的に少なかったのです。結果的に、フランス軍人を含めて、335,000人の兵士が再び戦えるように無事英国に帰りました。
これは「ダンケルクの奇跡」とも言われています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?英国の方は「神に祈ったから」と言いました。
イギリスの国王ジョージ4世は、敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は、日曜日の5月26日を「国の祈りの日」(National Day of Prayer)にするように命じました。全国民が教会に行って祈ったのです。国王は、ロンドンのウェストミンスター・アビ教会で礼拝しました。。。そして、この祈りは、聞かれたのです。
イギリスの国王ジョージ4世は、敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は、日曜日の5月26日を「国の祈りの日」(National Day of Prayer)にするように命じました。全国民が教会に行って祈ったのです。国王は、ロンドンのウェストミンスター・アビ教会で礼拝しました。。。そして、この祈りは、聞かれたのです。
次の日曜日、6月6日(日)「感謝の日」を持ちました。それで、会衆と聖歌隊は、次の詩篇124編を歌ったのです。
「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエル(神の民)は言え。
「もしも、主が私たちの味方でなかったなら、
人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、
そのとき、大水は私たちを押し流し、
流れは私たちを越えて行ったであろう。
そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
ほむべきかな。主。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。
わなは破られ、私たちは助け出された。
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
日本にいる私たちは、日本の教会のリバイバルと、国の本当の祝福をこのようにぜひ祈る必要があるのです。
日本にいる私たちは、日本の教会のリバイバルと、国の本当の祝福をこのようにぜひ祈る必要があるのです。
参考:Christians Together : The Miracle of Dunkirk: 70 years on、National Day of Prayer at the time of Dunkirk 1940 | Anglican Ink 2017 ©
Sunday, October 1, 2017
「恵です!」 ガラテヤ1:1−5
16世紀頃(日本では織田信長の少し前の頃)ヨーロッパでは、個人も、家族も、教会も、社会も、すごく束縛されていました。当時の教会は「行い、儀式、お金によって、人は、救われる」と教えていました。教会の多くの借金の返済のために「免罪符」の販売をドミニコ会修道士テッツェルに任せました。行き過ぎた販売への批判が、マルテン・ルターによる宗教改革のきっかけとなりました。。。宗教改革の始まりは、今年で丁度500年に成ります。。。スイスの宗教改者ジョン・カルバンは、こう言いました。教会は「多くの悪性の病気にかかって苦しんでおり、これ以上治療をのばしておけず、治療が遅れる。」。。私たち個人や家族、教会や社会は、どうでしょうか?本当の意味で解放されているでしょうか?真実な喜びがあるでしょうか?生ける神を、人を純粋に愛しているでしょうか?。。。私たちに何が必要でしょうか?聖書全体、このガラテヤ書は「恵です!」と断言しています。。。宗教改革は、ラテン語の”Sola Gratia”という文言を使いました。『恵のみ』という意味です。恵みは、値しない者を救う神の愛です。私たちの教会で使う主な学び「5G‘s」のはじめのポイントは、Grace、恵です。私たちは、恵のみによって、救われ、成長し、変えられるのです。。。ガラテヤ書1:1−5は、恵について、こう語っていると思います。一、恵の源。二、恵の恩方。三、恵の目的。
1.
1−3、恵み:その源。
1−2、「パウロ」とあります。もちろんパウロは、源ではなく、ただの手段でした。でも尊い恵の手段でした。1節「使徒となった」は、2回繰り返されています。「パウロ」は、はじめは教会の「使徒」ではなく、逆に教会を迫害する宗教家でした。。。でも、ダマスコへの道で、1節後半「死者の中からよみがえった」イエス・キリストに劇的に出会ったのです。驚くばかりの恵みです。そして、神は、恵みの宣教のために人間「パウロ」という手段を用いました。
また、福音は、後、日本にも来ました。信長の頃、フランセスコ・ザビエルが来ました。この時期は、ある歴史家によるとChristian Era「キリスト教の時代」とも言われました。1610年頃のキリシタン人口は、60万人まで増えたと言われています。日本の人口の2割でした。。。後、明治維新の頃、ハンガリーから来たユダヤ系クリスチャン、バーナルド・ベテルハイム、が琉球王国(沖縄)に来ました。崎浜秀能と言う青年が、礼拝に出席し、信仰を持ちました。しかし、家族に迫害され、死にました。彼は、日本のプロテスタントの最初の信者と殉教者となりました。。。神さまは、手段(使徒、宣教師、信徒)を用います。恵みによって、あなたも、用いられるのです。
でも、1節、神が源です。パウロが信仰を持った後、何年かたって、トルコの南の方のガラテヤ地方で開拓伝道をしました。でも、このガラテヤの諸教会に宗教家が入って来ました。『パウロと彼のメッセージは、都合良すぎて、間違っている』とガラテヤの若い教会を惑わしはじめました。ですから、ガラテヤ書のはじめの挨拶から、パウロは、自分の使徒の権威を主張しはじめたのです。1節まん中「人間から出たことでなく、イエス・キリストと、父なる神によったのです。」パウロは、神さまから、直接、使徒としての任命と恵みのメッセージを受けたのです。人間が『こしらえた』ものではなかったのです。人間という手段をも用いますが、恵みのメッセージの唯一の源は、天地を造られた神、とその御言葉、聖書、です。
「皆には、宗教や道徳について自分で決める権利がある」と言います。ある面でそうです。でも、ナチスも、自分の信念を持っていました。『他の人種は、守らなくも良い、殺しても良い』という結論についたのです。神化論が言うように「弱い者は死ぬべきだ」と思っていました。日本も、第2次世界大戦「八紘一宇」(全世界を一つの家にする)という世界観で、アジアを侵略しました。信念です。でも、間違った信念でした。。。自分、家族、国家の信念より、私たちキリスト者にとって最大な権威は、生ける神の御言葉、聖書です。全てをそのフィルターで見るのです。宗教改革は“Sola Scriptura” (聖書のみ)を主張しました。私たちの絶対的な権威は、人間ではなく、聖書である、と宣言しました。。。このガラテヤ人への手紙は、聖書の一部です。「パウロ」の名前が書いてあって、100%人間の書いた物です。しかし、同時に、聖書は、100%神が導き書いたもの、と教会は確信しています。神は、聖書を書くために、人間という手段を用いますが、聖書の大元は、生ける神御自身なのです。
宗教改革者、マルテン・ルターがドイツの国会で問われた時、自分の書いた書物を間違っていたと認めるかどうかを迫られました。ルターに対して激しい敵意を持った人たちもいる中で、ルターは、次のように語りました。
「私は聖書と明白な理性によって確信するのでない限り、私は教皇と教会会議の権威を認めない。私の良心は神のみ言葉にとらわれているのであるから。 私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、安全でもないからだ。」。。聖書が私たちの絶対的権威です。人を恐れないで、生ける神を恐れ敬い従うのです。
ジェリー・ブリジェズは、このように書いています。「私たちは、他人が何を考えているかをあまりにも気にしているから、私たちは、キリストにある自由を楽しめません。人に裁かれ、噂されるから、ことをしたり、しなかったりするのです。」。。私たちは、人への恐れを捨て、聖書、キリストの恵みと自由にしっかり立つのです。
聖書にこうあります。3節「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」当時、「平安」(シャローム)は、手紙や日常の生活の挨拶としてよく使われました。中東では、今も、そうです。でも、パウロは「恵み」という言葉を挨拶に付け加えました。キリスト教の特徴です。人ではなく「父なる神と主イエス・キリスト」が恵みの源です。。。この恵み深い力ある三位一体なる神は、あなたを変えることが出来ます。ですから、誰よりも、何よりも、この恵の神を仰ぐのです。
2.4節、恵み:その恩方。
4節まん中「私たちの罪のために」とあります。あの恵み深いお方イエス・キリストは、罪に染まっている私たちのために働いて下さったのです。私たちは、自ら恵を要求できる何の権利もない者です。私たちは、真に神を愛さない、人を愛さない、自己中心な罪人です。裁きに値します。でも、真実に罪を認める人に恵が多く注がれます。ローマ5:20後半「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
恵は、神中心、4節前半、キリストが中心です。宗教改革のもう一つの文言は”Solus Christus” (キリストのみ)。イエス・キリストのみが私たちの真の救い主であり、主であり、王である、という意味です。イエス・キリストのみが私たちのために死んで下さった恵深いお方であるのです。。。文法的に、この文脈の全ては「キリスト」という言葉に、キリストという尊い恩方に、掛かっています。イエス様が全て行っています。この麗しい方は「御自身をお捨てになった」のです。神を愛さない、人を愛さない罪人の私たちをいわゆる「捨てる」べきです。でも、主イエスが代わりに「捨てられた」のです。私たちが捨てられないためです。神によって受け入れられるためです。限り無ない恵みを受けるためです。。。恩方とその御業を仰ぐのです。この恵の真実が深く心に入ると、あなたは、変わります。
これは、聞きたくない可能性があります。しかし、イエス・キリストは、他の宗教の創始者(孔子、釈迦、モハメット)とは全く違います。彼らは、けして自分のことを「救い主」とは言いませんでした。でも、イエスは「自分は、救い主である」断言しました。。。私たちは、溺れていいて、どうしようも無い状態です。人が「助けて!助けて!」と叫んで、湖で溺れそうな時に、「どうぞ」と言って、けして泳ぎ方のマニュアルを投げ込みません。イエス・キリストは、泳ぎ方を教えるためではなく、道徳を教えるためではなく、逆に私たちを救うために、代わりに生きて死ぬために来たのです。水泳教室の先生を送るのではなく、イエスみずから水に飛び込んだのです。そして、命を捧げたのです。キリストは、私たちの先生ではなく、私たちの救い主、いわばヒーローなのです。このようにして、4前半「今の悪の世界から私たちを救い出そうとした」のす。
日本で「世間体」があります。人は、束縛されているのです。でも、私たちは、日ごろ、「世間体」に捕われているかは、気づいていないことが多いです。あまりにも当り前のことでありすぎるために、日常的に慣習化している行動は、意識しないのです。ですから、なんらかの行動の後に、ふりかえってみて、他から指摘されて、はじめて、自分が「世間体」に捕われていると気づくのが普通です。私たちは、見えや、相手を喜ばせるような振る舞いや口先だけの言葉に捕われているのではないでしょうか?。。。また、私たちは、しばしば、神の愛を信じていると言いながら、条件つきの愛を信じているのではないでしょうか?やはり、救いや成長が、自分の敬虔さにかかっていると思っているのです。恵みによって救われているが、恵みによって生きることを本当は、信じていないのです。恵は、過去、頂いただけではなく、恵みによって現在も生かされて、恵みによって呼吸するのです。神は、私たちを恵みによって「救い出そうとして」解放し、喜びを与え、神と人を愛する者に変えようとしているのです。。。救い主を仰ぎ、見て、喜ぶのです。
3.
5節、恵み:その目的。
5節、恵の目的は、神の栄光です。「神に栄光がとこしえにありますように。」恵は、ひたすら神の栄光を表すのです。福音は、私たちがすることではなく、キリストがすることです。ただ恵みによって、信仰によって、神の側から、救うなら、人間が誇ることは、一切無いのです。栄光は、全て、神のものです。
スペインの十字架のヨハネは「Soli Deo honor et gloria」(神のみに尊敬と栄光)をと言う文言を使ったそうです。それと似て、宗教改革は“Soli Deo Gloria” (神のみに栄光)とも言っていました。作曲で有名なヘンデル、バッハは、音楽をサインした時、名前と共に「soli Deo
Gloria」と書いたそうです。バッハは、soli Deo gloria「SDG」の頭文字でサインしたそうです。恵を体験した彼らは、神の栄光のために作曲していました。。。恵みによって救われ、成長している私たちは、神の栄光のみのために生きるのです。
私たちの救いは、100%神がするものです。これが恵みです。が、私たちも、信じ仰ぐのです。宗教改革の5番目の文言は”Sola Fide” (信仰のみ)でした。私たちは、イエス・キリストを信じ仰ぐ事によってのみ救われ、神の子どもと成るのです。また、信じ仰ぐことを基盤として常に歩み、変えられて行きます。キリストとその恵深い十字架を仰ぎ崇める事によって、あなた個人、家族、教会、社会まで変えられて行きます。。。あなたは、イエス・キリスト、その十字架の御業を信じ仰いでいますか?。。。信じなさい。仰ぎなさい。新たに。
後にイギリスのリバイバルで多く用いられていたジョン・ウェスレーは、まだクリスチャンではなかったようです。彼は、大学の時代から自分を聖くしようと「ホリー・クラブ」で頑張っていました。アメリカに行って宣教師までしました。しかし、本当は、まだイエス・キリストに出会ってはいませんでした。ある日、ウェスレーは、ロンドンのアルダーズ・ゲート通りの家庭集会に集いました。そこで、ウィリアム・ホーランドがルターの「ガラテヤ書の注解書」から読んでいました。ルターはこう書いていました。「何?何もしなくても良いのですか?いえ、何も!ただ、私たちの知恵、私たちの義、私たちの聖さ、また私たちの贖いと成った方を受け入れるのです。」ウェスレーは、後こう言いました。その時「私の心が不思議に燃えました。キリストに頼ったのを感じました。。。その時、私が説明出来ないほどの力が私を被いました。その瞬間、私の大きな重荷が落ちました。私の心が平安と愛で満たされたあまり、涙があふれました。」読んでいたホーランドも似たことを書きました。「私に説明できないような力に被われました。すぐさま、大きな重荷が落ちました。私の心は、あまりにも平安と愛に満たされて、泣くほどでした。救い主を実際見たような気がしました。」ホーランドは、家々に回って、このルターの「ガラテヤ書の注解」をただただ読みはじめました。この福音は、このウェスレー、ジョージ・ウィットフィルドやジョナサン・エドワズを通して、大覚醒(だいかくせい)という素晴しいリバイバルを起こしました。アメリカやイギリスを変えました。
Tuesday, September 26, 2017
「何よりも必要」
ピュリタン(清教徒)は、これを"GOSPEL HOLINESS"(福音から来る聖さ)と言います。
1ペテロ 1:15、16、18、19「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。。。ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
Tuesday, September 19, 2017
Wednesday, September 13, 2017
詩編95 「礼拝とは何?」
詩篇95編を読みましょう。
私たちは、今日、どのような心で礼拝に来たのでしょうか?私は、このように祈る時あります。「天のお父様、私の心は、冷たく鈍いです。堅いです。」。。今朝、誰かと喧嘩して、礼拝に来て、まだいらだっているでしょうか?長い間、教会に来て、礼拝などがマンネリ化しているでしょうか?また、堅い不信仰の心があるでしょうか?。。。私は、ウツと戦う時があります。数年前、ウツと戦っていて、宣教師なのに、日曜日の朝起きると「今日は、礼拝なのか?人にあいたくないなー」と思いました。でも、恵みによって、聖書と祈りの時間を持ち、その罪を認め、恵みによって心を入れ替えて頂きました。そして、礼拝の時間になったら、大丈夫でした。
先ず、礼拝そのものを深く理解する必要があります。聖書で教える礼拝は、何でしょうか?。。礼拝について教えていることで有名なのは、この詩編95編です。この詩編は、ラテン語で「ベニテー」と呼ばれ、「あなたが来ます」という意味です。「ベニテー」は、1節の「さあ」というヘブライ語の言語で「来れ」という意味です。また、6節にも「来たれ」とあります。小畑進牧師は、こう書きました。「集まりには集まったものの、なお心の備えの不足を覚えるものは、『さあ、来れ』」と招かれている。」8節「心をかたくな」な人も、悔い改めて、来るようにと招かれています。いろんな方が礼拝に招かれています。。。でも、礼拝とは何ですか?言い換えれば、どのように礼拝するのですか?
1。7節後半—11、頑なな心で礼拝しないのです。信じる柔らかい心で礼拝するのです。
順番を変え、先ず、7節後半—11節のネガティブを語りたいです。前半の1−7の前向きの雰囲気から一転し、とても厳しい忠告に変わります。8節後半「あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」頑なな不信仰な心は、もちろん礼拝ではないです。真の礼拝をするには、「かたくな」な不信仰の心を捨て、柔らかい信じる心に変えるのが『はじめの一歩』です。。。ですから、7節後半で、「今日」という、緊急性を表す言葉を使っています。霊的に眠った人に「起きろ!」と叫んでいます。。。また、ただのアドバイスを与えているのではなく、命令形を下しています。8節後半「あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」警告をならしているのです。デンジャー!危険!レッドカード!
そして、罪を指摘する、裁きに終わる厳しい例えを使います。出アジプト記17章の「レフィディム」での出来事です。9節前半、イスラエルは、奴隷の状態のエジプトからの素晴しい神の救いの「わざを見」ました。大きな恵みに預かったのです。しかしながら、彼らは「荒野」で不信仰な心で神を、9節後半「ためした」のです。神は「水」を与えないと思い、民は「恩を仇で返し」たのです。神と言い「争って」、「つぶやいた」のです。そして、救われ愛された民、でも、「頑なな」民に対して、神は、正しく「怒った」のです。人間的に言うと、むかついたのです。10節、不信仰の罪を指摘し、11節「(約束の地カナンの)安息に入れない」と裁きの言葉を下したのです。。。神をけして侮ってはいけません。生ける神は、都合の良い神ではありません。正しく裁かれる神です。しかし、この厳しい言葉に神の深い関心と愛があるのです。神が深い関心がなければ、このようには忠告はしません。また、この例えを読んで聞いている私たちに回復のチャンスを与え、回復のドアを開けています。
ゆとり世代は「叱られ慣れていない?」と言われています。「SNSの普及があって、自分と似通った仲間とのつながりに多くの時間を取っておくために、違った世代や価値観を持った人々と接する必要がない人間に育ってしまったようです。そのため、年上の人間との関わり方が分からず、叱られると萎縮(いしゅく)してしまうのです。」仕事を止めたりもするようです。。。神のいわゆる「叱り」を避けないように、聞くように!神は、愛を持って、立ち帰るように、叱って、忠告しています。心を柔らかくし、聞き入れなさい。
私たちは、洗礼を受け、長い間教会に行っている可能性があります。真面目にルールを守っている、リーダーである、神学をいっぱい知っている可能性があります。しかし、本当のキリストを信じる信仰を持ってないか、心が礼拝に入ってない可能性があります。このような人に神は、厳しい愛を持って「目覚めよ!危険だよ!心から悔い改めて、キリストを信じなさい!」と警告をしています。
ジョナサン・エドワーズは、こう書きました。「もしあなたが一家の主人で、自分の子供が中にいる家の屋根が燃えていたとします。すぐにでも家全体が炎に包まれてしまうという差し迫った経験が、あなたには見えます。ところが、あなたが声をかけて呼んでも、子供は迫っている危険にまったく無頓着で逃げる様子もない時に、それでも冷ややかに、そして、無関心な口調で話し続けますか。置かれている危険な状態を教え、まだ猶予があるなどと思うことは愚かだと、熱心に語りかけ、できる限りの方法で一生懸命声を大にして呼ばないことでしょうか。そんなことは誰かに教えられないでも自然にそうするでしょうし、そうすべきでしょう。普段のどうでもいい会話と同じように何事もないかのように話し続けるなら、あなたの回りの人はあなたが気が狂ったと思うことでしょう。。。それならもし私たちが人の魂の救いを心底気にかけているなら、地獄がどんなところか理解ししているなら、救われていない者の状態を気づいているなら、我々の説教の聞き手は自分たちに降り掛かる危険を知らないが、私たちは彼らに迫り来る危険を分かっているなら、彼らが直面している悲惨さの恐怖を、強く、そして熱心に伝えないということは道徳的に不可能でしょう。その危機から逃げるように警告し、彼らに向かって大声で叫ぶことでしょう。」。。神からの警告を聞き入れましょう。「神へと逃れよ!」と。
あるピューリタンは、こう書きました。「皆の心に生まれながらの心の頑なさがあります。(はじめは)福音によって、柔軟になるとしても、その(福音の)手段を後に拒むなら、ろう(wax)と粘度のように、心は、生まれながらの頑なさに戻ります。ですから、私たちは、ひたすら神の近くにいなければなりません。全ての福音の手段を用いて、心の柔らかさを常に保つのです。最初に私たちの心を柔らかくした(福音の)手段を用いるのです。」
私たちが信実に礼拝出来ないように、しばしば心に不信仰という堅い岩があります。例えば、大雨の後のことです。山の中の村に援助が入れないように、大きな岩が道をふさいでいます。どかすためには、ダイナマイトが良いでしょう。でも、そのダイナマイトをただ岩の隣に置かないのです。岩の中深くまでドリルで穴をあけるのです。そして、ダイナマイトを奥まで入れて、爆破させるのです。。。福音を心の奥まで入れ、力強い働きをさせるのです。崇高な神は、小さなあなたのために死なれ、あなたは、愛されているのです。この神を崇めると、心が爆発するのです。癒されるのです。私たちは、聖書の福音の力によって、変えられるのです。真に礼拝出来るのです。
2.皆で礼拝するのです。1節「歌おう。叫ぼう!」2節「叫ぼう!」6節「ひれ伏そう。ひざまずこう!」他の人と共にするように、招かれています。アメリカは、個人主義の社会で、その考えは、日本にも入って来ています。でも、他のクリスチャンと礼拝しないと、自分にとって都合良いような信仰になって、キリスト教ではなくなり、鈴木教、林教、スミス教になってしまいます。個人の礼拝の時間も大事です。でも、私たちは、ただ一人だったら、バランスとった信実な礼拝はしにくいです。。。共に礼拝しましょう。
3、心を込めて礼拝するのです。1節「喜び歌おう。喜び叫ぼう。」2節後半「喜び叫ぼう。」日本では、キリスト者の集まりを「教会」「教える会」と言います。感情をあまり表さないのです。でも、理屈やただの知識で礼拝するように、招かれていません。私たちの神学が心に感情までに全身全霊に届くように、礼拝する必要があります。礼拝は、教えだけではありません。交わり、聖餐式、祈り、伝道。また腹の底から歌う感情のこもった讚美も大事です。神の偉大さとその御業を真に知ると、その真理を徹底させると、全身全霊までに伝わって行くのです。心がこもった礼拝と讚美を通して、私たちの知識は、生活にも徹底させられます。。。宗教は、ただの飾りになりがちです。『宗教をやる』と言います。オウムのような変な信仰があるから、宗教に「のめり込むな!」と言われます。確かに危険性は、あります。が、私たちは、家族や、教育や、仕事に懸命に取りかかります。生ける神は、それ以上に尊いのではないでしょうか?
*真実に心を込めて主を崇めると、逆に、人生にバランスがとれます。人生は、学校や、仕事だけではないのです。キリスト教が日本に入って来た前には、祭りの日だけが休みだったそうです。キリスト教会が入って来て、土日などは、休みになりました。私たちは「いっぷくして」安息日を覚えて、神を崇め、体を休ませるのです。聖書は「安息をとるように、人生にバランスをとるように」勧めています。先ず、神を心を込めて崇めて、体を休めて、優先順位が見えて、人生にバランスがとれるのです。
4、中身のある礼拝をするのです。ある方は「鰯の頭も信心から」と言って、真理は、どうでもいいと思うのです。雰囲気や儀式をとても大事にします。でも、礼拝は、それで終わってはなりません。聖書的に、神学的に濃いものでなければなりません。豊かな命キリスト教会では、先ず、神の啓示の御言葉からのメッセージがあって、次に、讚美があるのです。7節後半−11節のように、都合の悪い、聞きたくないものも聞き入れるのです。『ここの仏教、そこの神道、あっちのキリスト教が好き』と私たちは、自分の宗教をデザインしてはならないのです。聖書の存在する神をそのまま受け入て、ほんとうの礼拝が出来るのです。
礼拝の中身は、何でしょうか?小畑進牧師は、こう書きました。「まず、神への畏れ。しかしして、親しみです。このいずれをも欠かぬよう。そして、この順番を転倒せぬよう、です。」3節、生ける神は「主は大いなる神」であり、「大いなる王である」主権者です。その説明を4−5でします。主が全てを造ったから「山々の頂も主のものである。海は主のもの。」全てを治めています。そして、6節の応答があるのです。「私たちは伏し拝もう。」。。でも、神は、主権者だけではなく、7節前半「主は、私たちの神」です。海の底をも支配し、山の頂点まで支配する崇高な神は、ここでは「やさしくも、口笛を吹き、手を広げて羊を呼び笑顔をふりまく羊飼いとなっているのです!」遠いフォースではなく、人格的なお方です。人となられた神です。「私たちは、その牧場の民、その御手の羊である」のです。。。日本にいる私たちには、田んぼなら少し分りますが、この羊飼いと羊の例えは、ピンと来ません。簡単に言うと、神さまは、私たちを考えられないほど大事に大切にして下さるお方なのです。ヨハネ 10:11で主イエスは「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」そこまでするなら、安心して、崇めることが出来るのです。十字架を見て下さい。私たちは、人格的に犠牲的に愛されています。ですから、神の愛に感動し、喜び歌い叫ぶ、伏し拝むのです。
*礼拝の全てが大事です。ある人は、こう言うでしょう。「私は、小岩井先生や、誰々サンのメッセージを聞きに来ました。遅れて来ても良い。早めに帰っても良い。」が、常に遅れていれば、あなたは、礼拝を理解していません。メッセージからの情報だけではなく、礼拝全体があなたを変えます。真の礼拝の全てによって、あなたの人生は、変わり、形作られます。。。英語の礼拝という言葉’worship’は、’worth-shape’(尊さと形作る)の2つの言葉からで来ています。聖書を通して神の尊さを学び仰いで、私は、形作られていくのです。
5、謙虚に礼拝をするのです。6節「伏し拝み、ひれ伏そう。ひざまずこう。」かたくなな高慢な心では、礼拝できません。自分は、高すぎるのです。ですから、カトリックの神父さんが言ったように「下る」のです。自分の罪を深く知る、ただの恵みによって救われていることを知る、十字架のふもとに謙る、謙虚な心で礼拝するのです。。。”It’s not about me.”「私中心ではないです。私が主役ではないのです!」聖書は、人間中心ではないです。創世記1:1「はじめに神。。。」礼拝も、人間中心ではないです。神中心です。「下り」ましょう。
奈帆の結婚指輪の為に私の母は、母のお母さん、私のおばあちゃんの結婚指輪を下さいました。例えば、奈帆と私が『鑑定してもらいましょう』と言います。宝石屋さんは、初めは、ただ眼鏡を入れて、ただ見ます。でも、不思議に少し時間がかかるのです。彼は、眼鏡を落とし、裏にある本を調べはじめます。そして、息が荒く成りはじめます。初めは、冷静に調べていました。でも、今は、感動しているのです。そして、こう言います。「これは、何々のダイヤで、この金は、何何です。」私たちも感動しているのです。喜ぶ、叫ぶのです。。。神を、その恵みを、さらに体験すると、心が動き、讚美せざる終えないのです。
どのようにして礼拝に預かっていますか?心が冷たく、鈍く、堅い時ありませんか?神御自身に、その福音に感動し、礼拝していますか?私たちは、今、神中心、福音中心、キリスト中心、十字架中心の礼拝に招かれています。
どのようにして礼拝に預かっていますか?心が冷たく、鈍く、堅い時ありませんか?神御自身に、その福音に感動し、礼拝していますか?私たちは、今、神中心、福音中心、キリスト中心、十字架中心の礼拝に招かれています。
Tuesday, September 5, 2017
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