ローマ12:1「神のあわれみのゆえに」とあります。「あわれみ」と言うと、私たちの文化では少しイメージが悪いです。しかし、聖書では、慈愛に近い意味です。聖餐式がそれを描いています。先ず、主の献身〜十字架の贖い〜があっての私たちの献身です。主の献身があっての、ローマ12:1−2の私たちの献身です。
「あわれみ」とは何でしょうか?私たちは、生ける神の支配下にある者として、神の恵みを受けるに値する事は何一つも無いのです。逆に、私たちは、自分の神を認めない罪のゆえに、裁きに値します。神は、私たちに恵みを与える何の義務や義理も何も無いのです。でも、神は、神との約束を破る者に対して、あわれみと愛情を示すのです。神は、自ら自由に、私たちの罪を赦し、深い恵みを注ぐのです。
聖餐式が指している十字架を見て、この「あわれみ」が見えます。裁かれるべき私たちの代わりにキリストが十字架上で裁かれるのです。私たちは、赦され、生ける神の愛の対照となるのです。
私が小学4年生の頃でした。いつものことでしたが、私は、なんだかの悪さしました。母は「ジャー、何日間市民プールに行けないよ」と言いました。私たちは、毎日のように渚のほうから自転車に乗って城の近くの市民プール行っていたのです。確か10円でした。でも、母にひっきりなしにお願いしたのでしょうか?母は「これはあわれみですよ」と言って、私たちは、プールに行けました。母は、厳しかったです。でも、裁きに値するガキが、あわれみを受けたのです。
私たちは、聖餐式が例えている十字架のあわれみによって、キリストの献身によって、献身するのです。自分を捧げるのです。十字架を新たに見ましょう。聖餐式を通して。