Monday, December 26, 2016

Saturday, December 17, 2016

協立病院のクリスマス


12月10日、豊かな命キリスト教会が松本駅の近くにある協立病院で患者さんなどに仕えました。他がクリスマス・ソングやストリーを分かち合い、私(写真)は、短いクリスマス・メッセージ(ネーセン・ノーマンのクリスマス)をしました。私たちは、人々の魂だけではなく、体や精神の必要に答えるべきであると私は、思うのです。スタッフと患者さんが豊かにキリストのシャロームを体験するように、お祈り下さい。

Monday, December 12, 2016

「キリストは何者?」詩編110編 



先ず、聖書を開いて、詩編110編を読んで下さい。詩篇110編、聖書日本語

「キリストは、いったい何者?」と言うと少し失礼ですね。でも、キリストは、あなたにとって「困る時の神頼み」のように、ただの利用する神ですか?ただの素晴しい模範、素晴しい先生ですか?。。。クリスマスは、キリストの誕生日で、世界中で、そろそろお祝いされます。世界が使うカレンダーは、西暦を使って、キリストの生涯によってはかられています。キリストが主人公の聖書は、世界ダントツ一位のベストセラーです。イエス・キリストほど、人類と歴史を影響した方はいません。ただの先生だったら、このようなインパクトを残す事は出来るでしょうか?

イエス・キリストは、いったい誰ですか?詩編110では、キリストには、真の王、真の祭司である、と教えています。真の預言者を含める、キリストの『三職務』を見たいです。

1.キリストは真の預言者。

この箇所は、このキリストの職務に触れていません。が、少し説明したいです。詩編110は、イエス・キリストについての宣告です。キリストの一つの職務は、真の預言者です。モーセは、申命記 18:15でキリストの事をこう予言しました。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」当時の預言者は、罪を指摘し、赦しを宣言しました。神の言葉を預かり、語りました。しかし、イエスは、神の言葉を語っただけではなく、言葉そのものです。福音書ヨハネによると、イエスは、神を明確に告げる預言者、『言葉』である、とあります。ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神の御性質を言葉と生活を通して完全に啓示たのです。なぜなら彼自身は、唯一の神だからです。

日本の天皇陛下*は「現人神」と言われました。しかし、第二次世界大戦の最後、彼は、それを否定し、「人間宣言」をしました。。。でも、イエスは、永遠に真の生ける神です。私たちが唱える二ケア信条にこうあります。「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」

東洋の宗教では、全てを神々にしてしまいます。しかし、生ける神は、全てが存在する前から存在している、超越している神です。イエス・キリストは、こう私たちに語っています。「私は、単なる人間ではないです。私は、生ける神です。」。。あなたは、神である真の預言者キリストを何よりも誰よりも求めていますか?聞き入れていますか?人生の中心にしていますか?

2. 1−3節、5−7節、キリストは真の王。

御子なる神イエス・キリストは、一節、王の王として、父なる神の「右の座に着いている」とあります。終末の頃、2節後半「敵」を、イエスは、完全に「治める」のです。2節前半、天の父は、キリストを支えているし、3節、キリストの聖徒も、彼を支えているのです。とんで、5節後半・6節後半、治めているイエスは、敵対する「王たちを打ち砕く」のです。「しかばね」は、死骸(しがい)で、死んだ人のからだ、のことです。それ「で満たし」とあります。これは、5節、終末の頃の「御怒りの日」です。

文字通り読むと圧倒されませんか?このように読むと、どう感じますか?欧米や日本では『悪』の存在をそんなに感じません。でも、北朝鮮など国では、その国民は悪をとても感じます。核兵器、拉致、飢えている子供達、クリスチャンの迫害などを考えると、この悪のある世の中で『神様、何もしないのか?悪は勝利するのか?』と疑問に思うのです。。。いや、いや!小畑進牧師は、こう書きました。「メシヤは、やさしい、いつくしみ深い、といって、侮るなかれ。」新約聖書の黙示録19章後半にこうあります。「見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があった。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを支配される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた。。。」

存在する神は、都合良い神ではないですね。神は、真に愛に満ち満ちた神です。が、同時に聖なる聖なる聖なるお方です。「いずれ人は裁かれない」と思えば、裏切っても、操っても、殺しても、良いのです。欧米では「神がさばかれる事」は人気のない立場です。が「神が裁かない」といいう考え方は、全く間違っています。神は、罪を憎み、正義を愛するのです。全てが神の前に立たされます。地獄は、確かにあるのです。。。憎しみが愛の反対ではなく、憎しみの反対は無関心です。人を愛すれば、愛しているからこそ、怒る時があるのです。愛する人が暴行され、いじめられていると、無関心でいられないのです。真実と平和を破壊しているから、神は、悪と不正に対し怒るのです。でも、神の怒りは、爆発するような怒りではなく、愛する者を食尽しているガンのような悪に対する落ち着いた確かな徹底した怒りです。

なぜ私たちキリスト者は、暴力や復習をしないのでしょうか?主が正しく裁く時が来るからです。ある国では、復習の連鎖が見えます。『あなたは、私の目を取ったから、私は、あなたの両目を取る。神が正さないから、私が正す。私が剣で撃つ。』でも、神は、悪、不正に対してけして無関心ではないのです。私たちが復習をしない理由は、正しい神いずれ正しく裁いて下さる確信から来るのです。神は、正しい裁きを私たちの代わりにして下さるのです。神が全てを正す事を知ると、私たちは、自制をし、裁きを神に委ねることが出来ます。もし神が不正と不真実に対して、無関心で、最終的に裁かなければ、その神は、礼拝に値しない神です。でも、この箇所のように、終わりの日に、敵、王たち、国々は、生ける神に弁明し、裁かれる時が確かに来るのです。。。新約聖書のローマ12:19−20前半「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。』」

天皇陛下は「陛下」と言われています。でも、他の国イギリスなどと同様、実際には日本を治めまていません。昔、天皇家は、陰から藤原家によって多く操られました。天皇は、鎌倉幕府と徳川幕府の頃も、日本を治めませんでした。今も、ご存知の通り、象徴天皇です。。。でも、将来未来も、今も、イエス・キリストは、全て治めています。彼を受け入れない全ての人々を裁く為に帰って来ます。。。大事な質問は、これです。主は、あなたの人生の全てを治めていますか?あなたは、キリストを知って、悔い改め、信じていますか?今して下さい。なぜなら「今は、恵みの時です。」

旧約聖書の時代では、王様がいました。ダビデが王の時は、全ては大丈夫でした。でも、ダビデより偉大な王がいます。キリストは、恵みと力をもって今も全て治めています。神は、将来全てを治めるだけではなく、今も恵みによって治めています。裁く権威もあれば、恵みの御支配もあるのです。世俗的な支配ではないですが、キリストは、全てに勝った王の王です。自然、歴史、国々、教会を治めています。。。私たち自身は、キリストの敵でした。しかし、王であるキリストの十字架の贖いを通して、和解させられたのです。私たちは、神の者、神の国民となり、さらに、神の子供、王子となったのです。私たちの王であるキリストは、私たちを守り、必要を備え、こらしめて下さいます。王は、私たちの戦いを戦い、私たちの内にある罪が支配しないように、私たちを治めて下さいます。キリストは、正義と慈愛を今も確かに実践しています。。。私たちは、彼を王として、全ての生活を変えるのです。私たちは、王の掟に従うのです。私たちは、この恵みを独り占めにしないで、王の祝福と福音を広めるのです。社会に貢献し影響するのです。

ビクトリア女王がある時、自分の牧師からキリストの再臨について聞きました。彼女は、こう言ったそうです。「ああ、ファラール博士、私がまだ生きている間、主が再び来られるのを願っています。」「なぜですか?」と聞かれたら、女王は、こう返事しました。「なぜなら、私の冠を、崇敬と畏敬の心で、主の足下に置きたいからです。」あなたは、どうされますか?

3.4節、キリストは真の祭司。

4節を跳ばしたのを覚えていますか?回りの節と違っていましたね。イエスが治めたり、裁いたりする中で、突然、キリストは「とこしえの祭司である」と宣言されました。イエスは、預言者や王だけではなく、祭司です。回りは、裁きですが、ここは、哀れみです。。。「主は誓い、そしてみこころを変えない」は、この宣言は、何よりも確かである、何よりも、キリストは祭司である」と言っているのです。

天皇陛下は、神道の最高位であり、「宮中祭祀」と言われているそうです。
古代から現在まで、天皇の一番重要な勤めは日々の祭祀であり、国の為に祈る事だそうです。。。昭和天皇は、戦争の最後は、平和を勧めていました。が、初めは、戦争を応援し、指示していたようです。マッカーサーがその証拠を処分しました。なぜなら日本を治める為に天皇は必要でしたから。天皇は、自分の戦争責任を認め、国民のために死ぬ、とマッカーサーに言ったようです。。。でも、天皇は、本当の意味で、私たちの罪の為に死に、私たちを救い贖うこと出来ないのです。しかし、私たちの為に、罪を贖った方は本当にいるのです。詩編110のように、敵、王たち、国々が裁かれるのなら、私たちも、裁かれるべきです。私たちも、罪あるものですから。しかし、裁きだけではなく、イエス・キリストは、哀れみを用意されたのです。。。旧約聖書の祭司は、常に、贖いのいけにえを捧げなければなりませんでした。が、大祭司であるイエス・キリストは、一度だけ、十字架上で、私たちの罪を負い、私たちの代わりに裁かれたのです。私たちが裁かれないように、キリストは、代わりに犠牲となったのです。そして、御自身の血潮を天の父に捧げたのです。。。とこしえに祭司」であるように、私たちの罪は「とこしえ」に赦され、私たちは、永遠に愛されているのです。今も、キリストは、愛を持って私たちに仕えて下さるのです。続けて真実に取りなして下さるのです。

あるクリスチャンは、人の祭司に懺悔(ざんげ)し、罪を告白し、赦されると信じています。でも、聖書では、私たちは、直接、真の祭司であるキリストに罪を告白し、祈る事が出来る、とあります。「永遠の祭司」キリストはいるのです。ヘブル4:14「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか?(16節後半)大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか?」

“Who is Christ?”「キリストは何者?」イエスは、真の預言者。特にこの箇所では、真の王、真の祭司です。主イエス・キリストこそ真に期待出来る恩方です。昨日、真田茂人氏が招かれ、私たちは、スイス村サンモリッツでグローバル・リーダシップ・サミットに参加しました。仕えるリーダーシップについ聞きました。今月の8日にトランプ氏がアメリカの大統領として選ばれました。ある方は、リーダー、人、をとても期待します。確かに頼れる存在になりたいです。でも、何よりも、誰よりも、真に頼れるお方は、イエス様です。キリストを望み仰ぎ崇めましょう。

*注意:私は、現在の陛下さん達とその家族をとても尊敬しています。軽井沢で2回あっています。

Monday, December 5, 2016

GLS


先月の素晴しいグローバル・リーダーシップ・サミット信州大会に参加出来ました(松本地域)。およそ70人が来ました。ライブスピーカーは、真田茂人氏で、仕えるリーダーについて語りました。。。主が、教会の為だけではなく、日本国中にしもべリーダーを備えるように、祈っています。

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。。。『あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。』」ヨハネ13:3−5、13−17

Thursday, December 1, 2016

「救い主を探し求めなければなりません。。。」


「救い主を探し求めなければなりません。主が地上におられたとき、人々がご自身と交わりを持つように招かれました。こうして人々は主を知るようになり、また、主を知ることによって、父なる神を知るようになりました。。。主イエス・キリストは、現在肉体においては、われわれと共におられませんが、霊的には現在もわれわれと共におられます。われわれは依然として、主を探し求め、見出して主と交わりを持つことによって、父なる神を見出して、知ることが出来るのです。主イエスを見出すまで探し求めた人が、この世に対して、われわれは神を知っていると、あかしをすることのできる人なのです。なぜなら、われわれが心を尽くして主を探し求めるなら、必ず主を見出すことができるという約束があるからです。」ジェームズ・パッカー、著書・神について

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」聖書・マタイ2:1−2