バイタルは、英語で’vital’ で、 動詞では、元気や活気に溢れた満ちたさま、と言う意味です。名詞は、医学用語で、英語のバイタルサイン(vital signs) の略で、重要な生命兆候、例えば、体温、脈拍、呼吸、意識、血圧の重要な兆候のことです。。。と言う事は「バイタルな祈り」は、活気に溢れた重要な祈り、という意味です。。。今日の箇所では、祈ることは、極めて重大であり、その祈りが天からの活気、また、リバイバルを与えることを教えています。使徒の働き4:31「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされた。」(写:レンブラントの『祈るヒエロニムス』)
誤解がよくあるようですが、リバイバルとは何でしょうか?あるいわゆるクリスチャンは、聖書を信じないで、リバイバルを避けるだけではなく、無いと言います。『間違いです。』あるクリスチャンは、リバイバルは、一種の伝道集会であり、計画的に出来る、と言います。『ノー。』あるクリスチャンは、リバイバルは、おもに奇跡や、異言や、癒しだ、と言います。『違います。』神は、いつも同じように働かないのです。リバイバルは、神の尊い恵みによって与える神の臨在とその体験、と言っていいと思います。。。神は、唯一で、全てのものと区別出来ますが、同時に、どこにでもいらっしゃいます。神の偏在とも言います。。。私の存在は、今ここにあります。あなたは、私を見て聞くことが出来ます。しかし、メッセージの後、私があなたに近よって、一緒に座って、顔と顔を合わせて話し、深く分かち合う事ができます。リバイバルは、神は、特別に御自身の臨在を親しく下さる時です。そして、チム・ケラー牧師は、こう言いました。”Bother God until he brings his presence down.”「神御自身の臨在が下ってくるまで、神をわずらわせなさい。」神を尊敬するのも大事ですが、私たちは、本当に神様の子供ですから、しつこく神の尊い臨在を願うのもとても大事です。
使徒の働き4:23の前半「釈放された」とあります。が、初代教会は、はじめから迫害されていました。。。日本の教会史は、迫害の歴史でもあります。今も「ソフトな迫害」でも確かな迫害があります。自分がクリスチャンであると、家族、友達、職場の同僚、近所の人たちに言えない時があります。なぜなら「出る釘は打たれる」のです。。。でも、切実に祈るもう一つの理由があるのです。それは、今の日本の教会の大変な状況です。東京のような都会は、よりマシですが、松本のような離れた所は大変です。200人に1人以下がクリスチャンで、200人に199人以上が永遠の裁きに向かっているのです。。。どうすれば良いのでしょうか?多くのお金を使う?新しい方法?伝道集会?有名な人の証し?。。。この箇所では「バイタルな祈り」の重要性を教えています。
23節「ふたり(のペテロとヨハネ)は、仲間のところへ行った」とあります。教会に「残らず報告した。」この使徒2人は、いわゆる「プロ」の他の使徒に相談しに行ったのではなく、教会の皆に話しに行って、皆と一緒に祈ったのです。。。キリスト教は、プロに任せるグループではなく、皆で祈り動くグループです。これは、宗教改革の言葉で「万人祭司」と言います。一人一人がイエスの御名によって直接神に祈り、一人一人に賜物があって奉仕出来るのです。。。「ジャン先生、ダビデ先生」と言わずに、先ず、直接神に祈るのです。また、この箇所のように、皆で祈るのです。
明治維新の頃1858年9月、6人のビジネスマンが、ニューヨーク、マンハッタンで祈りはじめました。1年たったら、1万人のビジネスマンが「神様が尋ねて下さるように」とそこで祈っていました。彼らは「プロ」ではなかったです。。。あなたも、皆で、イエスの御名によって、祈れます。
24節 「これを聞いた人々は」自分の皆の弱さを感じたので、一番大事な事をしたのです。神に祈ったのです。「みな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。」互いに相談する事も良いですが、神と相談する事が一番です。。。その祈りの内容を見ましょう。先ず、讃えたのです。次に、願ったのです。
1.
24−28、バイタルな祈りは、神を讃えることからはじまります。
24節「『主よ。』」29節「『主よ。』」と、言って、先ず、神中心に祈りました。主の祈りのように、先ず、誉め讃えたのです。「御名が崇められますように。」英語の聖書NIVの訳では、24節は、「Sovereign Lord」で、ただ「主」だけではなく、主権者なる主、全てを治める主、という意味です。。。*リバイバルは、人間が起こすものではなく、神の主権によるもので、神が与えるプレゼントです。人間の作力や計画で起こすものではないです。。。でも、リバイバルが起こるように全てを治める神に祈るのです。
次に、24節後半、神の力を認めたのです。聖書のはじめ、天地創造から、讃え祈ります。24節後半「『あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。』」ここで、神の万能性が告白されています。。。どんなに日本は、伝道のこんなんな国であっても、主は、御心のままに、何でもお出来に成る方なのです。天地を造られたのなら、日本にリバイバルを起こす事は「朝飯前」です。。。力に満ちている方に祈るのです。
ロイド・ジョーンズ牧師は、若い頃、イギリスの女王の医師の助手でした。間もなく彼は、ウェールスで宣教師の働きをはじめ、後彼は、ロンドンの教会の牧師に成りました。今も、世界中で彼のメッセージが慕われています。でも、彼の祈りを聞いたら、後のメッセージを聞かなくても帰れたと、聞いた事があります。彼の祈りは、極めて神中心です。”Almighty and ever blessed God….”「全能なる、永遠に誉め讃えられるべき神よ、あなたの聖なる御前に続け祈ります。神よ、あなた様に続けて感謝し、御名を賛美するために来ます。。。」「全能なる」神の主権と力を覚えて祈りましょう。
そして、25−26、聖書に満ちた祈りです。創世記にすでに触れ、さらに後の旧約聖書の予言が引用されています。25節「『あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。』」これは、詩編2編です。。。キリスト者は、反対されるのは、先ず、私たちの神様が反対されるからです。25節後半「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。(26節)地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」神様が反対されれば、私たちも、もちろん反対されるでしょう。。。聖書からクリスチャンの真実な体験を学ばなければなりません。カルト、新興宗教や御利益宗教は、人生をバラ色のように教えますが、聖書は、こう言っています。ヨハネ16:33「あなたがたは、世にあっては患難があります。。。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」聖書は、真実で、人生は、ハードだと、教えます。ですが、勝利者イエスがいるのです。。。聖書に元ずいて真実に祈るのです。
20世紀の初め頃、韓国は、日本の弾圧の下にあり、仏教と儒教の支配下ありました。教会は、とても小さく、暗かったです。それで、幾人かの宣教師が聖書の学びと祈りのために、数人の韓国の牧師を呼び集めました。その一週間素晴らしリバイバルが起こりました。今も、韓国の教会は、のびのびと成長しています。でも、祈りとともに聖書の学びがありました。そうです。御言葉による祈りが大事です。
続けて、25−26の聖書の箇所を「あなたの聖なるしもべイエス」とキリスト中心にして適用します。。。*リバイバルには、悔い改めという大事な要素があります。ヨハネ 16:8「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世に(私たちに)その誤りを認めさせます。」先ず、神である聖霊は、教会に深い罪意識を与えます。。。でも、それと同時に、イエス・キリストに対する信仰が与えられます。ロイド・ジョンズ牧師は、こう語りました。*「リバイバルは、何よりも、神の子、主イエスキリストの栄光が讃えられることであります。キリストを教会の生活(life、 生命)の中心に回復する事であります。」深い悔い改めが与えられ、全てにおいて、キリスト御自身、福音そのものが回復されるのです。。。キリストの御名によって、キリストを中心にして、祈るのです。
更に、27—28では、十字架中心に適用します。主を十字架につけて、人は、悪を働きましたが、それをも神の許しと摂理であったのです。「ポンテオ・ピラトは、異邦人。。。といっしょに、。。。イエスに逆らってこの都に集まり」十字架につけました。。。が、しかし、でも、28節「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」人の責任と神の主権両方が働いたのです。「人があなたを牢屋に入れましたが、主がそれを許し、いや『定め』たのです。」。。また、神の意図した計画は、キリストの苦しみによって、私たちが救われる事です。イザヤ53:10「しかし、彼(キリスト)を砕いて、痛めることは主のみこころであった。。。主のみこころは彼によって成し遂げられる。」文脈を見ると、5節、それは、私たちに「平安(と)いやし」が与えられ、10節、神の「子孫」となるためでした。。。人の策略は、メシアを十字架につけ、砕き殺し無くす事でした。が、神の計画は、十字架を通して、御子なるイエスを砕くことによって、私たちを「いやし」、回復することでした。。。砕かれたイエスの十字架を仰ぎ崇め祈るのです。
アメリカ東海岸のジョナタン・エドワーズ師は、若い頃の体験をこのように語りました。「ある日、私は、黙想するために、父の牧草地で歩いて、祈りはじめました。そして、私の心の中に、言葉で表せない、神の栄光の恵みのこころよい実感が来ました。私は、突然、両方をこころよい結びつきで見る事が出来ました。神の威厳と神の柔和さが共に結ばれていました。それは、畏敬のあるこころよさであり、柔和な畏敬であり、聖なる柔和さであったのです。」。。。神は、主権者で、全能なる神です。でもと同時、十字架の神です。私たちの代わりに死なれた、柔和なお方です。天の父にイエスの御名よって、御霊の注ぎのために祈るのです。
2.29−30、バイタルな祈りは、切実な願いへと移ります。
先ず、私たちは、御言葉に立って、神を讃えるのです。神の摂理と力、キリストとその十字架を覚えた後、私たちは、お願いしたいのです。29節「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になって」下さい。正直に、祈るのです。主の祈りのように「悪からお救い下さい」と願い祈るのです。。。「助けてー」と言う祈りほど良い祈りはない、とJIパッカー博士が言いました。
でも、その願いは、自分の為よりも、人の救いのためです。29節後半「『みことばを大胆に語らせてください。』」彼らは、弱さを感じながらも、けして引きこもらず、御国の前進のために、伝道のために、いや「大胆」な伝道のために、祈ったのです。。。彼らは「バイタルな祈り」を祈ったのです。。。私自身は、もちろん個人として祈っています。でも、私たちは、教会として祈っています。リーダーは、相談する前に、結構祈ります。婦人会もしっかり祈っているようです。礼拝の準備の時、けっこう祈っています。でも、*リバイバルには、驚くべき祈りが捧げられるのです。より切実に必死に取りなすのです。
でも、あなたは、リバイバルが起こされるよう、天の窓を開け、御霊を注ぐように神に祈ってことありますか?私たちは「バイタルな祈り」を完全に無視しているのではないでしょうか?私たちは、聖霊の権威を忘れているのではないでしょうか?私たちは、自分と自分の働きを中心にしちゃっているのではないでしょうか?私たちは、一番効果的なものを忘れています。もちろん、いろんな試みのために祈って下さい。牧師・宣教師の為に、日曜日のメッセージ、各組織、伝道集会のために祈って下さい。でも、その前に、その後に、リバイバルの為に切実に祈り願いましょう。主は、リバイバルによって、私たちが50年に出来る事を1日して下さいます。。。私たちがただ頑張る時、そのぐらいの結果しかありません。主に祈る時、主の素晴しさに応じて結果を下さいます。祈りましょう。
1700頃、アメリカ西海岸の牧師コットン・マーサーは、自分の命の短さを感じたのでしょうか、彼は、晩年最後の400日、毎朝起きたら、その一日中を祈りに徹しました。でも、それで終わらなかったのです。神が素晴しく尋ねるようにと、彼は、祈りのセルグループをいっぱい作りはじめました。その結果素晴しいリバイバルが世界中に広がった、と言われています。。。祈りましょう。
30節「『。。。不思議なわざを行わせてください。』」リバイバルがあると、私たちの信仰は、知識で終わらなくなるのです。*私たちは、リバイバルによって、頭で知っているものが、恵みによって心に下り、体験と成ります。私たちは、すでに、神について、キリストにある恵みについて、ある程度知っています。しかし、御霊が下ると、神御自身、キリストにある遺産、その尊い愛、復活と栄光を深く実感し、キリストが私たちの心に教会に豊かに住み、神の満ち満ちたものに満たされるのです。。。そして、人々は、それによって、神の存在に引き寄せられます。
3.31−37、バイタルな祈りは、素晴しい結果をもたらします。
最後に31節、今日の箇所のポイント、祈りの素晴しい結果です。「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動い」たのです。「一同は聖霊に満たされ」たのです。「神のことばを大胆に語りだした」のです。*キリスト者が真剣に祈り、リバイバルが起こされる時、大胆な伝道が行われます。さらに、32節「心と思いを一つに」されたのです。また、33後半、「大きな恵みがそのすべての者の上にあった」のです。恵みが豊かですから、34節「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった」のです。体のニーズまで。。。
1700年代の前半、イギリスに大覚醒(Great Awakening)が起こされました。日本語で「無血革命」と言いますが、イギリスの革命の時、フランス革命のように、血が流されなかったのです。なぜなら、フランスでは、貧しい人々の間では、富裕層にたいする憎しみが多くて、その結果、多くの血が流されたのです。が、イギリスでは、キリストの福音が貧しい大衆の間に広まって行ったから、心にある憎しみが取られたのです。社会が守られ、祝福されたのです。。。リババルによって素晴しい社会的結果もあるのです。
メッセージの最後に来て、外国の祈りとリバイバルの例えばかり使いました。が、日本の祈りとリバイバルの例えは一つも無かったです。でも、この教会がリバイバルの例えと成るように、私は、願っています。。。ですから、今から祈りましょう。