ガラテヤ6:18「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」
私たち一人残らず、恵みに飢え乾いています。私たちは、小さい時からパフォーマンス(功績、業績)によって評価されて来ました。フィリップ・ヤンシー氏は、著書「この驚くべき恵み」にこう書きました。「『恵みでないもの』の空気を知らずに吸い込んでいる。早くも幼稚園にあがるころからテストされて評価を受け、『上級』『普通』『要努力』コースへと区分けされる。」親が思い描くように従うか?勉強ができるか?良い大学に入れるか?安定した仕事に入ったか?仕事で成功しているか?良い親であるか?真面目なクリスチャンなのか?いつも笑顔なのか?良い奉仕できているか?。。。でも、「恵みは業績ではなく、贈り物として、外からやって来る」のです。恵みは「与える者が全てを費やし、受けとる側に全く費用がかからない贈り物」です。パフォーマンスによってではなく、ただこのままの私、失敗する私、罪を犯す私、弱い私を受け入れてくれる誰かを探しているのです。真実に恵み深い人を探しているのです。ヤンシー氏は、でこう書きました。「私たちは愛に飢えて成長し、言葉で言いえないほど心の底から、『創造者』に愛されることを望んでいる。」。。。。この驚くべき恵みをガラテヤ書の6:18の最後まで学びましょう。
ガラテヤ書全体で『恵みとは何でしょうか?』と聞くことが出来ます。「恵み」がガラテヤ書のテーマでもあります。復習しましょう。。。ガラテヤ1−2章、パウロは、恵みを体験し、実践したのです。1:12「私は(恵み)を人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」恵みの啓示は、直接神からパウロへと来たのです。。。生ける神の言葉、真実な聖書を通して私たちに伝わって来ました。ですから、生ける神から来たから、確かなものです。真実です。安心して、この恵みを信じても良いのです。。。パウロは、恵みを実践したのです。14節「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。」当時の教会のリーダーは、恵みを信じていたのに、それを適用していなかったのです。ですから、パウロは、注意したのです。「恵みで救われたのなら、恵みを実践しなさい!」と。。。どうでしょうか?私たちの生活は、矛盾しているでしょうか?一貫して『筋がとっている』でしょうか?恵みによって活かされていれば、恵みを生活に生かすはずです。
私は、大学中、アメリカの南部のテネシーやテキサスに住んでいました。150年ほど前に、奴隷を飼っていた多くの南部の主人達は、一応クリスチャンでした。どうやって、クリスチャンでありながらも、奴隷を飼うことが出来たのかは、私は、不思議に思ったのです。確かに北部の多くのクリスチャンが奴隷解放運動に参加し指導したりしました。しかし、変わらないのです。南部の純粋なクリスチャンの中にでも、奴隷を飼っていた人もいたのです。恵みと矛盾しているのです。ガラテヤ3:28「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」。。でも、私とあなたの生活にも、人との接し方にも、盲点や恵みとの矛盾しているものはないでしょうか?その罪を認め、悲しみ、変わりましょう。
3−4章、恵みは、義と認められ、神の子どもとされ、自由にされ事です。3:1−22、恵みは、義認を意味します。6節「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。。。」描きましょう。私は、神の法廷にいるのです。私は、神と隣人を大切にし、愛すよりも、ただひたすら自分を愛してきたのです。自己中心です。生ける神によって『きみは有罪だ!』と判決が下されるのです。私は、悩むのです。『とりなして下さる人は、いるでしょうか?』父なる神の右にいる弁護人主イエス・キリストが手を挙げ、立ち上がります。『聖なるお父様、あなたは、聖く正しいお方です。ダビデは、永遠の裁きに値します。しかし、私が彼の罪を負い、十字架上で代わりに裁かれました。それを受け入れて下さい。』神は、判決をくつがえすのです。『御子イエスのゆえに、あなたを正しいと宣言する!』私は、謙って、でも、また喜んで、信仰によって、その判決を受け入れるのです。これが義と認められることです。恵みです。。。「義とみなされた事」に活かされて、立ち、歩むのです。つまづく時も、この土台に常に戻るのです。
3:23−4:20、恵みは、養子を意味します。義と認められることで終わらないのです。更なる恵みがあるのです。4:6−7「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」。。ステイーブン・チルダーズ博士は、こう書きました。「あなたは養子とされています。あなたが過去の人間関係の愛の欠如からいかに深く傷ついていたとしても、あなたは今、深く愛されています。あなたは神の子供として引き取られ、それまでは、父の独り子である御子イエスだけに保証されていたすべての権利と特権を与えられているのです(1ヨハネ3:1−2)。もう自分のことを霊的孤児のように感じなくてもよいのです。神様はあなたを単なる罪を赦免された犯罪者ではなく、実の娘や息子としてご覧になっているのです。あなたはすでに、御父の御臨在への入り口、あなたのすべての必要を満たしてくださるという約束、そして、あなたの益となる神の訓練を受ける特権を与えられているのです。」。。あなたは、生ける神の子供とされたのです。恵みです。この恵みを味わい、喜びましょう。
4:21—5:1、恵みは、自由を意味します。5:1「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」クリスチャンであっても、人の目を気にして、恐れて生きてしまいます。でも、あなたは、愛されて、自由にされました。それらしく、生きて、喜びましょう。。。共産党員だったイギリスの詩人オーデンは、キリスト教に戻り、恵みのキリストを知って、踊ったのです。彼は、この詩を書きました。「私は、皆が知っていることしか知らない−恵みが踊っているときにあわせたなら、私もそこで踊るべきであるということしか。」人格化した恵みキリストとそこにある自由を覚え、踊るのです。恵みを味わって、踊るのです。
5−6章、恵みは、御霊の力で、愛によって実践されるのです。5:13「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」22節「御霊の実は、愛」です。ですから、御霊によって、愛するのです。6:1「あやまちに陥った」方を回復させるのです。2節「互いの重荷を負う」のです。6節「すべての良いものを分け合う」のです。9節「善を行う」のです。恵みを体験した者は、恵みを示すのです。「根っこがあれば、実がある」のです。福音の常識です。
恵みを人から示されたから、恵みを体験するのです。ヤンシー氏は、ピーター・グリーブについて書きました。インドにいたころ、ハンセン病にかかってしまいました。視力を半分失い、一部麻痺した身体でイギリスへ戻って、英国国教会系のシスターのグループが運営する施設で暮らしていました。働くことができず、社会から見捨てられ、やりきれない思いでいっぱいでした。自殺も考えたのです。秘密の脱走計画も立てました。が、いつも踏み切れなく、なぜなら、他に行き場がなかったのです。ある朝早く起きて、庭をぶらついていたら、ぶつぶつという声が聞こえました。それを追ってチャペルまで行き、シスター達が壁に書かれた名前の患者のために祈りをささげていたのです。そして、その中に自分の名前もあるのが見えたのです。その経験が彼の人生行路を変えたのです。彼は自分が望まれた存在であることを感じ、恵みを感じたのです。祈りの愛の行為によって、恵みが形どったのです。。。私たちは、たくさんの問題をかかえています。そして「恵みでないもの」によって、解決しようとします。しかし、予想もしない瞬間に人を通して恵みがやってくるのです。値しない私たちが神からの贈り物を人を通して体験するのです。神の麗しさと恵みを体験するのです。
ガラテヤ書は、最後まで恵みを語っています。6:19「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」最後に一節まで、恵みが語られているのです。。。恵みとは、何でしょうか?
1.18前半、恵みは「私たちの主イエス・キリストの恵み」です。ガラテヤの教会では、キリストではなく、パーフォーマンス、行い、いわゆる「道徳」によって、深く傷つけられた人がいたのです。彼らは、癒し主が必要でした。主イエスの御性質は、カリス、恵み、「値しない人間に施された神の自由な愛」です。恵みは、キリストによって完全に表現されています。キリストは、人格化された恵みです。人となられた神の恵みです。恵みを知り、実感したければ、変わりたければ、イエス御自身とその十字架を仰ぐのです。
ティム・ケラー牧師は、このように書きました。「あなたは、本当に変わりたければ、イエス・キリストがあなたの圧倒的な願望でなければなりません。(1)心配する時。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。私の功績によってではなく、キリストの寛大さによって。キリストが御自身を犠牲にするほど、私を愛して下さった。ですから、必要なものを続けて下さいます。自分よ、安心しろ。(2)自分の傲慢と怒りを感じる時。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。私は、過去受けるべきものを一回も受けていない。将来受けることも絶対ない。神が私に私が受けるべきものを与えたなら、私はとっくに死んでいるだろう。自分よ、謙遜になれ。(3)罪悪感を感じる時。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。はじめからそれを得たわけではないし、それを自分の行いの不足によって失うこともない。イエスは、過去私を愛したし、今も愛している。この罪を犯すことを知りながらも。自分よ、自信持て。(4)退屈や無気力さを感じる時。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。クリスチャンであること自体が奇跡である。驚きなさい。自分よ、不思議に思え。」。。「私たちの主イエス・キリスト」によって「全てのものが恵みのプレゼントである」のです。新たにイエス・キリスト御自身の”Amazing Grace”を不思議に思い、それに感動しましょう。
2.18まん中、恵みは「兄弟たち」への恵みです。このガラテヤの教会の「兄弟たち」は、傷つけられたり、つまずいたりしていました。でも、パウロは「兄弟たち」と声をかけました。。。何があっても、家族なのです。見捨てないのです。赦すのです。離れないのです。恵まれた家族の一員として、家族に恵みを示すのです。。。ヤンシー氏は、こう注意しています。「私たちの中には、地獄を回避するのに熱心すぎて、天国へ向かう旅を祝うことを忘れているような人がいる。」熱心に真理を守るし、伝道するが、回りの人に〜家族、霊的家族に〜親切でないのです。10節「私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」
3.18後半、恵みは、私達の「霊とともにある」恵みです。私たちの内なる人、魂、心のことを言っています。ガラテヤの教会の方は、『恵みでないもの』によって、「霊」、心、魂にすごい傷を負わせられました。「霊」が癒される必要があったのです。神の「霊」が、傷のある私たちの「霊ともに」いて下さるのです。この恵みが、私たちを内なる人から癒し変えて下さいます。聖霊様が私たちの心にある罪を、私たちの間違った動機を、罪の裏にある罪を〜痛いですが〜指摘して下さいます。そして、聖霊が私たちの「霊とともに」いて下さる事によって、私たちの「霊」に恵み、キリスト御自身、十字架を適用して下さいます。内なるものから癒され、清められ、変えられて行くのです。私たちの返事は、罪、心の偶像を真実に認める事です。そして、18節の最後にあるように「アーメン」と心から神の恵みを信じ受け入れ、恩方を喜び、崇めるのです。
例えましょう。大雨の後のことです。山の中の村に援助が入れないのです。なぜなら、大きな岩が道をふさいでいるのです。どかすためには、ダイナマイトが必要です。でも、そのダイナマイトをただ岩の隣に置かないのです。岩の中深くまでドリルで穴をあけるのです。そして、ダイナマイトを奥まで入れて、内側から爆破させるのです。。。私たちの「霊」は、傷ついています。パフォーマンス(功績、業績)によっては、けして癒されないのです。逆に、問題が増えるのです。恵みの福音が心の奥まで入り、「私たちの霊とともにある」事によって、力強い働きをするのです。この恵みを信じて神を崇めると、「霊」が、いわゆる『爆発』し、そして不思議に癒されるのです。内側から真実に変えられるのです。
パフォーマンスによってではなく、ただこのままの私、失敗する、罪を犯す、弱い私を受け入れている恵み深い方がいるのです。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」