私自身の聖化の欠如だと思って来たものは、実際は、常に義認にとどまっていないことから来た欠如です。義認と言う軸を見失うと、恐れ、不安と心配に圧倒されます。「現在の自分の霊的功績と別に、イエスにあって神が自身を愛し受け入れられていることを確信もって無いキリスト者は、潜在的に非常に不安な人である。」リチャド・ラブレス
歴史的にリバイバルが起こった時には、必ず義認の真理が蘇ったのです。「活気(vitality)、力と自由は、自分の聖化を自分の義認に基礎を置く事から来る。」テモシー・ケラー
説教にも繋がります。ケラー牧師は、自分の体験から語ります。「毎回、私が立ち上がって説教したとき、私が人に好まれることに必死だと気がつきました。(しかし)私は、人々を見て『あなたは私の平安ではない。あなたは、私の義ではない』と思い出さなければ成りませんでした。」
宗教改革者は、誘惑される時、これを勧めていました。『誘惑のただ中にある時、信者は、自分を見てはならないこと。自分を見たりする時はけして安心(security)はない。神の義認の約束を信じる時、救いの確信を得、安心がある。キリストのみを仰ぎ、主のみにすがること。』
宗教改革者は、誘惑される時、これを勧めていました。『誘惑のただ中にある時、信者は、自分を見てはならないこと。自分を見たりする時はけして安心(security)はない。神の義認の約束を信じる時、救いの確信を得、安心がある。キリストのみを仰ぎ、主のみにすがること。』
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