Sunday, December 24, 2017

ガラテヤ4:4−5「クリスマスの意義」


ガラテヤ4:4−5「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

メッセージを聞く:松本豊かな命教会 (Matsumoto Abundant Life Church) Live Stream - YouTube

ナポリオン・ヒルは、現代人に7つの不安と恐怖があると指摘しました。それは、老いて行く恐怖、死の恐怖病気の恐怖、貧しさの恐怖、失敗の恐怖、愛を失う恐怖、自由を失う恐怖。心にある恐れをあまり人には見せませんが、何の恐れであっても、心の奥深くにひそんでいるのです。。。聖書は、恐れについて、どのように語って下さっているのでのしょうか?。。。今日のポイント。クリスマス(キリストが来て下さる事)は、恐れを取り除き、安心を意味しています。

1。4節、クリスマスの事実。その歴史性。クリスマスの事実、その意義が深く心に入ると、本当の安心が与えられるのです。

先ず、面白い角度から。サンタは、本当の歴史にいた人物でした。最近、南トルコの辺りに、本当のサンタクロースの墓が見つかったのです。西暦343頃、天に召されたのです。実名は、聖ニコラウスで、墓は、教会の下でした。彼は、多くの遺産を貧しい人や病人に与えたのです。子供が好きで、多くのプレゼントを密かに上げました。後、寛大な人として有名になりました。

でも、サンタの歴史性よりずっと大事なのは、イエス・キリスト、その誕生と生涯の歴史性です。ガラテヤ4:4「しかし定めの時が来たので」とあります。そして、歴史に何が起こったのかを記録しています。「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女(マリア)から生まれた者。。。となさいました。」クリスマスですね。当時の世界は、世の救い主の誕生の為に丁度良かったのです。ギリシャ語が共通語で、ギリシャの文化が広まっていました。ローマ帝国によって、比較的に安全でした。ユダヤ人は、救世主を期待していたのです。そして、主イエスは、歴史上事実生まれ、人の間に住まわれました。。。西暦後37頃から100頃、ローマ帝国に仕えていたユダヤ人歴史家ヨセフスが「古代史」でイエス・キリストについて記録しました。「そのころイエスという者が現れた。もし人と呼ぶべきであるとすれば、まことに賢人そのものであるといわねばならない。なぜなら、彼は、驚くべきわざをなし、喜んで真理を受け入れる人々の教師であった。彼はユダヤ人ばりでなく、多くのギリシャ人をも指導した。この人がキリストであった。そして彼は、我々の指導者達の非難を受け、ピラトウスが彼を死刑にした。先にキリストを愛した人々はとだえることはなかった。そして今でも、彼にちなんで名ずけられた『クリスティアノス』の一族は消滅しない。」都合良いおとぎ話しではなく、キリストは、本当にこの世に来たのです。本当に救いを与え、本当に安心を与えるのです。

2。5節、クリスマスの意義。5節で「ため」という言葉が2回繰り返されてあります。なぜキリストがこの世に来たのか?その理由が書いてあります。一、私たちを贖うため。二、神の子どもにするため。究極的な安心は、生ける神の子供であることです。私たちは、肉体的に、肉の親から生まれたように、私たちは、霊的に(心の面で、神に対して)天の父によって生まれなければなりません。

一、5節前半、束縛から「贖い出すため」とあります。最近学校のきつすぎるルールを「バラック拘束」と行っているようです。歴史家阿部謹也(きんや)氏は、こう書いています。「私たちは皆『世間』の中で生きている。この『世間』が欧米にはないもので、日本独自の生活の形である。日本には『世間』という人と人の絆があり、その『世間』が個人を束縛している。私たちは自分の意見を積極的に述べることに得意でない。特に全体の意見とは異なる自分の意見を述べることには消極的である。なぜなら『世間』の中では目立たないことが大切であり、控えめな態度が求められているからである。服装も態度も『世間』とあわせなければならない。言葉では個性的な生き方は求められていても、現実には顰蹙(ひんしゅく)を買うのである。周囲に合わせて生きてゆく生き方が私たちには求められている。」。。イエス・キリストは、そのようなしがらみから、私たちを解放するために来たのです。キリストは、私たちの代わりに、縛られ、むち打たれ、十字架上に釘づけられ、死なれました。それは、私たちを束縛から「贖い出し」、解放するためです。生ける神を礼拝し、人を愛する事が出来るように、自由にして下さるのです。

二、5節後半、「子としての身分を受けるようになるため」とあります。そのために来たのです。ここに究極的な安心があるのです。天地宇宙を造った生ける神御自身の子供になれるのです。

ファーガーソン牧師は、こう言います。「救いは、本当に恵と愛によって存在することを私たちは信じられないのです。その意味合いを理解するのに苦しむのです。私たちの身分は、(神の)子供なのに、僕の考え方をもっているのです。」神の子どもであることを信じて、多く知って、それでも捨てられた、孤独を感じます。「頑張って、良いクリスチャンになるから」と言って、自分に集中し、過去の失敗や罪集中し、父なる神さまに本当に愛されているとは到底思えないのです。常に自分は、失格者と思い、罪悪感を感じる。つまづく時、立ち直れない。自分を罰する。批判に敏感。人と比較したりして、ねたむ。自分を防御する。神様の子供としての身分を持っていながらも、それを実感していないのです。

イエス様は、なぜこの世に来たのですか?贖い出すため、神の子供としての尊い身分、権利、特権を与えるためです。。。この「子としての身分」は、当時、法律的な意味があったようです。養子の子供を「父親との特別な関係に置いたのです。過去の負債は、全て抹消され、養子となった人は、その家族の中で完全に新しい生活を送りはじめたのです。」。。私たちは、キリストを信じる信仰によって、罪が取り除かれ、義と認められるだけではなく、子としての身分が与えられたのです。理解に苦しむことですが、父なる神が御子なる神イエスを愛するように、私たちをも愛するのです。私たちは、安全で、安心出来るのです。神様との関係は、保証されているのです。

宗教改革のマルチン・ルターは、先ず、弁護士でした。後、修道士となった彼は、旧約聖書の律法を学んでいたのです。彼は、聖い正しい神の要求を知っていたのです。そして、それによって彼は、気が狂いそうでした。静かな孤独な所でおこりました。ルターのいわゆる「塔の体験」は、世界の歴史を変えました。ルターは、自分の体験をこう書きました。『私は、パウロのローマ人への手紙を理解したくて嘆いていました。一つだけの表現「神の義」が理解出来なかったのです。なぜなら、私は『神が正しくて、正しくない人を裁く正しさ』だと思っていました。私の情況は、こうでした:私は、完璧な修道士でした。が、私は、良心の痛む罪人として神の前に立っていたのです。また、私の行いが神を喜ばす自信は、ありませんでした。ですから、私は、正しい怒る神を愛していませんでした。いや、神を憎み、文句を言っていました。。。夜も、昼も、私は、考えました。私は、やっと「神の義」と「義人は、信仰によって生きる」と言う両方の言葉を関連づけました。私は、つかんだのです。神の義は、こうだと分かりました。『ただ恵みによって、あわれみによって、信仰(信じ仰ぐ事)によって、神は、義と認める。』それゆえ、私は、生まれ変わったのを感じました。開いた戸を通ってパラダイスに入ったのです。』。。ルターは、私達に語りかけます。『あなたは、キリストは、自分の救い主だ、と言う真の信仰があれば、その時、あなには、恵み深い神を知っているのです。なぜなら、信仰は、あなたを導き入れます。信仰は、神の心と志しを開きます。そこで、神の聖い恵みと溢れる愛を見る事が出来ます。信仰によって神を見る者は、天の父を見、慈しみ深い友を見ます。』天の父を見!!!

私の親は、私に何回も「あなたは、私の愛する子。私は、あなたを喜ぶ」と言いました。親に言ってもらうのは、嬉しいです。でも、天の父は、イエス様に言ってように、キリストを信じ仰ぐ私にも、あなたにも、言っています。「あなたは、私の愛する子。私は、あなたを喜ぶ。」ここに本当の安心があります。

イエス・キリストが生まれ、十字架上で死なれたのは、私たちに「子としての身分」立場を与えるためです。でも、さらに、聖霊様がその身分を心の中で理解させ、主観的に実感させて下さるのです。神の子どもであることをより確信させて下さるのです。イエス様を信じる信仰によって、客観的に罪が赦されたからこそ、御霊が霊的に精神的な深い所の心に安心を与えるのです。救いは、あなたの知識や理屈だけではなく、感情にまでに入って来るのです。神とより親密な関係を持ちたがるのです。神様の子供である確信は、キリストの贖いのゆえにあります。が、聖霊様がそれを適用すると、より確信を持てるのです。このような確信は、他の哲学、宗教にはないです。私たちは「『世間』から排除されることを最も恐れて暮らしている」と阿部氏は言います。しかし、聖書は、こう言っています。『けして神から、神の愛から、子としての身分から私たちを排除されることはない』と。

どのようにしてこの「子としての身分」を体験出来るのでしょうか?先ず、体験そのものを求めないのです。こうするのです。御子イエス・キリストを通して私たちを贖なった神を誉め讃えるのです。聖書を読みながら「神様、あなた様を表して下さい。あなた様なくしては、私は、ナッシング」と叫ぶのです。神様御自身を崇めるのです。その聖さ、恵みと愛の麗しさ、十字架を仰ぎ見るのです。

神の子供としての身分を体験出来るのです。このように描いてみましょう。あるお父さんは、自分の小さな息子と歩いています。息子は、お父さんを知っているし、お父さんの愛をも知っています。でも、突然お父さんは、止り、息子を抱き上げ、抱きしめるのです。口ずけするのです。男の子の身分は、前とは変わらないのです。でも、新たにその身分を喜んで、お父様の愛を深く深く知るのです。。。私たちは、このように、さらに神の愛を実感出来るのです。

赤ちゃんは、叫ぶ時、親は、いつでも来てくれると思います。私たちも、天のお父様を「パパ」と叫び、祈ることが出来るのです。。。アブラハム・リンカーンが内閣と相談していた時でした。障害をもっていた息子が突然入って来ました。リンカーンは、国の相談事を止め、その息子を抱き上げ、注目しました。。。天の父も、私たちに、それ以上をしてくださるのです。

2000年前のある日、ギリシャのアレクサンドロス大王の将軍の一人が大胆に彼にお願いしました。「娘を嫁に行かさなければならないです。お金が必要です。」「あなたは、素晴しい将軍。喜んでする。どのぐらい必要?」将軍は、信じられないような金額を言いました。アレクサンドロスは、怒らないで、喜んで「もちろん、私の宝の倉庫に行け。必要な全てもらいなさい!」と言いました。将軍がさって行きました。そして大王に回りに人は、驚きながら、聞きました。「どうしてそんな金額を上げたのですか?その上、喜んで?」「その莫大な金額を願う事によって、彼は、私の寛大さと栄光を認めたのです。」。。私たちは「生ける神が私たちを御自身の子供にしてくれなんて」信じられないのです。でも、そうです。信仰によって、生ける神の子供です。信じましょう。そこにある特権を喜びましょう。

高校生の頃、弟ダン、同級生のキースと私が青木湖でキャンプしました。他の皆がキャンプする所ではなく、けっこう離れた暗い所でした。怖かったです。父が連れて行って下さいました。でも、父が帰って来て、拾って下さった時の安心を今もはっきり覚えています。親が与える安心です。でも、天のお父様の、イエス様とその贖いを通して、知る安心は、その愛は、どれほど素晴しい事でしょうか?1ヨハネ 3:「私たちが神の子どもと呼ばれるために、−事実、いま私たちは神の子どもですー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」

阿部氏は「世間」はこう言うと書きました。「どのような宗教にせよ熱中してはならない。どのような思想でもそこに自分を賭(か)けてはならない」。しかし、私は、私たちは、この方イエスに全てをかけ、熱心になり、喜ぶのです。なぜなら、クリスマスの意義は、次です。こんな私たちのために主イエスは、生まれ、私の罪を負い、代わりに死なれたのです。私たちを解放し、子供にし、安心と意義を与え下さいました。ですから、私たちは、この恩方を信頼し、喜んで熱心になり、恩方に全てをかけるのです。

Monday, December 18, 2017

メリークリスマス


最近OPENしたAEONMallで奈帆とデート。
(子供もpostしたいですが。。。)

Wednesday, December 13, 2017

詩編1編 「神との交わり」



「今のこの自分で良いだろうか?」と思ったことはありませんか?なかなか成長してないように感じませんか?ある誘惑にいつも負けている、人を赦せないように感じませんか?解決のカギは、心の奥底から『福音の力によって、キリストの似姿に変えられる』ことです。でも、どのようにしてそうするのでしょうか?大事な手段の一つは、聖書的黙想です。英語では”Bible meditation”と言います。静まって、聖書と福音を思い巡らすことです。ファースト・フード(カップヌドル、コンビニ・ベンドウ、マックの)時代です。が、スローダウンして、聖書を読み、祈る必要があります。仏教の瞑想は、主に自分みずから来る『平安』です。カトリック教会は、聖書も含めますが、見える十字架、イコン()やマリヤ像などを用いて瞑想します。私たちのプロテスタント福音信仰的黙想は、心を静めて、聖書を中心にして思いめぐらし、生ける神に祈り、崇めることです。デボーション、静思とも言います。

聖書的黙想のキーワードは「神との交わり」です。英語では、”Communion with God”。私は、聖書の時間の祈りに苦しんでいました。命令形に線を引いて、名前のリストを頑張って神に捧げていました。でも『いや』に成っていました。あるベテラン牧師に聞きました。「どのようにして祈るのですか?」「交わり」と簡単に返って来ました。聖書の時間を主に「神との交わり」の時間にするのです。聖書を味わうことによって神の声を聞き、祈りをもって神との対話を持つのです。いつでも出来ますが、集中する時も大事です。具体的に、どのようにするのでしょうか?一、神の造った創造の中で。でも、特に、二、教会の礼拝と、三、個人の静思の時間の二つを特に用いて。

1。自然の中。詩篇19:1「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」星野富弘さんは、こう書きました。「一日にほんの一時でも静かなものと向き合いなさいと今日も花が咲いている。」

アメリカの牧師ヨナタン・エドワーズの体験は、こうです。「1737年、ある時、森の中を馬に乗っていた。静かなところで、馬を下りた。私は、この習慣を普通にしていて、歩きながら神について瞑想し、祈っていた。私は、神と人との間の素晴しい仲介者御子なる神の栄光を見た。彼の素晴しい、偉大な、満ち足りている、清いまた甘い恵みと愛、また謙遜と柔和な謙り。この恵は、とても静かに心地良く現れ、天より高く偉大なものとして現れた。人としてのキリストは、全ての思いと考えを飲み込むような、言葉で言い表せないほど素晴しい方として現れた。これは、判断出来る限りだいたい一時間続いた。この多くの時間、涙が溢れ、大きな声で泣いた。私の魂が熱心になるのを感じた。他の言葉で言えないが、私は、空にされ、絶やされた気がした。何もない者とされて、ただキリストで満たされた。聖なる清い愛で彼を愛すること。彼に頼ること。彼によって生きること。彼に仕え、従うこと。天からの神の清さで完全に聖別され、清くされること。私は、他の何回も、似たようなことを実感し、似たような効果もあった。」。。自然の中で、このようにキリストを体験し、心から変えられる可能性もあります。

2.教会礼拝。使徒の働き2章で、礼拝は、聖書、神、福音について、思い巡らし、喜ぶ時である、と教えています。使徒行伝2:41節「みことば(福音)を受け入れた者は、バプテスマ(洗礼)を受けた。」42節「そして、彼らは使徒たちの教え(聖書)を堅く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐式をし)祈りをしていた。」この教会礼拝が、43−45、他の行動に移ったのです。「不思議。。。共有。。。分配」が、礼拝から来る実践でした。46—47の礼拝と「讚美」があって、47節後半「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」のです。初代教会は、実践に移したのですが、先ず、共に御言葉の福音を吸収していたのです。

これは「恵みの手段」とも言います。(1)最近、豊かな命キリスト教会の熊谷兄が昔の羽田野姉の洗礼の写真を見せて下さいました。その時、印象的なのは、羽田野姉は「ハレルヤ!」と言って、水から出た事でした。私たちは「洗礼」を通して、福音を思い巡らし、福音によって生かされていることを喜ぶのです。水に入り、上がることで、私たちが主イエスの十字架の死の恵みと復活の力に預かっていることを覚えるのです。(2)「教え」のメッセージでは、御言葉を忠実に伝え、聞き入れ、神御自身とその十字架による救いの御業を覚え、讃える時です。メッセージは、私たちプロテスタントの特徴の一つで、とても尊い恵みの手段です。私たちは、御言葉を基盤として、黙想し、賛美し、祈り、交わり、伝道するのです。でも、メッセージを通して、私たちは、本当に御言葉と福音を黙想しているでしょうか?私たちのメッセージは、考えさせる、キリストを讃えるような内容でしょうか?そのような機会を与えているでしょうか?キリストを崇めているでしょうか?あなたは、メッセージ中、その後、神の栄光と恵みを思い巡らしているでしょうか?豊かな命キリスト教会は、メッセージを先にして、その後に、黙祷する時間を与えています。(3)「祈り」や「讚美」を通して、私たちは、メッセージに応答し、偉大な恵みの神を喜んで、その御業を感謝しているのです。。。また、歌いながら、その真実を新たに考えると、感情が真理と共に動いて、福音のメッセージがより心に浸透するのです。。。どうでしょうか?その後の一週間、その歌が自然に出てくる時あれませんか?(4)「パンを裂き」とあります。が「聖餐」も、恵みの手段の大事な一つです。私たちプロテスタントは、それをより強調しても良いと思います。メッセージは、主に耳で聞く福音です。パンとブドウ酒は、キリストとその十字架の恵みを見て、手に取って、味わう福音です。。。急がないで、贖いを思い巡らす機会を与えるのです。(5)「伝道」を通して、一般の人にも、この恵みを思い巡らし考えて欲しいのです。先ず、私たちの態度と行動を通して。でも、また、時が来たら、言葉を通して。。。ブレーズ・パスカルの「パンセ」は、英語で”thoughts”(考え事)という意味で、日本語では「瞑想禄」と言います。内容を見るとパスカルは、人々にキリストとその福音について深く考えて欲しかったのです。私たちは、礼拝で、聖書を通して、神や福音について、考えるチャンスを皆に与えているでしょうか?あなたは、礼拝中、他のこと(学校、仕事、家庭、娯楽)で心が散っているでしょうか?ただ頭でっかちになっているでしょうか?集中し真に主キリストを考えて、喜んでいるでしょうか?ただ忙しく礼拝し、ただの行事を行っているでしょうか?

3.個人的の静思の時間。詩篇1:2「まことに、その人は主のみおしえ(御言葉)を喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」「口ずさむ」は、どういう意味でしょうか?辞書では「歌やメロディなどを何となく声に出して歌ったりすること。」ヘブライ語の「ハーガー」と言う言葉で、「小さな声でささやく」という意味です。生ける神の臨在を実感し、聖書を思い巡らし、それについて祈ることだと思います。牛が草などを食べる姿と似ているようです。牛は、噛んで、飲み込んで、また口に出して、さらに噛んで、また飲み込むのです。草がより細かくなり、消化に良いだそうです。私たちは、御言葉、その福音を思い巡らし、祈りや讚美を通して口に出すのです。ゆっくりチョコレートを味わうことと似ています。口にとろけて、味や感触を喜ぶのです。そのように聖書を味わうのです。それをどのようにして具体的にするのでしょうか?

1.詩編1:2、聖書を、すなわち神を「喜ぶ」ことを優先しましょう。自制してすることも大事です。数100年前、英国国教会のリチャード・セシルは、こう指摘しました。「キリストに仕える聖職者の1番の弱点は、デボーションの習慣の欠乏です。」そうです。でも、恵みよって愛されていれば、私たちの行動の全ては、特にこの静思の時間は「喜び」の時です。ただ義務的に嫌々ながらするのではなく、ただ聖書の知識を得る為、ルールを守る為にするのではなく、神を喜びながら、麗しい方と交わる為にするのです。御言葉を喜んでいれば、楽しんで黙想できます。 愛する人から手紙が来たら、それを喜んで、何回も何回も読むことと似ています。

2.決まった特別な時間をとっておきましょう。「昼も夜も」聖書を味わえますが、特別な時間もとっておくのです。私の場合は、朝一番です。が、あなたにとって一番良い時間を考えて下さい。少なくても、15分は、必要だと思います。ある人は、それを30分、45分、1時間にして、楽しむことも出来るようになるのです。ジョギングしたい時、いきなり5キロをすると、嫌になって、止めます。しかし、先ず、1キロを志したら、出来るでしょう。先ず、15分、神との交わりの時を持ちましょう。

3.静かな「取って置きの」場所を選びましょう。世の中には、雑音が多いです。主イエスは、こう言われました。マタイ6:6「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」キリシタン大名高山右近は、茶室で瞑想しました。私は、寝室の1/3を本棚で区切って、神との交わりの時きを持ちます。

*聖書的黙想は、「神との交わり」で、対話です。神は、主に聖書を通して私たちに語り、私たちは、祈りを通して神に語るのです。先ず、その時間を一言で主に祈り委ねましょう。

4.黙想の基盤を「主の御教え」聖書にしましょう。神は、生ける天地を造られた神ですから、謙虚に、先ず、神の声を聞きましょう。でも、どのようにして、神の声を聞くのですか?聖書を読み思い巡らし味わうのです。

先ず、聖書箇所を選びましょう。いろんな考えがあります。が、長い箇所を選ばないほうが良いと思います。私は、旧約聖書では、1章だけにします。新約聖書は、一段落のみです。

次ぎ、聖書を目の前にして、聖書の学び方を使いましょう。例えば「5WH(何?誰?いつ?どこ?ねぜ?どのようにして?)をその箇所に聞きます。または、文法をみたりします。「しかし」のような接続詞、繰り返された言葉、比較とか対照。直感も使います。大事なのは、少しの時間をかけて、その箇所をいわゆる観察し、思い巡らし、味わうのです。その箇所に対して、このような質問を問いかけるのも良いでしょう。私が悔い改めるべき罪は?キリストの恵や贖いは、この箇所でどのように教えられている?「キリストは、血潮を流すほどに私を愛している」ことをその箇所を通して覚えるのです。神をどのようにして崇め、神に従える?それで、黙った神の声を聞くのです。

多分一番良いのは、その中で、一言、一つのアイデアを心にとめ、思い巡らすことが大事だと思います。ピューリタンのリチャード・バクスターは、こう書きました。「黙想を通して、私たちの心が温まるまで思い巡らすのです。」思い巡らす事によって大事なものを心に訴えるのです。自分の心に説明し、説教し、いわゆる「討論」までするのです。

5.聖書から、また自由に主を崇めましょう。今度は、私が神に声をかける、ささやき、歌うのです。「私は、ここで住み、生かされ、讚美する。ここで愛され、愛するのです。私は、ここで天の合唱団の一員となるのです。私の声も、そのメロデーを取り上げましょう。」このようにして、神の栄光とその恵みに、深く感動しているので、讃えるのです。そのようにして、この福音がさらに心に深く入ります。 時間が増えると、詩編一つを通して主を讃えるのも良いでしょう。または、賛美歌を歌うのも良いでしょう。

6.あらゆる祈りを捧げましょう。恵を味わって、喜んでいるから、御言葉に従い、実践出来るように祈るのです。自分、家族、同級生、職場の人、教会の人、隣人のために祈るのです。この時、リストを使っても良いと思います。父は、御言葉の人でした。母は、祈りの人でした。リストを使って多くの方のために祈りました。恵みですが、訓練でもあります。自制し努力して祈りましょう。

7.黙想を一日中しましょう。集中して御言葉を味わい、祈ると、「昼も夜も」(一日中)できます。その御言葉を良く考えて、祈っているから、自分のものに成って、一日中思い出せるのです。「私は、忙しくって無理です!」と言う方がいるでしょう。あるサラリーマンは、その日の中心の御言葉を3バイ5カードに書いて、ポケットに入れていました。その日、思い巡らしたのです。集中した神との交わりが生活の中での交わりを促します。

私は、まだまだこれについて学んでいます。ジェリー・ブリジェッスは、こう書きました。「霊的訓練は、私たちを束縛するためではなく、私たちに恵を与えるためにある。」恵ですから、先ず、形ではなく、「神との交わり」であることを忘れないで下さい。「神との交わり」を一日15分間でも少し実践してみて下さい。イエス様とその贖いを楽しんで下さい。神との交わりの時間によって、あなたは、詩編1:1のように、少しずつ、罪の力から解放され、成長し、精神が癒され、3節「実」の多い人に成ります。心の奥底から『福音の力によって、キリストの似姿に変えられる』のです。これこそクリスチャンの真の願いです。


Sunday, December 3, 2017

神聖な瞑想


「1737年に、私が健康のために森で乗馬をしていたときのことです。静かな場所で馬から降り、いつものように神聖な瞑想に浸り祈っていました。そのとき驚くべきもの見たのです。神と人間との間の仲裁者である御子の栄光と、素晴しく、偉大で、満ち満ちていて、純粋で甘く芳しい恵と愛、そして柔和で、優しい謙遜です。それは一時間ほど続いたと思います。それを見ながら私は長い間涙を流し、大声で泣きました。」ジョナサン・エドワーズ

コロサイ1:15−20「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」