Sunday, December 24, 2017

ガラテヤ4:4−5「クリスマスの意義」


ガラテヤ4:4−5「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

メッセージを聞く:松本豊かな命教会 (Matsumoto Abundant Life Church) Live Stream - YouTube

ナポリオン・ヒルは、現代人に7つの不安と恐怖があると指摘しました。それは、老いて行く恐怖、死の恐怖病気の恐怖、貧しさの恐怖、失敗の恐怖、愛を失う恐怖、自由を失う恐怖。心にある恐れをあまり人には見せませんが、何の恐れであっても、心の奥深くにひそんでいるのです。。。聖書は、恐れについて、どのように語って下さっているのでのしょうか?。。。今日のポイント。クリスマス(キリストが来て下さる事)は、恐れを取り除き、安心を意味しています。

1。4節、クリスマスの事実。その歴史性。クリスマスの事実、その意義が深く心に入ると、本当の安心が与えられるのです。

先ず、面白い角度から。サンタは、本当の歴史にいた人物でした。最近、南トルコの辺りに、本当のサンタクロースの墓が見つかったのです。西暦343頃、天に召されたのです。実名は、聖ニコラウスで、墓は、教会の下でした。彼は、多くの遺産を貧しい人や病人に与えたのです。子供が好きで、多くのプレゼントを密かに上げました。後、寛大な人として有名になりました。

でも、サンタの歴史性よりずっと大事なのは、イエス・キリスト、その誕生と生涯の歴史性です。ガラテヤ4:4「しかし定めの時が来たので」とあります。そして、歴史に何が起こったのかを記録しています。「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女(マリア)から生まれた者。。。となさいました。」クリスマスですね。当時の世界は、世の救い主の誕生の為に丁度良かったのです。ギリシャ語が共通語で、ギリシャの文化が広まっていました。ローマ帝国によって、比較的に安全でした。ユダヤ人は、救世主を期待していたのです。そして、主イエスは、歴史上事実生まれ、人の間に住まわれました。。。西暦後37頃から100頃、ローマ帝国に仕えていたユダヤ人歴史家ヨセフスが「古代史」でイエス・キリストについて記録しました。「そのころイエスという者が現れた。もし人と呼ぶべきであるとすれば、まことに賢人そのものであるといわねばならない。なぜなら、彼は、驚くべきわざをなし、喜んで真理を受け入れる人々の教師であった。彼はユダヤ人ばりでなく、多くのギリシャ人をも指導した。この人がキリストであった。そして彼は、我々の指導者達の非難を受け、ピラトウスが彼を死刑にした。先にキリストを愛した人々はとだえることはなかった。そして今でも、彼にちなんで名ずけられた『クリスティアノス』の一族は消滅しない。」都合良いおとぎ話しではなく、キリストは、本当にこの世に来たのです。本当に救いを与え、本当に安心を与えるのです。

2。5節、クリスマスの意義。5節で「ため」という言葉が2回繰り返されてあります。なぜキリストがこの世に来たのか?その理由が書いてあります。一、私たちを贖うため。二、神の子どもにするため。究極的な安心は、生ける神の子供であることです。私たちは、肉体的に、肉の親から生まれたように、私たちは、霊的に(心の面で、神に対して)天の父によって生まれなければなりません。

一、5節前半、束縛から「贖い出すため」とあります。最近学校のきつすぎるルールを「バラック拘束」と行っているようです。歴史家阿部謹也(きんや)氏は、こう書いています。「私たちは皆『世間』の中で生きている。この『世間』が欧米にはないもので、日本独自の生活の形である。日本には『世間』という人と人の絆があり、その『世間』が個人を束縛している。私たちは自分の意見を積極的に述べることに得意でない。特に全体の意見とは異なる自分の意見を述べることには消極的である。なぜなら『世間』の中では目立たないことが大切であり、控えめな態度が求められているからである。服装も態度も『世間』とあわせなければならない。言葉では個性的な生き方は求められていても、現実には顰蹙(ひんしゅく)を買うのである。周囲に合わせて生きてゆく生き方が私たちには求められている。」。。イエス・キリストは、そのようなしがらみから、私たちを解放するために来たのです。キリストは、私たちの代わりに、縛られ、むち打たれ、十字架上に釘づけられ、死なれました。それは、私たちを束縛から「贖い出し」、解放するためです。生ける神を礼拝し、人を愛する事が出来るように、自由にして下さるのです。

二、5節後半、「子としての身分を受けるようになるため」とあります。そのために来たのです。ここに究極的な安心があるのです。天地宇宙を造った生ける神御自身の子供になれるのです。

ファーガーソン牧師は、こう言います。「救いは、本当に恵と愛によって存在することを私たちは信じられないのです。その意味合いを理解するのに苦しむのです。私たちの身分は、(神の)子供なのに、僕の考え方をもっているのです。」神の子どもであることを信じて、多く知って、それでも捨てられた、孤独を感じます。「頑張って、良いクリスチャンになるから」と言って、自分に集中し、過去の失敗や罪集中し、父なる神さまに本当に愛されているとは到底思えないのです。常に自分は、失格者と思い、罪悪感を感じる。つまづく時、立ち直れない。自分を罰する。批判に敏感。人と比較したりして、ねたむ。自分を防御する。神様の子供としての身分を持っていながらも、それを実感していないのです。

イエス様は、なぜこの世に来たのですか?贖い出すため、神の子供としての尊い身分、権利、特権を与えるためです。。。この「子としての身分」は、当時、法律的な意味があったようです。養子の子供を「父親との特別な関係に置いたのです。過去の負債は、全て抹消され、養子となった人は、その家族の中で完全に新しい生活を送りはじめたのです。」。。私たちは、キリストを信じる信仰によって、罪が取り除かれ、義と認められるだけではなく、子としての身分が与えられたのです。理解に苦しむことですが、父なる神が御子なる神イエスを愛するように、私たちをも愛するのです。私たちは、安全で、安心出来るのです。神様との関係は、保証されているのです。

宗教改革のマルチン・ルターは、先ず、弁護士でした。後、修道士となった彼は、旧約聖書の律法を学んでいたのです。彼は、聖い正しい神の要求を知っていたのです。そして、それによって彼は、気が狂いそうでした。静かな孤独な所でおこりました。ルターのいわゆる「塔の体験」は、世界の歴史を変えました。ルターは、自分の体験をこう書きました。『私は、パウロのローマ人への手紙を理解したくて嘆いていました。一つだけの表現「神の義」が理解出来なかったのです。なぜなら、私は『神が正しくて、正しくない人を裁く正しさ』だと思っていました。私の情況は、こうでした:私は、完璧な修道士でした。が、私は、良心の痛む罪人として神の前に立っていたのです。また、私の行いが神を喜ばす自信は、ありませんでした。ですから、私は、正しい怒る神を愛していませんでした。いや、神を憎み、文句を言っていました。。。夜も、昼も、私は、考えました。私は、やっと「神の義」と「義人は、信仰によって生きる」と言う両方の言葉を関連づけました。私は、つかんだのです。神の義は、こうだと分かりました。『ただ恵みによって、あわれみによって、信仰(信じ仰ぐ事)によって、神は、義と認める。』それゆえ、私は、生まれ変わったのを感じました。開いた戸を通ってパラダイスに入ったのです。』。。ルターは、私達に語りかけます。『あなたは、キリストは、自分の救い主だ、と言う真の信仰があれば、その時、あなには、恵み深い神を知っているのです。なぜなら、信仰は、あなたを導き入れます。信仰は、神の心と志しを開きます。そこで、神の聖い恵みと溢れる愛を見る事が出来ます。信仰によって神を見る者は、天の父を見、慈しみ深い友を見ます。』天の父を見!!!

私の親は、私に何回も「あなたは、私の愛する子。私は、あなたを喜ぶ」と言いました。親に言ってもらうのは、嬉しいです。でも、天の父は、イエス様に言ってように、キリストを信じ仰ぐ私にも、あなたにも、言っています。「あなたは、私の愛する子。私は、あなたを喜ぶ。」ここに本当の安心があります。

イエス・キリストが生まれ、十字架上で死なれたのは、私たちに「子としての身分」立場を与えるためです。でも、さらに、聖霊様がその身分を心の中で理解させ、主観的に実感させて下さるのです。神の子どもであることをより確信させて下さるのです。イエス様を信じる信仰によって、客観的に罪が赦されたからこそ、御霊が霊的に精神的な深い所の心に安心を与えるのです。救いは、あなたの知識や理屈だけではなく、感情にまでに入って来るのです。神とより親密な関係を持ちたがるのです。神様の子供である確信は、キリストの贖いのゆえにあります。が、聖霊様がそれを適用すると、より確信を持てるのです。このような確信は、他の哲学、宗教にはないです。私たちは「『世間』から排除されることを最も恐れて暮らしている」と阿部氏は言います。しかし、聖書は、こう言っています。『けして神から、神の愛から、子としての身分から私たちを排除されることはない』と。

どのようにしてこの「子としての身分」を体験出来るのでしょうか?先ず、体験そのものを求めないのです。こうするのです。御子イエス・キリストを通して私たちを贖なった神を誉め讃えるのです。聖書を読みながら「神様、あなた様を表して下さい。あなた様なくしては、私は、ナッシング」と叫ぶのです。神様御自身を崇めるのです。その聖さ、恵みと愛の麗しさ、十字架を仰ぎ見るのです。

神の子供としての身分を体験出来るのです。このように描いてみましょう。あるお父さんは、自分の小さな息子と歩いています。息子は、お父さんを知っているし、お父さんの愛をも知っています。でも、突然お父さんは、止り、息子を抱き上げ、抱きしめるのです。口ずけするのです。男の子の身分は、前とは変わらないのです。でも、新たにその身分を喜んで、お父様の愛を深く深く知るのです。。。私たちは、このように、さらに神の愛を実感出来るのです。

赤ちゃんは、叫ぶ時、親は、いつでも来てくれると思います。私たちも、天のお父様を「パパ」と叫び、祈ることが出来るのです。。。アブラハム・リンカーンが内閣と相談していた時でした。障害をもっていた息子が突然入って来ました。リンカーンは、国の相談事を止め、その息子を抱き上げ、注目しました。。。天の父も、私たちに、それ以上をしてくださるのです。

2000年前のある日、ギリシャのアレクサンドロス大王の将軍の一人が大胆に彼にお願いしました。「娘を嫁に行かさなければならないです。お金が必要です。」「あなたは、素晴しい将軍。喜んでする。どのぐらい必要?」将軍は、信じられないような金額を言いました。アレクサンドロスは、怒らないで、喜んで「もちろん、私の宝の倉庫に行け。必要な全てもらいなさい!」と言いました。将軍がさって行きました。そして大王に回りに人は、驚きながら、聞きました。「どうしてそんな金額を上げたのですか?その上、喜んで?」「その莫大な金額を願う事によって、彼は、私の寛大さと栄光を認めたのです。」。。私たちは「生ける神が私たちを御自身の子供にしてくれなんて」信じられないのです。でも、そうです。信仰によって、生ける神の子供です。信じましょう。そこにある特権を喜びましょう。

高校生の頃、弟ダン、同級生のキースと私が青木湖でキャンプしました。他の皆がキャンプする所ではなく、けっこう離れた暗い所でした。怖かったです。父が連れて行って下さいました。でも、父が帰って来て、拾って下さった時の安心を今もはっきり覚えています。親が与える安心です。でも、天のお父様の、イエス様とその贖いを通して、知る安心は、その愛は、どれほど素晴しい事でしょうか?1ヨハネ 3:「私たちが神の子どもと呼ばれるために、−事実、いま私たちは神の子どもですー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」

阿部氏は「世間」はこう言うと書きました。「どのような宗教にせよ熱中してはならない。どのような思想でもそこに自分を賭(か)けてはならない」。しかし、私は、私たちは、この方イエスに全てをかけ、熱心になり、喜ぶのです。なぜなら、クリスマスの意義は、次です。こんな私たちのために主イエスは、生まれ、私の罪を負い、代わりに死なれたのです。私たちを解放し、子供にし、安心と意義を与え下さいました。ですから、私たちは、この恩方を信頼し、喜んで熱心になり、恩方に全てをかけるのです。

Monday, December 18, 2017

メリークリスマス


最近OPENしたAEONMallで奈帆とデート。
(子供もpostしたいですが。。。)

Wednesday, December 13, 2017

詩編1編 「神との交わり」



「今のこの自分で良いだろうか?」と思ったことはありませんか?なかなか成長してないように感じませんか?ある誘惑にいつも負けている、人を赦せないように感じませんか?解決のカギは、心の奥底から『福音の力によって、キリストの似姿に変えられる』ことです。でも、どのようにしてそうするのでしょうか?大事な手段の一つは、聖書的黙想です。英語では”Bible meditation”と言います。静まって、聖書と福音を思い巡らすことです。ファースト・フード(カップヌドル、コンビニ・ベンドウ、マックの)時代です。が、スローダウンして、聖書を読み、祈る必要があります。仏教の瞑想は、主に自分みずから来る『平安』です。カトリック教会は、聖書も含めますが、見える十字架、イコン()やマリヤ像などを用いて瞑想します。私たちのプロテスタント福音信仰的黙想は、心を静めて、聖書を中心にして思いめぐらし、生ける神に祈り、崇めることです。デボーション、静思とも言います。

聖書的黙想のキーワードは「神との交わり」です。英語では、”Communion with God”。私は、聖書の時間の祈りに苦しんでいました。命令形に線を引いて、名前のリストを頑張って神に捧げていました。でも『いや』に成っていました。あるベテラン牧師に聞きました。「どのようにして祈るのですか?」「交わり」と簡単に返って来ました。聖書の時間を主に「神との交わり」の時間にするのです。聖書を味わうことによって神の声を聞き、祈りをもって神との対話を持つのです。いつでも出来ますが、集中する時も大事です。具体的に、どのようにするのでしょうか?一、神の造った創造の中で。でも、特に、二、教会の礼拝と、三、個人の静思の時間の二つを特に用いて。

1。自然の中。詩篇19:1「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」星野富弘さんは、こう書きました。「一日にほんの一時でも静かなものと向き合いなさいと今日も花が咲いている。」

アメリカの牧師ヨナタン・エドワーズの体験は、こうです。「1737年、ある時、森の中を馬に乗っていた。静かなところで、馬を下りた。私は、この習慣を普通にしていて、歩きながら神について瞑想し、祈っていた。私は、神と人との間の素晴しい仲介者御子なる神の栄光を見た。彼の素晴しい、偉大な、満ち足りている、清いまた甘い恵みと愛、また謙遜と柔和な謙り。この恵は、とても静かに心地良く現れ、天より高く偉大なものとして現れた。人としてのキリストは、全ての思いと考えを飲み込むような、言葉で言い表せないほど素晴しい方として現れた。これは、判断出来る限りだいたい一時間続いた。この多くの時間、涙が溢れ、大きな声で泣いた。私の魂が熱心になるのを感じた。他の言葉で言えないが、私は、空にされ、絶やされた気がした。何もない者とされて、ただキリストで満たされた。聖なる清い愛で彼を愛すること。彼に頼ること。彼によって生きること。彼に仕え、従うこと。天からの神の清さで完全に聖別され、清くされること。私は、他の何回も、似たようなことを実感し、似たような効果もあった。」。。自然の中で、このようにキリストを体験し、心から変えられる可能性もあります。

2.教会礼拝。使徒の働き2章で、礼拝は、聖書、神、福音について、思い巡らし、喜ぶ時である、と教えています。使徒行伝2:41節「みことば(福音)を受け入れた者は、バプテスマ(洗礼)を受けた。」42節「そして、彼らは使徒たちの教え(聖書)を堅く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐式をし)祈りをしていた。」この教会礼拝が、43−45、他の行動に移ったのです。「不思議。。。共有。。。分配」が、礼拝から来る実践でした。46—47の礼拝と「讚美」があって、47節後半「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」のです。初代教会は、実践に移したのですが、先ず、共に御言葉の福音を吸収していたのです。

これは「恵みの手段」とも言います。(1)最近、豊かな命キリスト教会の熊谷兄が昔の羽田野姉の洗礼の写真を見せて下さいました。その時、印象的なのは、羽田野姉は「ハレルヤ!」と言って、水から出た事でした。私たちは「洗礼」を通して、福音を思い巡らし、福音によって生かされていることを喜ぶのです。水に入り、上がることで、私たちが主イエスの十字架の死の恵みと復活の力に預かっていることを覚えるのです。(2)「教え」のメッセージでは、御言葉を忠実に伝え、聞き入れ、神御自身とその十字架による救いの御業を覚え、讃える時です。メッセージは、私たちプロテスタントの特徴の一つで、とても尊い恵みの手段です。私たちは、御言葉を基盤として、黙想し、賛美し、祈り、交わり、伝道するのです。でも、メッセージを通して、私たちは、本当に御言葉と福音を黙想しているでしょうか?私たちのメッセージは、考えさせる、キリストを讃えるような内容でしょうか?そのような機会を与えているでしょうか?キリストを崇めているでしょうか?あなたは、メッセージ中、その後、神の栄光と恵みを思い巡らしているでしょうか?豊かな命キリスト教会は、メッセージを先にして、その後に、黙祷する時間を与えています。(3)「祈り」や「讚美」を通して、私たちは、メッセージに応答し、偉大な恵みの神を喜んで、その御業を感謝しているのです。。。また、歌いながら、その真実を新たに考えると、感情が真理と共に動いて、福音のメッセージがより心に浸透するのです。。。どうでしょうか?その後の一週間、その歌が自然に出てくる時あれませんか?(4)「パンを裂き」とあります。が「聖餐」も、恵みの手段の大事な一つです。私たちプロテスタントは、それをより強調しても良いと思います。メッセージは、主に耳で聞く福音です。パンとブドウ酒は、キリストとその十字架の恵みを見て、手に取って、味わう福音です。。。急がないで、贖いを思い巡らす機会を与えるのです。(5)「伝道」を通して、一般の人にも、この恵みを思い巡らし考えて欲しいのです。先ず、私たちの態度と行動を通して。でも、また、時が来たら、言葉を通して。。。ブレーズ・パスカルの「パンセ」は、英語で”thoughts”(考え事)という意味で、日本語では「瞑想禄」と言います。内容を見るとパスカルは、人々にキリストとその福音について深く考えて欲しかったのです。私たちは、礼拝で、聖書を通して、神や福音について、考えるチャンスを皆に与えているでしょうか?あなたは、礼拝中、他のこと(学校、仕事、家庭、娯楽)で心が散っているでしょうか?ただ頭でっかちになっているでしょうか?集中し真に主キリストを考えて、喜んでいるでしょうか?ただ忙しく礼拝し、ただの行事を行っているでしょうか?

3.個人的の静思の時間。詩篇1:2「まことに、その人は主のみおしえ(御言葉)を喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」「口ずさむ」は、どういう意味でしょうか?辞書では「歌やメロディなどを何となく声に出して歌ったりすること。」ヘブライ語の「ハーガー」と言う言葉で、「小さな声でささやく」という意味です。生ける神の臨在を実感し、聖書を思い巡らし、それについて祈ることだと思います。牛が草などを食べる姿と似ているようです。牛は、噛んで、飲み込んで、また口に出して、さらに噛んで、また飲み込むのです。草がより細かくなり、消化に良いだそうです。私たちは、御言葉、その福音を思い巡らし、祈りや讚美を通して口に出すのです。ゆっくりチョコレートを味わうことと似ています。口にとろけて、味や感触を喜ぶのです。そのように聖書を味わうのです。それをどのようにして具体的にするのでしょうか?

1.詩編1:2、聖書を、すなわち神を「喜ぶ」ことを優先しましょう。自制してすることも大事です。数100年前、英国国教会のリチャード・セシルは、こう指摘しました。「キリストに仕える聖職者の1番の弱点は、デボーションの習慣の欠乏です。」そうです。でも、恵みよって愛されていれば、私たちの行動の全ては、特にこの静思の時間は「喜び」の時です。ただ義務的に嫌々ながらするのではなく、ただ聖書の知識を得る為、ルールを守る為にするのではなく、神を喜びながら、麗しい方と交わる為にするのです。御言葉を喜んでいれば、楽しんで黙想できます。 愛する人から手紙が来たら、それを喜んで、何回も何回も読むことと似ています。

2.決まった特別な時間をとっておきましょう。「昼も夜も」聖書を味わえますが、特別な時間もとっておくのです。私の場合は、朝一番です。が、あなたにとって一番良い時間を考えて下さい。少なくても、15分は、必要だと思います。ある人は、それを30分、45分、1時間にして、楽しむことも出来るようになるのです。ジョギングしたい時、いきなり5キロをすると、嫌になって、止めます。しかし、先ず、1キロを志したら、出来るでしょう。先ず、15分、神との交わりの時を持ちましょう。

3.静かな「取って置きの」場所を選びましょう。世の中には、雑音が多いです。主イエスは、こう言われました。マタイ6:6「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」キリシタン大名高山右近は、茶室で瞑想しました。私は、寝室の1/3を本棚で区切って、神との交わりの時きを持ちます。

*聖書的黙想は、「神との交わり」で、対話です。神は、主に聖書を通して私たちに語り、私たちは、祈りを通して神に語るのです。先ず、その時間を一言で主に祈り委ねましょう。

4.黙想の基盤を「主の御教え」聖書にしましょう。神は、生ける天地を造られた神ですから、謙虚に、先ず、神の声を聞きましょう。でも、どのようにして、神の声を聞くのですか?聖書を読み思い巡らし味わうのです。

先ず、聖書箇所を選びましょう。いろんな考えがあります。が、長い箇所を選ばないほうが良いと思います。私は、旧約聖書では、1章だけにします。新約聖書は、一段落のみです。

次ぎ、聖書を目の前にして、聖書の学び方を使いましょう。例えば「5WH(何?誰?いつ?どこ?ねぜ?どのようにして?)をその箇所に聞きます。または、文法をみたりします。「しかし」のような接続詞、繰り返された言葉、比較とか対照。直感も使います。大事なのは、少しの時間をかけて、その箇所をいわゆる観察し、思い巡らし、味わうのです。その箇所に対して、このような質問を問いかけるのも良いでしょう。私が悔い改めるべき罪は?キリストの恵や贖いは、この箇所でどのように教えられている?「キリストは、血潮を流すほどに私を愛している」ことをその箇所を通して覚えるのです。神をどのようにして崇め、神に従える?それで、黙った神の声を聞くのです。

多分一番良いのは、その中で、一言、一つのアイデアを心にとめ、思い巡らすことが大事だと思います。ピューリタンのリチャード・バクスターは、こう書きました。「黙想を通して、私たちの心が温まるまで思い巡らすのです。」思い巡らす事によって大事なものを心に訴えるのです。自分の心に説明し、説教し、いわゆる「討論」までするのです。

5.聖書から、また自由に主を崇めましょう。今度は、私が神に声をかける、ささやき、歌うのです。「私は、ここで住み、生かされ、讚美する。ここで愛され、愛するのです。私は、ここで天の合唱団の一員となるのです。私の声も、そのメロデーを取り上げましょう。」このようにして、神の栄光とその恵みに、深く感動しているので、讃えるのです。そのようにして、この福音がさらに心に深く入ります。 時間が増えると、詩編一つを通して主を讃えるのも良いでしょう。または、賛美歌を歌うのも良いでしょう。

6.あらゆる祈りを捧げましょう。恵を味わって、喜んでいるから、御言葉に従い、実践出来るように祈るのです。自分、家族、同級生、職場の人、教会の人、隣人のために祈るのです。この時、リストを使っても良いと思います。父は、御言葉の人でした。母は、祈りの人でした。リストを使って多くの方のために祈りました。恵みですが、訓練でもあります。自制し努力して祈りましょう。

7.黙想を一日中しましょう。集中して御言葉を味わい、祈ると、「昼も夜も」(一日中)できます。その御言葉を良く考えて、祈っているから、自分のものに成って、一日中思い出せるのです。「私は、忙しくって無理です!」と言う方がいるでしょう。あるサラリーマンは、その日の中心の御言葉を3バイ5カードに書いて、ポケットに入れていました。その日、思い巡らしたのです。集中した神との交わりが生活の中での交わりを促します。

私は、まだまだこれについて学んでいます。ジェリー・ブリジェッスは、こう書きました。「霊的訓練は、私たちを束縛するためではなく、私たちに恵を与えるためにある。」恵ですから、先ず、形ではなく、「神との交わり」であることを忘れないで下さい。「神との交わり」を一日15分間でも少し実践してみて下さい。イエス様とその贖いを楽しんで下さい。神との交わりの時間によって、あなたは、詩編1:1のように、少しずつ、罪の力から解放され、成長し、精神が癒され、3節「実」の多い人に成ります。心の奥底から『福音の力によって、キリストの似姿に変えられる』のです。これこそクリスチャンの真の願いです。


Sunday, December 3, 2017

神聖な瞑想


「1737年に、私が健康のために森で乗馬をしていたときのことです。静かな場所で馬から降り、いつものように神聖な瞑想に浸り祈っていました。そのとき驚くべきもの見たのです。神と人間との間の仲裁者である御子の栄光と、素晴しく、偉大で、満ち満ちていて、純粋で甘く芳しい恵と愛、そして柔和で、優しい謙遜です。それは一時間ほど続いたと思います。それを見ながら私は長い間涙を流し、大声で泣きました。」ジョナサン・エドワーズ

コロサイ1:15−20「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

Sunday, November 26, 2017

ニュース


父母(ジャンカーCF & パトリシア)が始めた豊かな命聖書書店で宗教改革関係の展示と
リーダーシップについての学びが最近新聞で紹介されました。



クリスマスのプレゼントをこの書店でぜひ買った下さい。

Sunday, November 19, 2017

『受けるよりも、与えることが幸いである。』


愛するクリスチャンよ、あなたがたは、夜も昼も真の葡萄の木(キリスト)の枝になれるように祈ります。あなたがたは、キリストのかたちに造り変えられるように祈ります。ならば、キリストのように施しをするべきです。「キリストは、富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」

反対第1、『私のお金は自分のもの。』応え:キリストは『私の血は私のものだ。私の命は私のものだ』と言えた可能性があります。だったら、私たちは、どうなったいたでしょうか?

反対第2、『貧しい人は値しない。』答え:キリストは『彼らは、罪深い者で、こんな人のために命を与えましょうか?良い天使に与えましょう。』しかし、そうしませんでした。100匹をおいて、失われた1匹を見つけました。値しない者のために血潮を与えました。

反対3、『貧しい人は、それを悪用します。』答え:キリストは、同じことを言えたでしょう。さらにより的確に。キリストは、多くの人が御自身の血を踏みにじることを知っていました。ほとんどがそれを軽蔑することを。その血によった罪を犯す言い訳にすることを。それでも、血潮を流されたのです。

ああ、私の愛するクリスチャン、キリストのように成るのなら多く与えなさい、常に与えなさい、自由に与えなさい、罪深い貧しい人たちに、感謝しない、値しない人たちに。

キリストは、栄光に満ち、幸せです。私は、お金を願っているのではなく、あなたの幸せです。キリスト御自身の言葉を覚えなさい。『受けるよりも、与えることが幸いである。』」

ロバート・マーリー・マックシェーン

造り主は、「驚くばかりの恵み」を私たちのような値しない人に無償で与えています。それと似て、それに値しなくても、私たちの献金と行いを物質的に恵まれてない人々に与えるのです。

エペソ2:3、4、6「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

Wednesday, November 1, 2017

CPI


先週、埼玉で、日本全国からの牧師と宣教師(600人ほど)がCPI (Church Planting Institute) に集まりました。ある方は、元々、フィンランド、スイス、南アフリカ、ドイツ、香港、台湾から来ました。北海道や沖縄からも来ました。

主なテーマは『福音に生かされ、奉仕する』ことだと感じました。『人を造り変える福音の力』(The Transforming Power of the Gospelと言う記事が渡された小冊子にありました。次が序文です。

私(ステイーブン・チルダーズ)は回復途上にあるパリサイ人です。私は、神からの賞賛よりも、人からの賞賛のほうを好みます。神様を本当に知る事より、神様に関する知識や敬虔らしさを優先させてしまいます。私は長年の間に、自分の霊的現実(リアリテイー)の欠如を巧妙に隠す手段を覚えました。福音の正当性を主張することが出来ますが、自分の生活の中で、福音の人を造り変える力を経験することはしばしば失敗します。

数年前フロリダ、オーランドの改革派神学校で、牧会の博士課程の授業を教えていた時、私の中にあるパリサイ主義の根深さを明らかに示されました。ある日の授業で私の一緒に教えていた同僚は、そのクラスにいた多くの牧師やクリスチャンのリーダー達が失望し、霊的に敗北しているようだということに気付きました。私自身も戦い、苦しんでいました。しかし私の場合、それを見事に隠して教壇に立っていたのですが。

私の同僚は彼の周りで人々が痛みを抱えているのを見て、私をそばに呼び、クラスを三人ずつのグループに分けて、お互いに福音を伝えあうようにさせたらどうかと言いました。私は驚いて、「何だってそんなことを。」と思いました。「彼は、クラスの中に本当のクリスチャンではない人がいると思ったのだろうか。授業を中止してお互いの必要を分かちあい、祈りあうというのならわかるけど、お互いに伝道しあうなんて。」

しかし、彼が説明するにつれて、自分の考えがいかに間違っているかに気付きました。福音はノンクリスチャンだけに必要なもので、信じてクリスチャンになった後の生活には、あまり関係ないものと考えていました。その日から私は、福音は私が一度だけ通れば良い門ではなく、日々そこを歩いて行くべき道なのだということがわかり始めました。。。。

もっと読む『人を造り変える福音の力』

Thursday, October 19, 2017

デボーションの習慣


「キリストに仕える聖職者の一番の弱点は、デボーションの習慣の欠乏です。」リチャード・セシル

詩篇1:2−3「まことに、その人は主のおしえ(御言葉)を喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

Wednesday, October 11, 2017

「ダンケルクの奇跡」


歴史の大好きな私は、歴史の好きな長男、ジャシュア、と一緒に映画『ダンケルク』を見に行きました。とても良かったです。

1940年の5月、ヨーロッパの第二次世界大戦のはじめの頃です。ナチスは、すごい勢いで、西のフランスやベルギーのほうに攻めて行きました。ダンケルクという町を囲みました。フランス軍やイギリス軍を絶滅に追い込むことは出来たのです。でも、不思議に将軍達に反対し、ヒットラーが前進を止めたのです。

英国首相ウィンストン・チャチルは、イギリス本土への撤退を命じました。でも、せいぜい300,000人の中から20,000人が逃れると思いました。脱出の為に多くの大きな船から小さな船まで国民にお願いしました。渡った時、ドーバー海峡は、不思議に静けさがありました。

不思議に、ちょうどそのころ大陸のほうでは、嵐があって、ナチスの飛行機は、飛べなかったのです。後、ダンケルクの港や砂浜を攻撃しました。撃たれそうになった時も、イギリス軍の負傷者は、比較的に少なかったのです。結果的に、フランス軍人を含めて、335,000人の兵士が再び戦えるように無事英国に帰りました。

これは「ダンケルクの奇跡」とも言われています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?英国の方は「神に祈ったから」と言いました。

イギリスの国王ジョージ4世は、敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は、日曜日の5月26日を「国の祈りの日」(National Day of Prayer)にするように命じました。全国民が教会に行って祈ったのです。国王は、ロンドンのウェストミンスター・アビ教会で礼拝しました。。。そして、この祈りは、聞かれたのです。

次の日曜日、6月6日(日)「感謝の日」を持ちました。それで、会衆と聖歌隊は、次の詩篇124編を歌ったのです。
「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエル(神の民)は言え。
「もしも、主が私たちの味方でなかったなら、
人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、
そのとき、大水は私たちを押し流し、
流れは私たちを越えて行ったであろう。
そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
ほむべきかな。主。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。
わなは破られ、私たちは助け出された。
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

日本にいる私たちは、日本の教会のリバイバルと、国の本当の祝福をこのようにぜひ祈る必要があるのです。


Sunday, October 1, 2017

「恵です!」 ガラテヤ1:1−5


16世紀頃(日本では織田信長の少し前の頃)ヨーロッパでは、個人も、家族も、教会も、社会も、すごく束縛されていました。当時の教会は「行い、儀式、お金によって、人は、救われる」と教えていました。教会の多くの借金の返済のために「免罪符」の販売をドミニコ会修道士テッツェルに任せました。行き過ぎた販売への批判が、マルテン・ルターによる宗教改革のきっかけとなりました。。。宗教改革の始まりは、今年で丁度500年に成ります。。。スイスの宗教改者ジョン・カルバンは、こう言いました。教会は「多くの悪性の病気にかかって苦しんでおり、これ以上治療をのばしておけず、治療が遅れる。」。。私たち個人や家族、教会や社会は、どうでしょうか?本当の意味で解放されているでしょうか?真実な喜びがあるでしょうか?生ける神を、人を純粋に愛しているでしょうか?。。。私たちに何が必要でしょうか?聖書全体、このガラテヤ書は「恵です!」と断言しています。。。宗教改革は、ラテン語の”Sola Gratia”という文言を使いました。『恵のみ』という意味です。恵みは、値しない者を救う神の愛です。私たちの教会で使う主な学び「5Gs」のはじめのポイントは、Grace、恵です。私たちは、恵のみによって、救われ、成長し、変えられるのです。。。ガラテヤ書1:1−5は、恵について、こう語っていると思います。一、恵の源。二、恵の恩方。三、恵の目的。

1.    1−3、恵み:その源。

1−2、「パウロ」とあります。もちろんパウロは、源ではなく、ただの手段でした。でも尊い恵の手段でした。1節「使徒となった」は、2回繰り返されています。「パウロ」は、はじめは教会の「使徒」ではなく、逆に教会を迫害する宗教家でした。。。でも、ダマスコへの道で、1節後半「死者の中からよみがえった」イエス・キリストに劇的に出会ったのです。驚くばかりの恵みです。そして、神は、恵みの宣教のために人間「パウロ」という手段を用いました。

また、福音は、後、日本にも来ました。信長の頃、フランセスコ・ザビエルが来ました。この時期は、ある歴史家によるとChristian Era「キリスト教の時代」とも言われました。1610年頃のキリシタン人口は、60万人まで増えたと言われています。日本の人口の2割でした。。。後、明治維新の頃、ハンガリーから来たユダヤ系クリスチャン、バーナルド・ベテルハイム、が琉球王国(沖縄)に来ました。崎浜秀能と言う青年が、礼拝に出席し、信仰を持ちました。しかし、家族に迫害され、死にました。彼は、日本のプロテスタントの最初の信者と殉教者となりました。。。神さまは、手段(使徒、宣教師、信徒)を用います。恵みによって、あなたも、用いられるのです。

でも、1節、神が源です。パウロが信仰を持った後、何年かたって、トルコの南の方のガラテヤ地方で開拓伝道をしました。でも、このガラテヤの諸教会に宗教家が入って来ました。『パウロと彼のメッセージは、都合良すぎて、間違っている』とガラテヤの若い教会を惑わしはじめました。ですから、ガラテヤ書のはじめの挨拶から、パウロは、自分の使徒の権威を主張しはじめたのです。1節まん中「人間から出たことでなく、イエス・キリストと、父なる神によったのです。」パウロは、神さまから、直接、使徒としての任命と恵みのメッセージを受けたのです。人間が『こしらえた』ものではなかったのです。人間という手段をも用いますが、恵みのメッセージの唯一の源は、天地を造られた神、とその御言葉、聖書、です。

「皆には、宗教や道徳について自分で決める権利がある」と言います。ある面でそうです。でも、ナチスも、自分の信念を持っていました。『他の人種は、守らなくも良い、殺しても良い』という結論についたのです。神化論が言うように「弱い者は死ぬべきだ」と思っていました。日本も、第2次世界大戦「八紘一宇」(全世界を一つの家にする)という世界観で、アジアを侵略しました。信念です。でも、間違った信念でした。。。自分、家族、国家の信念より、私たちキリスト者にとって最大な権威は、生ける神の御言葉、聖書です。全てをそのフィルターで見るのです。宗教改革は“Sola Scriptura (聖書のみ)を主張しました。私たちの絶対的な権威は、人間ではなく、聖書である、と宣言しました。。。このガラテヤ人への手紙は、聖書の一部です。「パウロ」の名前が書いてあって、100%人間の書いた物です。しかし、同時に、聖書は、100%神が導き書いたもの、と教会は確信しています。神は、聖書を書くために、人間という手段を用いますが、聖書の大元は、生ける神御自身なのです。

宗教改革者、マルテン・ルターがドイツの国会で問われた時、自分の書いた書物を間違っていたと認めるかどうかを迫られました。ルターに対して激しい敵意を持った人たちもいる中で、ルターは、次のように語りました。
「私は聖書と明白な理性によって確信するのでない限り、私は教皇と教会会議の権威を認めない。私の良心は神のみ言葉にとらわれているのであるから。 私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、安全でもないからだ。」。。聖書が私たちの絶対的権威です。人を恐れないで、生ける神を恐れ敬い従うのです。

ジェリー・ブリジェズは、このように書いています。「私たちは、他人が何を考えているかをあまりにも気にしているから、私たちは、キリストにある自由を楽しめません。人に裁かれ、噂されるから、ことをしたり、しなかったりするのです。」。。私たちは、人への恐れを捨て、聖書、キリストの恵みと自由にしっかり立つのです。

聖書にこうあります。3節「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」当時、「平安」(シャローム)は、手紙や日常の生活の挨拶としてよく使われました。中東では、今も、そうです。でも、パウロは「恵み」という言葉を挨拶に付け加えました。キリスト教の特徴です。人ではなく「父なる神と主イエス・キリスト」が恵みの源です。。。この恵み深い力ある三位一体なる神は、あなたを変えることが出来ます。ですから、誰よりも、何よりも、この恵の神を仰ぐのです。

2.4節、恵み:その恩方。

4節まん中「私たちの罪のために」とあります。あの恵み深いお方イエス・キリストは、罪に染まっている私たちのために働いて下さったのです。私たちは、自ら恵を要求できる何の権利もない者です。私たちは、真に神を愛さない、人を愛さない、自己中心な罪人です。裁きに値します。でも、真実に罪を認める人に恵が多く注がれます。ローマ5:20後半「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

恵は、神中心、4節前半、キリストが中心です。宗教改革のもう一つの文言はSolus Christus” (キリストのみ)。イエス・キリストのみが私たちの真の救い主であり、主であり、王である、という意味です。イエス・キリストのみが私たちのために死んで下さった恵深いお方であるのです。。。文法的に、この文脈の全ては「キリスト」という言葉に、キリストという尊い恩方に、掛かっています。イエス様が全て行っています。この麗しい方は「御自身をお捨てになった」のです。神を愛さない、人を愛さない罪人の私たちをいわゆる「捨てる」べきです。でも、主イエスが代わりに「捨てられた」のです。私たちが捨てられないためです。神によって受け入れられるためです。限り無ない恵みを受けるためです。。。恩方とその御業を仰ぐのです。この恵の真実が深く心に入ると、あなたは、変わります。

これは、聞きたくない可能性があります。しかし、イエス・キリストは、他の宗教の創始者(孔子、釈迦、モハメット)とは全く違います。彼らは、けして自分のことを「救い主」とは言いませんでした。でも、イエスは「自分は、救い主である」断言しました。。。私たちは、溺れていいて、どうしようも無い状態です。人が「助けて!助けて!」と叫んで、湖で溺れそうな時に、「どうぞ」と言って、けして泳ぎ方のマニュアルを投げ込みません。イエス・キリストは、泳ぎ方を教えるためではなく、道徳を教えるためではなく、逆に私たちを救うために、代わりに生きて死ぬために来たのです。水泳教室の先生を送るのではなく、イエスみずから水に飛び込んだのです。そして、命を捧げたのです。キリストは、私たちの先生ではなく、私たちの救い主、いわばヒーローなのです。このようにして、4前半「今の悪の世界から私たちを救い出そうとした」のす。

日本で「世間体」があります。人は、束縛されているのです。でも、私たちは、日ごろ、「世間体」に捕われているかは、気づいていないことが多いです。あまりにも当り前のことでありすぎるために、日常的に慣習化している行動は、意識しないのです。ですから、なんらかの行動の後に、ふりかえってみて、他から指摘されて、はじめて、自分が「世間体」に捕われていると気づくのが普通です。私たちは、見えや、相手を喜ばせるような振る舞いや口先だけの言葉に捕われているのではないでしょうか?。。。また、私たちは、しばしば、神の愛を信じていると言いながら、条件つきの愛を信じているのではないでしょうか?やはり、救いや成長が、自分の敬虔さにかかっていると思っているのです。恵みによって救われているが、恵みによって生きることを本当は、信じていないのです。恵は、過去、頂いただけではなく、恵みによって現在も生かされて、恵みによって呼吸するのです。神は、私たちを恵みによって「救い出そうとして」解放し、喜びを与え、神と人を愛する者に変えようとしているのです。。。救い主を仰ぎ、見て、喜ぶのです。

3.  5節、恵み:その目的。

5節、恵の目的は、神の栄光です。「神に栄光がとこしえにありますように。」恵は、ひたすら神の栄光を表すのです。福音は、私たちがすることではなく、キリストがすることです。ただ恵みによって、信仰によって、神の側から、救うなら、人間が誇ることは、一切無いのです。栄光は、全て、神のものです。

スペインの十字架のヨハネは「Soli Deo honor et gloria」(神のみに尊敬と栄光)をと言う文言を使ったそうです。それと似て、宗教改革は“Soli Deo Gloria (神のみに栄光)とも言っていました。作曲で有名なヘンデル、バッハは、音楽をサインした時、名前と共に「soli Deo Gloria」と書いたそうです。バッハは、soli Deo gloriaSDG」の頭文字でサインしたそうです。恵を体験した彼らは、神の栄光のために作曲していました。。。恵みによって救われ、成長している私たちは、神の栄光のみのために生きるのです。

私たちの救いは、100%神がするものです。これが恵みです。が、私たちも、信じ仰ぐのです。宗教改革の5番目の文言は”Sola Fide” (信仰のみ)でした。私たちは、イエス・キリストを信じ仰ぐ事によってのみ救われ、神の子どもと成るのです。また、信じ仰ぐことを基盤として常に歩み、変えられて行きます。キリストとその恵深い十字架を仰ぎ崇める事によって、あなた個人、家族、教会、社会まで変えられて行きます。。。あなたは、イエス・キリスト、その十字架の御業を信じ仰いでいますか?。。。信じなさい。仰ぎなさい。新たに。

後にイギリスのリバイバルで多く用いられていたジョン・ウェスレーは、まだクリスチャンではなかったようです。彼は、大学の時代から自分を聖くしようと「ホリー・クラブ」で頑張っていました。アメリカに行って宣教師までしました。しかし、本当は、まだイエス・キリストに出会ってはいませんでした。ある日、ウェスレーは、ロンドンのアルダーズ・ゲート通りの家庭集会に集いました。そこで、ウィリアム・ホーランドがルターの「ガラテヤ書の注解書」から読んでいました。ルターはこう書いていました。「何?何もしなくても良いのですか?いえ、何も!ただ、私たちの知恵、私たちの義、私たちの聖さ、また私たちの贖いと成った方を受け入れるのです。」ウェスレーは、後こう言いました。その時「私の心が不思議に燃えました。キリストに頼ったのを感じました。。。その時、私が説明出来ないほどの力が私を被いました。その瞬間、私の大きな重荷が落ちました。私の心が平安と愛で満たされたあまり、涙があふれました。」読んでいたホーランドも似たことを書きました。「私に説明できないような力に被われました。すぐさま、大きな重荷が落ちました。私の心は、あまりにも平安と愛に満たされて、泣くほどでした。救い主を実際見たような気がしました。」ホーランドは、家々に回って、このルターの「ガラテヤ書の注解」をただただ読みはじめました。この福音は、このウェスレー、ジョージ・ウィットフィルドやジョナサン・エドワズを通して、大覚醒(だいかくせい)という素晴しいリバイバルを起こしました。アメリカやイギリスを変えました。

そして、あなたも、素晴しい変革を起こすキリストの恵みが必要です。恵の本当の理解によって、深く心に入ることによって、あなたが解放され、変わります。家族も。教会も、社会も。あなたは、解放されているでしょうか?喜びがあるでしょうか?愛しているでしょうか?キリストとその恵みの御業を信じ、仰いで、頼って、喜んでいますか?そうして下さい。今。

Tuesday, September 26, 2017

「何よりも必要」


「自分の会衆に何よりも必要だったのは私個人の聖さだ。」ロバート・マレー・マックシェイン

ピュリタン(清教徒)は、これを"GOSPEL HOLINESS"(福音から来る聖さ)と言います。

1ペテロ 1:15、16、18、19「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。。。ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

Tuesday, September 19, 2017

『喜びと重み』


「牧師の生活と説教において、『喜びと重み』は、軽率な魂を目覚めさせ、生徒らの重荷を和らげるように編み込まれているべきです。」ジョン・パイパー、著書「なぜ説教の中心は神なのか?」より

2コリント2:16「いったい誰がこのような務めに相応しいのでしょう。」3:5「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」


Wednesday, September 13, 2017

詩編95 「礼拝とは何?」



詩篇95編を読みましょう。

私たちは、今日、どのような心で礼拝に来たのでしょうか?私は、このように祈る時あります。「天のお父様、私の心は、冷たく鈍いです。堅いです。」。。今朝、誰かと喧嘩して、礼拝に来て、まだいらだっているでしょうか?長い間、教会に来て、礼拝などがマンネリ化しているでしょうか?また、堅い不信仰の心があるでしょうか?。。。私は、ウツと戦う時があります。数年前、ウツと戦っていて、宣教師なのに、日曜日の朝起きると「今日は、礼拝なのか?人にあいたくないなー」と思いました。でも、恵みによって、聖書と祈りの時間を持ち、その罪を認め、恵みによって心を入れ替えて頂きました。そして、礼拝の時間になったら、大丈夫でした。

先ず、礼拝そのものを深く理解する必要があります。聖書で教える礼拝は、何でしょうか?。。礼拝について教えていることで有名なのは、この詩編95編です。この詩編は、ラテン語で「ベニテー」と呼ばれ、「あなたが来ます」という意味です。「ベニテー」は、1節の「さあ」というヘブライ語の言語で「来れ」という意味です。また、6節にも「来たれ」とあります。小畑進牧師は、こう書きました。「集まりには集まったものの、なお心の備えの不足を覚えるものは、『さあ、来れ』」と招かれている。」8節「心をかたくな」な人も、悔い改めて、来るようにと招かれています。いろんな方が礼拝に招かれています。。。でも、礼拝とは何ですか?言い換えれば、どのように礼拝するのですか?

1。7節後半—11、頑なな心で礼拝しないのです。信じる柔らかい心で礼拝するのです。

順番を変え、先ず、7節後半—11節のネガティブを語りたいです。前半の1−7の前向きの雰囲気から一転し、とても厳しい忠告に変わります。8節後半「あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」頑なな不信仰な心は、もちろん礼拝ではないです。真の礼拝をするには、「かたくな」な不信仰の心を捨て、柔らかい信じる心に変えるのが『はじめの一歩』です。。。ですから、7節後半で、「今日」という、緊急性を表す言葉を使っています。霊的に眠った人に「起きろ!」と叫んでいます。。。また、ただのアドバイスを与えているのではなく、命令形を下しています。8節後半「あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」警告をならしているのです。デンジャー!危険!レッドカード!

そして、罪を指摘する、裁きに終わる厳しい例えを使います。出アジプト記17章の「レフィディム」での出来事です。9節前半、イスラエルは、奴隷の状態のエジプトからの素晴しい神の救いの「わざを見」ました。大きな恵みに預かったのです。しかしながら、彼らは「荒野」で不信仰な心で神を、9節後半「ためした」のです。神は「水」を与えないと思い、民は「恩を仇で返し」たのです。神と言い「争って」、「つぶやいた」のです。そして、救われ愛された民、でも、「頑なな」民に対して、神は、正しく「怒った」のです。人間的に言うと、むかついたのです。10節、不信仰の罪を指摘し、11節「(約束の地カナンの)安息に入れない」と裁きの言葉を下したのです。。。神をけして侮ってはいけません。生ける神は、都合の良い神ではありません。正しく裁かれる神です。しかし、この厳しい言葉に神の深い関心と愛があるのです。神が深い関心がなければ、このようには忠告はしません。また、この例えを読んで聞いている私たちに回復のチャンスを与え、回復のドアを開けています。

ゆとり世代は「叱られ慣れていない?」と言われています。「SNSの普及があって、自分と似通った仲間とのつながりに多くの時間を取っておくために、違った世代や価値観を持った人々と接する必要がない人間に育ってしまったようです。そのため、年上の人間との関わり方が分からず、叱られると萎縮(いしゅく)してしまうのです。」仕事を止めたりもするようです。。。神のいわゆる「叱り」を避けないように、聞くように!神は、愛を持って、立ち帰るように、叱って、忠告しています。心を柔らかくし、聞き入れなさい。
私たちは、洗礼を受け、長い間教会に行っている可能性があります。真面目にルールを守っている、リーダーである、神学をいっぱい知っている可能性があります。しかし、本当のキリストを信じる信仰を持ってないか、心が礼拝に入ってない可能性があります。このような人に神は、厳しい愛を持って「目覚めよ!危険だよ!心から悔い改めて、キリストを信じなさい!」と警告をしています。 
ジョナサン・エドワーズは、こう書きました。「もしあなたが一家の主人で、自分の子供が中にいる家の屋根が燃えていたとします。すぐにでも家全体が炎に包まれてしまうという差し迫った経験が、あなたには見えます。ところが、あなたが声をかけて呼んでも、子供は迫っている危険にまったく無頓着で逃げる様子もない時に、それでも冷ややかに、そして、無関心な口調で話し続けますか。置かれている危険な状態を教え、まだ猶予があるなどと思うことは愚かだと、熱心に語りかけ、できる限りの方法で一生懸命声を大にして呼ばないことでしょうか。そんなことは誰かに教えられないでも自然にそうするでしょうし、そうすべきでしょう。普段のどうでもいい会話と同じように何事もないかのように話し続けるなら、あなたの回りの人はあなたが気が狂ったと思うことでしょう。。。それならもし私たちが人の魂の救いを心底気にかけているなら、地獄がどんなところか理解ししているなら、救われていない者の状態を気づいているなら、我々の説教の聞き手は自分たちに降り掛かる危険を知らないが、私たちは彼らに迫り来る危険を分かっているなら、彼らが直面している悲惨さの恐怖を、強く、そして熱心に伝えないということは道徳的に不可能でしょう。その危機から逃げるように警告し、彼らに向かって大声で叫ぶことでしょう。」。。神からの警告を聞き入れましょう。「神へと逃れよ!」と。

あるピューリタンは、こう書きました。「皆の心に生まれながらの心の頑なさがあります。(はじめは)福音によって、柔軟になるとしても、その(福音の)手段を後に拒むなら、ろう(wax)と粘度のように、心は、生まれながらの頑なさに戻ります。ですから、私たちは、ひたすら神の近くにいなければなりません。全ての福音の手段を用いて、心の柔らかさを常に保つのです。最初に私たちの心を柔らかくした(福音の)手段を用いるのです。」

私たちが信実に礼拝出来ないように、しばしば心に不信仰という堅い岩があります。例えば、大雨の後のことです。山の中の村に援助が入れないように、大きな岩が道をふさいでいます。どかすためには、ダイナマイトが良いでしょう。でも、そのダイナマイトをただ岩の隣に置かないのです。岩の中深くまでドリルで穴をあけるのです。そして、ダイナマイトを奥まで入れて、爆破させるのです。。。福音を心の奥まで入れ、力強い働きをさせるのです。崇高な神は、小さなあなたのために死なれ、あなたは、愛されているのです。この神を崇めると、心が爆発するのです。癒されるのです。私たちは、聖書の福音の力によって、変えられるのです。真に礼拝出来るのです。

2.皆で礼拝するのです。1節「歌おう。叫ぼう!」2節「叫ぼう!」6節「ひれ伏そう。ひざまずこう!」他の人と共にするように、招かれています。アメリカは、個人主義の社会で、その考えは、日本にも入って来ています。でも、他のクリスチャンと礼拝しないと、自分にとって都合良いような信仰になって、キリスト教ではなくなり、鈴木教、林教、スミス教になってしまいます。個人の礼拝の時間も大事です。でも、私たちは、ただ一人だったら、バランスとった信実な礼拝はしにくいです。。。共に礼拝しましょう。

3、心を込めて礼拝するのです。1節「喜び歌おう。喜び叫ぼう。」2節後半「喜び叫ぼう。」日本では、キリスト者の集まりを「教会」「教える会」と言います。感情をあまり表さないのです。でも、理屈やただの知識で礼拝するように、招かれていません。私たちの神学が心に感情までに全身全霊に届くように、礼拝する必要があります。礼拝は、教えだけではありません。交わり、聖餐式、祈り、伝道。また腹の底から歌う感情のこもった讚美も大事です。神の偉大さとその御業を真に知ると、その真理を徹底させると、全身全霊までに伝わって行くのです。心がこもった礼拝と讚美を通して、私たちの知識は、生活にも徹底させられます。。。宗教は、ただの飾りになりがちです。『宗教をやる』と言います。オウムのような変な信仰があるから、宗教に「のめり込むな!」と言われます。確かに危険性は、あります。が、私たちは、家族や、教育や、仕事に懸命に取りかかります。生ける神は、それ以上に尊いのではないでしょうか?

*真実に心を込めて主を崇めると、逆に、人生にバランスがとれます。人生は、学校や、仕事だけではないのです。キリスト教が日本に入って来た前には、祭りの日だけが休みだったそうです。キリスト教会が入って来て、土日などは、休みになりました。私たちは「いっぷくして」安息日を覚えて、神を崇め、体を休ませるのです。聖書は「安息をとるように、人生にバランスをとるように」勧めています。先ず、神を心を込めて崇めて、体を休めて、優先順位が見えて、人生にバランスがとれるのです。

4、中身のある礼拝をするのです。ある方は「鰯の頭も信心から」と言って、真理は、どうでもいいと思うのです。雰囲気や儀式をとても大事にします。でも、礼拝は、それで終わってはなりません。聖書的に、神学的に濃いものでなければなりません。豊かな命キリスト教会では、先ず、神の啓示の御言葉からのメッセージがあって、次に、讚美があるのです。7節後半−11節のように、都合の悪い、聞きたくないものも聞き入れるのです。『ここの仏教、そこの神道、あっちのキリスト教が好き』と私たちは、自分の宗教をデザインしてはならないのです。聖書の存在する神をそのまま受け入て、ほんとうの礼拝が出来るのです。

礼拝の中身は、何でしょうか?小畑進牧師は、こう書きました。「まず、神への畏れ。しかしして、親しみです。このいずれをも欠かぬよう。そして、この順番を転倒せぬよう、です。」3節、生ける神は「主は大いなる神」であり、「大いなる王である」主権者です。その説明を4−5でします。主が全てを造ったから「山々の頂も主のものである。海は主のもの。」全てを治めています。そして、6節の応答があるのです。「私たちは伏し拝もう。」。。でも、神は、主権者だけではなく、7節前半「主は、私たちの神」です。海の底をも支配し、山の頂点まで支配する崇高な神は、ここでは「やさしくも、口笛を吹き、手を広げて羊を呼び笑顔をふりまく羊飼いとなっているのです!」遠いフォースではなく、人格的なお方です。人となられた神です。「私たちは、その牧場の民、その御手の羊である」のです。。。日本にいる私たちには、田んぼなら少し分りますが、この羊飼いと羊の例えは、ピンと来ません。簡単に言うと、神さまは、私たちを考えられないほど大事に大切にして下さるお方なのです。ヨハネ 10:11で主イエスは「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」そこまでするなら、安心して、崇めることが出来るのです。十字架を見て下さい。私たちは、人格的に犠牲的に愛されています。ですから、神の愛に感動し、喜び歌い叫ぶ、伏し拝むのです。

*礼拝の全てが大事です。ある人は、こう言うでしょう。「私は、小岩井先生や、誰々サンのメッセージを聞きに来ました。遅れて来ても良い。早めに帰っても良い。」が、常に遅れていれば、あなたは、礼拝を理解していません。メッセージからの情報だけではなく、礼拝全体があなたを変えます。真の礼拝の全てによって、あなたの人生は、変わり、形作られます。。。英語の礼拝という言葉’worship’は、’worth-shape’(尊さと形作る)の2つの言葉からで来ています。聖書を通して神の尊さを学び仰いで、私は、形作られていくのです。

5、謙虚に礼拝をするのです。6節「伏し拝み、ひれ伏そう。ひざまずこう。」かたくなな高慢な心では、礼拝できません。自分は、高すぎるのです。ですから、カトリックの神父さんが言ったように「下る」のです。自分の罪を深く知る、ただの恵みによって救われていることを知る、十字架のふもとに謙る、謙虚な心で礼拝するのです。。。”It’s not about me.”「私中心ではないです。私が主役ではないのです!」聖書は、人間中心ではないです。創世記1:1「はじめに神。。。」礼拝も、人間中心ではないです。神中心です。「下り」ましょう。

奈帆の結婚指輪の為に私の母は、母のお母さん、私のおばあちゃんの結婚指輪を下さいました。例えば、奈帆と私が『鑑定してもらいましょう』と言います。宝石屋さんは、初めは、ただ眼鏡を入れて、ただ見ます。でも、不思議に少し時間がかかるのです。彼は、眼鏡を落とし、裏にある本を調べはじめます。そして、息が荒く成りはじめます。初めは、冷静に調べていました。でも、今は、感動しているのです。そして、こう言います。「これは、何々のダイヤで、この金は、何何です。」私たちも感動しているのです。喜ぶ、叫ぶのです。。。神を、その恵みを、さらに体験すると、心が動き、讚美せざる終えないのです。

どのようにして礼拝に預かっていますか?心が冷たく、鈍く、堅い時ありませんか?神御自身に、その福音に感動し、礼拝していますか?私たちは、今、神中心、福音中心、キリスト中心、十字架中心の礼拝に招かれています。

Tuesday, September 5, 2017

ファミリー・バーベキュー


奈帆とわし。スイート(SWEET Co. )の社員の家族のための「ファミリー・バベキュー」で。
子供達も行きました。家内は、週に2日近くのパン屋さんでバイトしています。

乗鞍で。


大戸屋で家族と一緒

Tuesday, August 29, 2017

「わたしを覚えて」


ハウエル・ハリスは、多くウェールスのリバイバルで用いられることになっていました。しかし、この時点で、まだ救いの確信を持っていませんでした。でも、聖餐式に預かったとき、確信を持ちました。彼は、その体験をこう描写しました。

「(聖餐式の)食卓についた時、十字架上で血潮を流しているキリストを目の前にあるように常に仕向けられました。その血潮のゆえに私が赦しを頂いている信じる力が与えられました。重荷がとれたのです。喜びで跳上りながら家に帰ったのです。そして、寂しそうな近所の人こう言いました。『どうして寂しいですか?私は、罪が赦されたことを確信しています。。。幸いな日よ。ずーと、感謝して思いだすように。』」

ルカ22:19「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」」

Sunday, August 20, 2017

心から陽気な笑いは、心からの嘆き同じくらい真剣


あの有名なロンドン牧師チャールズ・スポルジョンは、ウツと戦いました。でも、それと同時に陽気な心の持ち主でした。

こう語りました。「我々は、特に一部の人は、ふざけたくなる思いを克服せねばなりません。美徳である聖い快活さと、お悪徳である一般的な軽率さの間には大きな違いがあるのです。思いが込められていない軽率な行為は人を笑わせず、人の心をもて遊びます。それは無礼で、中身がなく真実ではありません。心からの陽気な笑いは、心からの嘆きと同じくらい真剣なものなのです。」


ローマ12:15「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」福音は、両方を下さいます。

Sunday, August 13, 2017

恵と感謝


「私たちの神学は、恵みであれば、私たちの応答は、感謝である。」フレドリク・ブルース

詩篇100:4後半−5「。。。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」

Sunday, August 6, 2017

キャンプ


先週の金、土、私たちは、天龍村のキャンプ場で一泊しました。この10月、私は、60歳になりますから、このような家族の時間をもつくとは少なくなるでしょう。よけいな物のない中で、子供達と話せることは恵みです。




Sunday, July 30, 2017

「彼にあって。。。」


昨日、豊かな命キリスト教会で詩編95編から「礼拝とは何?」について語りました。


福音による礼拝がポイントだと思います。この引用を使いました。
「皆の心に生まれながらの心の頑なさがあります。(はじめは)福音によって、柔軟になるとしても、その(福音の)手段を後に拒むなら、ろう(英:wax)と粘度のように、心は、生まれながらの頑なさに戻ります。ですから、私たちは、ひたすら神の近くにいなければなりません。全ての福音の手段を用いて、心の柔らかさを常に保つのです。最初に私たちの心を柔らかくした(福音の)手段を用いるのです。」ジョン・バンヤンの本の序文を書いたあるピューリタン

コロサイ2:6「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」


Sunday, July 23, 2017

「差し迫った経験」


「もしあなたが一家の主人で、自分の子供が中にいる家の屋根が燃えていたとします。すぐにでも家全体が炎に包まれてしまうという差し迫った経験が、あなたには見えます。ところが、あなたが声をかけて呼んでも、子供は迫っている危険にまったく無頓着で逃げる様子もない時に、それでも冷ややかに、そして、無関心な口調で話し続けますか。置かれている危険な状態を教え、まだ猶予があるなどと思うことは愚かだと、熱心に語りかけ、できる限りの方法で一生懸命声を大にして呼ばないことでしょうか。そんなことは誰かに教えられないでも自然にそうするでしょうし、そうすべきでしょう。普段のどうでもいい会話と同じように何事もないかのように話し続けるなら、あなたの回りの人はあなたが気が狂ったと思うことでしょう。

それならもし私たちが人の魂の救いを心底気にかけ、地獄がどんなところか理解し、救われていない者の状態を見て目も当てられない酔い状況に気づき、我々の説教の聞き手は自分たちに降り掛かる危険を知らないが、私たちは彼らに迫り来る危険を分かっているとしたら、彼らが直面している悲惨さの恐怖を、強く、そして熱心に伝えないということは道徳的に不可能でしょう。その危機から逃げるように警告し、彼らに向かって大声で叫ぶことでしょう。」

ジョナサン・エドワーズ

ユダ1:22−23前半「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救いなさい。」