Monday, February 29, 2016

牧師と敬虔


「あなたは、雄弁でない可能性がありますが、とても敬虔なら、人を引きつける知恵と洞察力があるでしょう。効果的なカウンセラーになる為の性格と技術が足りない可能性がありますが、あなたはとても敬虔なら、そこに同情心と愛が照り輝き、効果をもたらすでしょう。あなたは整理整頓がとても下手で、全然人格者でない可能性がありますが、あなたは、とても敬虔なら、あなたには、人の尊敬を引きつける謙遜があるでしょう。言い換えれば、あなたの賜物の足りなさの穴(ギャップ)を埋めるのは、あなたの敬虔な品性である。」ティモシー・ケラーニューヨーク市のメガチャーチ牧師

"You may be rather ineloquent, but if you are very godly, there will be a wisdom and insight that is attractive to others. You may lack the temperament and skills to be an effective counselor, but if you are very godly, there will be a sympathy and love that shines through and proves effective. You may be very disorganized and not very dynamic in your personality, but if you are very godly, there will be a humility about you that will command people’s respect. In other words, your godly character fills in the gaps left by a lack of giftedness." Tim Keller

「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」1テモテ6:11

Monday, February 22, 2016

義認



私自身の聖化の欠如だと思って来たものは、実際は、常に義認にとどまっていないことから来た欠如です。義認と言う軸を見失うと、恐れ、不安と心配に圧倒されます。「現在の自分の霊的功績と別に、イエスにあって神が自身を愛し受け入れられていることを確信もって無いキリスト者は、潜在的に非常に不安な人である。」リチャド・ラブレス

歴史的にリバイバルが起こった時には、必ず義認の真理が蘇ったのです。「活気(vitality)、力と自由は、自分の聖化を自分の義認に基礎を置く事から来る。」テモシー・ケラー

説教にも繋がります。ケラー牧師は、自分の体験から語ります。「毎回、私が立ち上がって説教したとき、私が人に好まれることに必死だと気がつきました。(しかし)私は、人々を見て『あなたは私の平安ではない。あなたは、私の義ではない』と思い出さなければ成りませんでした。」

宗教改革者は、誘惑される時、これを勧めていました。『誘惑のただ中にある時、信者は、自分を見てはならないこと。自分を見たりする時はけして安心(security)はない。神の義認の約束を信じる時、救いの確信を得、安心がある。キリストのみを仰ぎ、主のみにすがること。』

ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

Wednesday, February 17, 2016

「バイタルな祈り」使徒の働き4:23−31


バイタルは、英語で’vital’ です。 動詞では、元気や活気に溢れた満ちたさま、と言う意味です。名詞は、医学用語で、英語のバイタルサイン(vital signs) の略で、重要な生命兆候、例えば、体温、脈拍、呼吸、意識、血圧の重要な兆候のことです。。。と言う事は「バイタルな祈り」は、活気に溢れた重要な祈り、という意味です。。。今日の箇所では、祈ることは、極めて重大であり、その祈りが天からの活気、また、リバイバルを与えることを教えています。使徒の働き4:31「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされた。」

誤解がよくあるようですが、リバイバルとは何でしょうか?あるいわゆるクリスチャンは、聖書を信じないで、リバイバルを避けるだけではなく『無い』と言います。『間違いです。』あるクリスチャンは、リバイバルは、一種の伝道集会であり『計画的に出来る』と言います。『ノー。』あるクリスチャンは、リバイバルは、おもに奇跡や、異言や、癒しだ、と言います。『違います。』神は、いつも同じように働かないのです。リバイバルは、神の尊い恵みによって与える神の臨在とその体験、と言っていいと思います。。。神は、唯一で、全てのものと区別出来ますが、同時に、どこにでもいらっしゃいます。神の偏在、とも言います。。。私の存在は、今ここにあります。あなたは、私を見て聞くことが出来ます。しかし、メッセージの後、私があなたに近よって、一緒に座って、顔と顔を合わせて話し、深く分かち合う事ができます。リバイバルは、神は、特別に御自身の臨在を親しく下さる時です。そして、チム・ケラー牧師は、こう言いました。”Bother God until he brings his presence down.”「神御自身の臨在が下ってくるまで、神をわずらわせなさい。」神を尊敬するのも大事ですが、私たちは、本当に神様の子供ですから、しつこく神の尊い臨在を願うのもとても大事です。

使徒の働き4:23の前半「釈放された」とあります。が、初代教会は、はじめから迫害されていました。。。日本の教会史は、迫害の歴史でもあります。今も「ソフトな迫害」でも確かな迫害があります。自分がクリスチャンであると、家族、友達、職場の同僚、近所の人たちに言えない時があります。なぜなら「出る釘は打たれる」のです。。。でも、切実に祈るもう一つの理由があるのです。それは、今の日本の教会の大変な状況です。東京のような都会は、よりマシですが、松本のような離れた所は大変です。200人に1人以下がクリスチャンで、200人に199人以上が永遠の裁きに向かっているのです。。。どうすれば良いのでしょうか?多くのお金を使う?新しい方法?伝道集会?有名な人の証し?。。。この箇所では「バイタルな祈り」の重要性を教えています。

23節「ふたり(のペテロとヨハネ)は、仲間のところへ行った」とあります。教会に「残らず報告した。」この使徒2人は、いわゆる「プロ」の他の使徒に相談しに行ったのではなく、教会の皆に話しに行って、皆と一緒に祈ったのです。。。キリスト教は、プロに任せるグループではなく、皆で祈り動くグループです。これは、宗教改革の言葉で「万人祭司」と言います。一人一人がイエスの御名によって直接神に祈り、一人一人に賜物があって奉仕出来るのです。。。「ジャン先生、ダビデ先生」と言わずに、先ず、直接神に祈るのです。また、この箇所のように、皆で祈るのです。

明治維新の頃1858年9月、6人のビジネスマンが、ニューヨーク、マンハッタンで祈りはじめました。1年たったら、1万人のビジネスマンが「神様が尋ねて下さるように」とそこで祈っていました。彼らは「プロ」ではなかったです。。。あなたも、皆で、イエスの御名によって、祈れます。

24「これを聞いた人々は」自分の皆の弱さを感じたので、一番大事な事をしたのです。神に祈ったのです。「みな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。」互いに相談する事も良いですが、神と相談する事が一番です。。。その祈りの内容を見ましょう。『主の祈り』と似て、先ず、讃えたのです。次に、願ったのです。

1.  24−28、バイタルな祈りは、神を讃えることからはじまります。

24節「『主よ。』」29節「『主よ。』」と、言って、先ず、神中心に祈りました。主の祈りのように、先ず、誉め讃えたのです。「御名が崇められますように。」英語の聖書NIVの訳では、24節は、「Sovereign Lord」で、ただ「主」だけではなく、主権者なる主、全てを治める主、という意味です。。。*リバイバルは、人間が起こすものではなく、神の主権によるもので、神が与えるプレゼントです。人間の作力や計画で起こすものではないです。。。でも、リバイバルが起こるように全てを治める神に祈るのです。

次に、24節後半、神の力を認めたのです。聖書のはじめ、天地創造から、讃え祈ります。24節後半「『あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。』」ここで、神の万能性が告白されています。。。どんなに日本は、伝道のこんなんな国であっても、主は、御心のままに、何でもお出来に成る方なのです。天地を造られたのなら、日本にリバイバルを起こす事は「朝飯前」です。。。力に満ちている方に祈るのです。

ロイド・ジョーンズ牧師は、若い頃、イギリスの女王の医師の助手でした。間もなく彼は、ウェールスで宣教師の働きをはじめ、後彼は、ロンドンの教会の牧師に成りました。今も、世界中で彼のメッセージが慕われています。でも、彼の祈りを聞いたら、後のメッセージを聞かなくても帰れたと、聞いた事があります。彼の祈りは、極めて神中心です。”Almighty and ever blessed God….”「全能なる、永遠に誉め讃えられるべき神よ、あなたの聖なる御前に続け祈ります。神よ、あなた様に続けて感謝し、御名を賛美するために来ます。。。」「全能なる」神の主権と力を覚えて祈りましょう。

そして、25−26、聖書に満ちた祈りです。創世記にすでに触れ、さらに後の旧約聖書の予言が引用されています。25節「『あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。』」これは、詩編2編です。。。キリスト者は、反対されるのは、先ず、私たちの神様が反対されるからです。25節後半「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。(26節)地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」神様が反対されれば、私たちも、もちろん反対されるでしょう。。。聖書からクリスチャンの真実な体験を学ばなければなりません。カルト、新興宗教や御利益宗教は、人生をバラ色のように教えますが、聖書は、こう言っています。ヨハネ16:33「あなたがたは、世にあっては患難があります。。。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」聖書は、真実で、人生は、ハードだと、教えます。ですが、勝利者イエスがいるのです。。。聖書に元ずいて真実に祈るのです。

20世紀の初め頃、韓国は、日本の弾圧の下にあり、仏教と儒教の支配下ありました。教会は、とても小さく、暗かったです。それで、幾人かの宣教師が聖書の学びと祈りのために、数人の韓国の牧師を呼び集めました。その一週間素晴らしリバイバルが起こりました。今も、韓国の教会は、のびのびと成長しています。でも、祈りとともに聖書の学びがありました。そうです。御言葉による祈りが大事です。

続けて、25−26の聖書の箇所を「あなたの聖なるしもべイエス」とキリスト中心にして適用します。。。*リバイバルには、悔い改めという大事な要素があります。ヨハネ 16:8「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世に(私たちに)その誤りを認めさせます。」先ず、神である聖霊は、教会に深い罪意識を与えます。。。でも、それと同時に、イエス・キリストに対する信仰が与えられます。ロイド・ジョンズ牧師は、こう語りました。*「リバイバルは、何よりも、神の子、主イエスキリストの栄光が讃えられることであります。キリストを教会の生活(life、 生命)の中心に回復する事であります。」深い悔い改めが与えられ、全てにおいて、キリスト御自身、福音そのものが回復されるのです。。。キリストの御名によって、キリストを中心にして、祈るのです。

更に、27—28では、十字架中心に適用します。主を十字架につけて、人は、悪を働きましたが、それをも神の許しと摂理であったのです。「ポンテオ・ピラトは、異邦人。。。といっしょに、。。。イエスに逆らってこの都に集まり」十字架につけました。。。が、しかし、でも、28節「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」人の責任と神の主権両方が働いたのです。「人があなたを牢屋に入れましたが、主がそれを許し、いや『定め』たのです。」。。神の意図した計画は、キリストの苦しみによって、私たちが救われる事です。イザヤ53:10「しかし、彼(キリスト)を砕いて、痛めることは主のみこころであった。。。主のみこころは彼によって成し遂げられる。」文脈を見ると、5節、それは、私たちに「平安(と)いやし」が与えられ、10節、神の「子孫」となるためでした。。。人の策略は、メシアを十字架につけ、砕き殺し無くす事でした。が、神の計画は、十字架を通して、御子なるイエスを砕くことによって、私たちを「いやし」、回復することでした。。。砕かれたイエスの十字架を仰ぎ崇め祈るのです。

アメリカ東海岸のジョナタン・エドワーズ師は、若い頃の体験をこのように語りました。「ある日、私は、黙想するために、父の牧草地で歩いて、祈りはじめました。そして、私の心の中に、言葉で表せない、神の栄光の恵みのこころよい実感が来ました。私は、突然、両方をこころよい結びつきで見る事が出来ました。神の威厳と神の柔和さが共に結ばれていました。それは、畏敬のある心地良さであり、柔和な畏敬であり、聖なる柔和さであったのです。」。。。神は、主権者で、全能なる神です。でもと同時、十字架の神です。私たちの代わりに死なれた、柔和なお方です。天の父にイエスの御名よって、御霊の注ぎのために祈るのです。

2.29−30、バイタルな祈りは、切実な願いへと移ります。

先ず、私たちは、御言葉に立って、神を讃えるのです。神の摂理と力、キリストとその十字架を覚えた後、私たちは、お願いしたいのです。29節「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になって」下さい。正直に、祈るのです。主の祈りのように「悪からお救い下さい」と願い祈るのです。。。「助けてー」と言う祈りほど良い祈りはない、とJIパッカー博士が言いました。

でも、その願いは、自分の為よりも、人の救いのためです。29節後半「『みことばを大胆に語らせてください。』」彼らは、弱さを感じながらも、けして引きこもらず、御国の前進のために、伝道のために、いや「大胆」な伝道のために、祈ったのです。。。彼らは「バイタルな祈り」を祈ったのです。。。私自身は、もちろん個人として祈っています。でも、私たちは、教会として祈っています。リーダーは、相談する前に、結構祈ります。婦人会もしっかり祈っているようです。礼拝の準備の時、けっこう祈っています。でも、*リバイバルには、驚くほどの祈りが捧げられるのです。より切実に必死に取りなすのです。

でも、あなたは、リバイバルが起こされるよう、天の窓を開け、御霊を注ぐように神に祈ってことありますか?私たちは「バイタルな祈り」を完全に無視しているのではないでしょうか?私たちは、聖霊の権威を忘れているのではないでしょうか?私たちは、自分と自分の働きを中心にしちゃっているのではないでしょうか?私たちは、一番効果的なものを忘れています。もちろん、いろんな試みのために祈って下さい。牧師・宣教師の為に、日曜日のメッセージ、各組織、伝道集会のために祈って下さい。でも、その前に、その後に、リバイバルの為に切実に祈り願いましょう。主は、リバイバルによって、私たちが50年に出来る事を1日して下さいます。。。私たちがただ頑張る時、そのぐらいの結果しかありません。主に祈る時、主の素晴しさに応じて結果を下さいます。祈りましょう。

1700頃、アメリカ西海岸の牧師コットン・マーサーは、自分の命の短さを感じたのでしょうか、彼は、晩年最後の400日、毎朝起きたら、その一日中を祈りに徹しました。でも、それで終わらなかったのです。神が素晴しく尋ねるようにと、彼は、祈りのセルグループをいっぱい作りはじめました。その結果素晴しいリバイバルが世界中に広がった、と言われています。。。祈りましょう。

30「『。。。不思議なわざを行わせてください。』」リバイバルがあると、私たちの信仰は、知識で終わらなくなるのです。*私たちは、リバイバルによって、頭で知っているものが、恵みによって心に下り、体験と成ります。私たちは、すでに、神について、キリストにある恵みについて、ある程度知っています。しかし、御霊が下ると、神御自身、キリストにある遺産、その尊い愛、復活と栄光を深く実感し、キリストが私たちの心に教会に豊かに住み、神の満ち満ちたものに満たされるのです。。。そして、人々は、それによって、神の存在に引き寄せられます。

3.31−37、バイタルな祈りは、素晴しい結果をもたらします。

最後に31節、今日の箇所のポイント、祈りの素晴しい結果です。「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動い」たのです。「一同は聖霊に満たされ」たのです。「神のことばを大胆に語りだした」のです。*キリスト者が真剣に祈り、リバイバルが起こされる時、大胆な伝道が行われます。さらに、32節「心と思いを一つに」されたのです。また、33後半、「大きな恵みがそのすべての者の上にあった」のです。恵みが豊かですから、34節「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった」のです。体のニーズまで。。。

1700年代の前半、イギリスに大覚醒(Great Awakening)が起こされました。日本語で「無血革命」と言いますが、イギリスの革命の時、フランス革命のように、血が流されなかったのです。なぜなら、フランスでは、貧しい人々の間では、富裕層にたいする憎しみが多くて、その結果、多くの血が流されたのです。が、イギリスでは、キリストの福音が貧しい大衆の間に広まって行ったから、心にある憎しみが取られたのです。社会が守られ、祝福されたのです。。。リババルによって素晴しい社会的結果もあるのです。

メッセージの最後に来て、外国の祈りとリバイバルの例えばかり使いました。が、日本の祈りとリバイバルの例えは一つも無かったです。でも、この教会がリバイバルの例えと成るように、私は、願っています。。。ですから、今から祈りましょう。

Thursday, February 11, 2016

「大いに喜ぶ」1ペテロ1:6−9


哲学者、科学者、また熱心なキリスト者ブレーズ・パスカルは、こう書きました。「喜び、喜び、喜びの涙。」キリスト者の喜びとは何でしょうか?

不思議な事ですが、天地を創られた神は、人となりました。イエス・キリストのことです。これを最近クルスマスでお祝いしました。この方は、30年の間、待って、公の奉仕をはじめました。はじめのステップは、12弟子を選ぶことでした。その中の一人は、この1ペテロの手紙のペテロでした。ペテロは、イエスの一番弟子でした。最後の晩餐の時に、イエスは、ペテロにこう言いました。ルカ22:31−34「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」皆さんは、この話を良く知っていますが。ペテロは、失敗し、イエスを否みました。しかし、イエスの言葉を思い出してください。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロは、神の偉大な恵みによって立ち直ったのです。彼は、教会のリーダーとなり、最後に殉教もしました。彼が書いたこの手紙1ペテロを通して「兄弟たちを力づけて」います。。。今日のメッセージを一言で、アメージング・グレース〜驚くばかりの恵みです。それを体験すると、喜ばざるおえないのです。

1ペテロ1:1−5にあるよう、私たちも、神の恵みとあわれみ、イエス・キリストの十字架と復活、「朽ちない遺産」と「生ける望み」を体験したのです。このキリストの「アメージンググレース」(驚くばかりの恵み)に対する私たちの最大な返事は何でしょうか?先ず、伝道に夢中に成る事ですか?ルールをいっぱい守る事ですか?まじめに生きる事ですか?。。。いいえ!6節「そういうわけであなたがたは大いに喜んでいます。」8節にもまた繰り返されます。「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

パスカルは、この恵みの喜びについてこう書きました。「炎。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢者の神ではなく。確信、確信、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神、イエス・キリストの神。私の神、あなたの神。世界と全てが忘れられ、神のみ覚える。人間の魂の偉大さ。福音で教えられている方法のみによって神は発見される。喜び、喜び、喜びの涙。」。。。「喜び、喜び、喜びの涙!」。。。キリスト者の喜びとは何ぞや?

1. 6節後半、私たちの恵みによる喜びは、「試練の中」にあるのです。

ペテロは、こう書いています。「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのです。」「悲しみ」とありますが、信者たちが決して木や石でないのです。人間としての感情はあるのです。私たちは、苦悩に傷つけられ、危険を恐れます。貧しさは苦しみであり、迫害に耐えるのは厳しいのです。

ここの「やむをえず」(ギリシャ語でエイ・デオン)は、「仕方なしに」とか、「いやいやながら」ではなくて、「必要ならば」という意味合いがあります。「必要とあれば」試練に出会い、「必要とあれば」激しく悩むのです。光栄と試練、喜びと苦しみ、天のような金と地上の泥との混ざった人生です。「大いに喜ぶ」ことと、「悩む」こととは矛盾しないで、大いに喜ぶがゆえに悩み、悩むがゆえに大いに喜ぶという不思議な人生です。このように小畑進牧師が説明していました。

御利益宗教と違って、キリスト教は、十字架の苦しみの宗教です。先ず、私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみの恵みによって、キリスト者、神の子どもに成ります。私たちの行いや道徳によるものではなく、神の一方的な恵みによってです。しかし、この上もない恵みにあっても、キリスト者は、「試練の中」にある者です。キリストに従うことはイバラの道でもあります。「出る釘は打たれる」のです。「悲しむ」時もあるのです。でも、主の恵みは、あまりにも優れているから「大いに喜ぶのです。」恵みを思い巡らすと、試練の辛さは、喜びに変えられるのです。

インド、マドラスの司教がトラヴァンコールで、ある子どもに会いました。この子どもは、多くの方にイエス・キリストを伝え、彼女の静かな忍耐によって何人かの方がイエスを信じるようになりました。しかし、言葉に表せないような試練と迫害にあったのです。司教にあった時、体中に叩かれ傷の跡があったのです。司教がこう聞きました。「我が子よ、どうやってこれを耐えたのですか?」驚いた彼女は、彼にこう答えました。「司教様、あなたは、キリストのために苦しむことを好まないのですか?」

2.6−9、私たちは、「試練の中」にあっても喜べるもう一つの理由は、その試練に目的があるからです。

数年前の3.11の東北での9.0の大地震と10メーター以上の大津波が押し寄せて来ました。20,000程の尊い魂が亡くなりました。ある人は、聞くでしょう。“Where is God?”(神はどこにいたのか?)『神が愛と力を持っているなら、なぜ神はその災難を許したのか?』。。。しかし、試練に意義があるのです。私たちには、その苦しみの意義は全ていや全然分からないかもしれないが、無意味ではなく、意味や、目的があるのです。

試練は、クリスチャンでない方にとって理解できないと思います。しかし、この箇所は、クリスチャンに試練の目的を教えています。この箇所に、試練の三つの目的を書いています。

一、    7前半、試練は、信仰の尊さを証明する。
金を掘り出すと、必ずし純金ではないのです。金も「かねかす」や「かねくそ」を落とさなければ、金本来の光を発揮することが出来ません。ですから、高い熱の「火で精練」されるのです。ペテロは、こう言っています。「あなたの信仰は、その精練されながらも、朽ちる純金よりも『尊い』です。」

試練で磨かれた信仰は、金にひとしいどころか、金よりも尊いと断言しているのです!試練を通った信仰の前には、輝かしい黄金でさえも、何でも無いのです。私たちはそれほどの宝を抱いているのです。

ある方は、クリスチャンに「あなたは信仰をもっておられてよいですね」と言いました。我に返ったクリスチャンはこう思いました。「そうなのだ。僕は信仰をもっているのだ。それは実によいことなのだ。いや、それどころか、とても『尊い』のだ。」

この「精練された」と言う言葉は、神の賞賛を受けるためにテストする、と言う意味です。多くの場合テストは、人を落とすためです。しかし、神からの試練やテストは、神の賞賛を受けるためです。試練の最中に落ちるためではなく、失敗しながらも合格するためです。人の称賛を求めると不合格に成ります。しかし、十字架のイエスの愛とその称賛を仰いでいる私たちは必ず合格します。

二、    7節後半、神が誉め讃えられる。
この「称賛」と言う言葉は、「讃美」と言っても良いです。私たちが試練を通ってより尊くなり、合格すると、神が誉め讃えられるのです。しかし、神への「讃美」だけではなく、神への「栄光」とさらに神への「栄誉」ともなるのです。ペテロが似たような言葉を繰り返しているのは、『神の栄光』は(試練を含めて)全ての究極的な目標であると言っているのです。

ウェストミンスター大教理問答書のはじめの質問。「人間のおもな、最高の目的は、何であるか?」その答え。「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」試練の中にあっても、イエスの恵みを喜んでいれば、神を讃美することは可能です。試練も神の栄光となるのです。

三、  9節、救いに導く。
私たちは、過去、主イエス・キリストの十字架によって救われました。イエスが十字架上で代わりとなって罪の罰を受けて下さいました。また、私たちは、その救いを体験しました。私たちは、現在、聖霊さまの力によって、罪の力から救われています。聖化とも言われています。9節では、将来/未来の救いを語っています。私たちは、罪のある世から、天に救い上げられます。

父は、10年以上前に、屋根から頭先から落ちました。私は、病院で、意識がはっきりしていなかった父に詩編23編を読みはじめました。父は、いやがりました。なぜなら、詩編23編は良くお葬式で読まれます。父は、まだ天国に行きたくはなかったのです。私や母は、違います。できるだけすぐ天国に行きたいのです。なぜでしょうか?自分の罪、他人の罪は、多くの試練を生み出すからです。自分の罪を含めて、罪のある世から罪のない天国へと逃れたいのです。今は、自分の天に召される時ではないが、神の時に、その救いが必ず来るのです。試練の原因となる罪の存在から救出される時を期待しています。

無心論や進化論では、ただ宇宙は、ビッグバンによってはじまり、混乱の状態から、不思議にこの秩序ある宇宙と世界が偶然にできたと教えています。進化論によると、宇宙にも、人間にも、目的がないのです。すなわち、苦しみにも目的が無いのです。逆に、弱肉強食の世界で、物や人が死に、滅亡すると、進化論は教えています。しかし、聖書は、逆です。聖書は、全てに目的があると教えています。人間が車を作る目的があるように、神が人を創った目的がるのです。あなたの人生に目的があるのです。この箇所のように、試練にも目的があるのです。

3.8節、私たちの恵みによる喜び、試された喜びは、色んなふうに表現されます。

「二目惚れでした」と私は家内にあった時のジョークを言います。大きな両目で見て惚れました。普通は「一目惚れ」と言いますね。キリスト者のキリストに対する気持ちは、「一目惚れ」でもないのです。「ゼロ目惚れ」です。「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じて」いるのです。ペテロは、3年半、イエス様と一緒にいたのです。でも、信じたり、愛したりしたが、イエス様を3回も知らないと言って、否みました。しかし、私たちは、過去も今も一回もイエス様を見たことがないが、愛し信じているのです。私たちの「信仰」そのものも、とても「尊い」のです。

「ああ、どうせ生まれるなら、二千年前にパレスチナに生まれればよかった。あのころイエスを見ていたら、もっと恵まれ、もっと幸いで、もっと熱い信仰をもてた」などと言ってはなりません。「見ないで信じる者は幸いです」という主イエスは約束しているのです。

ペテロはこう言ったのではないでしょうか?『私たちは見ての聞いての信仰だった。けれどもあなたがたの信仰は全く純粋な信仰なのだ。なんと、あなたがたは主イエスに会ったこともなく、一言も耳にしたことがなかった。それなのに、それなのに、君たちは熱心だ』小畑進。ペテロが聖霊様に導かれてこう書きました。「あの人々は見てもいないのに信じて、生命がけで苦難と試練にあっても喜んでいる!」神ご自身を、見ないで信じ、生命をかけて喜ぶ私たちを、どれほどいつくしんでいるのでしょうか?

しかし、そこで終わらないのです。彼らは「ことばに尽くすことができない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」試練にあったのに、イエス・キリストを見たこともなかったのに、阿波踊りではないでしょうが、少なくても心は踊っていたのです。ペテロは、また言葉を重ねています。1枚「ことばに尽くすことができない」ほど喜んでいる。2枚「栄えに満ちる」ほど喜んでいる。3枚「おどる」ほど喜んでいる。

これはキリスト者のより深い,高い、広い喜びを意味しています。私たちは、確かにイエス・キリストを信じ、愛し、喜んでいます。しかし、聖霊様の特別な恵みによって、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」時があるのです。

天国に召されたロイド・ジョンズ牧師は、このように例えました。私たちは、人生の中でイエス・キリストと歩んでいます。確かな信仰、愛と喜びがあるのです。しかし、突然一方的な恵みによって、イエス様が抱き上げて下さるのです。「我が子よ、愛しているよ」とささやいて下さるのです。その時に、この世にないような、天国のような「喜び」を体験するのです。前は、信仰の確信がありながらも、疑ったのです。しかし、もう疑いは、晴れて、確かな確信を持つのです。。。個人としてこれを体験することができます。が、リバイバルを通して教会として体験できるのです。神が下す体験ですから、強引に体験できるものではありません。しかし、そのために熱心に祈り、イエス・キリストの十字架と復活の恵みを心に抱くと、それを体験する可能性は高まるのです。

14世紀ごろの思想家・聖職者、トマス・ア・ケンパスは、こう言いました。「喜びて神のささやきの鼓動を聞く人は、幸いなり。」「神のささやきの鼓動」は何ですか?試練のまっただ中にあっても、『あなたは私の愛する子』と言う神のささやきです。パスカルは体験をこう書きました。「炎アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢者の神ではなく。確信、確信、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神、イエス・キリストの神。私の神、あなたの神。世界と全てが忘れられ、神のみ覚える。人間の魂の偉大さ。福音で教えられている方法のみによって神は発見される。喜び、喜び、喜びの涙。」冷静な学者でもある、パスカルは、取り乱しているのです。なぜなら、恵みのキリストにあったのです。まじに喜んでいるのです。試練にあっても、キリストの恵みを知っているから、試練の目的をも知っているから、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」のです。キリスト者の阿波踊り!


この喜びがあると人々は、イエス・キリストに引かれるのです。テモシー・ケラー牧師はこう書きました。「私たちの人生に福音が働き、喜びという効果をもたらすと、証の莫大なエネルギーとなる。こんなに素晴らしいことを黙っていれるだろうか?(。。。でも)このエネルギーがなければ、私たちは悔い改め、そのエネルギーが流れるまで、神を求めなければならない。」。。。悔い改めましょう。主イエスとその福音を新たに信じましょう。喜び踊りましょう。

Wednesday, February 3, 2016

謙遜


シリーズ

謙遜と母
「謙遜」エペソ4:1−2
謙遜と十字架
謙遜の実践
「謙遜」

ヤコブ4:6、「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」