先ず、詩篇73編を読んで下さい。
日本で信仰を貫くのは大変です。「出る杭は射たれる」のです。ですから、キリスト者であっても「長いものに巻かれ」たいのです。ある時、母からは、こう聞きました。「私は、4人の女性と聖書の学びをしていました。でも、今は、一人しかいません。他の3人は、離れて行きました。」クリスチャン人口0.5%の中で「キリスト者として貫けるのか?」と疑ったことありませんか?詩篇73:13
「私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ」と思ったことはありませんか?。。。1節、著者は「まことに神は、いつくしみ深い」と確信を持っていました。が、2−14、著者は、信仰の危機を体験するのです。でも、格闘した後、15−28、彼の信仰が回復されるのです。
1。1−14、信仰の危機。1節、彼は、確信に満ちていました。「まことに神は、いつくしみ深い。」でも、ぐらつくのです。2節「しかし、私自身は、この足がたわみそうだった。」
この信仰の危機にあった人は、誰だったのですか?「アサフの賛歌」とあります。アサフは、弱いクリスチャンでしたか?いやいや。転びそうな彼は、常に神殿にいた、礼拝の指導者でした。1節「心のきよい人」で、模範的でした。すごいのは、彼は、この詩編、神のみ言葉、を書いた程でした。。。ある人は、こう言います。「良いクリスチャンは、神を疑ったり、神に怒ったりはしないでしょう?」しかし、アサフのような熱心なクリスチャンであればあるほど、疑いに陥る可能さがあります。なぜなら、深く考えて、人生を懸命に生きているからです。。。天に召された小畑進牧師は、こう書きました。「いや、むしろ大信仰者なればこその深刻な疑問と言い直すべきでしょう。クリスチャンとはいえ、適当に、要領よく、クリスチャンらしく振る舞っているのには、これほど徹底した疑問の生ずるはずがない。ナマ半可に、いい加減に神にかかわっているも者などに、このような苛酷な(厳しく容赦ない)疑団の出るはずがない。。。しかし、真に一切を神にかけ、生命をかけてきた者だからこそ、アサフはこのように言い得たのです。むしろこう叫べるほどのクリスチャンでありたいと思わされるのです。生命がけの大疑団を発したことこそ、ほかならぬ詩人が、すでに解決一歩手前にあった証拠だったのです。」
2節後半「私の歩みは、すべるばかりだった。」私は、あまり登山しませんでした。でも、息子達のジャシュアとシェーンは、20キロのリュックをしょって、高いアルプスを5日間ほど何回も登ったりしました。私は、心配しなら、2人の為に祈っていました。高い危険な山で「すべる」と大変な事です。長野に住んでいる私たちは、テレビで遭難事故の事をあまりにも多く聞きますね。。。アサフは、どんな危機にあったのでしょうか?アサフは、なぜ倒れそうでしたか?間違った角度から、3節後半、世間を「見た」からです。父が育ったニューヨーク市近くのロング・アイランドに不思議な家があるそうです。前から見ると、だだの1メーター辺りの幅で、とても小さく見えます。どういう仕組みか分かりませんが、入ると、ずーっと広く、回れるのです。通路があったり、そでがずっと続いたりしています。入るまで、大きさが分かりません。信仰の危機や悪に遭遇するとき、私たちは、全てが見えていないことを認めなければなりません。神は、愛だけではなく、聖いです。聖いだけではなく、知恵に満ちています。神は、崇高なお方で、計画と思いは、私たちのよりあまりにも高く違っているのです。。。でも、信仰の危機にあるアサフは、今は、狭い一つの角度からしか見えていませんでした。
3節、著者は、何を「見た」のでしょうか?3節「悪者」が「栄え」るのを見たのです。。。「きよい人」が苦しむのを見るのは辛いです。が、悪い人が幸せになるのを見るのもとても辛いではないでしょうか?私は、ナチスによって多くの600万以上のユダヤ人が虐殺されるのを覚え時、何回も「たわみそう」になりました。神の愛と力は、どこにあったのかと。。。4−5、彼ら「悪者」は、ただただ成功しているように見えるのです。6節、行動「暴虐」。7節、高慢な「心」。8−9、「あざけり」の言葉が悪に満ちていても、でも、豊かな命を送っているように見えるのです。。。私たちは、遠くから、人々を見ると、ただ成功を見て、その悪を見えないのです。でも、近よると、その人生は、悪に満ちている事が分かります。彼らは、ただ表面的で、実際は、暴力的であることが分かります。どうでしょうか?教育ママは、教育を強調しすぎて、子供は、うつになったりする。会社で、成功の橋を登って行くが、人を踏み台にしながら登る。こどもを養うべき先生も、いじめを無視し、逆に生徒を自殺に追い込む。最近、政治家は、人の前でニコニコするが、後ろで秘書を叩いている。私たちは、遠くから見ているから、人間の悪の氷山の一角しか見えないのです。
そして、10節「民」は、盲目で、ついて行くのです。第2次世界大戦前『経済的危機を体験したドイツを救える』とドイツ人は、ヒットラーを信じていました。そして、ヒットラーがさらに成功しはじめた時、正しい事を横において、一般のドイツ人だけではなく、聖書をそのまま信じない牧師やいわゆる『ドイツのクリスチャン』が熱心について行きました。なぜでしょうか?ヒットラーは、成功したからです。人は、成功していても、それに惑わされないように注意しなさい!。。そして、著者は、結論づけます。13節「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」『福音によって、生きるのをやーめた!もう出る杭は、やーめた!教会、やーめた!』
バランスとりましょう。ただただ疑いに引きずられる時、その疑いは、良くないです。しかし、疑いや試練を通る時、強められる時も十分あります。アサフは、疑わなければ、この詩編は無く、私たちは、信実に疑いについて学べないのです。私が20才頃、遠藤周作の「沈黙」を読んだ時、つまずきはじめました。「どうして神は、神父さんを助けなかったのか?どうして、神父さんは、信仰を貫き通すことが出来ないのか?勝利の生活や、豊かな命は、どこにあるのか?」でも、それによって、自分の疑いをも疑うべきことを学びました。私の信仰が清められ、強められ、深みが出て来ました。疑う人を理解出来るようになったのです。。。正直に疑いと取っ組み合いをしましょう。
2.15−28、信仰の回復。信仰の危機にあってアサフは、正直に格闘しながらも、28節「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」確かに、1節「まことに神は、いつくしみ深い」のです。
アサフは、どのようにして回復したのでしょうか?簡単に言うと、神に近よったのです。17節、アサフは「神の聖所に入った」のです。小畑進牧師は、こう書きました。「つまり神のふところに飛び込んだ」のです。23節「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」28節「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」神は、すでに近よっています。信仰の危機、疑い、苦悩は、あなたを神に近よらせるか、遠ざけます。試練にあう時、あなたは、神から離れますか?近よりますか?
一、15−22、神に近よると、悪人の最後が分かります。
17節「私は、神の聖所に入り、ついに、悟った」とあります。さらに「彼ら(悪者)の最後を悟った」とあります。自分が、2節「すべるばかりだった」と思ったが、18節「(聖い神様)あなたは彼らを(逆に)すべりやすい所に置く」と理解しはじめたのです。18−9「滅び」という言葉が3回も書いてあります。生ける神に背を向いて生きる者は「滅びに突き落とされ、。。。滅ぼされ、。。。滅ぼし尽くされ」とあります。強調するかのように、とんで、27節、「あなたから遠く離れている者は滅びます。」神は、悪者に対して必ず正義を行うお方です。。。「滅ぼす」と言うと『聖書の神さまは、厳しいね!』と思うかもしれません。共に考えましょう。聖書の真理は、いわゆる四角ではないです。立方体のキューブです。立方体の一面だけ、ただ四角だけ、を見る事が出来ます。が、立方体は、一つの角度だけから見るものではありません。リュビックキューブのように回さなければなりません。いろんな角度から見るのです。世間で言う「神々」のように、存在する神を一元的に理解しているのではないでしょうか?神は、愛ですが、また、聖いです。正しく裁かれます。罪をお嫌いになる、聖なる聖なるお方です。。。でも、また、この神は、自ら愛を持って、十字架で、罪人の代わりに裁かれたのです。。。真理を、神を、正しく見て下さい。
二、23−28、神に近よると、神の麗しさが分かります。
「しかし」が大事な接続詞です。23節「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」28節「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」強調するために「ともに」や「近く」が繰り返されています。。。疑うなら、悩むなら、文句を言うなら、神に近よって、御前でしなさい。友達を理解できなければ、でも本当に理解したければ、友達の前で、近よって、話し合って、理解するのです。生ける人格的な神もそうです。正直に語り合おうのです。
疑う時、試練なあう時、17節「私は(私たちは)神の聖所に入る」必要があるのです。私たちの試練や、誘惑は、鮮明なDVDのように近よって攻めて来ます。私たちは、声だけが出るCDだけではなく、より鮮明なDVDで見て、対処する必要があります。ですから、疑いがある時「聖所に入って」神を鮮明に仰ぎ見るのです。「聖所」には、キリストの十字架を象徴する祭壇がありました。聖歌396のように、私たちは、キリストとその十字架に「近よる」必要があるのです。「十字架の影に泉湧きて、
いかなる罪も 清め尽くす。居(お)らせ給え、この身を主よ、十字架の影に、永久(とこしえ)まで。十字架の影に、行(ゆ)きし時に
御神の愛を、悟り得たり。」主を、十字架を、仰ぎ続けるのです。個人として私たちは、聖書と祈りを通して神と親しい交わりを持つのです。でも、また、孤立しないで、他の信者と共に礼拝で御言葉と福音に耳を傾けるのです。十字架のキリストを仰ぎ見るのです。聖書を深く考え、心から讚美を歌い、神の愛に感動するのです。このようにして、近よるのです。
先ず、神の側から手を差し伸べて、近よって下さるのです。23節後半「あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」24節「あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」ゴールデンウィークの頃、高松の親戚とジャン達と、美ヶ原高原に行きました。ジャンは、車が通れる広い道のほうを歩きました。が、小さなメイゲンは、他と一緒に、狭い少し危険な近道を通りたかったのです。崖もすぐそこにありました。メイゲンは、どんどん先に行きたかったのです。でも、メイゲンが転びそうになりながらも、お母さんのタミーは、しっかりメイゲンの手をつかんで、上まで「導き」ました。。。神が沈黙しているような時も、試練の時も、私たちが疑う時も、主は、私たちの「手をしっかりつかまえ」ているのです。最後まで。このようにして神の側から近よるのです。
そこまでして下さる神に対して、アサフは、叫び、讃えるのです。1788年、イギリスのリバイバルに用いられたチャルス・ウェスレーの最後は、神の偉大さに注目していて、最後の思いは、この25節にあったそうです。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」そして、天に召されました。アサフは『真の御利益は、地上でも、天国でも、人の思う成功ではなく、神さまあなた御自身』と感動しているのです。26節後半、神御自身が私の「心の岩」(生きる力)、最高の財産と遺産の「土地」、28節「避け所」(信仰の危機からの助け)です。「お金、財産、仕事、奉仕、家族にも、限度がある。でも、私が望むものは、全て、神さま、あなた様御自身にある。私にとっては、何よりも、誰よりも、尊いお方は、生ける神様、あなた。」試練の素晴しさは、私たちの心を清め、御利益を慕う心をより除き、神様で十分である、と悟らせて下さることです。。。ですから、初めの疑いと戸惑いの言葉から、この最後の信仰から来るイエス様への讚美と人への伝道の言葉へと変わります。神様の「すべてのみわざ(神の栄光)を語り告げましょう。」1節、確かに「まことに神は、いつくしみ深い」と讃えます。
1851年、英国の宣教師アレン・ガードナーは、船に乗って南アメリカに向かっていました。でも、ある島に難船しました。彼が開拓すべき宣教地には行けなかったのです。生存者と共に何年か孤島で生き延びました。でも、最後は、全てが悪くなって、痛みが伴う、飢えと乾きの残酷な死で終わりました。彼は「主よ、救って下さい!」と祈りました。しかし、誰も来ませんでした。でも、後、遺体と日記が見つかりました。日記で最後に書いたのは、詩編からの言葉でした。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」その聖書の言葉の下にこうありました。「私は、神の慈しみに圧倒されています。」なぜこう書けたのしょうか?神を疑った事はあったでしょう。しかし、それに負けないで、神に近よったのです。。。私たちも、疑いに正直に向き合って、主とその十字架に近よって、信仰を貫くことが出来るのです。