Sunday, January 28, 2018

救いを再確認させるため


「人が悔い改めて回心するということに感心と注意を払う必要があるのと同じくらいに、その救いのために信じる続けれる積極的な心遣いと精励が人には必要です。」ジョナサン・エドワーズ

ジョン・パイパーは、それについてこう書いています。「毎回の説教が救いに導く説教です。それはただ、罪人を回心させるためというだけではなく、説教の目的は聖徒の聖なる感情を守り、彼らの召しと選びと救い再確認させるためでもあるからです。」


Wednesday, January 24, 2018

神との交わり2


神との交わりは、デボーション、黙想や静思の時間と言われています。

東洋の黙想は「真理や偽りについて語らないほうが良い」と言います。「全ては、一つ、あなたは、神である、ただ直感を使いなさい」と言います。

でも、キリスト教の黙想・瞑想は、聖書を学ぶ事ではじまります。黙想する時、この質問を自分に問いかけても良いでしょう。「主よ、今聖書から読んだことをここの底から知っていたら、私は、どう変わるのだろうか?」でも、聖書の学びで終わらないのです。その箇所について思いながら、祈るのです。祈りではじまり、素晴しい祈りで終わるのです。リチャード・バクスター「黙想は、魂が燃えるまで、その箇所の真理について祈るのです」と言っています。

あの偉大な聖アウグスティヌス(西暦354−430)は、瞑想は、聖書の真理で始まる、と書いていました。心が悪と偽りで満ちていたと知っていたから、御言葉によって導かれなければならない、と彼は、言っていたのです。魂が神へと登り行くなら、三つの要素が必要と言っていました。ラテン語で(1)RETENTIO、(2)CONTEMPLATIO、(3)DILECTIOと言います。RETENTIOは、次の通りです。聖書の箇所の大事なポイントを掴み、思い巡らすのです。CONTEMPLATIOは、瞑想であって、その真理を通して神を仰ぎ見ることです。聖霊様が御言葉を通して語り、その恵みによって、圧倒されるのです。(3)DILECTIOは、喜びを意味します。

ピュリタンのジョン・オウェンは、こう書きました。「先ず、思いを働かせます。霊的な真理に思い...を集中させるのです。次は、感情(affections 、心、愛情)をこれら(の真理)に向けるのです。これによって、霊的真理を捕らえ、引かれるのです。最後に、楽しみ、味わうのです。ここに霊的生活の甘味と満足があるのです。体験する事によって、神が恵み深いお方である事を味わい、キリストの愛は、ぶどう酒より素晴しいこと味わうのです。」

参考:牧師Timothy Kellerのメッセージ

もっと読む:「キリストの十字架の伝道師」: 詩編1編 「神との交わり」

Monday, January 15, 2018

「主を体験する」エペソ1:15−23、3:14−19


先ず、エペソ1:15−23エペソ3:14−19を読んで下さい。

「この自分で良いのか?」と思ったことはありませんか?「罪赦され、天国に行けるが、今、より主とその恵み知りたい。豊かな命を本当に体験したい!」キリスト教が日本に再び帰って来た頃からやく150年ですが、クリスチャン人口は、今も、まだ0.5%に過ぎません。どうなっているのでしょうか?日本人も、外人も、いろんな手段を使って、頑張って来ました。0.5%の壁を切り抜けるカギはあるのでしょうか?成長と前進のための希望は、何でしょうか?その応えは「主を体験する」ことだと私は、確信しています。

エペソの教会の兄弟姉妹は、1:15、イエス様に対する「信仰」は、兄弟姉妹への「愛」は、確かにあったのです。それでも、パウロは、御霊によるさらなる恵みを祈ったのです。「主を実に体験する」ように。1:17、19「知る」、3:18「理解する」という似た言葉が繰り返されています。この「知る」は、単なる頭脳に詰め込む知識ではなく、体験する、実感する、直接親しく知る、という意味があります。特に3:18の「理解する」するは、「掴む」捕らえる、と言う意味があります。「びっくり仰天する」までです。私たちは、教義を知る必要もあるし、従順に従う必要もあります。でも、ただ頭で知る、ただ従うだけではなく、心の奥底まで神とその恵みに感動できる、とこの両箇所が言っているのです。この恵みは、特別のクリスチャンだけの体験ではなく、1:18全ての「聖徒」、19節「信じる者」、3:18 「すべての聖徒」誰でもが体験できる恵みです。こんな私でも、あなたでも。

1。1:17、神を知る。私たちは、知識において、神を知って、信じています。でも、ここでは、ただ「神について」学問的に知るように祈っていません。また、御利益のために祈っていません。すでに信じ受け入れている素晴しい神御自身を直接実感できるように、祈っています。

ブレーズ・パスカルのような体験を引用することによって説明する事ができます。「恵みの年1654年、1123日月曜日、聖クレメントの晩餐・・・夜10時半を過ぎたあたりから深夜12時半頃、炎。哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信と、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神。イエス・キリストの神。『私の神、そしてあなたの神。』・・・喜び、喜び、喜び、喜びの涙・・・イエス・キリスト。イエス・キリスト。二度と主から離れることがありませんように。」このようにパスカルは、神を体験したのです。あなたも、私も、出来ます。その為に祈りましょう。

2。1:18、遺産を知る。ここでは、「聖徒の受け継ぐもの」とあります。簡単に言うと「霊的財産を知って欲しい」ということです。文脈を読むと、私たちの遺産は、5節、神の「子」であること、11節「御国」などです。2:6、王子として「天の所にすわらせてくださいました。」この遺産は、すでに私たちのものですが、そのように私たちは、あまり生活していないのです。霊的遺産を実感し、それによって活かされましょう。そのように先ず祈りましょう。

例えば、ある孤児が、ある女性と出会います。その女性は『あなたを養子にしましょう』といます。女の子は、理屈などを言って「どのくらいの財産があるか?」と聞きません。ただふところに飛び込みます。母親となった女性は、金持ちだとしましょう。娘となった女の子の小さい時、お金は、どうでもいいのです。でも、成人したら、母親は、財産について知って欲しいのです。「あなたの財産は、100億となります。あなたには、すごい影響力が与え、人を助けられます。心を準備して下さい。」100億円が口座に入っていたら、その娘の価値は、100億です。金持ちで、絶対雑誌に名前が乗るのです。でも、銀行に口座があっても、引き下ろして、使わなければ、意味ないのです。でも、活用したら、生活が変わるはずです。教育、服、家、車、すべてが変わるのです。私たちは、キリストにあって考えられないほど富んでいます。本当に!でも、神様からの遺産をただ持っていることと、用いていることとは全然違うのです。心が爆発するまで、神の「相続人」であることを瞑想する必要があるのです。エペソ1:3後半「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」遺産について考えて、感謝し、で活用しましょう。

3。1:19−23、力を知る。神の信じられないような力がすでに私たちの内に働いているのです。20節、キリストの復活と栄光の力です。「キリストを死者の中からよみがえらせ、(さらに)天上においてご自分の右の座に着かせて、(さらに、21節後半)すべての名の上に高く置かれました。(さらにどんな力でしょうか?22節) いっさいのものをキリストの足の下に従わせ(さらに、さらに。)」この力が私たちを神の子どもにしたのです。この力が私たちを今キリストの似姿に変えているのです。この力が主イエスの身元まで連れて行って下さるのです。この力をとことん実感するように、とパウロは、祈っています。

ある方がハイキングをしていると、野原の向こうに家があるのが見えました。家の横には、男の人が激しく手動の井戸から水を汲んでいるような光景が見えました。その男は、ものすごい勢いで、まるで疲れを知らないかのように、上下にポンプを押し続けていました。本当に驚くべき光景なので、その人は、その井戸のほうへと近づいていきました。近づくにつれて、井戸のところにいるのは、男ではなく、男性に見えるように描かれた、木でできた人の形でした。猛スペードで水を汲んでいたと見える腕は、ひじとちょうつがいで繋がっていて、手は針金で井戸の取っ手に繋がっていました。水が溢れ出ていたのは、その木でできた人形によるのではありませんでした。それは掘り抜き井戸で、水がポンプなしでも地上に湧き出てくるので、力強く湧き出てくる水が、その人形を動かしていたのです。神の力は、キリストに出会った時から、すでに私たちの内に力強く働いているのです。私たちは、ただこれを深く知り、私たちがしなければならないことは「私たちの手を井戸の取っ手に置いておく」ことだけなのです。祈りを通して、この力を捕らえましょう。

4。3:16−17前半、キリストを知る。この箇所では「キリストが心のうちに住んでいてくださいますように」とあります。これは「キリストの臨在」を意味しています。キリストは、常に一緒に、心にいて下さる、と聖書に書いてあります。が、それを実感しているでしょうか?

アメリカの牧師ヨナタン・エドワーズの体験は、こうです。「1737年、ある時、森の中で馬に乗っていた。静かなところで、馬を下りた。私は、この習慣を普通にしていて、歩きながら神について瞑想し、祈っていた。私は、神と人との間の素晴しい仲介者御子なる神の栄光を見た。彼の素晴しい、偉大な、満ち足りている、清いまた甘い恵みと愛、また謙遜と柔和な謙り。この恵は、とても静かに心地良く現れ、天より高く偉大なものとして現れた。人としてのキリストは、全ての思いと考えを飲み込むような、言葉で言い表せないほど素晴しい方として現れた。これは、判断出来る限りだいたい一時間続いた。この多くの時間、涙が溢れ、大きな声で泣いた。私の魂が熱心になるのを感じた。他の言葉で言えないが、私は、空にされ、絶やされた気がした。何もない者とされて、ただキリストで満たされた。聖なる清い愛で彼を愛すること。彼に頼ること。彼によって生きること。彼に仕え、従うこと。天からの神の清さで完全に聖別され、清くされること。私は、他の何回も、似たようなことを実感し、似たような効果もあった。」主は、近くにいます。心にいます。主に目を向け、御前で歩みましょう。

5。3:17後半—19前半、愛を知る。私たちは、皆、愛に飢えています。子供は、どんなに愛されていても、もっと愛が欲しいのです。でも、子供だけではなく、大人は(隠すのは、上手ですが)同じように愛に飢えているのです。 17節後半、私たちは、すでにキリストの「愛に根ざし、愛に基礎を置いてい」ます。愛を知っていますが、私たちは、その圧倒的な素晴しさを味わっていないのです。どの位の素晴らしさですか?18節後半「その広さ、長さ、高さ、深さ 人知をはるかに越え」る愛です。この愛を掴み、捕らえたくはありませんか?

ニューヨークでDLムーティーは、このような体験をしました。「突然神は、忘れられないようなふうに下って来ました。(神の)愛があまりにも心に注がれて『止(と)めて下さい』と言わなければなりませんでした。」ジョージ・ウィットフィルドは、夜祈る時、神の愛の注ぎをあまりにも体験し、眠れなかったことで「主よ、止めて下さい。眠れないです」と言わなければなりませんでした。ロンドンのCHスポルジョンは、神の愛についてこう書いています。「ある時、神の愛をあまりにも強く体験し、耐えられなかったから、その喜びを止めるように、お願いしなければならなかったのです。」スペインのアビラのテレサは、こう書きました。「私は、彼の愛に当惑し、酔ってしまいました。私の魂は、叫び、戸惑いました。こんな喜びには、耐えられませんでした。」違う時代、文化、性格、伝統の方々が同じキリストの愛に圧倒され、「止めて下さい」まで言わなければならなかったのです。キリストの愛を体験しましょう。

6。19後半、神の満ち満ちたものを知る。17—19の神の愛だけではなく、16−17の神の臨在だけではなく、1:19−23の神の力だけではなく、キリスト者は、神のあらゆる属性・特徴を体験し、3:19後半「満たされ」たいのです。神の栄光、真実さ、聖さ、義(正しさ)、善、知識、知恵、美、喜び、平安、忍耐、親切、謙遜に。

この神の属性をダイヤに例えられます。ダイヤには、いろんな面があります。ダイヤを回すと、それが光ったりして、ダイヤを違った角度から見たりすることが出来ます。神の、キリストのあらゆる素晴しさを見て、体験し、満たされるのです。神の栄光、麗しさ、「美」に圧倒されるのです。体験したことありますか?そのために祈りましょう。

どのようにして?(1)神の主権、摂理と恵みによって、神の側から与えられるのです。1:17、3:16「御霊 … 御霊」が指導しなければなりません。でも、私たちの側からは、「神との交わり」がカギです。ある先生は、こう言いました。「私たちは、主が歩む道の近くにテントを貼る必要があるのです。」(2)聖書を味わい、この真理について瞑想するのです。十字架に架かれた私たちを愛するキリストを崇めるのです。これをとことん知っていたら、私は、どう変わるだろう?と自分に問いかけるのです。神との関係、妻、夫、子供、親、同僚、友達との関係は、どう変わるのだろう?(3)そして、この箇所のように祈るのです。「神とその恵みを体験させて下さい」と。私は、このために常に祈っています。

アビラのテレサは、この神を体験することについて本「内なる城」に書いています。先ず、霊的に眠っている状態がある、と言っています。”Sleep-walking”と言って、眠りながら歩んでいる状態です。神との交わりがあることも知らないのです。次に、綱引き状態です。問題があって、目覚めて、『人間的なものが自分を救えない』と分かって、聖書を読み、祈りはじめます。三、自分の限度まで来るのです。霊的に後退しているような気がするのです。罪の意識が高まるのです。四、「安らぎの祈り」が与えられるのです。やっと本当に『救いは、ただ恵みと信仰による』こと、ただただ愛されていることを悟るのです。最後に、神の恵みを掴んだから、新たに恵みの訓練を行うのです。神との交わりの素晴しさを定期的に味わうのです。(聖書を味わい、祈るのです。)砕かれながらも、神のみ顔を、キリストの贖いを最も喜ぶのです。

神を真に知る結果は、多くの方々の救いです。高山右近は、前田藩の金沢に逃れました。1601年、京都から一人の宣教師を招き、数回に渡って福音を宣べ伝えました。そして、71人が洗礼を受けました。その内の30数名は、前田利長の大事な職にあった家来でした。3年後には、信者は、1500名に達しました。ある年、教会が一気に活気を帯び、洗礼者は、数百人にもなったのです。なぜこのように祝福されたのでしょうか?私は、右近は、神を深く知ったからだと思うのです。右近にとって茶は、たんなる芸術や趣味ではなく、茶室は、神様との交わりの時を持つ「祈りの場、瞑想の場となっていた」のです。「キリストの受難を黙想する」場でした。デウスの生ける神を親しく体験する場でした。

北海道大学のクラーク博士は、こう言いました。「青年よ、この老人の如く、大志を抱け!」父は『それに「キリストにあって」がついていた』と言いました。私たちが慕うものは、あまりにも小さいのではないでしょうか?今日の箇所のような素晴しい恵みがあるのです。天地を造られた生ける神、その臨在、力、愛を体験しましょう。この方を志すほど素晴しいものはないです。これが私たち自身を劇的に変え、日本を本当の意味で祝福するのです。


Tuesday, January 9, 2018

「すべてのことを働かせて益としてくださる」


「神が私たちに向かって送るものは全て必要である。差し控えるものは何一つ必要でない。」ジョン・ニュートン


"Everything is necessary that God sends our way; nothing can be necessary that he withholds." John Newton

ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

Thursday, January 4, 2018

私から学びなさい。


「私の心は、学びの中にあるのです。したがってこの先の私の人生に、学びを追求できないような場所に自分を置くことは考えられません。」ジョナサン・エドワース、この理由で、先ず、プリンストンの理事の職務を断り、後、受け入れました。

私たちは、ただ動くのではなく、聖書を始め、常に静まって学ぶ姿勢が大事です。十分読書するのです。それが牧師、宣教師の大事な一つの任務です。溢れたコップから、仕え語るのです。主の泉から与えるのです。


マタイ11:29「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」