Tuesday, September 22, 2015

「礼拝」



「礼拝は、教会の見失われた宝石である。」エイデン・トウザー 

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」ヨハネ4:23

Tuesday, September 15, 2015

先ず祈る人々


「神を知っている人々は、何よりも先ず祈る人々であります。。。(でも)われわれがどれほど神を知らないかを認めなくてはなりません。われわれは自分自身を評価する方法を学ばなければなりませんが、それはわれわれがどれほど神について知っているかとか、われわれがどんな賜物を与えられ、教会においてどんな奉仕をしているかによってではなく、われわれがどのように祈り、そして、われわれの心にどのようなことが起こるかということによって評価されなければなりません。われわれの中の多くの方が、この点について、いかに貧困であるかということについて、まったく知らないのではないがと思います。わらわれは主に祈って、このことについて示していただこうではありませんか。」ジェームズ・パッカー

使徒の働き6:4「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

Wednesday, September 9, 2015

「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」


ある方は「ダビデ(私)は、あまりにも十字架を強調する」と思っているようです。。。でも、十字架を教会の建物の上などに掲げているように、歴史的に教会は十字架を重視して来ました。

聖書全体が十字架を強調しているからです。旧約聖書は、十字架を強調しています。子羊の犠牲は、創世記4章から語られています。その子羊が人の身代わりになったように、神の子羊イエス・キリストが十字架上で身代わりとなったのです。この犠牲は、旧約聖書に「全てのページ」に出て来ます。でも、イザヤ53章がキリストの予言の一番大事な箇所ですが、十字架を強調しています。6節「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」また、ヨセフとダビデ王は、メシアキリストの形で、先ず、その二人の生涯には、苦しみがあって、そして、栄光があるのです。

新約聖書も、十字架を強調します。福音書は、確かに復活で終わっていますが、その前を読むと、苦しみを何章も語っています。プウロやペテロの手紙を読むと、イエスとその十字架が強調されています。ローマ 3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」キリストの主権を強調するヨハネの黙示録でも、30回以上、キリストの犠牲を意味する「子羊」と言うイエスの名を使っています。信仰もって洗礼を受けますが、それは、キリストの十字架と復活を描いています。私たちが毎月行っている聖餐式もキリストの十字架を重視するように語っています。パウロは、ガラテヤ 6:14前半 でこう語っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」1コリント 1:23 「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」

歴史的に見ると、リバイバルの時には、二つの恵みが特に強調されたようです。それは、罪とイエスの十字架です。私は、今から、他の聖書の真理を大事にしながらも、それを強調したいです。。。私は、このブログのように、福音、特に十字架バカです。

Monday, September 7, 2015

「グロリー」


先週の土曜日、家族皆で映画「グロリー」(英語名:Selma)を見に行きました。とても良かったです。キング牧師の平和的人権運動についての映画です。暴力も十分ありますので、小学生以下は、遠慮したほうがいいと思います。私たちが行く松本のCinema Lights Eightは、今週の金曜日(11日)まで見せています。映画「グローリー -明日への行進-」公式サイト

映画の最後に、題名のように「神に栄光」という歌で終わります。聖書:ルカ2:14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

Wednesday, September 2, 2015

責任という概念


第二次世界大戦後、「昭和天皇は戦争犯罪人か?」と問われました。日本を良く知っていたマッカーサー元帥は、日本の将来のために、日本を治めるために『処刑されることは最善ではない』と分かっていました。そして、マッカーサーは、天皇の罪の証拠を処分してしまいました。天皇は、確かに、戦争の最後は、平和を勧めていましたが、初めは、戦争を応援していたようです。彼も、自分の戦争責任を認め『国民のために死ぬ』とマッカーサーに言ったようです。

でも、彼は、戦争責任を問われませんでした。ある日本のリーダーは、この連合軍の寛大さを認めました。でも、ある方は、それ見て「罪の責任は問われないのか?」と思ったようです。「彼が問われないのなら、私たちも。」そして、ある学者は「その時から、日本人は、責任という概念を間違ってとらえて来た」と言っています。

どうでしょうか?ある人は、責任を負いすぎて、止めたり、ある人は自殺までしてしまいます。やり直しのきかない恵みのない行動です。ある人は、聖書の創世記のアダムとエバのように、世間のように、他の人に責任をなすり付けます。または、うやむやにしてしまいます。

クリスチャンは、責任を取るのです。でも、それは、聖書的・福音的方法です。自分の罪を認める事から始まります。本当は、自分が『黒幕』と分かるのです。「責められるべきは、私」と認めるのです。でも、また、創造主である主キリストは、十字架の上で私たちの罪の責めを全て負おって、責任を取って下さったことを信じ受け入れているのです。そして、十字架の愛によって変えられます。もう罪の責めを負っていないから、止めないで、神が与えた神と人への愛の任(任務)を喜んで努めるのです。。。英語では『責任』はresponsibility”と訳し、応答するという意味です。私たちは、十字架の恵みに応答するのです。その責任があるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:23−24