Thursday, June 27, 2013

宗教改革のスローガン



宗教改革のスローガンは、次の通りです。「信仰による救い。しかして、善き業への救い」に続くのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:8−10

Thursday, June 20, 2013

「恵みという炎をともし、またさらにともすのである。」


「一つ一つのこの情熱が眠りから覚めて徘徊し、その強欲の対象の臭いをくんくんとかぐ。この情熱はあわれな優柔不断の魂を背景から奪い、その人は疲弊する。彼は何度溝の中に叩きつけられ、泥で息を詰まらせ、へりをつかんで再び光りに向かって立ち上がっては、自分の手がそれから離れ、もう一度暗闇に戻るのを感じなければならなかったことか。しかし、彼はついに霊的生活の法に屈するのだ。 ーーそれはこの世で最も理解されていない法であり、何よりも彼をうんざりさせる法であるが、それなくして救いの究極的保持という恵みを獲得することはできない。要求されているのは自我の放棄であるが、これはパスカルの次の言葉に完璧に表現されている。『完全かつうるわしい放棄。イエス・キリストの、そして私の霊の指導者への絶対的な服従。』

人は、あなたは自由な人間という称号にふさわしくないことか、自分自身が主人に服従しなければならないなんて、と嘲笑するかもしれない。。。しかし、この隷属は、実際は奇跡的な解放なのである。というのも、あなたが自由であったときでも、自分自身のために鎖を造りそれを身につけ、その鎖を刻一刻、さらにきつくしめることに全時間を費やしていたからである。自分は自由だと思っていた年月、雄牛のように、自分の数えきれない遺伝病のくびきに屈していたのである。生れ落ちたときから、犯した罪がことごとく生き続け、なおいっそうあなたをとらわれの身とし、他の罪を生じさせてきた。あなたが屈したお方はあなたに自由の奴隷になってほしいとは思っておられない。つまり彼はあなたの束縛の循環を断ち切り、あなたの半分消されてはいるが、なおくすぶっている願望に対して恵みという炎をともし、またさらにともすのである。」

フランソワ・モーリヤック

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」ヨハネ 1:16 

Friday, June 14, 2013

キリスト教と親鸞


2011年6月15日、水曜日の夜10時、興味深い話しをNHKの歴史話ヒストリア』で見ました。人はみな、救われるべきもの法然と親鸞 探求の道~」という題でした。番組が言っていたのは、法然は、念仏を唱えれば救われる、と教えていました。弟子親鸞は、ただ「阿弥陀仏」を信じれば救われる、と教えていました。彼ら自身がそれを発見(悟った)ように、番組が語っていました。しかし、法然(11331212年)と親鸞(11731262)の1000年以上前から、聖書の多く箇所に「イエス・キリストとその十字架を信じると救われる」とあります。はたして、法然と親鸞の教えは彼ら自身の教えだったのでしょうか?それとも、聖書からとったのでしょうか?

私が20歳の頃、現在の安曇野市の新田で英会話を教えていました。クラスで「Amazing Grace」を歌っていました。キリストの驚くべきばかりの恵みを歌っていました。そのクラスの皆の家庭に訪問していました。その一つは、お寺でした。そこの責任者は、私にこう言いました。私たちも「信じる事によって救われることを教えていますよ。聖書からとっています」と言って私は驚きました。小京都の金沢に住んでいた時も、その地域の仏教は聖書から来た事を聞きました。

その後、私は、調べました。中国にも住んでいたジョン・ヤング博士は、徒歩で中国まで、と言う本の中にこう書いています。804806年ころ、弘法大師という僧侶が中国に行き、仏教の寺院に住んでいました。景教(キリスト教の東の教会)の隣りで、接触していたそうです。806年、弘法大師がキリスト教の他の書類を含めて、聖書のマタイの福音書5章〜7章と、マタイの他の部分を京都に持って帰ってきたのです。西本願寺にあるそうです。後、親鸞は、毎日何時間をかけてこのキリスト教の書類を勉強したそうです。安曇野市のお坊さんや、金沢市の仏教の言っていた事を立証しました。確かに、従来の仏教と違っていました。キリスト教に似ていたのです。

マタイ5:3にこう書いてあります。「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」また、マタイ7:1013にこの出来事がありました。「イエスがマタイの家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見た(宗教家の)パリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス・キリストは、実に、弘法大師の700年前、法然と親鸞の1100年ほど前にこの言葉を語りました。

そのまた1000年ほど前(今から3000年ほど前)に、ダビデ王(イエス・キリストの先祖)が詩編51編1−2にこう祈っています。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」聖書の最後の黙示録21:6にこうあります。イエス・キリストは、こう語っています。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」

法然も、親鸞も、(釈迦も、弘法大師も)素晴らしい人だったと私は思います。しかし、法然と親鸞の教えの大本に行く事が最も重要なことです。イエス・キリストの言葉、いやイエス・キリストご自身にさかのぼる事が大事です。イエス・キリストを予言したイザヤ53:5、6でこう書いてあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」イエス・キリストの身代わりの十字架の予言です。実に、イエス・キリストの700年前のことです。

イエス・キリストの40年ほど後にプウロはこう書きました。ローマ3:24−25「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」イエス・キリストが私たちの罪を十字架上で負い、裁かれたのです。私たちは、ただ信じ仰ぐことによって、救われ、神の極めた恵みにあるのです。

法然は、修行と共に恵みを教え、親鸞は、恵みのみを教えました。仏教の専門家でもある大和昌平牧師は、聖書の異なった特徴は「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」と説明しています。新たに十字架のキリストを仰ぎ、讃え、伝え、表しましょう。

参考:福音バカ: 「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」

Wednesday, June 12, 2013

「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」


2012年1月8日(月)、香川県の教会が特別講演会をもちました。50名以上の牧師や信徒が参加しました。大和昌平教授が不思議なことを言いました。仏教の法然親鸞が、900年程前に『恵みによる救い』を説いでいた、と言いました。法然は、修行と共に恵みを教え、親鸞は、恵みのみを教えました。大和師は、聖書の異なった特徴は「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」と説明しました。

造り主は、人間の罪を見過ごすことは出来ないのです。なぜなら、主は、聖い聖い聖いお方だからです。しかし、いっさいの罪のないイエス・キリストは、私たちの罪を自分のものとし、十字架上で代わりとなって裁かれたのです。私たちの代わりに地獄の裁きを受けたのです。これが聖書で説く、愛と恵です。それを信じる、イエス・キリストをただ仰ぐものは、救われるのです。私たちは、創り主の計り知れない愛の対象となるのです。その恵みによって、神を愛し、隣人を愛し、『良い行い』をするのです。

法然と親鸞の実に1000以上前に使徒パウロがこう書きました。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」聖書・エペソ2:8−10

キリスト者は、キリストの十字架のみ業の恵みを信じ味わい、その恵みと愛を人々に示すのです。「あなたの敵を愛しなさい」と言うキリストの言葉を覚えますが、敵であった私たちが創り主によって赦されてように、私たちは赦すのです。宗教改革のスローガンは、次の通りです。「信仰による救い。しかして、善き業への救い」に続くのです。

参考:法然と親鸞

Friday, June 7, 2013

「すぐれたことば、すぐれた知恵」


「私が説教する時、私は、博士とか修士を尊重するのではなく、(しかし)2000人以上の数多くの若者、子供と召使達に私は目をともているのです。私は、彼らに説教しているのです。」マルテン・ルター

“When I preach, I regard neither doctors nor masters, [but] I have an eye for the multitude of young people, children, and servants, of which there are more than two thousand. I preach to them.” Luther

「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」1コリント2:1−2

映画「ルター」 米で公開 

Monday, June 3, 2013

「祈りとみことば」



「聖書は、知的能力の鋭さよりも、畏敬と謙遜によって、また、敬虔な祈りのある鋭い研究によって、扱われたい(英:wants to)のです。」マルテン・ルター

“The Holy Writ wants to be dealt with in fear and humility and penetrated more by studying with pious prayer than with keenness of intellect.” Luther

「そして、私たち(使徒)は、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」使徒の働き6:4