Thursday, September 29, 2016

詩編51編 「神よ。御恵みによって。。。」


ぜひ、先ず、詩編51編を読んで下さい。


私の名詞には、レンブラントの有名な絵「放蕩息子の帰還」があります。そこの右の方に、冷たい兄の視線が描かれてあります。しかし、父の愛の手、放蕩息子の悔い改め、回復が描かれてあります。放蕩息子は「私です」とよく言う時があります。この詩編51編で、似たような豊かな神の御恵みが祈られています。

51編の条文に「ダビデの賛歌」とあります。ダビデ王は、造り主に選ばれた王様でした。恵みを奏でていた人でした。しかし、高慢になって、ウリアの妻「バテ・シェバ」と姦淫を犯してしまいました。罪を隠そうとし、ダビデに忠誠を誓って戦線にいたバテ・シェバの夫ウリアまで殺してしまいました。そこに「預言者ナタン」が来て「あなたです」と、ダビデの罪を指摘しました。。。ある方は『私は、このような罪を犯しません』と言うでしょう。危ないですね。ダビデは、偉大な人でした。彼は、芸術家、音楽家、指導者、つわもの、神に愛されて者でした。ダビデの心にそのようなものがあれば、あなたの心にないと言えるでしょうか?

でも、罪に陥る時どうするのでしょうか?また、罪から守られるようにどうするのでしょうか?神の言葉、詩編51によると、主とその恵みに寄り頼み、祈るのです。。。二通りの恵みにすがるのです。一つは、1−9、罪を赦す恵み。二つは、10−19、力を与える恵み。罪が赦され、従う力が与えられるように、祈るのです。

1.1−9、罪を赦す恵み。

1節「神よ。御恵みによって」とあります。この基盤に立って、祈り、また赦され、力が与えられるのです。この「恵み」という言葉は、ヘブライ語で「ヘセド」で、神の『真実な恵み』(約束された愛、誓いによるあわれみ、変わらないいつくしみ)という意味です。。。この恵みがダビデの心に溢れていなかったから、バテ・シェバとウリアに酷いことをしたのです。

「ヘセド」の意味を考えましょう。。。創世記15章、神様は、アブラハムにあらゆる約束をしました。そして、その誓約を結ぶ為に当時の世界によくあった儀式を行いました。動物を二つに切って、約束を結んだ2人両方がその間を通るのが通常でした。「約束を破ったら、この動物が裂かれたように、私も裂かれても良い」と誓っていたのです。しかし、神は、アブラハムを眠らせ、神お一人が、その裂かれた動物の間を通りました。神お一人で約束を結んだのです。恵みです。神は、私たち人間の弱さ罪深さを知っていたのです。神は、こう言っていたのです。『人々の罪と不真実さのゆえに、私が裂かれる時が来る。その代償は、私が払う。』1800年ほど後、イエスは、十字架上で、私たちの代わりに裂かれ、裁かれたのです。「私が全てを払う」と神の側から約束を誓ったのです。揺るがない基盤です。。。1節、この真実な「御恵み、情け、あわれみ」があるから、直感に反することですねが、つまずいて罪を犯しても、赦しを祈り、神と回復出来るのです。。。この優しい強い恵みに感動し、心をいっぱいにするなら、勇敢に長く従う力もあるのです。

1節「私のそむきの罪、(2節)私の咎、私の罪、(3節)自分のそむきの罪、私の罪、(4節)私は罪を犯し、(5節)私は咎ある者、罪ある者」。特に3節後半「私の罪はいつも私の目の前にあります。」預言者ナタンの忠告の後、ダビデは、責任転換していないで、罪の責任を取ったのです。神に対して反逆罪を犯しているのを認めたのです。4節前半、ただ人に対してしたのではなく、「私は(聖い神様)あなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」神の愛を裏切ったのです。神を悲しませ、神の恵みを踏みにじったのです。。。他の人になすり付けないで、あなたも、罪の責任を取りなさい。自分の罪を正直に見て、その罪を告白し、それを悲しみ、罪を憎みなさい。

英国の有名な新聞が質問を出しました。「この世界の何がまちがっているのか?」この問いに対して、クリスチャンの作家であるGK・チェスタトンがこう返事を出しました。「記者殿、私です。敬具。GK・チェスタトン。」。。直感に反することですが、あなたも「私です」と言えますか?。。。私たち自身のいわゆる小さな罪をも悔い改めましょう。犯罪学で「割れ窓理論」(broken window theory)と言って、窓を壊すような小さな犯罪をも取り締まると、大きな犯罪を抑制出来ると言うことです。私たちの間違った心や態度から解決を見いだしましょう。

「赦し」をある幾つかの似た言葉によって、描かれています。1節後半「ぬぐい去って、(2節)洗い去り、きよめて、(7節)除いてきよめて、きよく洗って、(9節)ぬぐい去って。」繰り返されています。。。赦しを意味する言葉の一つは、「帳消し」と似て、金銭などの借金や債務が消えることを描いています。帳簿のいわゆる「棒引き」です。。。私たち豊かな命教会は、最近、すごい額の返済を全て帰しました。私は、はじめ、どうなるかな?と不信仰でした。ある時は、ぎりぎり。ある時は、お金がなかったから、休んだり。ある時は、他から助けを得たりしました。神の恵みと私たちの努力によって、今のいわゆる「帳消し」になっているのです。。。でも、第三者返済という制度もあるそうです。他の人が身代わりに払うことです。。。私たちの罪の負債は、主に神に対してですから、私たちの努力や、行いによって、償いきれないのです。ですから、値なしの恵みによって、キリストが十字架上で身代わりとなって、償ったから「赦して下さい」と懇願できるのです。「私の(いわゆる)債務を除き、帳消しにして下さい」と叫ぶのです。

7節後半「そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」恵みと赦しの結果です。これは何を描いているか、私たち信州人は、よく分かります。雪が降る時、普通汚れているところが、奇麗になります。すでに奇麗なところも、さらに奇麗になります。あの小さな罪も、大きな罪も、つまずいている私たちは、キリストの血によって「雪よりも白く」なり、神様から見て、奇麗で、清いと見なされるのです。。。子供の時、雪を見て楽しんで喜んだ以上に、8節、赦され癒されると、「楽しみと喜び」の踊りが帰ってくるのです。

2.10−19、従う力の恵み

ある人は、こう言うでしょう。「私は、何回も同じ罪を犯してしまいます。もうむりです。」ここで、ダビデは、従う恵みをも願うのです。本当の神様と交わりをもっているキリスト信者は、続けてこう祈るのです。

10−12、「私の罪を赦すだけではなく、私の心の修正ではなく、10節『神よ。天地を劇的に造ったように、私にきよい心を全く造り変えて下さいゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』(11節)聖い聖霊を豊かに与え、御霊によって、従えるようにして下さい。主よ、罪赦されるだけではなく、(12節)『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』」。。「苦しい時の神頼み」ではないです。「ゆるがない霊、喜んで仕える霊」を願っているのです。。。スコットランドの牧師であったロバート・マリー・マックシェーンはこう祈りました。「主よ、赦された罪人がなれる限り聖くして下さい。」

恵みによって、罪が赦され、力が与えられているダビデ王は、神へと回復されるだけではなく、人へと回復されました。確かに、ダビデは、罪を犯した時、家族や国に大きな苦しみを与えました。でも、それと同時に、確かに敗者復活したのです。。。あなたが恵みを真実に、更に体験すると、12節「仕える霊」が与えられます。

13節、私たちは、新たに教えることが出来るのです。回復された私たちは、「そむく者たちに」回復と従順の「道を教える」のです。そして、13節後半「罪人は、(神よ)あなたのもとに帰りましょう。」ダビデがこの詩編で回復の道を教えているように、私も、あなたも、新たに教えることが出来るのです。

小畑進牧師は、こう語りました。「いったい説法、説教とは何なのでしょう。人一倍品行方正な者が透(す)き通った規律を垂示(すいし)する(示し教える)ことだったのでしょうか?否。否々(いや)。人一倍罪深く、人並みはずれた前歴の者が、己の俎(まないた)の上にのせ、たたき台として、『われが如き極悪人にして赦されたり。さらば、皆さんが、どうして救われないことがありましょうや。臆せず、この神に帰り、よりすがれや』と語ることだったのではありませんか?」

「『宗教法人法案』が出された時のことです。キリスト教会は一致団結して反対に回りました。その理由は、その法案に、『前科のある者は宗教法人の役員になることができない』という一頁があったからでした。他の宗教の人々は、『宗教法人の役員たる者は、清浄潔白でなくてはならぬ。したがって、前科者を役員から排除することは当然』としたのに対し、『とんでもない。宗教法人だからこそ、前歴がどうあろうと役員になれないことがあるべきでない。むしろ前科者が役員をつとめるくらいでなければ』というのがキリスト教の立場だったのです。」

14−15、私たちは、新たに讚美すること出来るのです。ダビデは、罪指摘された時、暗闇と失望に落ちたでしょう。どのようにして、ダビデは、この深い淵から舞い上がって歌うことができたのでしょうか?14節前半「救い」と赦し、その恵みを真実に体験したのです。ですから、14節「舌」は「高らかに歌う」のです。15節「誉れを告げ」伝道までするのです。

豊かな命教会で「花も」という素晴しいプレーズソングを歌います。一節「ここにいずみはわく、涙をすぎるとき、やがて実を結び、笑い声に満ちる。(折り返し) 花も雲も風も大海も、かなでようかなでようイエスを、空にひびけ、歌え魂よ、恵みを 恵みを 恵みを」「涙をすぎるとき、。。。歌え魂よ、恵みを!」

16−17にクリスチャン生活の聖く歩む秘訣が書かれています。真の謙遜です。。。ある伝道師は、英国のウェールスで多く用いられていました。でも、ベテランの牧師達は、こう言っていました。「彼は、まだ低くされてない。砕かれてない。」。。16節、ダビデは、外見的な宗教や慣習に捕われることは、危ないと言っているのです。長くクリスチャンいわゆる『やっている』と危険です。恵みを忘れ、高慢になります。その時、つまづきます!神が望んでいることは、先ず、形式的な宗教ではなく、17後半「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」全ての罪の根っこは、高慢です。それは、神に対して心が堅く、柔軟でなく、敏感でない心です。真に謙遜な心、自己主張が砕かれた心、頑固な高慢が謙虚な悔い改めの心に成る必要があるのです。良いことしても、それをも悔い改めるのです。。。宗教改革を起こした「九十五か条」の「1」で、ルターは、こう書きました。「1、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、〔マタイ4.17で〕『悔い改めよ』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを願ったのである。」悔い改め謙る心があると罪の力は弱まるのです。より聖く歩めるのです。。。多く用いられているニューヨークのケラー牧師は、一日に何回も、退いて、悔い改めの時を持ち、謙るのです。ですから、広く用いられているのではないでしょうか?

18−19、社会も、広く回復出来るのです。「どうぞ私ばかりか、この国、この民に御いつくしみを、また、堅固さを。」『社会がしっかりして、すこやかになりますように。』ダビデ王の罪によって、国家は、一番暗い危ない時にありました。しかし、回復されたダビデは、個人個人に教え、個人で讚美しただけではなかったのです。18節、都市の「エルサレム」、19節、公の礼拝にまでもインパクト残せるようになったのです。18節前半「ご恩寵」とありますが、1節の「恵み」のテーマに戻ります。恵みを真に体験する私たちは、個人だけではなく、教会、社会、隣人をも影響することができるのです。

ある人は「本当は、人は、変わらない」と言ってしまうのです。でも、ひどい罪を犯したダビデは、恵みと悔い改めによって、赦され、変わったのです。本や映画で有名なの「レ・ミゼラブル」に出て来る警察官ジャベールは、ジョン・バルジャンについて「しょせん人は変わらない」と言うのです。でも、ジャベールは、バルジャンの事を知らないのです。バルジャンは、高価なロウソクを盗んだ罪を神父さんに赦され、そのロウソクまで与えられたのです。深い恵みを体験したバルジャンは、劇的に変わるのです。彼の善良な人柄と言動が町の人々に高く評価され、市長にもなっていくのです。フォンテーンやコゼットを犠牲的に愛するのです。著者ヴィクトル・ユーゴーは、回復の福音を知っていたと確信しています。

どんなに人生をめちゃくちゃにしても、十字架を見て「父は、私をイエス様よりも愛しているのでしょうか?」と不思議に思えるのです。恵みによって赦され、変えられるのです。

Monday, September 19, 2016

燃え尽きからの回復


「燃え尽きからの回復はたやすいものではありませんでした。時々それは暗いトンネルの中のぬかるんだ道のようでした。けれども、神様はいつも私のそばにいて、私を教え、私を引き上げ、そして微笑みながら道を照らし、希望を与えてくださったのです。」アスリー・ボーマン

もっと読む:燃え尽きからの回復 Beating Burnout

詩篇42:11「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」

さらにもっと読む:Just Between Us Japan

Tuesday, September 13, 2016

「聖くして」


スコットランドの牧師であったロバート・マリー・マックシェーン(1813−1843)はこう祈りました。「主よ、赦された罪人がなれる限り聖くして下さい。」

“Lord, make me as holy as a pardoned sinner can be.” Robert Murray M’Cheyne

エペソ 1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」