Monday, December 22, 2014

「神を求めよ」詩編42、43



先ず、詩編42編と43編を読んで下さい。

詩篇42:1−11 指揮者のために。コラの子たちのマスキール 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、私の前で心(1)を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
詩篇 43:1−5 神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。




今から250年以上前にダビデ・ブレーナードという優れた宣教師がいました。彼は、アメリカ東海岸ニュージャジー州のインデアンに仕え、キリストを伝えていました。でも、彼は「うつ」と戦いました。体の弱さもあって、後、肺結核で若く死にました。でも、彼の生涯の晩年、彼のあたりで、リバイバルが起こり、多くのインデアンがキリストを知ることになりました。彼は、不正な白人から彼らを守り、彼らは、彼を慕っていました。あの有名なチャルス・ウェスレーでさえ彼の日記を読み、彼の敬虔さに驚き、罪を告白する姿勢を学びました。。。チャルス・スポルジョンは、150年ほど前のロンドンで用いられた、偉大な説教者でした。彼も「うつ」に悩みました。でも、彼は、恵みを説く説教者と知られ、彼の教会は、ピークの時に1万人にもなったそうです。今も、彼の言葉が多く引用されています。。。私の知り合いの小畑進牧師も「うつ」を知っていました。彼は、学者でもありました。また、私の家内の家族や親戚の近い友達でした。今は、天国にいます。が、彼も、やはり、多く用いられました。彼の多くの本が出版されました。彼は、多くの神学生、後に牧師なる先生達にとても愛されました。

最近、あるキリスト教の雑誌”Christianity Today”で、4分の1のアメリカの牧師は「うつ」に悩んでいる、と書いてありました。。。私も、過去体験したこともありましたが、最近、この一年、理由は、よく分かりませんが、いつもより多く落ち込んできました。。。ご存知の通り、二歩では、過去、このようなことを隠しました。が、日本にも心の病いが多いです。いじめ、引きこもり、過労死、孤独死、自殺が多すぎます。「うつ」もそうです。

このような心の病いに対して神は、私たちに何を教えていますか?。。。詩編42、43編は、実際は、一つの詩編です。42:5、11、42:5がそれを結んでいます。この3節で、ポイントを繰り返して、はっきり伝えています。「『わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。』」聖書は、一般の宗教やカルト/新教宗教と違って、真実を語ります。ですから、“心の病いはある”と正直に書いてあるのです。診察ですね。でも、治療もある、と書いてあります。「神を待ち望め」と神中心に解決を見いだしなさい、と言っています。“他の知恵も大事ですが、救い主と癒し主は、神である、”と言っています。

詩編42、43を書いた方は、なぜ「うなだれて、思い乱れている」のでしょうか?彼は、多分、教会にあるような礼拝の指導者で、賛美を指導していたのでしょう。でも、戦争だったのでしょうか?なんらかの理由で、彼は、礼拝の場、エルサレムから遠くイスラエルの北の山々の方に追いやられたのです。「敵」も周りに多くいたのです。それで、神様は、彼から遠かったような気がしたのです。それで、彼は、涙を流し、嘆いていたのです。

私たちは、どのようにして、心の悩みや、「うつ」にたいして対処するのですか?。。。ある律法的な道徳主義的な人は「しっかりしなさい!強くなりなさい。メソメソするな!頑張れ!」と言います。「頑張れ日本!」東北の人たちは「私たちは、これ以上頑張れない」と言ったそうです。もちろん、何もしないことは良くないです。でも、このような試練は、そんな単純なものではないです。聖書は、「うつ」の複雑さを理解していて、より丁寧に、異論な角度からとらえ、方向性を示して下さいます。

知恵が必要ですね。。。私たちには、皆がありますが、罪があるから、苦しんでいる、と言うことは、いっさいこの詩編に書いてありません。間違って自分を責めないで下さい。。。10節「骨々が打ち砕かれる」とありますが、精神がまいってしまうと、にも響くのです。逆もそうです。休すんだり、変化を作ったり、運動したり、薬を飲んだり、環境を変えたりすることも大事です。。。3節、いたり、嘆いたりすることも良いことです。自分の気持ちに正直であることも大事です。詩編の著者の「涙は昼も夜も乾くひまがないのでした。」。。。自分に問いかけるのです。41:5、11や42:5で著者は、自分に問いかけているのです。「なぜ」悩んでいるのか?を問いかけたり、「神を待ち望め」と、自分に福音を語ることも大事です。。。ある方は「個人読書と個人的礼拝のみによってこと足りる」と思ってしまいます。が、4節、豊かな命教会のように、他のクリスチャンと交わったりすることもとてもとても大事です。ある人は、カウンセリングやセラピーが必要かもしれません。。。でも、このような知恵を使いながらも、何よりも「神を待ち望み」求めましょう。

1.  42:1−3、神御自身を求める。

この方は「うなだれていて、思い乱れている」のです。なぜでしょうか?3節「人(敵)が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と言っているのです。彼自身も、(9節)自分は神に忘れられている、(43:2)拒まれている、と思っているのです。彼は、その結果、(42:3)涙を流したり、(9節)嘆いたりしているのです。。。私たちも、そのような経験をしたりする時があるのです。神様が実感できない時、神様を味わいない、感じない、見えない、聞こえない時があるのです。「私は、人生を主に捧げたのに、人生が崩れて行っている。人間関係が、仕事が。「なぜ?神様、どこにいるの?」。。。あなたは、まだ、この悲しさを経験していなければ、いずれするでしょう。

それであっても、この詩編の著者は、神を求めているのです。先ず、1節ですね「生ける(偶像と違って本当にいる)神」を求めているのです。42:1−2「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。。。」この雌鹿(めじか)は、少しだけ喉が渇いて、水を求めたのではなく、長い間、飢饉のような時に、喉が乾いて、水を求めているのです。切に求めているのです。必死なのです。著者は、“他に救いはない。神のみにある”と必死に神を求めていたのです。。。42:5、11、43:5、彼は、希望を救いの神に置いているのです。他人には、自分にも、置けないのです。つらいからこそ「なおも」神に希望を置くのです。。。冒頭に出て来て「うつ」に悩んだ小畑進牧師は、この箇所についてこう宣べています。「人はいつもたてつづけに浴びるほど(恵みで)潤されるのではなく、時として、一滴のみずからも断たれることによっておのれの必要と欠乏(けつぼう:不足)とを思い知らされるのだあり、神をしたいあえぎ、神の御前に出ることを求めるのです。」

私たちジャンカー家は、11年ほど前、宣教師団体チームとまた一緒に日本で伝道できるようにアメリカに行きました。でも、私の母教会に行っても、“Who are you? (君たちは誰?)と言う感じでした。天国に召されたマクスウェルおじーちゃんの教会、私の母の教会、私自身が洗礼を受けた、奉仕の訓練を受けた教会でした。何年ぶりだったからでしょう。でも、ショックでした。その上、しっかりした仕事が見つかりませんでした。パートばかりでした。後から見て、神からの備えは十分にありました。が、その時、それが見えなくて、段々「うつ」になっていきました。また、自分の命まで取りたかった気持ちでした。だが、その時、神様は、けっこうシンプルな基本的な御言葉を私に下さいました。「はじめに神」創世記1:1。「あなたが全ての中心じゃないよ。全てがあなたにかかっていませんよ。私にかかっていますよ。あなたは弱くても、私は強いですよ。」希望が与えられました。そして、その頃、神の素晴しい主権を信じきる教会の礼拝に行きました。その教会の前の看板に”Hope in Christ“とありました。。。そうです。はじめに人間ではなく、「はじめに神」です。この全てを治める人格的な神を求めるのです。

2. 6−8、神の恵みを求める。

6節、変わらなく、この方は「うなだれています。」ですから「それゆえ、。。。私はあなた(神)を思い起こします」と言い切ります。うなだれているからこそ神を求めるのです。。。でも、著者は、エルサレムから遠い「ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から」神からのプレッシャー、攻めを感じています。神からの試練に圧倒されています。。。彼のいたその地域は、春の雪解け水の頃、2810メートルのヘルモン山々に挟まれたヨルダン川の流れは、信じられないような量で、溢れたり、大水になったりしたのです。とても危険でした。。。災害列島日本に住むに私たちは、この水の恐ろしさが分かります。3・11の津波の力を覚えていますか?一ヶ月後、私は、石巻の破壊を見て、涙が流れました。今年の8月の広島の大雨を覚えていますね。大変な豪雨で、多くの犠牲者がいました。今年、木曽あたりの川も大暴れしましたね。。。これと似て、7節「神様、あなたの波、神様、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」“神よ、あなたがこの試練を許しているだけではなく、計画したのです。それで、私は、圧倒されています”と嘆いています。宗教改革者ジョン・カルバンは、こう書きました。「われわれも逆境にあるとき、われわれを打ちたたく神の強い御手のもとに、常にみずからを低くすべきことを想起こさせるためである。。。神にはわれわれを迫撃する(はくげきする)ための驚くべき、また知らざる方途(ほうと:進むべき道)が存在する。」

この詩編を書いた方は、神の攻めを感じても、8節、彼は、それと同時に「主の恵み」を実感しているのです。この「恵み」という言葉は、ヘブライ語の「ヘセード」という言葉で、約束を守る真実さ、値無しの恵み、無条件な愛という意味です。「昼」も、「夜」も「歌」のかたちで「「恵み」に活かされているのです。著者は、神だけではなく、神の恵みを求めるのです。恵みを確信しているのです。そして、その「恵み」は、「歌」と「祈り」となるのです。「苦難の波に呑み込まれて喘ぐ(あえぐ)詩人は、それでも、主の恵みは注がれていると思いかえすと、波間(なみま)から祈ります。苦難の小波、大波にもまれつつ、それでも、かえりみれば、昼は恵みをいただき、夜には歌をうたわせていただいている。」小畑進

この詩編を書いた「コラの子たち」には、過去があったのです。彼の罪ではなく、先祖の罪でした。が、先祖は、何百年も前のモーセの頃、神への礼拝の大事な立場を持ちながらも、不満を持つ人々と仲間に入り、イスラエルの中で反乱を起こしました。神は、彼らを強く裁かれました。しかし、彼らの後に来た者は、経歴に恥があっても、主のあわれみによって回復され、集会の賛美をリードするまでの栄誉を受けたのです。彼らは、神の恵みとあわれみを知っていたのです。回復のあわれみ!!!

敬虔なクリスチャンであったウィリアム・カウパーは、常に「うつ」と戦いました。彼は、数回自殺未遂をしました。それでも、68の賛美歌を書きました。イギリスのロマン主義の先駆者的詩人でもありました。1774年頃、彼は、この賛美歌を書きました。「神は、不思議の方法で動く。」(1節、3、4、5、6節です。)「神は、不思議な方法で動く、不思議を行う。彼は、海を跨いで、嵐に乗る。恐れる聖徒よ、勇気を持て。恐れるべき雲は、あわれみで大きく、祝福で溢れる。限度ある知識で主を裁くな。彼の恵みを信頼せよ。恐るべき摂理の裏には神の笑顔。彼の目的は、間もなく成就する。時ごとに明らかに。つぼみは苦くとも、花は甘い。不信仰は、間違いで、無駄に御業を見る。神は、自分の解釈をし、明らかにする。」

こらしめられているのか、練られているのか、分かりませんが、最近、私も「うつ」と戦って来ました。自分を追いつめてしまうことがあるのです。しかし、でも、自分を追いつめるのではなく、神を追い求め、「主の恵み」にすがるほかないのです。詩人が歌うように神の「あわれみは大きく」、私は、恵みによって活かされるのみです。

3.  43:1、神に訴え求める。

この世に「神を恐れない民。。。欺きと不正の人」はいるのです。誰かに、サタンに異常に攻められるような時期があります。でも、この詩編の著者は、神御自身とその恵みをすでに確信しているのです。ですから、訴えがより大胆になって行くのです。「神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ」て下さい、と。辛い所を通っている子供が親に訴えているような姿が見えます。「パパ、意地悪されているよ。」

キリスト者の味方は、生ける神です。ローマ8:31−34「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

中学生の頃でしたが、私たちの家族は、TEAMの軽井沢の年会に行っていました。大人は、会議していましたが、私は、悪さしていました。店の後ろの空のビンを店の前に持って行って、10円で売ろうとしていました。ある日、店の後ろから箱ごとに自転車に乗せて、盗んでいました。店のオナーに見つかりました。「家の番号は何だ!」その所に父が来ました。ヤバいなー、と思いました。不思議なことは、店のオーナーの話しを聞いても、信じなかったのです。「いや、違う。」私の話しを聞く前に私を信じて下さったのです。すぐ「私がした」と言って、後でお仕置きをもらいました。が、父は、その大人より、私を信じて下さったのです。私の味方だったのです。私の父への気持ちがその時から変わりました。。。私たちに課題が多いです。私たちは、加害者でもあるし、被害者でもあります。でも、生ける天地を創造された、今それを保っている私たちの神がこのちっぽけな私たちの味方なのです。

4.  2−4前半、キリストの十字架を求める。

2節、神が「力の神であられる」ことを確信しながらも、繰り返し「。。。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか?」と文句言っているのです。しかし、すぐ切り替えて、3節、より大胆に祈ります。「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。(4節) こうして、私は神の祭壇(に)、私の最も喜びとする神のみもとに。」私たちの悩みは、神へと私たちを追いやるのです。神からの悟りの「光」が、御言葉の「まこと」(真理)が、私たちを神へと「導き」ます。

でも、それで終わらないで、4節、「祭壇」へと「導かれる」のです。祭壇は、犠牲を意味しています。罪のない者が、罪のある者の代わりに犠牲となる場所です。これは、十字架を指しています。2コリント 5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」キリストの十字架に究極的な希望があるのです。神御自身を求めるだけではなく、神の恵みを求めるのです。さらに、恵みだけではなく、十字架の恵みを求めるのです。十字架に希望を置くのです。。。私たちは、人に、神に、見捨てられたような気がします。私たちの身近な人もそうします。そして、失望します。が、イエスは、十字架上で、父なる神に捨てられました。マタイ27:46、十字架上で「三時ごろ、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』イエスは大声で、と叫ばれた。」それは、人が私たちを捨てても、神は、私たちを絶対見捨てないためです。

福音賛美歌359番「わたしの望みは主イエスだけにある」一、わたしの望は主イエスだけにある、揺がぬ礎、真の光よ、その高き愛と永遠の平和真の慰さめ、すべてのすべてよ。二、この世に来られた神の独り子は恵みと真に満ちておられる主、十字架の苦しみ、御神の怒りをその身に負われて人を救われた。四、恐れは消え去り、罪は赦された、わたしの歩みは御手の中にある、この身をイエスより離すものはない終わりの時まで、イエスに拠り頼む。

精神的に辛い時を通っても、聖書と祈りの時間をけして忘れないで下さい。。。でも、その時には、神との交わり、十字架の福音を強調する時です。神を感じなくても、「神様、寂しいよ。いないように感じるから」と叫ぶのです。。。私は、毎朝、必ず、聖書を読み、祈ります。皆さんのためにも。昔、その時間は、私中心の時間でした。“私は、どう従うべきか?”と聖書を自分中心に読んでいました。今は、変わっています。先ず、一言祈ります。聖書の箇所を読み、簡単に観察します。でも、その箇所を読む時、主イエス・キリストの十字架について何を語っているか?を中心に読み取ります。自分の罪を悔いて、十字架の主を仰ぐのです。次のポイントでもありますが、神様を崇めるのです。神を感じなくても。神中真に思い巡らすのです。その後、その恵みによって、その箇所を実践できるように祈るのです。。。自分とその行いを中心にして変わることはないです。私たちを変える力は福音にあるのです。癒す力も福音にあります。十字架のキリストを崇めるのです。

5. 4後半、神を賛美求める。

4節後半「私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。」42:5、11にありますし、またここの5節にもあります。「。。。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」“God Himself is the goal of pilgrimage.「神御自身が巡礼の目的である。」A.F.カークパトリック。悩みと救いの結果は、神への賛美です。状況は、変わっていないようです。が、彼は、勝利を得ているのです。

母は、一週間ほど前、天国に召されました。私たちは、寂しいです。思い出すと、涙があります。しかし、母が今天国にいることを思い巡らすと、喜びがあります。母は、母の「最も喜びとする神」のふところにいますから。その神は、待ち望む信仰によって、私たちの「最も喜びとする神」に成れるし、成っているのです。

「最も喜びとする神」とあります。が、メッセージの冒頭に出て来た「うつ」と戦ったチャルス・スポルジオン牧師は、ここについてこう書いています。「神はダビデの喜びであるのみか、最も喜びとするところ。喜びの源泉であるのみか、喜びの与え手、喜びの支え手、いな喜びそのものであった。」私たちの究極的な心の悩みの解決は、神への賛美です。。。私たちが失望する一つの理由は、間違って他のものを神にし、それを期待し、崇めてしまうからではないでしょうか?それは、仕事、家族、人の賞賛でしょうか?それは、あなたの期待を支えきれません。『今、主よ、私は、夫、妻、子供、仕事、評価、賞賛を何よりも大事ないわゆる「神」にしてしまいます。しかし、私の期待を主に置き換えます。あなたの賞賛、愛と支えを「待ち望み」ます。私は、主のみをあなたを賛美し、礼拝します。』

42:5、11、43:5「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか?」。。。「倒れてしまおうとする自分の心を鞭撻(べんたつ:励ま)し、みずからに向かって懸命に神を指す」のです。あなたの心は、自分にあらゆることを語りかけようとします。「ひどいなー、人は、人生は。」自分の誤った心に聞き従うのか?神のみ言葉を聞くのか?自分にこの福音を語りかけて下さい。『魂よ。黙れ!忘れてないのか?聞け!この福音を!』」。。。そして、この辛い体験を通して、あなたは、ただ直るのではなく、あなたは成長します。あなたは、謙虚になり、幸せになり、強くなります。自分の為だけではなく、人の為に、神の栄光の為に。

「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」

12月14日(日)豊かな命教会でメッセージ。

Tuesday, December 16, 2014

松本協立病院


12月13日(土)、病院のスタッフと共に、私たちの豊かな命教会のメンバーがクリスマス会を通して末期患者に仕えた。私は、ヨハネ3:16からメッセージし、一週間ほど前(12月6日)天国に召された母の思い出を語りながら、聖書の福音を語った(クリスマスとおふくろ)。

聖書・ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」



クリスマス会中すっと末期患者の手を持っていた。

より松本市に主からの『祝福』を示し、伝えることができるように主にお祈り下さい。

Thursday, December 11, 2014

献金の動機とクリスマス


私たちの献金の動機は、クリスマスの真実または事実から来る。

聖書・2コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

文脈を読むと、使徒パウロは、献金について話している。主の恵みに動かされて献金する。

Tuesday, December 9, 2014

母は天国に召されました。




先週の土曜日、午後の2:30頃、母は、天国に召されました。父と母、アメリカのミシガンのペタスキーに住んでいます。。。確かに涙がありますが、喜びもあります。なぜなら、母がいつも願っていた主イエスの身元にいるからです。母は、喜びに満ちています。ですから、私たちも、喜んでいます。でも、時々寂しいです。

(父と母は、50年近く長野県の松本市で伝道しました。)

「主の聖徒*たちの死は主の目に尊い。」聖書・詩篇 116:15


母の講演より:伝統の子育てを見返す



Wednesday, December 3, 2014

神の御子



「神の御子(イエス・キリスト)は、人の子となり、それは罪深い人の子(人間)が神の子供となる為です。」ジャン・カルヴァン

”The Son of God became the Son of man that the sinful sons of men might be made the sons of God.” John Calvin

「ことば(イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。。。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1:14、12

Wednesday, November 26, 2014

「神は、不思議の方法で動く。」



敬虔なクリスチャンであったイギリスの詩人ウィリアム・クーパー - は、常に「うつ」と戦いました。でも、1774年頃、彼は、この賛美歌を書きました。「神は、不思議の方法で動く。」(1節、3、4、5、6節)
神は、不思議な方法で動く、不思議を行う。彼は、海を跨いで、嵐に乗る。
恐れる聖徒よ、勇気を持て。恐れる雲は、あわれみで大きく、祝福で溢れる。
限度ある知識で主を裁くな。彼の恵みを信頼せよ。恐るべき摂理の裏には神の笑顔。
彼の目的には、間もなく成就する。時ごとに明らかに。つぼみは、苦くとも、花は、甘い。
不信仰は、間違う。無駄にものを見る。神は、自分の解釈をし、明らかにする。

"God Moves in a Mysterious Way"
1. God moves in a mysterious way, His wonders to perform;
He plants His footsteps in the sea, And rides upon the storm.
2. Deep in unfathomable mines, Of never failing skill,
He treasures up His bright designs, And works His sov’reign will.
3. Ye fearful saints, fresh courage take; The clouds ye so much dread, 
Are big with mercy and shall break, In blessings on your head.
4. Judge not the Lord by feeble sense, But trust Him for His grace;
Behind a frowning providence, He hides a smiling face.
5. His purposes will ripen fast, Unfolding every hour;
The bud may have a bitter taste, But sweet will be the flow’r.
6. Blind unbelief is sure to err, And scan His work in vain; 
God is His own interpreter, And He will make it plain.

英語で聞く:God Moves in a Mysterious Way - YouTube

Wednesday, November 19, 2014

Friday, November 14, 2014

私が恵みの奇跡なのです。



『私(ジェーリー・ブリジェス)は、以前、ある英国の教会の聖餐台の前にひざまずいていた二人の男の物語を読んだことがある。一人は、かつて有罪判決を受けたが、刑期を勤め上げて今は出所した男。もう一人は、数年前、この男に有罪判決良い渡した裁判官であった。

礼拝の後で、牧師はこの裁判官に、「あなたの隣にひざまずいていた男のことを、ご存じでしたか」と尋ねた。

「はい、知っていました。それは恵みの奇跡でした」と、裁判官は答えた。

「それは、あなたが刑務所行きの判決を下した男があなたの隣にひざまずいた、ということを言われているのですね。」

「いや、全く違います」と、裁判官は言った。「その奇跡とは、私が彼の隣でひざまずいていたことです。あの男は、明らかに、自分が救い主を必要とする罪人であることを知っていました。しかし、私は、宗教的家庭に育ち、きちんとした道徳的生活を送り、地域のためにも奉仕しました。私のような者が、自分は神を必要とすることを認めるのは極めて難しいものです。私が、恵みの奇跡なのです。」』

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。。。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18:13−14

上の例えは、ジェーリー・ブリジェス師の計り知れないキリストの富 : 実生活のための福音から。

Wednesday, November 5, 2014

この驚くべき事実を察せよ。


「私たちが神の子どもと呼ばれるために、‐‐ 事実、いま私たちは神の子どもです‐‐ 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」聖書・1ヨハネ 3:1 

ジェーリー・ブリジェス師は、1ヨハネ3:1をこのように噛み砕いています。『「たちどまれ!『神がこのように私たちを愛して下さったので、私たちは神の子供と呼ばれる』という、この驚くべき事実を察せよ。それは真実である。私たちは本当に神の子どもである!」と言っているのである。』

Wednesday, October 29, 2014

怖くて、伝道できない!



ある若者は、とても、保守的な道徳主義的な教会で「あなたは、伝道しなければならない」と言われました。でも、彼は、人の賞賛を受けたかったから、神の賞賛がなかったと感じたから、伝道できなかったのです。

確かに、神の賞賛に安らいでなければ、緊張したり、高慢に成ったり、敏感に成ったりしてしまうのです。神の基準に足していないことを感じるからです。

ある日、彼は、福音を理解しはじめました。”良い子”に成って賞賛を受けるのではなく、賞賛を受けているから、行動が変わると分かりはじめたのです。

彼の牧師にこう聞きました。「イエス様が私のために何をしたか分かっています。。。伝道するんでしょう。でも、怖くて、伝道できない。」

牧師は「良いんだよ。それでもイエス様は、あなたの愛していますよ」と答えました。

「イエスがそれでも愛してくださるって、どういう意味ですか?」。。。

「覚えて下さい。これが福音だよ。主イエスは、全ての罪の罰を支払うために死んだんですよ。あなたを完全に認め、愛しているんですよ。伝道しなくっても、愛されていることを忘れないで。」

一週間たったら、ある方は、牧師に聞きました。「あの若い人に何って言ったんですか?彼は、どこへ行ったも、イエスのことを伝えていますよ。伝道について何を言ったんですか?」

「しなくっても良い、と言ったんです。」

私たちは、上手に、優しく、思慮深く、リラクスして、魅力的に、伝道し、人に仕え、貧しい人を助けることが出来ます。でも、それは、私たちの魂の叫びが神様によって聞かれ、神によって認めて下さっているゆえに出来るのです。恵みからスタートするのです。

ニューヨーク・マンハッタンの牧師ティモシー ケラーのメッセージより

Tuesday, October 21, 2014

Thursday, October 16, 2014

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。



イザヤ49:14ー16『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。。。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。。。」』

私たちは、今から、聖餐式を通して、主とその十字架の愛を覚えます。が、それは、主が私たちを十字架によって私たちを覚えたからです。

「主は私を見捨てた」と思ったことはありませんか?。。。でも、15節「女が自分の乳飲み子を忘れようか。」私は、仕事に捕われて、子供のことを十分に気が付きません。でも、家内の奈帆は、子供に心を注ぎます。教育、服、栄養など。母親がそうなら、天の父は、より私たちのことを覚えて下さいます。でも、15節後半、万が一の場合、「たとい、女たちが(子供を)忘れても、このわたし(あなたの真の父なる神)はあなたを忘れない。」

16節「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」息子のジャシュアは、手の裏だったと思いますが、こないだ、手に何かを書いていました。宿題でしょうか、忘れないためです。でも、私たちを忘れないために、神は、書いたのではなく、とれないように、刻み込んだのです。入れ墨のように。もちろん、比喩的に言っていますが、「あなたをぜったい忘れない」と言っているのです。

でも、刻む時、痛くはないでしょうか?。。。十字架にかけられる時、主イエスの手のひらに、釘が打たれ、手が「刻まれた」のです。そして、その釘の跡のゆえに、その傷のゆえに、私たちを忘れないのです。その跡は、今も手にあるのです。。。今、このようにして、聖餐式において、私たちを忘れないで覚えて下さる方を、私たちが忘れないで覚えるのです。その傷を、その十字架を、その愛を覚えるのです。父母、兄弟姉妹、友達があなたを忘れても、主は、あなたを覚え愛しているのです。主の手に刻んであるあなたの名前を見るのです。主イエスを覚え、愛すのです。

Wednesday, October 8, 2014

知恵のある者は人の心をとらえる。


「一人の魂の救いは、世界の全ての叙事詩や悲劇的物語の作成や保存よりずっと大事。*」C・S・ルイス “The salvation of a single soul is more important than the production or preservation of all the epics and tragedies in the world.” C.S. Lewis 

「神の栄光、また、彼の栄光をあらわす唯一の方法、人間の魂の救いは、人生の本当の職業である。」 “The glory of God, and, as our only means to glorifying Him, the salvation of human souls, is the real business of life.”

 「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」箴言 11:30

*ルイスは、オクスフォード大学とケンブリッジ大学では文学専門でした。

Monday, October 6, 2014

わたしの のぞみは 主イエスだけにある


「わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。」イザヤ45:24

   わたしの のぞみは 主イエスだけにある
   ゆるがぬ礎(いしずえ)まことの光よ
そのたかき愛と とこしえの平和
まことのなぐさめ すべてのすべてよ

この世にこられた 神のひとり子は
めぐみとまことに みちておられる主 
十字架のくるしみ み神の怒りを
その身に負われて 人を救われた

やみよにさまよう 世界をてらして
かがやく栄光 イエスのよみがえり 
主イエスの勝利に 死のとげ おられて
とうとい ちしおは わたしをあがなう

おそれは きえさり 罪はゆるされた
わたしのあゆみは み手の中にある 
この身をイエスより はなすものはない
おわりの時まで イエスによりたのむ

教会福音讃美歌359 

これは美しい。聞いて下さい。Gettymusic - Online music resources for the church


Friday, October 3, 2014

キリストは、私たちが死ぬべき死を死んだ。


ティモシー ケラー牧師は、数えきれないほどの説教でこれを繰り返しています。「キリストは、私たちが生きるべき生涯を生きた。キリストは、私たちが死ぬべき死を死んだ。」

Tim Keller repeats the following in countless sermons. "Christ lived the life we should have lived; Christ died the death we should have died"

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」2コリント 5:21 

Sunday, September 28, 2014

神に注目が



「自分に注目が来るように輝てはならない。あなたの通して神に注目が行くように輝きなさい。」C・S・ルイス 

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ 5:16 


Friday, September 19, 2014

罪がまず良心において赦されていないなら。。。


「罪がまず良心において赦されていないなら、その罪は心においても生活においても十字架につけられることができない。なぜなら、イエスーこの方によってのみ罪は十字架につけられることができるーの力を受ける信仰が欠如しているからである。罪は、その罪責において克服されないなら、その力において制圧されることができない。」ウィリアム・ロマーネ

「この方(イエス・キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ 1:7 


Thursday, September 18, 2014

松本のために祈って下さい。。。



松本(人口210,000)を見下ろす弘法山古墳(西暦後300年頃)。






私たちは、松本のために祈っています。エレミヤ29:7にこうあります。その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」ニューヨークマンハッタンのTim Keller牧師は、メッセージでこう語りました。「 さてこれはこういう意味です。そして、忘れないで、これは神の子供に語っています。あなたは、神に繋がっていると信じていれば、神の子供であると信じていれば、これがあなたが住んでいるこの地上の町(市)に対する態度でなければ成りません。神はこう言っています。『私は、あなたに、この町を求め、その為に祈り、応援して、シャローム(平安、平和、)の為に祈って欲しいです。』」私も、松本市と日本の真の祝福のためにあなたにも祈って欲しいです。

Thursday, September 11, 2014

Love Japan


LOVE JAPANを勧めます。神様中心&キリスト中心の説教者ダン・カーソンやジョン・パイパーが語ります。

「LOVE JAPANとは、。。。東京、名古屋、大阪にて同時進行で行われる3日間のカンファレンスです。このカンファレンスは神様の素晴らしい愛を御言葉の取り次ぎと礼拝を通して共に喜ぶことを目的としています。神様は日本を愛しておられ、またその愛の素晴らしさを私たちが知るように、また他の人に分かち合うようにと私たちを招いてくださっています。。。カンファレンスは2014年10月11日〜2014年10月13日の間行われます。。。人々が福音に触れられ、主の栄光を見て、賛美する時となることを祈り求めています。」


リンク:LOVE JAPAN  English: LOVE JAPAN


Tuesday, September 2, 2014

「保証人であるお方の血潮に絶えず立ち返ること」


「信者の聖なる歩みの秘訣は、保証人であるお方(主イエス・キリスト)の血潮に絶えず立ち返る事であり、十字架に付けられ復活された主の日ごと(の交わりにおいて)共にいることである。全ての聖い生活と、そこから生じるすべての尊い実—赦し、平和(平安)、聖性—は、十字架から湧き出るのだ。全面的に十字架の血潮から生じていないすべての空想的聖化は、パリサイ主義も同然である。もし私たちが聖でありたいなら、私たちは十字架のもとに行き、そこに宿らなければならない。さもないと、私たちのあるゆる労働、勤勉、断食、祈り、善行にも関わらず私たちは、まだ真の聖化に欠け、明確な十字架の視点に付随する謙遜で慈悲深い性質を欠如することになる。
     
聖性についての誤解は、偽りの信仰を告白する人たちの間だけではなく、正しい信仰を告白する人たちの間にも広がっている。私たちに対する神の愛と神に対する私たちの愛、この両者が聖性を生み出すために共に働くのである。恐怖は真の従順を達成しない。宙ぶらりんの状態は聖性のために何の実も結ばない。神の愛顧についての陰うつな不安は、一つの欲望も制圧できず、私たちのゆがんだ根性を矯正することもできない。しかし、十字架の無償の赦しは、根絶やしにし、その枝を全て枯れさせる。愛の確かさ、赦しを与える愛だけが、これを可能にするのだ。。。。
     
神の愛顧の中に無償で温かく迎え入れられることは、自分の全ての罪過をこのように無償で赦して下さった方と同じになりたい(似た者となりたい)と願わせる、あらゆる動機の中で最も強い動機となるである。」

ホレイシャス・ボナー

「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ1:6−7

Tuesday, August 26, 2014

「悪の前で沈黙を保つ事はそれ自体も悪である。。。」


クリスチャンは、中東で、特にイラクとシリアで、根絶されています。前からは、サウジアラビアやイランで、最近はスーダン、エジプトやナイジェリアで、今は、ISISによってシリアとイラクで。歴史最大な反逆罪の一つと、このイギリスの新聞が言っています。Douglas Murray: Christianity being cleansed from Middle East by ISIS | Express Comment | Comment | Daily Expressしかし、なぜ日本と世界のMEDIAは何も言わないですか?

ナチスに抵抗したボンへファーはこう言いました。「悪の前で沈黙を保つ事はそれ自体も悪である。神は、私たちを無罪ににはしない。語らない事は、語る事である。行動に移さない事は、行動に移すことである。」”Silence in the face of evil is itself evil: God will not hold us guiltless. Not to speak is to speak. Not to act is to act." Dietrich Bonhoeffer

「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」イザヤ1:16−17

Thursday, August 21, 2014

『宣べ伝え』


「恵みの宣べ伝えは、悔い改めの宣べ伝えのみによって守られる。」ディートリッヒ・ボンヘッファー

“The preaching of grace can only be protected by the preaching of repentance.” Dietrich Bonhoeffer

「。。。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ 1:15後半

Wednesday, August 13, 2014

青木湖でキャンプ


わが家族は、今週の月から水、青木湖でキャンプ。
松本から北へだいたい1時間半。






神が造られた物はみな良い物で、
感謝して受けるとき、
捨てるべき物は何一つありません。」聖書・1テモテ 4:4

Friday, August 8, 2014

脇腹から


「(女は)男に勝るために頭から、あるいは男に踏みにじられるために足から造られたのでもなく、男と平等であるべく脇腹から、守られるために男の腕の下から、そして愛されるために男の心臓の近くから造られたのである。」マシュー・ヘンリー(左絵)

「神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」聖書・創世記2:21−22


Tuesday, August 5, 2014

月面での聖餐式


45年ほど前、1969年6月20日、『月』に行ったニール・アームストロングと一緒にいたバズ・アルドリン宇宙飛行士は、こう確信しました。神と科学は、矛盾しないと。着陸した時、アルドリンがヒューストンのミッシオンコントロールにこう語りました。「ヒューストン、これはイーグル。。。LM(Lunar Module, 飛行船)のパイロットです。数分の黙祷をお願いします。。。」そして、無線をきりました。少したったら、イエスの言葉を引用しながら『月』で聖餐式をお祝いしました。後で彼は、聖餐式についてこう語りました。「私は、パンとぶどう酒が入っていた包みを開け、私の教会が下さった杯にワインを入れました。引力の少ない月で、そのワインは、したやかに曲がりながら杯のはじを登りました。そして、この聖書の言葉を読みました。「私は、ブドウの木で、あなたがたは、枝です。誰でも私にとどまるなら多くの実を結びます。」そして彼は、詩編8:3−4を読みました。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

『月』に行った宇宙飛行士は、月や宇宙を見ながら、人間の小ささを告白しました。でも、また、創造主は、私たちを顧みて下さる、と確信したのです。何と言う愛でしょう。創造主は、人となり、十字架上で私たちの死ぬべき永遠の死を代わりとなって死んで下さり、救って下さいました。また、復活して下さいました。さらに、ここに、この教会に共にいて下さいます。素晴しい恵みです。人間の月面着陸が本当のように、十字架の愛も本当で、今も、ここで、本当に体験出来ます。。。主イエスとその贖いを実感しましょう。

「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。聖書・マタイ 26:26-28

参考:First Communion on the Moon

Friday, August 1, 2014

キリスト中心に聖書を読み語る



「もしも私たちが聖書、特に詩編、を読み、祈りたければ、私たちは、先ず、自分とどう関係あるかではなく、イエス・キリストとどう関係あるかを聞くべきである。」ディートリッヒ・ボンヘッファー

"If we want to read and to pray the prayers of the Bible and especially the Psalms, therefore, we must not ask first what they have to do with us, but what they have to do with Jesus Christ." Dietrich Bonhoeffer

*私たちは、先ず、神中心に、キリスト中心に聖書を見るべきである。その次に、自分がどうあるべきか、または、するべきかを聞くべきである。


Friday, July 25, 2014

恵と努力


「恵みは、努力に敵対しているのではない。恵みは、得る事に敵対している。努力は、行動である。得る事は、*態度である。」ダラス・ウィラード、哲学者

”Grace is not opposed to effort. It is opposed to earning. Effort is action. Earning is attitude.” Dallas Willard

エペソ2:8−9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。*だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

Tuesday, July 22, 2014



「自分達がそんなに悪くない人だと思えば、恵みという概念は私たちを変えません。」ティモシー ケラー

"As long as we think we are not that bad, the idea of grace will never change us." Timothy Keller

「。。。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。。。恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」ローマ5:21

Tuesday, July 15, 2014

イエス中心子育て


『子供中心子育ての世界からイエス中心子育てへ』(Jesus-Centered Parenting in a Child-Centered World | TGC)というクリスチャンへの子育ての知恵の記事がありました。少しひろいました。

現代の(いわゆる)聖書的子育てに危険性がある。それは、無意識で伝わる「これをしたら、あなたの子供は、本当に『生きる』」。究極的には、子供の道徳、親の教え、伝道方法、カリスマ性のあるリーダーシップを通して、勝利を得るのでは無い。子供の内に働く、神の恵みが最大の希望、いや唯一の希望。聖書には、めちゃくちゃな家族が多いが、神は、彼らを召し、彼らの人生を恵みのストリーに変えた。彼らは、素晴しいから神に愛されたのではなく、神に愛されたから素晴しいものと成った。。。子供を叱る時、キリストにある恵みをより強く強調する。。。福音を語る時は、宣教と結びつける事によってのみ、意義がある。子供は、家庭に、教会に、引きこもるのは、霊性のためにも、良くない。

親も子供も恵みを知る必要性があるということです。「私たちが犯して来た罪について裁きの声が正確に語っている。神は、私たちにより大きな声で福音において私たちに語っている。」マルテン・ルター

ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

参考:Ready to Launch - LifeWay Christian Resources