東洋の黙想は「真理や偽りについて語らないほうが良い」と言います。「全ては、一つ、あなたは、神である、ただ直感を使いなさい」と言います。
でも、キリスト教の黙想・瞑想は、聖書を学ぶ事ではじまります。黙想する時、この質問を自分に問いかけても良いでしょう。「主よ、今聖書から読んだことをここの底から知っていたら、私は、どう変わるのだろうか?」でも、聖書の学びで終わらないのです。その箇所について思いながら、祈るのです。祈りではじまり、素晴しい祈りで終わるのです。リチャード・バクスター「黙想は、魂が燃えるまで、その箇所の真理について祈るのです」と言っています。
あの偉大な聖アウグスティヌス(西暦354−430)は、瞑想は、聖書の真理で始まる、と書いていました。心が悪と偽りで満ちていたと知っていたから、御言葉によって導かれなければならない、と彼は、言っていたのです。魂が神へと登り行くなら、三つの要素が必要と言っていました。ラテン語で(1)RETENTIO、(2)CONTEMPLATIO、(3)DILECTIOと言います。RETENTIOは、次の通りです。聖書の箇所の大事なポイントを掴み、思い巡らすのです。CONTEMPLATIOは、瞑想であって、その真理を通して神を仰ぎ見ることです。聖霊様が御言葉を通して語り、その恵みによって、圧倒されるのです。(3)DILECTIOは、喜びを意味します。
ピュリタンのジョン・オウェンは、こう書きました。「先ず、思いを働かせます。霊的な真理に思い...を集中させるのです。次は、感情(affections 、心、愛情)をこれら(の真理)に向けるのです。これによって、霊的真理を捕らえ、引かれるのです。最後に、楽しみ、味わうのです。ここに霊的生活の甘味と満足があるのです。体験する事によって、神が恵み深いお方である事を味わい、キリストの愛は、ぶどう酒より素晴しいこと味わうのです。」
参考:牧師Timothy Kellerのメッセージ
もっと読む:「キリストの十字架の伝道師」: 詩編1編 「神との交わり」
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