(城靖博兄による説教、2月22日)
2000年前のユダヤ人もそうでした。しかしただ単にお金が惜しくて払いたくないとい ったことでなく、それもあったかもしれませんが、そこには政治的、宗教的理由がありま した。今日はその難しい問題、納税問題にイエス様はどのように答えられたのか見ていき たいのです。
1、背景
当時世界に散らばったイスラエルの民は過越の祭に合わせ旅をしエルサレムに 集まりました。過越の祭とは神が出エジプトの出来事、エジプトの奴隷であったイスラエ ル民族が神によって救われたことを記念する年に一度の大切な祭です。救いに感謝し、神を喜び、ささげものを携えエルサレムへの道を登って神殿に行きました。エルサレムへは 地理的にも精神的にも登っていくものでした。地理的には小高い丘にありましたし、ロー マに支配されていましたがそこは民衆にとって精神的な首都であり続けたのです。詩篇 120篇から都上りの歌というのが何篇か続きますが、エルサレムの谷にはこれらの賛美の 歌が響いたことでしょう。 122篇 人々が私に「さあ主の宮へ行こう」と言った時私は喜んだ。 救い主が来られることを期待し、王の都エルサレムへ上ります。しかしそこで聞くのは 両替人たちの声、律法学者や祭司長の教えでした。「あなたの貨幣はこのままでは受け入 れられないこのシェケル硬貨に両替しなさい。この羊を買えば神に受け入れられる」と。 宗教的権威者、民衆を導き教えるはずの祭司たちが金儲けのため神の宮を利用していまし た。辞書によると権威の意味は他を支配し服従させる力、とあります。イエス様はそのよ うな偽りの権威に我慢がならず商売人を宮から追い出しました。そして民衆に本来の聖書 の教えを伝えました。そこで律法学者たちがした質問が権威についてであったのも無関係 ではないでしょう。何の権威によってこれらのことをしているのか(2節)彼らはイエス 様の背後にある神の権威に気づきませんでした。そして自分たちの権威が脅かされるやい なや他の権威、ローマの権威にイエス様を引き渡そうとします。
2、納税問答
ルカ 20:20 さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのこと ばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。
ルカ 20:21 その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお 話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づい て神の道を教えておられることを知っています。
ルカ 20:22 ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっている ことでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
ローマは人頭税と言って成人一人につき1デナリという税金を定めていました。(税金 はそれだけではありませんが)1デナリ、ちょうど1日分の賃金と言いますから1万円く らいでしょうか? 当時ユダヤではローマへの納税に関して賛成派と反対派に分かれていました。ローマに 忠誠を誓うヘロデ党を始めとする賛成派、律法学者などローマの支配を認めない反対派。 イエス様がローマに税金を払いなさいといえば反対派やその考えに賛同する民衆が黙って いないでしょう。払うなといえばいったで賛成派と民衆が...といった具合にどちらの答え でもイエス様は民衆の支持の大半を失います。ではどのようにイエス様は答えられたので しょうか?
3、神のものは神に
ルカ 20:23 イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。
ルカ 20:24 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘で
すか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
ルカ 20:25 すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。 そして神のものは神に返しなさい。」
税金として収めていたデナリ硬貨には当時のカエサル(皇帝のことです)ティベリウス 帝の肖像がありました。裏には神格化された母リヴィアの姿がありました。律法学者たち の反感を買う理由の一つだったかもしれません。500円玉に仏像とかあったらちょっとい やですよね。 カエサルの肖像を持つデナリ銀貨はカエサルに返しなさい。とイエスさまは言います。 しかし”神のもの”とはいったいなんでしょうか?この肖像という言葉に注目してみましょ う。 当時の硬貨は鋳型に溶けた金属を流し込んで作られました。ローマのコインにカエサル の肖像があるならその原型、元の形、鋳型があるのです。ここに肖像画があるなら、その モデルとなった元の人物がいるのです。このように「肖像」と訳され、「かたち」とも訳 されるエイコーンという言葉はそのかたちの原型となったものを連想させます。コインの 元の鋳型があったように、わたしたちの元のかたちとなった何か、いや誰かがおられるこ とをイエス様は示唆していないでしょうか?聖書にはあります。
創世記 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造 し、男と女とに彼らを創造された。
神のかたちとはなんでしょうか?聖書にははっきりとは書かれていませんがとにかく、 なんらかのあり方で、私たちは神のかたちを持ち、神に属するものであることを教えてい ます。しかしその神のかたち神との関係は人間の罪によって破壊されてしまったのです 「このコインにはカエサルのかたちがあります。あなた方には何のかたちがありますか? 神のかたちでないですか、あなたは神のものではないですか。」たとえ罪によって損なわ れた人間であっても神は見捨てず、私はあなたのものと私の元へ帰ってきなさいと言って くださってます。私たち自身が神に造られ、神のかたちを持ち、神に属するものであるな らすべて神にお返しするのは当然のことではないでしょうか? また個人と国との関係はどうでしょうか。当時のユダヤ人たちはいくらか制限はありま したが、文化、宗教は尊重されました。パクスロマーナ(ローマの平和)と言われるローマの安全、秩序、交通といった恩恵を受けていました。それに対して対価を支払う責任が あります。 私たちもまた様々な社会的なサービスを受けています。いろいろ不満はある かもしれませんがとにかく納税の義務があるわけです。そのような社会、国の権威は神様 と離れてあるのではなく、神が立てられたものだと聖書は教えています。
ローマ 13:1 ...神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てら れたものです。
ルカ 20:25 すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。 そして神のものは神に返しなさい。」
税金として収めていたデナリ硬貨には当時のカエサル(皇帝のことです)ティベリウス 帝の肖像がありました。裏には神格化された母リヴィアの姿がありました。律法学者たち の反感を買う理由の一つだったかもしれません。500円玉に仏像とかあったらちょっとい やですよね。 カエサルの肖像を持つデナリ銀貨はカエサルに返しなさい。とイエスさまは言います。 しかし”神のもの”とはいったいなんでしょうか?この肖像という言葉に注目してみましょ う。 当時の硬貨は鋳型に溶けた金属を流し込んで作られました。ローマのコインにカエサル の肖像があるならその原型、元の形、鋳型があるのです。ここに肖像画があるなら、その モデルとなった元の人物がいるのです。このように「肖像」と訳され、「かたち」とも訳 されるエイコーンという言葉はそのかたちの原型となったものを連想させます。コインの 元の鋳型があったように、わたしたちの元のかたちとなった何か、いや誰かがおられるこ とをイエス様は示唆していないでしょうか?聖書にはあります。
創世記 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造 し、男と女とに彼らを創造された。
神のかたちとはなんでしょうか?聖書にははっきりとは書かれていませんがとにかく、 なんらかのあり方で、私たちは神のかたちを持ち、神に属するものであることを教えてい ます。しかしその神のかたち神との関係は人間の罪によって破壊されてしまったのです 「このコインにはカエサルのかたちがあります。あなた方には何のかたちがありますか? 神のかたちでないですか、あなたは神のものではないですか。」たとえ罪によって損なわ れた人間であっても神は見捨てず、私はあなたのものと私の元へ帰ってきなさいと言って くださってます。私たち自身が神に造られ、神のかたちを持ち、神に属するものであるな らすべて神にお返しするのは当然のことではないでしょうか? また個人と国との関係はどうでしょうか。当時のユダヤ人たちはいくらか制限はありま したが、文化、宗教は尊重されました。パクスロマーナ(ローマの平和)と言われるローマの安全、秩序、交通といった恩恵を受けていました。それに対して対価を支払う責任が あります。 私たちもまた様々な社会的なサービスを受けています。いろいろ不満はある かもしれませんがとにかく納税の義務があるわけです。そのような社会、国の権威は神様 と離れてあるのではなく、神が立てられたものだと聖書は教えています。
ローマ 13:1 ...神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てら れたものです。
ローマ 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければなら
ない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め…
国の権威か神の権威かではなく、神の権威のゆえに国の権威が立てられています。 普段は当たり前のように感じている様々な公共サービス。しかしそれはすごいことで す。日本の道路はよく整備されています。教育においても日本はホームレスが新聞を読め るほど識字率が高いといいます。安全に飲める水、最先端の医療...それらのことは世界の 視点で見れば当たり前のことではないでしょう。同じようにいやそれ以上にすべての人は 神様の恵みを受けています。そしてその恵みに無頓着なのです。 空気、水、健康、様々な環境や状況、しかし多くの人はこの恵みに感謝しません。教会 奉仕もまるで納めなければならない税金のようにしぶしぶ、いやいや、責任感から、ある いは間違った神様への恐れからなしていないでしょうか? ここでの言葉の違いに注意してください。税金を納める、元の言葉では与えるべきか? とも訳せるのですが。それに対しイエス様は返しなさいという言葉を使います。本来自分 のものなのに相手にあげるというのが与えるということです。返すというのは元の持ち主 へ戻すということです。彼らにとって税金は自分たちのものをローマに与えるということ でした。しかしイエス様は神に返しあるべき場所に戻しなさいといいます。ザアカイの話 を覚えていますか?ザアカイは財産から貧しいものに与え、だまし取ったものを何倍にも して返しました。しかしそうすることで神に返したのです。神が喜ぶ用い方だからです。 わたしたちは自分自身を本来の持ち主造り主であられる神、造り主の喜ぶ用い方をしてい るでしょうか?あるいはこれは自分のもの、あれは神のものと分けていませんか?この時 間は自分の時間、この時間は神の時間、礼拝だけが聖なる時間、教会を一歩出ればこの世 の色に染まってしまう。しかしすべては神のものです。ダビデはこのように祈りました。 1歴代誌 29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このよ うにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであ り、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。 もちろん税金や献金のことだけではありません。社会生活全般が神の権威に関わってき ます。 神のゆえに働き、食べ、学び、遊び、休む、すべての面においてそうです。時 間、能力、知恵、力、すべてが造り主なる神様のものですから。神から与えられたものを 管理し誠実に喜んで神にお返しする元へ返すというのが信仰生活の基本です。この教会で の奉仕は神のため、会社の仕事は別。牧師は神の仕事、会社員はそうではない。教会では 神を覚えながらも、学校では数式に押し出され忘れてしまう。ではなくすべてが神さまの ゆえに誠実に正直に神様が喜ぶようになしていく責任があります。
4、 それはどのようにしてできるのか?
ルカ 20:26 彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚 嘆して黙ってしまった。 イエス様のお答えがあまりに素晴らしく、律法学者たちは何も言えなくなってしまいま した。
彼らは真理に興味はなく、イエス様を陥れることが目的だったからです。しかしここでされなければならない質問があります。
それはどのようにしてできるのか? ということです。「私の不健全な思い、ライフス タイルはどのようにしたら変えられ神に受け入れられるのでしょうか?」「どうしたら自 分を神に返すことができるのでしょうか」「私にはすべてを神に捧げるなんてとても難し いように思います、どうすればいいのでしょうか?」と。人間の歴史また個々の生活を見 るとき、そこにあるのはよく言って神のかたちの名残、微かな影とでもいうべきものでは ないでしょうか。あまりにも神のかたちに相応しくない罪に満ちた生活。もし聖書を人生 のルールブックのように読むならそこには失望しかないでしょう。確かに聖書に命令、す すめはあります。税金をはじめ社会的責任、奉仕のすすめ、礼拝の招き、月々の忠実な献 金、もちろんそれらも大事ですが、それ以前に根本的な原則があります。聖書はまずそこ に立ち返らせます。それはあなたが何をするかよりあなたが何であるか、どのようなもの とされたかそしてそのために神が何をされたか。ということです。聖書を正しく読むなら 命令の前にこの原則があるのがわかります、あなたが何であるかが文脈や前提として書か れているのです。 出エジプトの出来事から律法の代表とも言える十戒を見てみましょう。十戒の命令が与 えられたのは神がイスラエルを救うまえですか、あとですか?救った後です、イスラエル は神に選ばれたことを400年の間忘れ、明らかに異教の習慣に染まり、エジプトの奴隷と なるまで堕ちていました。そのようなイスラエルを神は一方的な愛と哀れみによって救わ れたのです。救われたものとしてそれに相応しく生きなさいと命令が与えられているので す。同じように神のかたちを持っていながらも神を忘れ、他のものを拝み、罪の奴隷とし て生きていたわたしたちをイエス様の尊い血潮、十字架によって神が救われたのです。そ れはいわば新しい出エジプトです。 命令の前に原則。私が何をするかより、私が何であるか。神に造られ、神のかたちをも ち、神に救われたもの。それを知ることがあなたの生き方、行いを決めます。 聖書はイエス様の十字架の贖いを信じることによって新しくされるということを教えま す。恵みの上に恵みを増し加え、信仰によって生きる道を切り開いてくださったのです。 完全なる神のかたちをもっておられる神の御子ご自身が私たちを回復へと導いてくださる のです。
コロサイ 1:15 御子は、見えない神のかたち(エイコーン)であり、造られたすべてのも のより先に生まれた方です。
国の権威か神の権威かではなく、神の権威のゆえに国の権威が立てられています。 普段は当たり前のように感じている様々な公共サービス。しかしそれはすごいことで す。日本の道路はよく整備されています。教育においても日本はホームレスが新聞を読め るほど識字率が高いといいます。安全に飲める水、最先端の医療...それらのことは世界の 視点で見れば当たり前のことではないでしょう。同じようにいやそれ以上にすべての人は 神様の恵みを受けています。そしてその恵みに無頓着なのです。 空気、水、健康、様々な環境や状況、しかし多くの人はこの恵みに感謝しません。教会 奉仕もまるで納めなければならない税金のようにしぶしぶ、いやいや、責任感から、ある いは間違った神様への恐れからなしていないでしょうか? ここでの言葉の違いに注意してください。税金を納める、元の言葉では与えるべきか? とも訳せるのですが。それに対しイエス様は返しなさいという言葉を使います。本来自分 のものなのに相手にあげるというのが与えるということです。返すというのは元の持ち主 へ戻すということです。彼らにとって税金は自分たちのものをローマに与えるということ でした。しかしイエス様は神に返しあるべき場所に戻しなさいといいます。ザアカイの話 を覚えていますか?ザアカイは財産から貧しいものに与え、だまし取ったものを何倍にも して返しました。しかしそうすることで神に返したのです。神が喜ぶ用い方だからです。 わたしたちは自分自身を本来の持ち主造り主であられる神、造り主の喜ぶ用い方をしてい るでしょうか?あるいはこれは自分のもの、あれは神のものと分けていませんか?この時 間は自分の時間、この時間は神の時間、礼拝だけが聖なる時間、教会を一歩出ればこの世 の色に染まってしまう。しかしすべては神のものです。ダビデはこのように祈りました。 1歴代誌 29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このよ うにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであ り、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。 もちろん税金や献金のことだけではありません。社会生活全般が神の権威に関わってき ます。 神のゆえに働き、食べ、学び、遊び、休む、すべての面においてそうです。時 間、能力、知恵、力、すべてが造り主なる神様のものですから。神から与えられたものを 管理し誠実に喜んで神にお返しする元へ返すというのが信仰生活の基本です。この教会で の奉仕は神のため、会社の仕事は別。牧師は神の仕事、会社員はそうではない。教会では 神を覚えながらも、学校では数式に押し出され忘れてしまう。ではなくすべてが神さまの ゆえに誠実に正直に神様が喜ぶようになしていく責任があります。
4、 それはどのようにしてできるのか?
ルカ 20:26 彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚 嘆して黙ってしまった。 イエス様のお答えがあまりに素晴らしく、律法学者たちは何も言えなくなってしまいま した。
彼らは真理に興味はなく、イエス様を陥れることが目的だったからです。しかしここでされなければならない質問があります。
それはどのようにしてできるのか? ということです。「私の不健全な思い、ライフス タイルはどのようにしたら変えられ神に受け入れられるのでしょうか?」「どうしたら自 分を神に返すことができるのでしょうか」「私にはすべてを神に捧げるなんてとても難し いように思います、どうすればいいのでしょうか?」と。人間の歴史また個々の生活を見 るとき、そこにあるのはよく言って神のかたちの名残、微かな影とでもいうべきものでは ないでしょうか。あまりにも神のかたちに相応しくない罪に満ちた生活。もし聖書を人生 のルールブックのように読むならそこには失望しかないでしょう。確かに聖書に命令、す すめはあります。税金をはじめ社会的責任、奉仕のすすめ、礼拝の招き、月々の忠実な献 金、もちろんそれらも大事ですが、それ以前に根本的な原則があります。聖書はまずそこ に立ち返らせます。それはあなたが何をするかよりあなたが何であるか、どのようなもの とされたかそしてそのために神が何をされたか。ということです。聖書を正しく読むなら 命令の前にこの原則があるのがわかります、あなたが何であるかが文脈や前提として書か れているのです。 出エジプトの出来事から律法の代表とも言える十戒を見てみましょう。十戒の命令が与 えられたのは神がイスラエルを救うまえですか、あとですか?救った後です、イスラエル は神に選ばれたことを400年の間忘れ、明らかに異教の習慣に染まり、エジプトの奴隷と なるまで堕ちていました。そのようなイスラエルを神は一方的な愛と哀れみによって救わ れたのです。救われたものとしてそれに相応しく生きなさいと命令が与えられているので す。同じように神のかたちを持っていながらも神を忘れ、他のものを拝み、罪の奴隷とし て生きていたわたしたちをイエス様の尊い血潮、十字架によって神が救われたのです。そ れはいわば新しい出エジプトです。 命令の前に原則。私が何をするかより、私が何であるか。神に造られ、神のかたちをも ち、神に救われたもの。それを知ることがあなたの生き方、行いを決めます。 聖書はイエス様の十字架の贖いを信じることによって新しくされるということを教えま す。恵みの上に恵みを増し加え、信仰によって生きる道を切り開いてくださったのです。 完全なる神のかたちをもっておられる神の御子ご自身が私たちを回復へと導いてくださる のです。
コロサイ 1:15 御子は、見えない神のかたち(エイコーン)であり、造られたすべてのも のより先に生まれた方です。
コロサイ 3:9 ...あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
コロサイ 3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたち(エイコーン)に似 せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
行いがあなたを正しく変えるのではありません。変えられ新しくされたからこそ正しい 行いをすることができるのです。
そのことを忘れ聖書の命令にばかり目を向けるなら、このままの自分では神に受け入れ られないという失望、あきらめ、あるいは律法学者のような思い上がり、偽善、自分は正 しいという自己欺瞞に陥ります。神の声を聞こうと聖書を開くも両替人たちの声、律法学 者や祭司長の教えを聞いてしまうのです。「あなたの貨幣はこのままでは受け入れられな いこのシェケル硬貨に両替しなさい。この羊を買えば神に受け入れられる」と。しかしイ エス様は彼らを宮から追い出し律法学者たちは沈黙したのです。今はこの神の宮でイエス 様の声がその声だけが響くのです。イエス様はこうおっしゃっているようです。「あなた は確かに損なわれているが神のかたちを持っているのだ。わたしが必ずそれを回復しよ う、だから罪を犯してはならない、神に仕え、あなた自身を神に返し、神のかたちに相応 しく生きなさい」と。愛、献身、信仰、奉仕、誠実...これらは神のかたちもつ人間にふさ わしい応答のかたち神の喜ぶ捧げ物です。 神の国の完成の時、信仰者は完全な形に変えられるでしょう。わたしたちはその途上に あります。だからこそともに集まり神の救い、新しい出エジプトを喜びます。イエス様の 十字架と復活に感謝し喜び、賛美し、捧げ、まことのエルサレムへ登っていくのです。 2000年まえ世界中から過越の祭のため喜び集まったユダヤの民のように。そこには律法 学者ではなく、神ご自身、救い主、偉大な王イエスその方がおられます。それを知ってい るからこそ感謝して日々の働き(1デナリ)を神にお返し、捧げていくのです。
2コリント 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反 映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたち(エイコーン)に姿を変えられて行き ます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
コロサイ 3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたち(エイコーン)に似 せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
行いがあなたを正しく変えるのではありません。変えられ新しくされたからこそ正しい 行いをすることができるのです。
そのことを忘れ聖書の命令にばかり目を向けるなら、このままの自分では神に受け入れ られないという失望、あきらめ、あるいは律法学者のような思い上がり、偽善、自分は正 しいという自己欺瞞に陥ります。神の声を聞こうと聖書を開くも両替人たちの声、律法学 者や祭司長の教えを聞いてしまうのです。「あなたの貨幣はこのままでは受け入れられな いこのシェケル硬貨に両替しなさい。この羊を買えば神に受け入れられる」と。しかしイ エス様は彼らを宮から追い出し律法学者たちは沈黙したのです。今はこの神の宮でイエス 様の声がその声だけが響くのです。イエス様はこうおっしゃっているようです。「あなた は確かに損なわれているが神のかたちを持っているのだ。わたしが必ずそれを回復しよ う、だから罪を犯してはならない、神に仕え、あなた自身を神に返し、神のかたちに相応 しく生きなさい」と。愛、献身、信仰、奉仕、誠実...これらは神のかたちもつ人間にふさ わしい応答のかたち神の喜ぶ捧げ物です。 神の国の完成の時、信仰者は完全な形に変えられるでしょう。わたしたちはその途上に あります。だからこそともに集まり神の救い、新しい出エジプトを喜びます。イエス様の 十字架と復活に感謝し喜び、賛美し、捧げ、まことのエルサレムへ登っていくのです。 2000年まえ世界中から過越の祭のため喜び集まったユダヤの民のように。そこには律法 学者ではなく、神ご自身、救い主、偉大な王イエスその方がおられます。それを知ってい るからこそ感謝して日々の働き(1デナリ)を神にお返し、捧げていくのです。
2コリント 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反 映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたち(エイコーン)に姿を変えられて行き ます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
ピリピ 1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来
るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
(安曇野ファミリーチャペルと豊かな命教会では、メッセンジャーのロテーシオンをしています。城兄がその一人です。)
(安曇野ファミリーチャペルと豊かな命教会では、メッセンジャーのロテーシオンをしています。城兄がその一人です。)
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