Sunday, July 23, 2017

「差し迫った経験」


「もしあなたが一家の主人で、自分の子供が中にいる家の屋根が燃えていたとします。すぐにでも家全体が炎に包まれてしまうという差し迫った経験が、あなたには見えます。ところが、あなたが声をかけて呼んでも、子供は迫っている危険にまったく無頓着で逃げる様子もない時に、それでも冷ややかに、そして、無関心な口調で話し続けますか。置かれている危険な状態を教え、まだ猶予があるなどと思うことは愚かだと、熱心に語りかけ、できる限りの方法で一生懸命声を大にして呼ばないことでしょうか。そんなことは誰かに教えられないでも自然にそうするでしょうし、そうすべきでしょう。普段のどうでもいい会話と同じように何事もないかのように話し続けるなら、あなたの回りの人はあなたが気が狂ったと思うことでしょう。

それならもし私たちが人の魂の救いを心底気にかけ、地獄がどんなところか理解し、救われていない者の状態を見て目も当てられない酔い状況に気づき、我々の説教の聞き手は自分たちに降り掛かる危険を知らないが、私たちは彼らに迫り来る危険を分かっているとしたら、彼らが直面している悲惨さの恐怖を、強く、そして熱心に伝えないということは道徳的に不可能でしょう。その危機から逃げるように警告し、彼らに向かって大声で叫ぶことでしょう。」

ジョナサン・エドワーズ

ユダ1:22−23前半「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救いなさい。」

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