Thursday, March 30, 2017

Naho & I


奈帆と私がクア・アイナで(3月24日)。(子供がいましたが、写真をブログでのせるな、と。)ハンバーガーは、美味しい!数日、軽井沢で安く泊まり、楽しみました。私は、赤ちゃんの頃から行っていますから、思い出が多いです!


今週の日曜日(4月2日)、私たちは、レストラ・シンアトルで、19年の結婚をお祝いしました。奈帆、色々ありがとう!

4月22日、奈帆と私は、城山公園で花見しました。ちょっと寒かったが。



Saturday, March 25, 2017

おやじ


父(CFジャンカー)をとても尊敬し、愛しています。父は、50年近く松本平で、忠実に伝道しました。松本平は『宣教師の墓場』と言われていました。なぜなら、難しい環境で、すぐ止めた宣教師が多かったからです。(母は、天国です。)父は、妹ルーシーの近くにある老人ホウムに住んで、大事にされています。

Sunday, March 19, 2017

「これが福音です」


「これが福音です。私たちは、信じられないほど欠点のある、罪深かい者です。でも、考えられないほど私たちはキリストにあって愛され赦されています。」ティモシー・ケラー

1ヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、‐‐事実、いま私たちは神の子どもです‐‐御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」

Wednesday, March 15, 2017

教会



「自分の会員でない人の利益の為に存在する唯一の会(英:'society'、共同体)は、教会である。」ウィリアム・エンプル(1881−1944)、イギリス国教会の司教

"The Church is the only society that exists for the benefit of those who are not its members." William Temple

この引用は、極端に思えますが、教会の主な目的は、自分たちのことではなく、世界一人一人のことを考え、行うこと。その祝福、救い、繁栄。

創世記12:2−3「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」また、創世記22:18「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。。。


Monday, March 6, 2017

「レア」2


子供の絵本「ジーザスバイブルストーリー」から、頁72−74
さて、ヤコブにはふたり、おくさんができたわけだけれど、もちろんラケルのほうをことのほか愛した。


「だれもわたしのことなんて愛してないんだわ。どうせ、かわいくも美しくもない、わたしなんて。」レハは言った。


でも、神さまはレアのことをそんなふうには思っておられなかった。だれからも愛されない、だれからもひつようとされないように見えるレアを、逆に神さまはとうべつに愛された。そして、だれにもできないとくべつな仕事をさせようと思われた。いつの日か神さまがこの世界をすくい出す、とくべつな計画をレアの家族を通してなしとげようとお考えになった。


レアは、いつまでも自分のことをかわいそうがってなどいなかった。だって、神さまがとくべつに自分を愛してくださるとわかったから。そうしたらもう、夫が自分を一番に愛してくれなくても、自分が一番美しくなくても、気にならなくなった。わたしをえらんでくれた方がいる、わたしをいつまでも、あきらめずに変わることなく、永遠に愛してくださる方がいるんだって思ってね。


ぜひ、この話しの続きをジーザス・バイブルストーリーから読んで下さい。この絵本は、大人にも、とても良いと思います。

家内の奈帆の研究からレアについてもっと読む:「レア」 人物的聖書研究

Thursday, March 2, 2017

「レア」 人物的聖書研究


ジャンカー・奈帆による

聖書には、サラやリベカ、エステルなど、美しく華やかで目に留まる女性が出てきます。しかし今回わたしは、レアのようなあまり目立たない女性、また悩みの中にあった女性に注目しました。レアは、夫に愛されなかった女性でした。この世界には夫に愛されていないと感じ、悩む女性の方が多いのではないでしょうか?壊れた夫婦関係、壊れた家庭がたくさんあるのです。レアの女性としての悩みは何だか共感できるのです。

レアは、聖書の創世記に出てくる女性です。創世記の12章、神様は、アブラハムという人物を召し出しました。アブラハムを祝福し大いなる国民とし、地上のすべての民族はあなたによって祝福されると約束したのです。そのアブラハムの息子がイサク、イサクの息子がヤコブです。レアは、このヤコブの妻となった女性です。ヤコブが兄のエサウを騙し、カナンの地から命からがら逃げて、ハランに住む叔父のラバンのところに辿り着きました。そこで出会った女性が叔父の娘のレアと妹ラケルです。

レアはどんな女性だったのでしょうか?創世記29:16に、レアの目は弱々しかったとあります。見た目が美しくなかったようです。アブラハムの妻サラも、イサクの妻リベカも美しかったとあります。でもレアは美しくないのです。目の病にかかっていたという学者もいます。あるいは、輝くような、パッチリとした目ではなく、優しい目ともいわれています。とにかくレアよりも妹のラケルは姿も顔立ちも美しかったのです。ヤコブがどちらの女性を好んだのかすぐ想像できそうです。

23節で、レアは、父親のラバンによって、また妹が姉よりも先に嫁ぐことはできないというその時のしきたりによって、自分のことを愛してくれていない人と分かりながら、ヤコブと結婚しました。後にレアがヤコブの愛をとても求めているところを見ると、レアの方は、しきたりとはいえ、ヤコブを慕っていたのではないでしょうか。しかし、ヤコブはどうだったのでしょう。ヤコブは叔父に騙されてレアと結婚し大慌てです。

25節で夫になったヤコブの言葉を読むと、ヤコブがレアと結婚したいと思っていないことがはっきり書いてあります。ヤコブが叔父ラバンに仕えたのは、ラケルのためであり、20節、ラケルを愛していたので7年も数日のように感じたのです。さらに、あと7年もラバンに仕えるのです。今度こそラケルと結婚するためです。すべてラケルのためでした。30節ではヤコブはレアよりもラケルを愛していたとあり、31節ではレアは、嫌われているとさえ書いてあります。もうラケルが大好きなのです。ヤコブはラケルに夢中でした。

不幸な結婚の始まりです。婚礼の週を過ごした後、妹ラケルもヤコブと結婚したので、一夫多妻制になりました。夫が他の女性に夢中になることほど、女性にとってつらいことはないでしょう。愛してもいない女性と騙されて結婚させられたヤコブも可哀想だといえますが、レアは夫に愛されない女性、それどころか嫌われていた可哀想な女性だったのです。

夫に愛されないレアは孤独を感じたに違いありません。劣等感にも苦しんだでしょう。夫の目はいつもラケルに注がれているのです。しかし31節、このレアに目を注がれた方がいました。はレアを忘れていませんでした。は、レアの胎を開かれ、子供を与えるということで、レアを祝福しました。当時の遊牧民の社会において不妊であるということは祝福に欠けるということだけでなく、のろわれた存在であり、社会的にも弱く屈辱的な立場にありました。子供を産むということが女性としての何よりの祝福なのでレアは喜びました。32節、主が悩みをご覧になった。33節、主はわたしがきらわれているのを聞かれたと、レアは告白しています。神様は憐れみ深い方です。

ただ、その時のレアは、どのように夫の心が自分に向くかということに躍起になっています。夫さえ自分に向いてくれたら、自分は幸せになれると思ったのかもしれません。レアにとって子供を産むことは、夫の愛を勝ちとることだったのです。そうやって、レアは夫に愛されていない心の隙間を子供を産むことで解消しようとしました。

32節、レアは、1番目の息子にルベンと名付けました。“見てください。息子です”と言う意味です。主はわたしの悩みをご覧になった、見てくれた!ということでしょう。そして今こそ夫はわたしを愛するであろうと、レアは、夫の愛を望みました。夫に自分を見て欲しいと願ったのです。

33節、2番目の息子シメオンは、祈りの子であったと注解にあります。必死に祈ったのでしょう。そして主が。。聞かれてこの子を授けてくださったのです。しかしそれはライバル意識の中での祈りであると注解にかかれてあるように妹ラケルと競争したのでした。

34節、3番目の息子レビの名前には結びつくという意味があります。今度こそ夫はわたしに結びつくだろうと夫の心が自分に結びつくことを望みました。このようにどうしても自分の心を夫の愛でみたしたかったのです。それぞれの息子の名前にレアの願いが込められているのです。

私たちも、何かで自分の心をみたしたいと願います。女性にとっては夫の愛がとても大事だということがここからも分かります。しかしヤコブの愛がレアに向けられることはありませんでした。

この頃から、レアは、夫の愛ではなく、神様に目を向けるようになったのでしょうか。
35節、4番目の息子ユダを産んだ時、レアに少し変化が訪れます。“今度は主をほめたたえよう”といって、主を見上げるようになったのです。ユダという名前は褒め称えるという意味があります。夫の愛で自分の心は満たせないとわかったのでしょうか。孤独の中でそのように神様を見上げるようにならざるを得なかったのかもしれません。いずれにせよ神様とレアとの関係が深まっていくのです。信仰の成長がみられるのです。

夫の愛から神様の愛で心を埋めるようになる時、少しずつ平安がおとずれたのでしょうか。4人の男の子を与えられ、心に落ち着きが与えられた後、しばらくレアは子供を産まなくなりました。

しかし、妹ラケルの女奴隷がヤコブとの間に子供を産むと、レアは再びラケルと競争し始めるのです。

けれども、前と少し違っているのは、レアの女奴隷ジルパがガドとアシェルを産んだ時、レアの言葉に夫のことは出てきません。環境は、前と変わっていないでしょう。夫は自分には向いてはくれません。しかし、自分を幸せ者だと言うのです。また、レア自身が5番目にイッサカルと6番目のゼブルンを産んだ時、子供を神様からの報酬や賜物と言っています。ただ、その時、今度こそ夫は私を尊ぶだろうと、夫からの尊敬も願いました。このように見ると、レアは、神さまに目を向けながらもある意味最後までヤコブに愛され尊ばれたいとも願いました。わたしたちもそうではないでしょうか。神様の愛に満たされ、満足することもあれば、身近にいる人のことを期待し、その愛を求めるのです。

ヤコブはどうだったのでしょう。最後までヤコブはレアではなくラケルを想いました。それは、エサウにヤコブが再開する場面にも見られます。ラケルよりも前にレアを進ませます。エサウがまだ怒っているかもしれないと考えたヤコブは、レアよりもラケルを後ろに置いて守りたかったのでしょう。また48:7では、ヤコブの晩年、“悲しいことにラケルが死んだ”と思い出しています。レアについてはそのようなことは書かれていません。

しかし、49:31を見てください。ラケルがベニヤミンを産んですぐ天に召され、ラケルを道端に葬ったのに対し、レアを自分の先祖の墓、カナンにあるアブラハムとサラ、イサクとリベカの墓に葬ったことが書かれています。カナンは、初めに神様がアブラハムに与えると約束した土地なのです。ヤコブはそこにある墓にレアを葬り、そこに自分も葬るように命じたのでした。

これを読む時、ヤコブも最後には、神様の視点から見た時に、レアがとても大切な自分の妻、それも一緒にお墓に入るべき妻であったと、レアを認め尊んだのではないかと思うのです。レアはすでに亡くなっていましたが、夫から尊ばれたいというレアの願いは叶えられたのでした。

わたしは今回、レアという夫に愛されない女性に注目してきました。たとえどんなに素晴らしい夫がいても、時々女性は、夫はわたしよりも仕事が大事なのだ、と思ったり、自分は大切にされていないと感じることがあるのです。また、実際に裏切られ苦しんでいる女性の話もよく耳にします。

しかし、このような悩みの中で、創造主である神様を知り、主に向かって目を上げる時わたしたちの人生は違ってきます。自分の望まない場所や環境にいる時、人と比べて自分は才能がないとか、役に立っていないとか、不公平だとか感じる時、私たちは、自分の心を満たすために一生懸命になって、神様以外のものに目を向けて躍起になるかもしれません。レアのように、私たちが神様に心を向け始める時、私たちの心は落ち着き、満たされるのです。またレアのように最後までわたしたちは、神様以外のものに目を向ける弱さも持っています。でも神様はそのような者にも驚くべきご計画を持っていることがわかります。

レアは,結局たくさんの子供に恵まれ,ヤコブの子供たちのうちの7人,6人の男の子たちと一人の女の子の母親となりました。その息子、娘たちの総勢は三十三人、女奴隷ジルパがヤコブに産んだのは十六人とあります。子孫に恵まれたのです。息子たちはイスラエル十二支族の祖となりました。三人目のレビから出た子孫の中に、モーセとアロンがいて、アロンの子孫が祭司となっていったのです。

また、四人目のユダの子孫から後にダビデ王が出てきて、ダビデ家からキリストご自身が現れたのです!神様は,イスラエルの祭司の家系の両方が,ラケルではなく,レアから生み出されるようにされたのです

初めに神様がアブラハムに約束した“地上のすべての民族はあなたによって祝福される”という言葉は、イエス・キリストがこの地上に来たことによって成就されました。私たちの罪を贖い、救い出し、私たちに目を留めてくださる神様、イエス・キリストによってわたしたちは祝福されているのです。神様は、レアの人生を通して、人類の救いの計画を遂行していたのです。

このように見る時、本当は、レアは可哀想な女性ではなかったのです!レアは気づいていなかったでしょうが、神様によって選ばれた、とても特別な役割をもった女性だったのです。

この学びを通して私たちも今どのように生きるべきか示されているように思いました。悲しみの中にいる時、自分の願うような場所にいない時、何かで自分の心を埋めるよりも神様に目を向け、神様をほめたたえる人生を選ぶことができるのです。神様は私たちの悲しみの時に目を留めてくださいます。私たちの願いを聞き入れ、祝福してくださるのです。そして、神様の大きなご計画を思うなら、私たちは、可哀想な人ではなく、大切な役割をもったものであるということを覚えることができるのです。