Tuesday, September 26, 2017

「何よりも必要」


「自分の会衆に何よりも必要だったのは私個人の聖さだ。」ロバート・マレー・マックシェイン

ピュリタン(清教徒)は、これを"GOSPEL HOLINESS"(福音から来る聖さ)と言います。

1ペテロ 1:15、16、18、19「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。。。ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

Tuesday, September 19, 2017

『喜びと重み』


「牧師の生活と説教において、『喜びと重み』は、軽率な魂を目覚めさせ、生徒らの重荷を和らげるように編み込まれているべきです。」ジョン・パイパー、著書「なぜ説教の中心は神なのか?」より

2コリント2:16「いったい誰がこのような務めに相応しいのでしょう。」3:5「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」


Wednesday, September 13, 2017

詩編95 「礼拝とは何?」



詩篇95編を読みましょう。

私たちは、今日、どのような心で礼拝に来たのでしょうか?私は、このように祈る時あります。「天のお父様、私の心は、冷たく鈍いです。堅いです。」。。今朝、誰かと喧嘩して、礼拝に来て、まだいらだっているでしょうか?長い間、教会に来て、礼拝などがマンネリ化しているでしょうか?また、堅い不信仰の心があるでしょうか?。。。私は、ウツと戦う時があります。数年前、ウツと戦っていて、宣教師なのに、日曜日の朝起きると「今日は、礼拝なのか?人にあいたくないなー」と思いました。でも、恵みによって、聖書と祈りの時間を持ち、その罪を認め、恵みによって心を入れ替えて頂きました。そして、礼拝の時間になったら、大丈夫でした。

先ず、礼拝そのものを深く理解する必要があります。聖書で教える礼拝は、何でしょうか?。。礼拝について教えていることで有名なのは、この詩編95編です。この詩編は、ラテン語で「ベニテー」と呼ばれ、「あなたが来ます」という意味です。「ベニテー」は、1節の「さあ」というヘブライ語の言語で「来れ」という意味です。また、6節にも「来たれ」とあります。小畑進牧師は、こう書きました。「集まりには集まったものの、なお心の備えの不足を覚えるものは、『さあ、来れ』」と招かれている。」8節「心をかたくな」な人も、悔い改めて、来るようにと招かれています。いろんな方が礼拝に招かれています。。。でも、礼拝とは何ですか?言い換えれば、どのように礼拝するのですか?

1。7節後半—11、頑なな心で礼拝しないのです。信じる柔らかい心で礼拝するのです。

順番を変え、先ず、7節後半—11節のネガティブを語りたいです。前半の1−7の前向きの雰囲気から一転し、とても厳しい忠告に変わります。8節後半「あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」頑なな不信仰な心は、もちろん礼拝ではないです。真の礼拝をするには、「かたくな」な不信仰の心を捨て、柔らかい信じる心に変えるのが『はじめの一歩』です。。。ですから、7節後半で、「今日」という、緊急性を表す言葉を使っています。霊的に眠った人に「起きろ!」と叫んでいます。。。また、ただのアドバイスを与えているのではなく、命令形を下しています。8節後半「あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」警告をならしているのです。デンジャー!危険!レッドカード!

そして、罪を指摘する、裁きに終わる厳しい例えを使います。出アジプト記17章の「レフィディム」での出来事です。9節前半、イスラエルは、奴隷の状態のエジプトからの素晴しい神の救いの「わざを見」ました。大きな恵みに預かったのです。しかしながら、彼らは「荒野」で不信仰な心で神を、9節後半「ためした」のです。神は「水」を与えないと思い、民は「恩を仇で返し」たのです。神と言い「争って」、「つぶやいた」のです。そして、救われ愛された民、でも、「頑なな」民に対して、神は、正しく「怒った」のです。人間的に言うと、むかついたのです。10節、不信仰の罪を指摘し、11節「(約束の地カナンの)安息に入れない」と裁きの言葉を下したのです。。。神をけして侮ってはいけません。生ける神は、都合の良い神ではありません。正しく裁かれる神です。しかし、この厳しい言葉に神の深い関心と愛があるのです。神が深い関心がなければ、このようには忠告はしません。また、この例えを読んで聞いている私たちに回復のチャンスを与え、回復のドアを開けています。

ゆとり世代は「叱られ慣れていない?」と言われています。「SNSの普及があって、自分と似通った仲間とのつながりに多くの時間を取っておくために、違った世代や価値観を持った人々と接する必要がない人間に育ってしまったようです。そのため、年上の人間との関わり方が分からず、叱られると萎縮(いしゅく)してしまうのです。」仕事を止めたりもするようです。。。神のいわゆる「叱り」を避けないように、聞くように!神は、愛を持って、立ち帰るように、叱って、忠告しています。心を柔らかくし、聞き入れなさい。
私たちは、洗礼を受け、長い間教会に行っている可能性があります。真面目にルールを守っている、リーダーである、神学をいっぱい知っている可能性があります。しかし、本当のキリストを信じる信仰を持ってないか、心が礼拝に入ってない可能性があります。このような人に神は、厳しい愛を持って「目覚めよ!危険だよ!心から悔い改めて、キリストを信じなさい!」と警告をしています。 
ジョナサン・エドワーズは、こう書きました。「もしあなたが一家の主人で、自分の子供が中にいる家の屋根が燃えていたとします。すぐにでも家全体が炎に包まれてしまうという差し迫った経験が、あなたには見えます。ところが、あなたが声をかけて呼んでも、子供は迫っている危険にまったく無頓着で逃げる様子もない時に、それでも冷ややかに、そして、無関心な口調で話し続けますか。置かれている危険な状態を教え、まだ猶予があるなどと思うことは愚かだと、熱心に語りかけ、できる限りの方法で一生懸命声を大にして呼ばないことでしょうか。そんなことは誰かに教えられないでも自然にそうするでしょうし、そうすべきでしょう。普段のどうでもいい会話と同じように何事もないかのように話し続けるなら、あなたの回りの人はあなたが気が狂ったと思うことでしょう。。。それならもし私たちが人の魂の救いを心底気にかけているなら、地獄がどんなところか理解ししているなら、救われていない者の状態を気づいているなら、我々の説教の聞き手は自分たちに降り掛かる危険を知らないが、私たちは彼らに迫り来る危険を分かっているなら、彼らが直面している悲惨さの恐怖を、強く、そして熱心に伝えないということは道徳的に不可能でしょう。その危機から逃げるように警告し、彼らに向かって大声で叫ぶことでしょう。」。。神からの警告を聞き入れましょう。「神へと逃れよ!」と。

あるピューリタンは、こう書きました。「皆の心に生まれながらの心の頑なさがあります。(はじめは)福音によって、柔軟になるとしても、その(福音の)手段を後に拒むなら、ろう(wax)と粘度のように、心は、生まれながらの頑なさに戻ります。ですから、私たちは、ひたすら神の近くにいなければなりません。全ての福音の手段を用いて、心の柔らかさを常に保つのです。最初に私たちの心を柔らかくした(福音の)手段を用いるのです。」

私たちが信実に礼拝出来ないように、しばしば心に不信仰という堅い岩があります。例えば、大雨の後のことです。山の中の村に援助が入れないように、大きな岩が道をふさいでいます。どかすためには、ダイナマイトが良いでしょう。でも、そのダイナマイトをただ岩の隣に置かないのです。岩の中深くまでドリルで穴をあけるのです。そして、ダイナマイトを奥まで入れて、爆破させるのです。。。福音を心の奥まで入れ、力強い働きをさせるのです。崇高な神は、小さなあなたのために死なれ、あなたは、愛されているのです。この神を崇めると、心が爆発するのです。癒されるのです。私たちは、聖書の福音の力によって、変えられるのです。真に礼拝出来るのです。

2.皆で礼拝するのです。1節「歌おう。叫ぼう!」2節「叫ぼう!」6節「ひれ伏そう。ひざまずこう!」他の人と共にするように、招かれています。アメリカは、個人主義の社会で、その考えは、日本にも入って来ています。でも、他のクリスチャンと礼拝しないと、自分にとって都合良いような信仰になって、キリスト教ではなくなり、鈴木教、林教、スミス教になってしまいます。個人の礼拝の時間も大事です。でも、私たちは、ただ一人だったら、バランスとった信実な礼拝はしにくいです。。。共に礼拝しましょう。

3、心を込めて礼拝するのです。1節「喜び歌おう。喜び叫ぼう。」2節後半「喜び叫ぼう。」日本では、キリスト者の集まりを「教会」「教える会」と言います。感情をあまり表さないのです。でも、理屈やただの知識で礼拝するように、招かれていません。私たちの神学が心に感情までに全身全霊に届くように、礼拝する必要があります。礼拝は、教えだけではありません。交わり、聖餐式、祈り、伝道。また腹の底から歌う感情のこもった讚美も大事です。神の偉大さとその御業を真に知ると、その真理を徹底させると、全身全霊までに伝わって行くのです。心がこもった礼拝と讚美を通して、私たちの知識は、生活にも徹底させられます。。。宗教は、ただの飾りになりがちです。『宗教をやる』と言います。オウムのような変な信仰があるから、宗教に「のめり込むな!」と言われます。確かに危険性は、あります。が、私たちは、家族や、教育や、仕事に懸命に取りかかります。生ける神は、それ以上に尊いのではないでしょうか?

*真実に心を込めて主を崇めると、逆に、人生にバランスがとれます。人生は、学校や、仕事だけではないのです。キリスト教が日本に入って来た前には、祭りの日だけが休みだったそうです。キリスト教会が入って来て、土日などは、休みになりました。私たちは「いっぷくして」安息日を覚えて、神を崇め、体を休ませるのです。聖書は「安息をとるように、人生にバランスをとるように」勧めています。先ず、神を心を込めて崇めて、体を休めて、優先順位が見えて、人生にバランスがとれるのです。

4、中身のある礼拝をするのです。ある方は「鰯の頭も信心から」と言って、真理は、どうでもいいと思うのです。雰囲気や儀式をとても大事にします。でも、礼拝は、それで終わってはなりません。聖書的に、神学的に濃いものでなければなりません。豊かな命キリスト教会では、先ず、神の啓示の御言葉からのメッセージがあって、次に、讚美があるのです。7節後半−11節のように、都合の悪い、聞きたくないものも聞き入れるのです。『ここの仏教、そこの神道、あっちのキリスト教が好き』と私たちは、自分の宗教をデザインしてはならないのです。聖書の存在する神をそのまま受け入て、ほんとうの礼拝が出来るのです。

礼拝の中身は、何でしょうか?小畑進牧師は、こう書きました。「まず、神への畏れ。しかしして、親しみです。このいずれをも欠かぬよう。そして、この順番を転倒せぬよう、です。」3節、生ける神は「主は大いなる神」であり、「大いなる王である」主権者です。その説明を4−5でします。主が全てを造ったから「山々の頂も主のものである。海は主のもの。」全てを治めています。そして、6節の応答があるのです。「私たちは伏し拝もう。」。。でも、神は、主権者だけではなく、7節前半「主は、私たちの神」です。海の底をも支配し、山の頂点まで支配する崇高な神は、ここでは「やさしくも、口笛を吹き、手を広げて羊を呼び笑顔をふりまく羊飼いとなっているのです!」遠いフォースではなく、人格的なお方です。人となられた神です。「私たちは、その牧場の民、その御手の羊である」のです。。。日本にいる私たちには、田んぼなら少し分りますが、この羊飼いと羊の例えは、ピンと来ません。簡単に言うと、神さまは、私たちを考えられないほど大事に大切にして下さるお方なのです。ヨハネ 10:11で主イエスは「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」そこまでするなら、安心して、崇めることが出来るのです。十字架を見て下さい。私たちは、人格的に犠牲的に愛されています。ですから、神の愛に感動し、喜び歌い叫ぶ、伏し拝むのです。

*礼拝の全てが大事です。ある人は、こう言うでしょう。「私は、小岩井先生や、誰々サンのメッセージを聞きに来ました。遅れて来ても良い。早めに帰っても良い。」が、常に遅れていれば、あなたは、礼拝を理解していません。メッセージからの情報だけではなく、礼拝全体があなたを変えます。真の礼拝の全てによって、あなたの人生は、変わり、形作られます。。。英語の礼拝という言葉’worship’は、’worth-shape’(尊さと形作る)の2つの言葉からで来ています。聖書を通して神の尊さを学び仰いで、私は、形作られていくのです。

5、謙虚に礼拝をするのです。6節「伏し拝み、ひれ伏そう。ひざまずこう。」かたくなな高慢な心では、礼拝できません。自分は、高すぎるのです。ですから、カトリックの神父さんが言ったように「下る」のです。自分の罪を深く知る、ただの恵みによって救われていることを知る、十字架のふもとに謙る、謙虚な心で礼拝するのです。。。”It’s not about me.”「私中心ではないです。私が主役ではないのです!」聖書は、人間中心ではないです。創世記1:1「はじめに神。。。」礼拝も、人間中心ではないです。神中心です。「下り」ましょう。

奈帆の結婚指輪の為に私の母は、母のお母さん、私のおばあちゃんの結婚指輪を下さいました。例えば、奈帆と私が『鑑定してもらいましょう』と言います。宝石屋さんは、初めは、ただ眼鏡を入れて、ただ見ます。でも、不思議に少し時間がかかるのです。彼は、眼鏡を落とし、裏にある本を調べはじめます。そして、息が荒く成りはじめます。初めは、冷静に調べていました。でも、今は、感動しているのです。そして、こう言います。「これは、何々のダイヤで、この金は、何何です。」私たちも感動しているのです。喜ぶ、叫ぶのです。。。神を、その恵みを、さらに体験すると、心が動き、讚美せざる終えないのです。

どのようにして礼拝に預かっていますか?心が冷たく、鈍く、堅い時ありませんか?神御自身に、その福音に感動し、礼拝していますか?私たちは、今、神中心、福音中心、キリスト中心、十字架中心の礼拝に招かれています。

Tuesday, September 5, 2017

ファミリー・バーベキュー


奈帆とわし。スイート(SWEET Co. )の社員の家族のための「ファミリー・バベキュー」で。
子供達も行きました。家内は、週に2日近くのパン屋さんでバイトしています。

乗鞍で。


大戸屋で家族と一緒