Wednesday, June 28, 2017

「神のあわれみのゆえに」


ローマ12:1「神のあわれみのゆえに」とあります。「あわれみ」と言うと、私たちの文化では少しイメージが悪いです。しかし、聖書では、慈愛に近い意味です。聖餐式がそれを描いています。先ず、主の献身〜十字架の贖い〜があっての私たちの献身です。主の献身があっての、ローマ12:1−2の私たちの献身です。

「あわれみ」とは何でしょうか?私たちは、生ける神の支配下にある者として、神の恵みを受けるに値する事は何一つも無いのです。逆に、私たちは、自分の神を認めない罪のゆえに、裁きに値します。神は、私たちに恵みを与える何の義務や義理も何も無いのです。でも、神は、神との約束を破る者に対して、あわれみと愛情を示すのです。神は、自ら自由に、私たちの罪を赦し、深い恵みを注ぐのです。

聖餐式が指している十字架を見て、この「あわれみ」が見えます。裁かれるべき私たちの代わりにキリストが十字架上で裁かれるのです。私たちは、赦され、生ける神の愛の対照となるのです。

私が小学4年生の頃でした。いつものことでしたが、私は、なんだかの悪さしました。母は「ジャー、何日間市民プールに行けないよ」と言いました。私たちは、毎日のように渚のほうから自転車に乗って城の近くの市民プール行っていたのです。確か10円でした。でも、母にひっきりなしにお願いしたのでしょうか?母は「これはあわれみですよ」と言って、私たちは、プールに行けました。母は、厳しかったです。でも、裁きに値するガキが、あわれみを受けたのです。

私たちは、聖餐式が例えている十字架のあわれみによって、キリストの献身によって、献身するのです。自分を捧げるのです。十字架を新たに見ましょう。聖餐式を通して。


Thursday, June 22, 2017

聖書の「祈祷書」



英国から来た日本聖公会には、特別な祈祷書 があります。聖書にも「祈祷書」がすでにあります。詩編です。

私たち自らは『どのようにして祈るべきか?』分からないのです。私たちは、肉において本来は、頼らない、祈らない者です。クリスチャンであっても。弟子たちは、似た質問がありました。そして、主は、いわゆる「主の祈り」を与えました。でも、また、すでに主は、詩編を下さっています。

詩編は、心にある思いや感情を主に明け渡す聖なるお手本です。私たちの心に罪、苦しみ、怒り、必要、神への感動があります。しかし、どのようにして、それを主に捧げたら良いか分からないのです。

ですから、詩編で罪のある心に告白の祈りを下さっています。苦しみのある心に嘆きの詩編を。怒りがある時に呪いの詩編を。(これは注意して下さい。神の前で正直かであることは大事です。しかし、聖書全体からとらえましょう。ローマ12:18−21の通りになるように目指しましょう。)必要のある心に願いの祈りがあります。神に感動している心に感謝や讚美の詩編があります。他もあります。

私は、毎日、詩編を祈っています。そのまま、意味を味わいながら、祈れます。また、その詩編を自分の言葉に変えて、自分の状況に合わせて、祈れます。

聖書の「祈祷書」を用いましょう。


Sunday, June 11, 2017

「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」


「純粋な説教は絶望の思いに根ざしています。。。(日曜日の朝)書斎に入り、自分の説教のいともあわれな原稿に目を落として、叫びます。『神よ、この説教は弱すぎます。私は自分を誰だと思っているでしょう。三時間後に私の口から出る言葉が、ある人たちにとっては死から出て死に至らせるかおりとなり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりになると思うとは、なんと厚かましいことでしょう。私の神よ、いったい誰がこのような重荷を負うにふさわしいのでしょうか。』」ジョン・パイパー

2コリント2:16「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」

2コリント3:5「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格(力、能力、ふさわしさ)は神からのものです。

Monday, June 5, 2017

神の町に帰る


古里に帰る、と言っても良いですね。生ける神と私たちの聖書のストーリーを違った角度から見て聞いて下さい。日本語字幕版 - YouTube日本語吹き替え版 - YouTube

これと関係する話しを聖書・ルカ15章を聞く、読む。