ある牧師は、他の牧師のメッセージを聞いて「彼のメッセージは、ユダヤ教のラビでも語られたのではないか?」と思いました。なぜなら、何一つキリストに触れてなかったからです。でも、私たちは、キリスト者です。さらに、私たちは、キリストを中心とする福音信仰(evangelical)です。
マスターズ神学校のステイブン・ローソン博士(ダラス神学校、改革派神学校)は、詩編の講義でこう言っていました。「私たちは、十字架にある神の栄光を語るのです。」彼は、あの『説教の王子』といわれているチャルス・スポルジオンを引用し「全ての箇所はキリストに導く」(”All texts lead to Christ”)と言いました。更に、1コリント2:2を引用しました。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」
御言葉にこうあります。ルカ24:27「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」新約聖書はもちろん、旧約聖書も、キリスト中心に語るべきです。
詩編は、150回ほど新約聖書で引用されています。初代教会のはじめのメッセージは、ペテロの使徒2章のメッセージでした。ペテロは、ヨエル記の引用の後の主な引用は、詩編から来ました。そして、キリスト中心にそのメッセージを語りました。
私たちは、どうして(なぜ、どのようにして)詩編をキリスト中心を語るのか?を見て行きたいです。
色んな角度から、キリスト中心に詩編を理解する事が出来ます。
(1)ある詩編は、詩編22編のように、明確に、イエスとその苦しみを語っています。
(2)詩編は、明らかに、神中心です。でも、ユダヤ教と違い、私たちは、三位一体なる神を信じています。神は、人格的であり、人となられた神です。それは、イエス・キリストです。
(3)詩編は、他の方法で、キリストを伝えています。ダビデ王(半分の詩編はダビデと関係ある)、神殿、犠牲、「岩」(「隠れ場」)は、全てキリストの形と予言です。
聖書研究の方法で4つの段階がキリスト中心に語るように教えています。
(1)
はじめのステップは、観察(observation)です。
一、
背景などを理解したいです。どんな必要や問題があったのでしょうか?
二、
その箇所の文脈、繰り返された言葉、接続詞などを見たりします。
三、
特に詩編は、平行構造(英:parallelism、対句法、並行法)を用いています。例えば、同じ事を繰り返す平行構造は、詩編2:1です。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。」対象的な形をとるのは、詩編1:6「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」
四、例えが多くあります。メッセージの時、それを活かしましょう。
五、一つ人の詩編は、多くの場合『主題、その展開、結論』という構成になっています。(2)次は、解釈(interpretation)で、観察に立って、解釈をするのです。仲介書も助かります。ある詩編では、キリストがこの段階で語られています。
(3)三番目は、総合関係 (correlation)で、神学的に、また聖書の全体のテーマをこの箇所と照合せることです。聖書の主なテーマは、もちろん、キリスト御自身です。『贖いの歴史』(redemptive history)の天地創造の神との交わり、人間の堕落、キリストによる贖いを含める事もできます。
(4)最後の聖書研究のステップは、適用(application)で、この段階で、この箇所が表すキリストの福音を生活の全てに適用するのです。
ヘセド
私は、詩編からキリストを語る一番大事なポイントは、ヘブライ語の『ヘセド』(hesed)という言葉から来ると思うのです。詩編だけでも120回以上繰り返されています。ヘセドは、「真実な愛」(英:loyalty love)という意味です。他の言葉とも、関係を持っています。あわれみ、恵み、親切。ヘセドは、人間の恵みについて語ってないません。必ず神の恵みを指しているます。
聖書の神、ヤウェ(日本語の聖書では活字の主)は、イスラエル神の民の約束を守る真実な神、という意味があります。その約束の上に、更に神の愛(愛情)が含めてあるのは、ヘセドです。神がイスラエルの民への約束を守ったから、愛したから、エジプトから民を大いなる手で救われました。詩編に何回もこの救いが繰り返されています(詩編106)。
でも、この恵みが真実に『とこしえ』であるように、神が行った御業は、十字架の贖いによる「新しい契約」によって確実に決定的に結ばれました。神との契約は、恵みによる契約でもあり、行いによる契約でもありました。人間やイスラエルは、行いによる契約を守る事は、出来ませんでした。偶像に走って行きました。ですから、神は、完全に掟を守る事の出来る御子キリストを送り、キリストは、私たちが出来なかった掟を完全に行いました。そして、恵みによって、「新しい契約」を御自身の血潮によって完全に結びました。
完璧な契約です。真実な契約です。恵みの契約です。私たちが不真実であっても、変わらない契約です。離さない愛です。値しない愛です。でも、また、ここまで愛されているから、私たちは、真実でありたいのです。
そして、詩編は、このヘセドの愛に応答する文に溢れています。詩編全てを観察すると、主な応答は、明らかに、祈りです。神の恵みを知る人は祈るのです。でも、神は、約束を守るから、その約束に基づいて祈るのです。
(1)最も大事な神の真実な恵みへの応答は、讚美と感謝です。これも祈りです。詩編の後半は、この讚美で勢いをもってまとまります。讚美という漢字のように、私たちは、神の栄光と恵みの『美』を『讃える』のです。
(2)神は、恵みを真実に行う神ですから、信頼するのです(詩編31)。
(3)私たちは、神の恵みの約束があるからこそ心を開いて嘆くのです(詩編3)。
(4)罪に落ちいても、とこしえに神のものですから、恵みがあるからこそ、罪を告白が出来るのです(詩編51)。
(5)知恵の詩編もあります。神の真実な恵みに感謝する事は、知恵なのです(詩編107、特に43節)。
(6)神が私たちの味方ですから、神とその民を害する敵を呪うのです(詩編137)。(これは、最後に必ず来る神の正しい裁きを理解していると思う。また、これは、さらに新約聖書の敵を愛することと共に考える必要がある。)
(7)神は、約束を守る神であるから、私たちも誓いを守るのです(詩編61)。
各種類の詩編は、真実な恵みの神への応答、命まで捧げて下さるイエス・キリストへの応答です。
詩編の大事なポイントの一つは、著者の感情です。私たちは、儒教にとても影響されています。教会の「教」のように、私たちは、教育、知恵や知識をとても大事にしています。私たちは、私たちの「知」などを高めるパウロの手紙を主に語りたいのです。でも、ダビデなどの著者は、人知を超える神の偉大いな恵みを、ただ頭で理解しているのではなく、心から感動しているのです。著者は、喜んだり、嘆いたりしているのです。私たちも、メッセージする時も、知識だけではなく、感情にも訴える必要があるのです。そして、この心にも語りかけるメッセージは、カウンセリングとなり、人の心をも癒すでしょう。
牧師でもあるブライアン・チャペル博士はこう言っています。「講会説教の目的は、巻物をひも解いていくように、聖書のテキストから神は何を語られているのかを提示することです。聖書では、主イエス御自身がみことばはすべて私(イエス・キリスト)のことを指し示していると、エマオの途上などで教えておられます。この文脈を忘れてはなりません。異端でさえ、自分たちの教えを指示するかのような聖書のテキストを提示します。それは、聖書全体がキリストご自身とそのみわざを指し示すという文脈を無視した解釈をするからです。」「 聖書全体がキリストご自身とその恵みを指し示しているより。詩編も「キリストご自身とそのみわざを指し示す」のです。メッセージを通して神の栄光とキリストの福音を伝え讃えましょう。
参考:Westminster Seminary Californiaのエドモンド・クラウニー博士、Preaching Christ from the Psalms、I-Tunesの講義
No comments:
Post a Comment