Thursday, October 19, 2017

デボーションの習慣


「キリストに仕える聖職者の一番の弱点は、デボーションの習慣の欠乏です。」リチャード・セシル

詩篇1:2−3「まことに、その人は主のおしえ(御言葉)を喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

Wednesday, October 11, 2017

「ダンケルクの奇跡」


歴史の大好きな私は、歴史の好きな長男、ジャシュア、と一緒に映画『ダンケルク』を見に行きました。とても良かったです。

1940年の5月、ヨーロッパの第二次世界大戦のはじめの頃です。ナチスは、すごい勢いで、西のフランスやベルギーのほうに攻めて行きました。ダンケルクという町を囲みました。フランス軍やイギリス軍を絶滅に追い込むことは出来たのです。でも、不思議に将軍達に反対し、ヒットラーが前進を止めたのです。

英国首相ウィンストン・チャチルは、イギリス本土への撤退を命じました。でも、せいぜい300,000人の中から20,000人が逃れると思いました。脱出の為に多くの大きな船から小さな船まで国民にお願いしました。渡った時、ドーバー海峡は、不思議に静けさがありました。

不思議に、ちょうどそのころ大陸のほうでは、嵐があって、ナチスの飛行機は、飛べなかったのです。後、ダンケルクの港や砂浜を攻撃しました。撃たれそうになった時も、イギリス軍の負傷者は、比較的に少なかったのです。結果的に、フランス軍人を含めて、335,000人の兵士が再び戦えるように無事英国に帰りました。

これは「ダンケルクの奇跡」とも言われています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?英国の方は「神に祈ったから」と言いました。

イギリスの国王ジョージ4世は、敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は、日曜日の5月26日を「国の祈りの日」(National Day of Prayer)にするように命じました。全国民が教会に行って祈ったのです。国王は、ロンドンのウェストミンスター・アビ教会で礼拝しました。。。そして、この祈りは、聞かれたのです。

次の日曜日、6月6日(日)「感謝の日」を持ちました。それで、会衆と聖歌隊は、次の詩篇124編を歌ったのです。
「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエル(神の民)は言え。
「もしも、主が私たちの味方でなかったなら、
人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、
そのとき、大水は私たちを押し流し、
流れは私たちを越えて行ったであろう。
そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
ほむべきかな。主。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。
わなは破られ、私たちは助け出された。
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

日本にいる私たちは、日本の教会のリバイバルと、国の本当の祝福をこのようにぜひ祈る必要があるのです。


Sunday, October 1, 2017

「恵です!」 ガラテヤ1:1−5


16世紀頃(日本では織田信長の少し前の頃)ヨーロッパでは、個人も、家族も、教会も、社会も、すごく束縛されていました。当時の教会は「行い、儀式、お金によって、人は、救われる」と教えていました。教会の多くの借金の返済のために「免罪符」の販売をドミニコ会修道士テッツェルに任せました。行き過ぎた販売への批判が、マルテン・ルターによる宗教改革のきっかけとなりました。。。宗教改革の始まりは、今年で丁度500年に成ります。。。スイスの宗教改者ジョン・カルバンは、こう言いました。教会は「多くの悪性の病気にかかって苦しんでおり、これ以上治療をのばしておけず、治療が遅れる。」。。私たち個人や家族、教会や社会は、どうでしょうか?本当の意味で解放されているでしょうか?真実な喜びがあるでしょうか?生ける神を、人を純粋に愛しているでしょうか?。。。私たちに何が必要でしょうか?聖書全体、このガラテヤ書は「恵です!」と断言しています。。。宗教改革は、ラテン語の”Sola Gratia”という文言を使いました。『恵のみ』という意味です。恵みは、値しない者を救う神の愛です。私たちの教会で使う主な学び「5Gs」のはじめのポイントは、Grace、恵です。私たちは、恵のみによって、救われ、成長し、変えられるのです。。。ガラテヤ書1:1−5は、恵について、こう語っていると思います。一、恵の源。二、恵の恩方。三、恵の目的。

1.    1−3、恵み:その源。

1−2、「パウロ」とあります。もちろんパウロは、源ではなく、ただの手段でした。でも尊い恵の手段でした。1節「使徒となった」は、2回繰り返されています。「パウロ」は、はじめは教会の「使徒」ではなく、逆に教会を迫害する宗教家でした。。。でも、ダマスコへの道で、1節後半「死者の中からよみがえった」イエス・キリストに劇的に出会ったのです。驚くばかりの恵みです。そして、神は、恵みの宣教のために人間「パウロ」という手段を用いました。

また、福音は、後、日本にも来ました。信長の頃、フランセスコ・ザビエルが来ました。この時期は、ある歴史家によるとChristian Era「キリスト教の時代」とも言われました。1610年頃のキリシタン人口は、60万人まで増えたと言われています。日本の人口の2割でした。。。後、明治維新の頃、ハンガリーから来たユダヤ系クリスチャン、バーナルド・ベテルハイム、が琉球王国(沖縄)に来ました。崎浜秀能と言う青年が、礼拝に出席し、信仰を持ちました。しかし、家族に迫害され、死にました。彼は、日本のプロテスタントの最初の信者と殉教者となりました。。。神さまは、手段(使徒、宣教師、信徒)を用います。恵みによって、あなたも、用いられるのです。

でも、1節、神が源です。パウロが信仰を持った後、何年かたって、トルコの南の方のガラテヤ地方で開拓伝道をしました。でも、このガラテヤの諸教会に宗教家が入って来ました。『パウロと彼のメッセージは、都合良すぎて、間違っている』とガラテヤの若い教会を惑わしはじめました。ですから、ガラテヤ書のはじめの挨拶から、パウロは、自分の使徒の権威を主張しはじめたのです。1節まん中「人間から出たことでなく、イエス・キリストと、父なる神によったのです。」パウロは、神さまから、直接、使徒としての任命と恵みのメッセージを受けたのです。人間が『こしらえた』ものではなかったのです。人間という手段をも用いますが、恵みのメッセージの唯一の源は、天地を造られた神、とその御言葉、聖書、です。

「皆には、宗教や道徳について自分で決める権利がある」と言います。ある面でそうです。でも、ナチスも、自分の信念を持っていました。『他の人種は、守らなくも良い、殺しても良い』という結論についたのです。神化論が言うように「弱い者は死ぬべきだ」と思っていました。日本も、第2次世界大戦「八紘一宇」(全世界を一つの家にする)という世界観で、アジアを侵略しました。信念です。でも、間違った信念でした。。。自分、家族、国家の信念より、私たちキリスト者にとって最大な権威は、生ける神の御言葉、聖書です。全てをそのフィルターで見るのです。宗教改革は“Sola Scriptura (聖書のみ)を主張しました。私たちの絶対的な権威は、人間ではなく、聖書である、と宣言しました。。。このガラテヤ人への手紙は、聖書の一部です。「パウロ」の名前が書いてあって、100%人間の書いた物です。しかし、同時に、聖書は、100%神が導き書いたもの、と教会は確信しています。神は、聖書を書くために、人間という手段を用いますが、聖書の大元は、生ける神御自身なのです。

宗教改革者、マルテン・ルターがドイツの国会で問われた時、自分の書いた書物を間違っていたと認めるかどうかを迫られました。ルターに対して激しい敵意を持った人たちもいる中で、ルターは、次のように語りました。
「私は聖書と明白な理性によって確信するのでない限り、私は教皇と教会会議の権威を認めない。私の良心は神のみ言葉にとらわれているのであるから。 私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、安全でもないからだ。」。。聖書が私たちの絶対的権威です。人を恐れないで、生ける神を恐れ敬い従うのです。

ジェリー・ブリジェズは、このように書いています。「私たちは、他人が何を考えているかをあまりにも気にしているから、私たちは、キリストにある自由を楽しめません。人に裁かれ、噂されるから、ことをしたり、しなかったりするのです。」。。私たちは、人への恐れを捨て、聖書、キリストの恵みと自由にしっかり立つのです。

聖書にこうあります。3節「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」当時、「平安」(シャローム)は、手紙や日常の生活の挨拶としてよく使われました。中東では、今も、そうです。でも、パウロは「恵み」という言葉を挨拶に付け加えました。キリスト教の特徴です。人ではなく「父なる神と主イエス・キリスト」が恵みの源です。。。この恵み深い力ある三位一体なる神は、あなたを変えることが出来ます。ですから、誰よりも、何よりも、この恵の神を仰ぐのです。

2.4節、恵み:その恩方。

4節まん中「私たちの罪のために」とあります。あの恵み深いお方イエス・キリストは、罪に染まっている私たちのために働いて下さったのです。私たちは、自ら恵を要求できる何の権利もない者です。私たちは、真に神を愛さない、人を愛さない、自己中心な罪人です。裁きに値します。でも、真実に罪を認める人に恵が多く注がれます。ローマ5:20後半「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

恵は、神中心、4節前半、キリストが中心です。宗教改革のもう一つの文言はSolus Christus” (キリストのみ)。イエス・キリストのみが私たちの真の救い主であり、主であり、王である、という意味です。イエス・キリストのみが私たちのために死んで下さった恵深いお方であるのです。。。文法的に、この文脈の全ては「キリスト」という言葉に、キリストという尊い恩方に、掛かっています。イエス様が全て行っています。この麗しい方は「御自身をお捨てになった」のです。神を愛さない、人を愛さない罪人の私たちをいわゆる「捨てる」べきです。でも、主イエスが代わりに「捨てられた」のです。私たちが捨てられないためです。神によって受け入れられるためです。限り無ない恵みを受けるためです。。。恩方とその御業を仰ぐのです。この恵の真実が深く心に入ると、あなたは、変わります。

これは、聞きたくない可能性があります。しかし、イエス・キリストは、他の宗教の創始者(孔子、釈迦、モハメット)とは全く違います。彼らは、けして自分のことを「救い主」とは言いませんでした。でも、イエスは「自分は、救い主である」断言しました。。。私たちは、溺れていいて、どうしようも無い状態です。人が「助けて!助けて!」と叫んで、湖で溺れそうな時に、「どうぞ」と言って、けして泳ぎ方のマニュアルを投げ込みません。イエス・キリストは、泳ぎ方を教えるためではなく、道徳を教えるためではなく、逆に私たちを救うために、代わりに生きて死ぬために来たのです。水泳教室の先生を送るのではなく、イエスみずから水に飛び込んだのです。そして、命を捧げたのです。キリストは、私たちの先生ではなく、私たちの救い主、いわばヒーローなのです。このようにして、4前半「今の悪の世界から私たちを救い出そうとした」のす。

日本で「世間体」があります。人は、束縛されているのです。でも、私たちは、日ごろ、「世間体」に捕われているかは、気づいていないことが多いです。あまりにも当り前のことでありすぎるために、日常的に慣習化している行動は、意識しないのです。ですから、なんらかの行動の後に、ふりかえってみて、他から指摘されて、はじめて、自分が「世間体」に捕われていると気づくのが普通です。私たちは、見えや、相手を喜ばせるような振る舞いや口先だけの言葉に捕われているのではないでしょうか?。。。また、私たちは、しばしば、神の愛を信じていると言いながら、条件つきの愛を信じているのではないでしょうか?やはり、救いや成長が、自分の敬虔さにかかっていると思っているのです。恵みによって救われているが、恵みによって生きることを本当は、信じていないのです。恵は、過去、頂いただけではなく、恵みによって現在も生かされて、恵みによって呼吸するのです。神は、私たちを恵みによって「救い出そうとして」解放し、喜びを与え、神と人を愛する者に変えようとしているのです。。。救い主を仰ぎ、見て、喜ぶのです。

3.  5節、恵み:その目的。

5節、恵の目的は、神の栄光です。「神に栄光がとこしえにありますように。」恵は、ひたすら神の栄光を表すのです。福音は、私たちがすることではなく、キリストがすることです。ただ恵みによって、信仰によって、神の側から、救うなら、人間が誇ることは、一切無いのです。栄光は、全て、神のものです。

スペインの十字架のヨハネは「Soli Deo honor et gloria」(神のみに尊敬と栄光)をと言う文言を使ったそうです。それと似て、宗教改革は“Soli Deo Gloria (神のみに栄光)とも言っていました。作曲で有名なヘンデル、バッハは、音楽をサインした時、名前と共に「soli Deo Gloria」と書いたそうです。バッハは、soli Deo gloriaSDG」の頭文字でサインしたそうです。恵を体験した彼らは、神の栄光のために作曲していました。。。恵みによって救われ、成長している私たちは、神の栄光のみのために生きるのです。

私たちの救いは、100%神がするものです。これが恵みです。が、私たちも、信じ仰ぐのです。宗教改革の5番目の文言は”Sola Fide” (信仰のみ)でした。私たちは、イエス・キリストを信じ仰ぐ事によってのみ救われ、神の子どもと成るのです。また、信じ仰ぐことを基盤として常に歩み、変えられて行きます。キリストとその恵深い十字架を仰ぎ崇める事によって、あなた個人、家族、教会、社会まで変えられて行きます。。。あなたは、イエス・キリスト、その十字架の御業を信じ仰いでいますか?。。。信じなさい。仰ぎなさい。新たに。

後にイギリスのリバイバルで多く用いられていたジョン・ウェスレーは、まだクリスチャンではなかったようです。彼は、大学の時代から自分を聖くしようと「ホリー・クラブ」で頑張っていました。アメリカに行って宣教師までしました。しかし、本当は、まだイエス・キリストに出会ってはいませんでした。ある日、ウェスレーは、ロンドンのアルダーズ・ゲート通りの家庭集会に集いました。そこで、ウィリアム・ホーランドがルターの「ガラテヤ書の注解書」から読んでいました。ルターはこう書いていました。「何?何もしなくても良いのですか?いえ、何も!ただ、私たちの知恵、私たちの義、私たちの聖さ、また私たちの贖いと成った方を受け入れるのです。」ウェスレーは、後こう言いました。その時「私の心が不思議に燃えました。キリストに頼ったのを感じました。。。その時、私が説明出来ないほどの力が私を被いました。その瞬間、私の大きな重荷が落ちました。私の心が平安と愛で満たされたあまり、涙があふれました。」読んでいたホーランドも似たことを書きました。「私に説明できないような力に被われました。すぐさま、大きな重荷が落ちました。私の心は、あまりにも平安と愛に満たされて、泣くほどでした。救い主を実際見たような気がしました。」ホーランドは、家々に回って、このルターの「ガラテヤ書の注解」をただただ読みはじめました。この福音は、このウェスレー、ジョージ・ウィットフィルドやジョナサン・エドワズを通して、大覚醒(だいかくせい)という素晴しいリバイバルを起こしました。アメリカやイギリスを変えました。

そして、あなたも、素晴しい変革を起こすキリストの恵みが必要です。恵の本当の理解によって、深く心に入ることによって、あなたが解放され、変わります。家族も。教会も、社会も。あなたは、解放されているでしょうか?喜びがあるでしょうか?愛しているでしょうか?キリストとその恵みの御業を信じ、仰いで、頼って、喜んでいますか?そうして下さい。今。