Wednesday, January 30, 2013

ひとりのみ子さえ


私は、今週の礼拝、この賛美歌を歌いながら、涙が流れました。

『私たちが神の子どもと呼ばれるために、‐‐事実、いま私たちは神の子どもです‐‐御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。』1ヨハネ 3:1 

福音賛美歌130 ひとりのみ子さえ

ひとりのみ子さえ あたえた神の
 はかりしれない 愛の大きさ
 十字架のくるしみ たえられる主を
 みかおをかくして しのばれた神

わたしの罪 とが せおわれた主を
 わたしはあざけり とおざけていた
 わたしがつくべき 十字架について
 主イエスは わたしを すくってくれた

ちからも ちしきも ほこりはしない
 ただ主イエスだけが わたしのほこり
 どうしてわたしが すくわれたのか
 ただ主の十字架が わたしのすくい

Youtubeで英語で聞いて下さい。How Deep the Father's Love for Us - YouTube

How Deep The Father's Love For Us lyrics

How deep the Father's love for us,
How vast beyond all measure
That He should give His only Son
To make a wretch His treasure

How great the pain of searing loss,
The Father turns His face away
As wounds which mar the chosen One,
Bring many sons to glory

Behold the Man upon a cross,
My sin upon His shoulders
Ashamed I hear my mocking voice,
Call out among the scoffers

It was my sin that left Him there
Until it was accomplished
His dying breath has brought me life
I know that it is finished

I will not boast in anything
No gifts, no power, no wisdom
But I will boast in Jesus Christ
His death and resurrection

Why should I gain from His reward?
I cannot give an answer
But this I know with all my heart
His wounds have paid my ransom
(REPEAT)


Friday, January 25, 2013

『人を造り変える福音の力』


The Transforming Power of the Gospel
By Steven L. Childers  ステイーブン・チルダーズ

私は回復途上にあるパリサイ人です。私は、神からの賞賛よりも、人からの賞賛のほうを好みます。神様を本当に知る事より、神様に関する知識や敬虔らしさを優先させてしまいます。私は長年の間に、自分の霊的現実(リアリテイー)の欠如を巧妙に隠す手段を覚えました。福音の正当性を主張することが出来ますが、自分の生活の中で、福音の人を造り変える力を経験することはしばしば失敗します。

数年前フロリダ、オーランドの改革派神学校で、牧会の博士課程の授業を教えていた時、私の中にあるパリサイ主義の根深さを明らかに示されました。ある日の授業で私の一緒に教えていた同僚は、そのクラスにいた多くの牧師やクリスチャンのリーダー達が失望し、霊的に敗北しているようだということに気付きました。私自身も戦い、苦しんでいました。しかし私の場合、それを見事に隠して教壇に立っていたのですが。

私の同僚は彼の周りで人々が痛みを抱えているのを見て、私をそばに呼び、クラスを三人ずつのグループに分けて、お互いに福音を伝えあうようにさせたらどうかと言いました。私は驚いて、「何だってそんなことを。」と思いました。「彼は、クラスの中に本当のクリスチャンではない人がいると思ったのだろうか。授業を中止してお互いの必要を分かちあい、祈りあうというのならわかるけど、お互いに伝道しあうなんて。」

しかし、彼が説明するにつれて、自分の考えがいかに間違っているかに気付きました。福音はノンクリスチャンだけに必要なもので、信じてクリスチャンになった後の生活には、あまり関係ないものと考えていました。その日から私は、福音は私が一度だけ通れば良い門ではなく、日々そこを歩いて行くべき道なのだということがわかり始めました。

これは、痛々しいぐらいどこにもある話です。私たちはクリスチャンとしての生活を意気揚々と始めますが、だんだんと、本当に霊的に変えられることが少なく、あるいは全くなくなっていることに気付きます。健全な教理を信じ、霊的な規律を守り続けても、心はあまり変っていないように見えます。神様との関係は冷えきり、距離が生じます。何かが間違っていることは分かっていますが、それが何かははっきりとつかめません。本当の喜びが人生にあふれるということもありませんし、神の御臨在や御力を感じることもありません。究極的には自分の罪が赦されていることは分かっていますが、日常生活のただなかでは誘惑に打ち勝つ確かな力がありません。どうしたらいいのでしょうか。

グッドニュース!
クリスチャンにとっての素晴らしいニュースは、私たちの冷たく、かたくなな心のための神様の治療法があるということです。その治療法は、人の心を変える福音の力にあるのです。そしてその治療法は、私たちの再生だけでなく、私たちがキリストの似姿に変えられることをも目的とします。そしてその目的は、ただ単に罪の赦しを得させるだけでなく、私たちを真実に神を礼拝し、人々を愛する者へと変えるのです。

しかしながら、私たちはしばしば福音を、迷える人々が、刑罰から救われるための神の救済計画でのみあるとしていまい、クリスチャンが罪の力、支配から救われるための神の救済計画でもあることを理解していないことが多いのです。罪人を救いに導く福音のメッセージは、生徒たちを聖く(きよく)するものでもあるのです。

数年前のことですが、ナビゲーターの有力なリーダーが、数百人ものクリスチャンの前で、彼自身の福音に対する見方が、彼のクリスチャンリーダーとしての仕事を阻んでいたということを明らかにしました。

彼は言いました。「自分の人生を一本の線で表わすことを考えてみて下さい。一番左側にある点を、あなたが生まれた時としましょう。そして一番右側があなたの死です。真ん中にあなたがクリスチャンになったことを示す十字架をおいてみてください。生まれてから十字架までの間で、あなたに一番必要だったものを一言で言い表すと何ですか。」ほとんどの人は『福音』であると答えました。「それでは、」彼は続けました。「十字架のからあなたの死までの間で一番必要なものは何ですか。」『成長』と答える人もいれば、『聖化』と答える人もいました。

「以前の私でしたら、きっと皆さんに賛成したことでしょう。」と彼は告白しました。「ナビゲーターとして、私なら多分『弟子訓練』と答えたことでしょう。しかし今の私は、それは『福音』であると答えます。」

何十年もの積極的な弟子訓練をしてきた後、彼は自分の福音観が、クリスチャンとして人生を生きていくという実際的事柄から切り離されてしまっていたことに気付きました。そして今では彼は、私たちにとって福音は、救われた後も、救われる以前と同じように必要であると強く感じています。

聖書は、私たちの救いは、過去、現在、未来の全てにわたっていると教えています。:過去—私たちは自分の罪に対する罰を受けることから救い出されました(エペソ2:8)。:現在—私たちは罪の力から救われています(ピリピ2:12)。:未来—私たちは罪の存在そのものから救われます(ローマ13:11)。

福音がどのようにして私たち信じる者を救い、そして私たちの心を変えていくかということを更によく理解するためには、まず最初に、今日ちまたにあふれかえって偽物の霊的治療法を拒否することを学ばなければなりません。

クリスチャンの心の中にある霊的変革の欠如に対する現状肯定的な反応は、「心配ありません。それは私たちが人間である以上自然なことなのです。それとも私たちは律法の下にいるのではなく、恵みのもとにいるということ知らないのですか。」と言うでしょう。現状肯定主義者は、霊的成長はあくまでもオプシオンで、必ずしも必要なものではないと信じているのです。しかし、聖書は私たちに、長い間罪と親しむことは私たちの心が死んだ状態、またおそらくは、私たちの救われていない状態をも指し示すものだと教えています。真のクリスチャンは、あきらめてしまうことがありません。彼らは、「目標をめざして一心に走っているのです」(ピリピ3:14)。

私たちが拒否しなければならない第二の治療法は、クリスチャンとしての霊的変革のためには、自分の人生の支配権を神様にお渡しする以外に私たちにできることは何もないと信じている受け身的な考え方です。私たちの霊的戦いを解決するためには、神様に全てを明け渡し、神様に戦っていただけばいいのです。このような考え方は、私たちは信仰の更なる充実のために、「何かもっと良いもの」を安易に求めて、誤った希望や経験を追い求めることに人生を費やしかねません。「何かもっと良いもの」を探し求める代わりに、私たちは、私たちがすでに「キリストにあって」持っているものを知り、用いることを学ばなければなりません(コロサイ2:9−10)。

最後にお話しする、誤った解決法は、「もっと努力しよう。」がモットーの道徳主義によるものです。この方法はとても洗練され、霊的であるかのように見えますが、注意深く聞いてみると、こんな中心的なメッセージが聞こえて来ます。「もっと努力して、もっと多くの時間を御言葉と祈りのために費やそうー もっと努力してよりより証し人になろうー もっと努力して怒ったり、心配したりしないようにしようー もっと努力して、もっと愛のある伴侶や親になろう。」しかし私たちの生活において、御言葉が内的現実を伴わず、霊的拒否、あるいは絶望に満ちたライフスタイルに陥るとき、私たちにやる気を起させるための激励の言葉もあまり効果がありません。使徒パウロはこう書いています。「あなた方はどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなた方が、いま肉によって完成されるというのですか(いま人間的な努力によって目標を達成しようとしているのですか)」(ガラテヤ3:3)。

核心的問題:心の偶像礼拝
上記のような治療法が人々に変化をもたらさず、かえって拒否的な考えや絶望に陥れるのは、それらが人々の心に届かないからです。根本的な問題は私たちの外側、あるいは私たちの行動にあるのではありません。それは私たちの心の問題なのです。

真の霊性とは、私たちの思考や意志だけに関わることではありません。私たちの心も大いに関係があります。ジョナサン・エドワーズの古典的著作、『宗教的愛情』の中で、彼はこう書いています。「教理や神学に関する知識のみがあっても、宗教的愛情のない人は、真の宗教に関わったことがない。」

私の心がこの程度しか改革されていな理由の一つには、私がピューリタンが呼んだところの「心からの愛情」を、私の心を神様から奪い、つかみ捕らえる偶像に明け渡しているということがあります。

私たちは神様の似姿に創造され、何かを礼拝するように造られました。ですから私たちの罪の本質は常に心の偶像礼拝であると見なければなりません。十戒のうちの第一戒と第二戒はそれぞれ「あなたには私のほかに、他の神々があってはならない」「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」となっていて、私たち、私たちの中にあるとても危険であり、かつ生まれながらの性質である偶像礼拝をしてしまう傾向について思い起させてくれます。私たちの「心の愛情」を捕らえる現代の偶像礼拝は、バアルやモレクの刻まれた像ではなく、人々からの支持であることか、評判、所有物、権力、快楽、支配力、人々との関係、セックス、あるいはお金などのようなものです。私たちの「心の愛情」がこれらの偶像によって捕らえられ、堕落するとき、いつも同じ結果にたどりつきますー神様の私たちを変革なさる力と御臨在の欠如です。

神様の治療法:悔い改めと福音信仰
それでは、福音はいったいどのような方法で私たちの偶像礼拝をしやすい心を変えてくれるのでしょうか。それは悔い改めと信仰を通して行われます。イエス・キリストのメッセージはシンプルでしたが、人生を変えてしまうほどのものでした。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。使徒パウロは、悔い改めと信仰は信じる者の人生の中で常に行われるべきものであるとし、こう書いています。「あなた方は、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」(コロサイ2:6)。

悔い改めと信仰を持ってイエス・キリストのもとに行くということは、私たちが罪の罰から救われるためのたった一度だけの出来事として神様がお定めになったのではありません。キリストにある悔い改めと信仰はまた、罪の力から逃れ、私たちの心を造り変えていただくために、私たちが日々、更には一瞬一瞬立ち返るべき過程として神様が定められた者です。

私たちは悔い改めを通して私たちの心の愛情を偶像から引き離し、信仰によってその愛情をイエス・キリストのもとに戻すのです。

私たちが生活の中で神様の力と臨在をさほど経験できない理由の一つは、私たちが、私たちの心の偶像礼拝を十分に理解しておらず、偶像がいかに巧妙に私たちの「心の愛情」を捕えるかということを理解していないということです。私たちはみな自分に対して、「いま私の心はどんな偶像を求めているのだろうか」と問いかけることを学ばなければなりません。

そしてその偶像を認識したなら、それに対して微底的な行動をとり、私たちの人生を支配してしまう偶像の力を取り除いてしまうことを決心しなければなりません。ローマ書13:14でパウロはこう書いています。「肉の欲のために心を用いてはいけません。」偶像となりうるものはすべて、その鮮明な魅力を取り去ってしまわなければなりません。ピューリタン(清教徒)たちはこれを禁欲と呼びました。

しかし、悔い改めは、心の改革のために私たちがしなければならないものの半分でしかありません。つまり、消極的、防衛的な手段です。聖書が私たちに教えられている心の改革のためのもう一つのものは、信仰と呼ばれる建設的、積極的戦略であり、それには私たちの理性と心の愛情をキリストにおくことを学ぶ必要があります。神様は非人格的、かつ宗教的な隷属を望まれません。むしろ、私たちがどんな偶像にもまして、神を楽しみ、欲することを望んでおられます。

私たちの受け継ぐものに対する祝福
信仰は私たちに、私たちがすでにキリストにあって与えられている多くの特権を常に喜び、繰り返し確かめることを要求します。私たちが信仰によってキリストに結び合わされるとき、私たちは彼にあってとても豊かで驚くべき霊的遺産を与えられるのです。王家に生まれた子供たちのように、私たちも、与えられた相続権の豊かさすべてに気付くのには時間がかかります。

私たちがキリストによって与えられる数多くの霊的祝福によって心を満たし、思い巡らし、そして行動することを学ぶにつれ、神様の私たちを変えられる御臨在、御力、そして喜びを知ることにおいて成長させられます。私たちのクリスチャンとしての歩みに一貫性がなかったとしても、私たちがキリストに結び合わされているなら、ある特定の素晴らしい真実を信仰によって求めることができるのです。

あたなは赦されています。あなたがどんなに罪の刑罰を恐れていたとしても、いかに罪を咎められていると感じていようとも、あなたはキリストにあって永遠の罪の赦しを得ています。あなたの罪を自分で罰し続けたり、赦しを自分の力で得ようとがんばったり、あるいは完全主義的な基準に達しようとしてみたりする代わりに、キリストの血による神の永遠の罪の赦しの約束を、信仰によって神に求めることを学ばなければなりません(コロサイ2:13)。

素晴らしいことに私たちは、神様の私たちへの愛を増し加える、あるいは少なくするためにできることは全くないということです。あなたが神様の子供というゆるぎない地位を持たない限り、神様の御前に自然にふるまうことはありません。自分の行動によって神様の御好意を得られるか得られないかが決まると考えることは、神様の恵みにあって成長することを妨げとなるでしょう。

あなたは受け入れられています。あなたの拒絶されることへの恐れや、非難されているという思いがいかにあなたを弱らせるようなものであっても、キリストの完全なる義が、彼を信じる信仰によってあなたにもうすでに与えられているのですから、あなたは全く受け入れられているのです(IIコリント5:21)。もう拒絶されることを恐れる必要はありません。人々からの支持を勝ち取ったり、弱さを隠したりする必要もありません。自己防衛も、良い評判をえることも、必ずしも必要なことではありません。ありのままの自分から目をそむけることをやめ、神と人の前に、自分が罪人であることを認めてよいのです。そして大胆に、キリストの愛を持って、拒絶を恐れることなく周りの人々に近づくことができるのです。

あなたは養子とされています。あなたが過去の人間関係の愛の欠如からいかに深く傷ついていたとしても、あなたは今、深く愛されています。あなたは神の子供として引き取られ、それまでは、父の独り子である御子イエスだけに保証されていたすべての権利と特権を与えられているのです(Iヨハネ3:1−2)。もう自分のことを霊的孤児のように感じなくてもよいのです。神様はあなたを単なる罪を赦免された犯罪者ではなく、実の娘や息子としてご覧になっているのです。あなたはすでに、御父の御臨在への入り口、あなたのすべての必要を満たしてくださるという約束、そして、あなたの益となる神の訓練を受ける特権を与えられているのです。

あなたは自由です。罪との戦いにおいてあなたがどんなに敗北感を味わっているとしても、もうあなたはその敗北感に縛りつけられてはいません。罪の影響から離れることはできませんが、罪自体の私たちの人生に対する支配は、十字架によって破られました。かつては罪の奴隷でしたが、素晴らしいことにあなたは、この古い主人から解放されているのです(ローマ6:5−18)。今あなたは、あなたの人生を支配する罪の力からの解放を求めるようにと、神様から招かれているのです。あなたが今現在戦い苦しんでいるものが何であろうと、これからずっと変えられていくという真の希望があるのです。

あなたは孤児ではないのです。この世で生きて行く中で、あなたがいかに孤独で力なく感じていようとも、あなたは一人ではありません。キリストを信じる信仰によって、聖霊様が共にいてくださり、慰め、励ましてくださり、あなたが生きるようにと神様が召してくださった人生を生きられるように力を与えてくださるという賜物が与えられているのです(ヨハネ16:5−15)。「聖霊によって歩む」ことを学ぶとき、罪の性質を満足させようとすることはなくなると聖書は言っています(ガラテヤ5:16)。

信仰によって福音を求める
日光を浴びている石は、暖かくならざるを得ないと言う格言があります。同様に、私たちが、私たちの石のようにかたくなな心を福音の暖かさと光にさらすことを学ぶとき、私たちは変えられていかざるを得ません。私たちの悩みや恐れが何であろうと、私たちの心が神様の声で繰り返しこの永遠の真実を聞くことにより励まされ、強められ、変えられていくために、私たちはこの福音を私たち自身と周りの人々に、常に述べ伝えていかなければなりません。

クリスチャンとして私たちは、徹底的に服従する生活をするように招かれています。しかし私たちが神様に完全に従うように努力するとき、もし常に悔い改め、福音を信じる生活を送ることを学ばないのなら、絶望と拒絶に陥ることは避けられません。

神様の律法には、私たちを変える力はありません。福音だけが私たちの生活を変え得るのです。もし私たちが、私たちの存在の核にある性質を変えていただくためにー私たちを罪の責めと罰から救うだけでなく、罪の堕落と私たちの生活に対する力からも救っていただくためにー 福音を深く私たちの生活の中に浸透させないとしたら、無力感を感じることは避けられません。

福音の中に私たちは、イエス・キリストにある新しい命の、虹色の輝きを見、罪の責めによって傷ついた心に対する神の癒しを見いだすのです。そしてまた私たちは福音の中に、信仰を持ってキリストのみもとに来つづける、信じるものたちの心に注ぎ込む、生きた水の流れを見いだすのです(ヨハネ7:37−38)。

私たちがキリストという井戸から水を豊かに飲むことを学ぶにつれ、私たちは心の改革を経験し、聖霊の生ける水が私たちを通して周りの人々にも流れていくということを発見します。そしてこの井戸は枯れることがありません。そしてこれこそが、個人の、社会の、そして国家のリバイバルの源なのです。

神様が私たちに求めておられることは、イエス・キリストの十字架を通して、悔い改めと信仰を持って彼に近づくことをしつづけるということだけです。使徒パウロは、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と書いています。
憐れみと恵みは、水のように一番低い一番低い場所—十字架の足もとーに流れると言われています。私たちはこの場所でこそ、自分を低くし、プライドや自己充足を捨て去り、神様に対し我々の真実の姿をさらけだすのです。そしてまたこの場所でこそ私たちは、イエス・キリストの似姿へと更に変えられる超自然的力、勇気、そして強さを見いだすのです。

ある人がこんな話をしてくれました。その人がハイキングをしていると、野原の向こうに家があるのが見えました。そしてその遠くの家の横には、男の人が激しく手動の井戸から水を汲んでいるような光景が見えました。その人が見ていると、その男の人はなおも、ものすごい勢いでポンプを押し続けました。まるで疲れを知らぬかのように、手の動きを少しも遅くすることなく、ましてや止めることなどしようともせず、上下にポンプを押し続けました。

本当にそれは、驚くべき光景でしたので、その人は、その井戸のほうへと近づいていきました。近づくにつれて、井戸のところにいるのは、男ではなく、男性に見えるように描かれた、木でできた人の形でした。猛スペードで水を汲んでいたと見える腕は、ひじとちょうつがいでつながっており、手は針金で井戸の取っ手につながれていました。水が溢れ出ていたのは、その木でできた人形によるのではありませんでした。それは掘り抜き井戸で、水がポンプなしでも地上に湧き出てくるので、実のところ、力強く湧き出てくる水が、その人形を動かしていたのです。

この話は、なんと見事に、悔い改めと信仰を持ってイエス・キリストに近くあろうとして続けるものすべてに、聖霊様が溢れるほどに注がれるといいうことを描いていることでしょう。私たちがしなければならないことといったら「私たちの手を井戸の取っ手に置いておく」ことだけなのです。

チルダーズのVIMEO ~ Dr. Steven L. Childers on Vimeo

Tuesday, January 22, 2013

「福音を自分に語れ。」


"Preach the gospel to yourself everyday." John 'Jack' Miller

毎日福音を自分に語れ。」ジョン”ジャック”ミラー牧師

私をはじめ、クリスチャンは先ず自分に福音を語らなければなりません。毎日。常に。私達が変えられながら、伝道するのです。私は、毎朝、個人の礼拝をする時、十字架にかけられたイエスを崇めたいのが主です。また、メッセージのポイントとして福音を含めたいのです。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマ1:15−17

参考:Where Did the Phrase, “Preach the Gospel to Yourself,” Come From? | Gospel Refresh

Thursday, January 17, 2013

「日本の教会の現状と展望」



 特集
村瀬俊夫師、武蔵中会 引退牧師

「プロテスタント宣教150周年と第5回日本伝道会議を踏まえて」標記のテーマで一文を寄せるように依頼され、困惑しつつも引き受けたのは、私が大会の渉外委員会から選出・派遣されて日本福音同盟(JEA)理事の職に就いているからです。

JEAの協力を得て昨年9月、札幌で開催された第5回日本伝道会議の主題は、「危機の時代における宣教協力 〜もっと広く、もっと深く〜」でした。日本の教会にとって、今が「危機の時代」であることは明白です。日本開国からプロテスタント宣教が150年に及び、戦後60年余を経ても、信徒数は60万余で総人口の0.5%に過ぎません。最近は教勢が停滞し、人口が密集した都市部以外の地域では、それが特に顕著です。これを打破するため、教派や地区教会の垣根を超えて協力し合う伝道体制を構築する道を求められています。

私が深刻であると思うのは、多くの地区教会に集まる信徒の高齢化が急速に進み、それに続く中年層や青年層の信徒が少なく、さらにそれに続く小中学生や幼児の姿がほとんど見られない、という現状です。このまま推移すると日本の教会の将来はどうなるでしょうか。心配は尽きませんが、真剣に打開する道を探りましょう。

日本長老教会の諸教会は、ほとんどが都市部にあるため、教勢は停滞気味(受洗者が減少傾向)であっても、ここ数年は会員数が微増状態にあります。信徒の養育がよく為されている結果である、と評価してよいでしょう。しかし、受洗者増による教勢の向上に転じなければなりません。

そのため一番に心がけたいのは、伝道の対象である人々の必要に真摯に応える努力を惜しまないことです。教会(あるいは伝道)の停滞の原因、救いを求めている人々の必要に教会が応えてないない、という一事にあるのではないでしょうか。この不安と閉塞状況が深まる時代に、救いを求める人々はたくさんいるはずです。その人々が救いを求めて来るのにふさわしい場所(まさに逃れ場!)に、私たちの地区教会がなっているでしょうか。

あえて申しますと、長老教会には長老教会らしい裃(かみしも)があり、それを着用することも意味があるでしょうが、救いを求める多くの人々にそれが目障りと映るなら、その裃を脱ぐぐらいの覚悟(というよりも自由や度量)が必要です。

教会の福音伝道に無くてならないものは、長老教会の裃ではなく、福音そのものの輝きではありませんか。十字架と復活の福音は、それを聴く者に、罪の赦しと永遠のいのち、そして神の子とされる特権を与えます。この福音が率直に告げられ、受け入れられる礼拝は、神の恵みへの感謝の応答として、明るく楽しく、愛と喜びに満ちています。それこそ、救いを求める人々の必要に応えるものなのです。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)。要は、この(福音の源である)キリストの戒めを心に刻み、実行することです。

日本長老教会
大会報 2010年1月20日