Monday, December 23, 2013

「東の国からの礼拝者」


先ず、聖書を開いて、マタイ2:1−12を読んで下さい。 

1552年、現在の山口県で、宣教師ザビエルやトーレス達がミサを行ったのが初めての日本のクリスマスだそうです。日本人信徒を招いての降誕祭(イエスの誕生日のお祝い)でした。また、1560年頃、京都にキリシタン100人余が集まり盛大な降誕祭を行ったという記録が残っています。江戸時代、幕府がキリスト教を徹底的に禁じられていたにも関わらず、天草でクリスマスを隠れて続けて祝いをしいたそうです。明治維新の頃、1875年(明治8年)、クリスチャンであったあの有名な勝海舟の家族が知人のアメリカ人家族とクリスマスパーティーを行ったという記録も残っています。。。
でも、クリスマスとは何でしょうか?聖書・マタイ2:1「イエスが。。。お生まれになった」とあります。よくご存知の通り、クリスマスは、イエス・キリストの誕生日です。。。“クリス・マス”という言葉そのものは「キリストのミサ」で、ミサは、拝むという意味です。クリスマスは、キリストを拝むお祝いです。

今日は、英語の“5WH”を使って、話しを組み立てたいです。Who?<誰?>Why?<なぜ?>How?<どのようにして?>などを使ったりします。

1.    Who?>1−2、誰がキリストを拝みましたか?

その前にWhen?<いつ?>やWhere?<どこ?>に答えたいです。イエスは、いつ生まれたのですか?1節「ヘロデ王の時代に」どこで生まれたのですか?「ユダヤのベツレヘムで」。。。この出来事は、神話ではなく、時間と空間に、歴史に確かにあったのです。この歴史生が極めて大事です。。。なぜなら、私自身の歴史に、私の人生に、本当に触れて下さる救い主がいなくてはならないからです。

ある人は、2節後半の「星」の先導のことを聞いて『嘘でしょう』と笑うのです。でも、丁度イエス・キリストが生まれた頃、木星と土星が変わった感じで空で合わさったのです。。。天地を造られた神が「星」いいう自然を使って人々を導くことは不思議ではないないはずです。

ユダヤ人将軍、後に歴史学者となったフラビウス・ヨセフスは、西暦一世紀にこれを書きました。「そのころ知者イエスと言う人がいた、もし人と呼ぶのが合法的であるなら;彼は素晴らしい働きと真理と喜びを兼ね備えた教師であった。ユダヤ人たちも異邦人たちも彼に惹かれた。彼はキリスト(救い主)であった。我々の仲間のある重要人物たちがキリストを十字架にかけることをピラトに勧めた。最初からキリストを愛した人々は彼を見捨てなかった;彼の幾千に及ぶ驚くようなことをした。神の預言の成就にあるように、その人は処刑された三日後に復活して彼らに現れた。その人の名前から生まれたクリスチャンのグループは今に至るまで続いている。」今の私たちに助けと救いを下さる確かな救い主がいて、今も素晴らしく私たちをかえりみてくださるのです。

誰がキリストを拝みましたか?「見よ、東方の博士たちが」とあります。数回「東方」と書いてありますが、博士達は、もちろん、日本、韓国や中国から来たのではないのです。多分ペルシャ(現在のイラク)から来たと思われます。旧約聖書のダニエル書を読むと、イスラエル人が多くバビロニア(ペルシャ)に捕虜として連れて行かれて、その帝国の高い位置のリーダー、学者、科学者、賢人となったのです。多分、この博士達は、そのいわゆる“子孫”です。。。位の高い学者がイエスを拝みに来たのです。

でも、聖書・ルカ2章を読むと「羊飼い」も見に来た、とあります。対照的です。なぜなら、羊飼いは、貧乏で、無学で、身分の低い人たちでした。博士達は、金持ちで、位の高い、知識人でした。。。私たちは、これから、キリスト教の広さを教えられます。教会では、いろんな人が肩を並べて、イエスを礼拝します。女性も、男性も。おじいちゃんも、赤ちゃんも。社長も、土方も。日本人も、韓国人も。科学者も、サラリーマンも。主婦も、園児も。博士も、羊飼いも。

また「東方の博士」とありますが、キリスト教は、世界の人々の信仰です。キリスト教は、先ず、アフリカのエチオピアやアジプトに行きました。でも、多くの流れが使徒パウロなどを通してヨーロッパに広がり、後にアメリカにも渡りました。でも、アジヤのインドと中国にも渡りました。また、東の教会『景教』がシルクロードなどをたどって、日本の奈良にもその足跡を残しました。

不思議な話しがあります。光明皇后(こうみょうこうごう)には将来天皇になるべき子がいました。でも、白血病と思われる病気のために死にかけていました。それを見た景教の宣教師医者李密(リー・ミツ)は、光明皇后に聖書のマタイ8章にあるキリストが病人を癒す奇跡を読んで上げました。李密医師が皇后に「メシヤがあなたの息子をいやしてくださることを信じますか?」と訪ねました。そうしたら、皇后は「公にはできませんが、信じます」と答えました。2人が祈ったら、その子の病いが奇跡的に癒されました。その後、皇后は、キリスト教に多くあった慈善活動を積極的に行い、「療病院」等を作ったり、そこで看護婦としても働いたそうです。

20世紀後半から今も、キリスト教の動きが欧米よりも、ラテンアメリカ、アフリカとアジアー特に中国と韓国に多いです。2節「私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2.    Why?>3−6、なぜキリストを拝みましたか?

NHKNewsWEBでこうありました。『東京都の猪瀬知事が東京オリンピックとパラリンピックの招致に成功した経緯や舞台裏をまとめた本で、「勝ち抜く力」というタイトルがついていますが、。。。一方で、みずからの資金問題を巡って先行きが不透明ななか、「勝ち抜く力」というタイトルで出版される本に「皮肉を感じる」と話す都庁職員もいました。』今は、もう辞職しています。私たちは、リーダーに失望します。。。イエス・キリストを、6節「支配者」と呼んでいますが、イエスには、期待出来るのでしょうか?真に拝むに値するお方でしょうか?。。。私たちキリスト者は、なぜ彼を期待し、拝むのでしょうか?

一、5節、イエスは、予言された方です。2節の「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」と言う質問によって、3節「ヘロデ王」は、恐怖に追い込まれます。彼の立場が脅かされる可能性があるのです。4節「学者」が集められ、彼らは、聖書の予言によって「どこ」から来たか、分かると答えました。キリストが生まれる800年前に、予言者ミカがこう言いました。ミカ5:2から読みます。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

科学者、数学者、哲学者ブレーズ・パスカルは、あの有名な本「パンセ」(瞑想録)を書きました。が、その本で、パスカルは、聖書とキリストの真理の真実さを証明しています。その中の11章で、予言が聖書の真実さを証明する、と言いました。。。イエス・キリストの800年前に、その誕生は正確に予言されたから、聖書・キリスト教が真実であると分かるのです。。。キリストは、信じるに、拝むに、誰よりも値するお方です。

二、6節後半、イエスは「治める支配者」です。

この聖書の背景を考えましょう。。。神は、天地を造られ、私たちは、神によって治められ、愛されていました。私たち民も、神を愛し、隣人を愛していました。しかし、私たちは、神に従わない道に迷って行きました。その悲しい結果は、死、貧困、失望、病い、劣等感、戦争、飢餓などです。民は、王の王である神を無視しましたが、王は、民を無視しませんでした。私たちの間に来たのです。これがクリスマスです。主イエスは、私たちの間に住み、自然、病い、悪霊を治める不思議な奇跡を行いました。「神を愛し、隣人を愛す」のような素晴らしい言葉を語りました。神の掟に全く従いました。しかし、主イエスは、不正な裁判にかけられ、十字架で死刑になったのです。でも、実は、イエスは、十字架上で、私たちが自分の罪のゆえに死ぬべき死を代わりとなって死んで下さったのです。罪の無い王イエスは、私たちのいわゆる「反逆罪」という罪の責任を全て自分に負ったのです。でも、また、不思議に3日目に墓から蘇って、今は、天において全てを「支配」しています。。。罪を悔い改め、王イエスとその十字架を信じる者をかえりみて下さると約束して下さっているのです。

この「治める支配者」と言う言葉の「治める」は、羊飼いが羊を愛し、導き、ケアする言葉から来ています。。。「支配」の「支えて〜配る」のように、神は、私たちを天から治めるだけではなく、私たちに近よって支え、必要なものを配って与えてくださるのです。なぜなら、世間の王と違って、イエスは、私たちの為に死なれたのです。このようにして下さるリーダーは他にいるでしょうか?

1566年12月、戦国時代の堺で、互いに敵対する二つの勢力が郊外で争っていました。その中には大勢のキリスタンといわれるイエス・キリストを信じていた武士たちもいました。クリスマスの日、堺の教会がせまいので、堺のキリスタンたちは、教会の前にある会合所の大広間を借りてクリスマスの飾り付けをしました。当時の宣教師フロイスは、こう記録しています。この堺のクリスマスは「互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の君主の家臣であるかのように、互いに大なる愛情と礼節をもって応援した。」「あたかも同一の君主の家臣であるかのように。」彼らは、そのクリスマスで、イエスと言う「君主」、全てを治める、自分たちの為に死なれた「支配者」を拝んでいました。。。なぜイエスを拝むのか?命がけで愛して下さる「君主」だからです。

3、<How>7−12、どのようにしてキリストを拝みましたか?

7−8、ヘロデ王のひねくれた礼拝。「ひそか」という言葉がヒントになりますが、13節、ヘロデ王は、本当は、イエスを「殺そう」と願っていたのです。「私も行って拝むから」というのは、嘘でした。ヘロデは、自分の利益しか考えていませんでした。。。私たちも、なぜイエスを信じているのでしょうか?ただ自分の利益?自分の為に天地を造られた御方をただ使っているだけではないのでしょうか?。。。

9−12、博士達の真実な礼拝。

一、求める、と書いて下さい。真理は、自分の外にあることを直感し、博士達がしたように、私たちも、イエスを求めるのです。私たちと共に、この礼拝で聖書にイエスを求めるのです。。。このヘアに、希望を失った方いますか?尊いお方、真の救い主、がいるのです。クリスマスのキリストを求めて下さい。あなたの期待を裏切ることはけして無いです。

魂の悩みのある人、自分の(心が)貧しく不完全な人、将来に素晴らしいものを期待する人、のみにアドベント(クリスマス)のお祝いが可能である。」ディートリッヒ・ボンヘッファー。。。

二、喜ぶ。10節に「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とありますが、確かにクリスマスは、喜ぶ時でもあります。神の導かれ、救われるのを感じ、喜ぶのです。

三、謙る。でも、最も大事なことは、神の前に自分を低くし、謙ることです。11節「ひれ伏し拝んだ」とあります。博士達は、位の高い人たちでした。でも、彼らは、自分を低くしました。なぜなら、彼らは、イエスを誰よりも高いお方と認めていたのです。キリストが真に誰であるかが分かってくると、どんなに位の高い人でも、自分を低くします。私たちも、自分の罪を理解し、主の前で自分を低くするのです。

四、捧げる。今のプレゼントのクリスマスの習慣がここから来ているのでしょうか?博士達は、自分にとって最も尊いものを主イエスに上げたのです。11後半「そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」これを通して、博士達は、キリストを王の王として認め、信じ、崇めていたのです。。。私たちは、どうでしょうか?

五、従いました。博士達は、12節「夢」で神からの指導と命令を聞き、それに従いました。私たちも、キリストを真に自分の為に死なれの「君主」として信じ、崇めていたら、その御言葉に従うのです。

日本人の高山右近は、イエス・キリストに真に従い拝みました。。。高山右近の父親、高山友照は、敬虔なキリスタンで、右近自身は幼いころから信仰を持っていたのです。。。1587年、豊臣秀吉は、キリスト教徒を追放するため禁教令を発令し、秀吉の使者は3度も右近を訪ね『信仰を捨てるようにと』説得しようとしました。でも、右近が敬愛していた茶の師千利休の説得にも応じなかったのです。結局、右近は仕事も財産も捨てたのです。。。その後、加賀藩の前田利家に招かれたました。金沢では城の改造、設計、城下町の設計計画から土木技術の指導までしました。。。禁令のもと、一人で茶室でデウス(創り主)に祈ることも多かったのです。1600年、関ヶ原の戦いで天下を取った徳川家康は、キリスト教を黙認しました。その間、加賀藩内で、キリスト信仰は、右近の伝道によって急速に広まり、信者はやがて1000人を超え、念願だった教会も建てました。また、1608年、金沢で大規模で荘厳なクリスマス・ミサがささげられたのです。加賀の夜に聖なる歌がなり響いたのです。。。その5年後の1613年、徳川幕府はキリスタン禁止令を再び発令し、右近は、キリストを続けて信じ崇めることを選び、国外のフィリピンに追放される道を選びました。。。彼は、常に、最後まで、クリスマス(キリストを崇めること)を心に保っていました。

英語で礼拝と言う言葉は”worship”です。その言葉は、“worth”と”ship”という言葉から来ています。”Worth”は、「値する」という意味です。が、唯一の神であるキリストは、拝むに、誰よりも、何よりも、値する方です。イエスは、真の王です。私たちに恵みを豊かに注いで下さる支配者です。。。東洋のあなたも、真に、クリスマスのキリストを、クリスマスの季節だけではなく、常に何よりも誰よりも拝むに値する方と信じ、仰ぎ、崇めませんか?

Wednesday, December 18, 2013

“助けてくれー”


昔、中国で儒教の先生がクリスチャンになりました。その弟子たちが来て「先生はいつでも軽挙妄動をおさめておりながら、なんですか!あの毛唐がきて、いっぺん説教を聞いただけでクリスチャンになるなんて。それは聞こえません」と抗議を申しこんみました。そこで先生は次のような例えをしました。

「私は野原を歩いて、足を滑らせて野中の井戸に落ちてしまった。“助けてくれー”と叫んでいると、孔子が通りかかって声をかけてくれた。『お前はどうしてこんなところにいるのかね。』『野原を勝手に歩いていたもんですからおこっちたのです。』『それはいかん。ちゃんと人の通る道がある。道でないところをお前が歩いたから、こういうことになったんじゃ。以後気をつけれよ。ちゃんと人間の道をあるけよ』と教えて下さいました。けれども今、野中の井戸に落ちている私は、そんなことは千も万も承知しています。この井戸から出してくださる人が欲しいのです。

また“助けてくれー”と叫んでいると、足音が聞こえてきた。やれやうれしやと思ってみると、お釈迦さんでした。そしてまた『どうしてお前は落ちたのか。ああかわいそうなことをしたものよ。なんでも気をつけないとこんな目にあうぞ。助けてつかわすから手を出しなさい』とおしゃいました。手をのばしたら、お釈迦さんも手をのばしてくださまたが、どうしても一尺ばかりたりながったのです。そこでお釈迦さんは『さてさてお前は業が深いのう。前世の因縁じゃ、あきらめよ』とおっしゃって、向こうへ行ってしまいました。

だが、あきらめきれないので、“助けてくれー”と、なおも叫んでいました。するとこんどはイエス・キリストが来ました。いやなやつが来たな、と思っていやな顔をしていたけれども、なにせ、だれでもいいから助けてむらおうと思って手をのばしたところが、どうしてもたりないのです。そうしたら、そのキリストが井戸の中にとびこんで来て、しゃがんで『私の肩にのりなさい』というから、その肩にのったら、その肩の足をサーッと押しあげて外へ出してくれた。『もう二度と来るんじゃないよ』と言ってくださいました。

「だから私は、キリスト教を信じたんだよ。」

「人の子(イエス・キリスト)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」聖書・ルカ19:10

Sunday, December 15, 2013

協立病院


先週の土曜日、協立病院で、 私たちの教会が死を目の前にしている患者に、クリスマス賛美歌を歌い、ジャン兄がクリスマスメッセージをして下さいました。そして「ふるさと」をも歌いました。

Pensées パンセ II: 協立病院

Wednesday, December 11, 2013

アドベントのお祝い


「魂の悩みのある人、自分の(心が)貧しく不完全な人、将来に素晴らしいものを期待する人、のみにアドベント(クリスマス)のお祝いが可能である。」ディートリッヒ・ボンヘッファー 

"The celebration of Advent is possible only to those who are troubled in soul, who know themselves to be poor and imperfect, and who look forward to something greater to come." Dietrich Bonhoeffer

『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主(造り主)に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ』詩篇32:5

Tuesday, December 10, 2013

その季節です!


すでクリスマスっぽい食事。ありがとう、奈帆!

「ことばに表せないほどの賜物(絶大な神の恵み)のゆえに、神に感謝します。」聖書・2コリント9:15

Friday, December 6, 2013

『キリスト教真理の。。。心髄』


「十字架を取り除くと、あなたはイエスの宗教を殺している。イエスの血による贖いは、キリスト教真理の一部ではなく、その心髄である。」チャルス・スポルジョン、スポルジョン | 教文館キリスト教書部

"Leave out the cross, and you have killed the religion of Jesus. Atonement by the blood of Jesus is not an arm of Christian truth; it is the heart of it."

『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。』1コリント15:3−4

Sunday, November 24, 2013

福音そのものの回復である。


「福音の再建の最も大切な要素は、驚くべき根気強い祈りとともに、福音そのものの回復である。」ティム・ケラー

”Along with extraordinary, persistent prayer, the most necessary element of gospel renewal is a recovery of the gospel itself.” Tim Keller

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤ3:3

Tuesday, November 19, 2013

「ああ、うるわしい十字架の力。。。」


「ああ、うるわしい十字架の力、心を溶かす、征服する、造り変える力!私の兄弟達、私たちは、ただ続けて宣べ伝え、このずば抜けた話しをただ常に語るのです。そうしたら、注目すべき霊的結果を期待し見ることが出来るのです。罪人の為にイエスは死なれたのですから、誰に対してもあきらめることは無いのです。十字架の信条のハンマーで、どんな頑固な心でも砕かれます。そして、このようなキリストの快い愛の火で、最もの大きな氷山でも溶けます。私たちは、人類のどんな神を信じない人や迷信を信じる人をあきらめることは無いのです。私たちは、彼らの本質に、ただ十字架に付けられたキリストの信条を接触させるだけで、彼らは素晴らしく変わり、キリストは彼らの王になるのです。」チャールズ・スポルジョン

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ローマ1:16

"Oh, the power, the melting, conquering, transforming power of that dear cross of Christ! My brethren, we have but to abide by the preaching of it, we have but constantly to tell abroad the matchless story, and we may expect to see the most remarkable spiritual results. We need despair of no man now that Jesus has died for sinners. With such a hammer as the doctrine of the cross, the most flinty heart will be broken; and with such a fire as the sweet love of Christ, the most mighty iceberg will be melted. We need never despair for the heathenish or superstitious races of men; if we can but find occasion to bring the doctrine of Christ crucified into contact with their natures, it will yet change them, and Christ will be their king." C. H. Spurgeon

Tuesday, November 12, 2013

「孤独」


日曜日、ジョイー・ストールは、豊かな命教会で「孤独」について語る。
ありがとう、ジョイー。

Wednesday, November 6, 2013

心の初期設定



「人の心の初期設定の特徴は、その道徳的行いによって神や他者に尊敬や支援をもらえるような貸しをつくっていると感じるのです。イエスを見本にし、霊的な存在だと口では言いますが実際に見ているのは救いのために頑張る自分自身とその道徳的な行いです。」ティモシーケラー

「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒の働き 4:12

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Sunday, November 3, 2013

「こひつじ主イエスの」


「こひつじ主イエスの」(1772年)は、ウィリアム・クーパー (William Cowper) が最初の深いうつ状態になった時の最初に書いた賛美歌でした。彼は、英国国会下院の記録係の口答試験を恐れ、何回も、自殺を図ろうとしました。

1834年1月のノースアメリカンレビューでこうありました。「時が来て、彼の苦しみは、より深く成りました。自分が狂気になることによって解放されると期待し、信じていました。彼の良心は明確に反対していましたが、彼は、自殺をする決意をしようとしました。自殺は、正しいと自分を説得することは出来ませんでしたが、彼の必死さが打ち勝ちました。そして、自滅の為に薬剤師からその方法を買いました。」彼は、何回も、自殺しようとしましたが、何かが彼をとめていました。しかし「彼は、自分が神をあまりにも深く怒らせたから、絶対赦されないと思いました。そして、彼の心の全てが失望の激しい痛みで満たされました。狂気は遠くは無かった。いや、狂気すでに来たのです。」

それで、信仰を持った詩人クーパーは、これを書いた:

こひつじ主イエスの 打ち傷により
流れる血潮は 泉となり
汚れた罪人 身をひたせば
すべての汚れは きよめられる

十字架の盗人 主を仰いで
血潮の泉を 喜び見た
すべての罪をも きよめる血は
私の罪さえ きよめ尽くす

こひつじイエスより 流れる血の
聖める力に 変わりはなし
全ての御民を きよめ続け
滅びのわざより 離れせせる

主イエスの傷より 流れる血に
私は信仰の 目を開かれ
救いの恵みを 喜びつつ
終わりの時まで 主を讃える

とうとい救いを 歌う口が
やがては閉じられ 朽ち果てても
御父の御前で なおも高く
私は歌おう 主の救いを


クーパーは、信仰もった後も、うつを体験したことがありました。でも「救いの恵み」のテーマを心と人生の中心におきました。「救いの恵みを、喜びつつ、終わりの時まで、主を讃える。」英語では、”
Redeeming love has been my theme, and shall be till I die.” 「贖いの愛は、今までも私のテーマで、死ぬまでそうである。」彼は、絶対、彼の為に死なれた救い主から目を離すことは出来なかったのです。「贖いの愛」が彼の唯一の希望でした。

失望を体験した全ての人の唯一の希望がこれです。私たちの人生のテーマでなければなりません。クリスチャンになっても、うつを体験する可能性があります。「救いの恵み」は、常に支えとなります。しかし、精神的に「タフ」(強い)な人も、肉の力ではなく、イエスの「救いの恵み」を人生のテーマにしなければなりません。主イエスの恵みは、私たちを癒すだけではなく、その恵みは、私たちに福音による従順を与えます。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。。。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」ローマ7:24−8:1

クーパーの体験を英語で読む:There Is A Fountain Filled With Blood - Truth in HistoryThere Is a Fountain Filled with Blood

Wednesday, October 30, 2013

宗教改革の日


10月31日は、宗教改革の日です。 

「起こらなければならないことは、福音そのものの新たな理解です。。。福音とその素晴らしさが全体的にまた明確に伝えられた時に、神がその贖いの力を用いて教会と世を新たにするのです。神は、他でなく、福音そのものに、救いに至る力を与えるのです。」R.C.スプロール


"What has to happen is the renewal of the understanding of the gospel itself. It is when the gospel is clearly proclaimed in all of its fullness that God exercises His redeeming power to bring about renewal in the church and in the world. It is in the gospel and nowhere else that God has given His power unto salvation." RC Sproul


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:24

英語で宗教改革の原動力について読む:Fueling Reformation by R.C. Sproul | Reformed Theology Articles at Ligonier.org


Monday, October 28, 2013

キリストの光



「キリストの光を与えない言葉は闇を増す。」マザー・テレサ

"Words which do not give the light of Christ increase the darkness." Mother Teresa

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」コロサイ3:16

Wednesday, October 23, 2013

「ただ挨拶しに来たんだ。」



ある牧師は、昼間に、教会を通り抜けて、誰が祭壇のほうで祈っていたか、確かめに行きました。その時、突然、戸が開いて、誰かが通路を歩いて来ました。男は、ひげを剃っていなかったので、牧師は、顔をしかめました。男のシャツは、切れていて、ぼろぼろで、彼のコートは、すり切れていて、ほぐれていました。彼は、ひざまずいて、頭をかかげました。それから、立ち上がって、歩きさりました。その数日も、丁度、昼時、牧師は、この男を見ました。毎回、数分、弁当箱をひざにおいて、ひざまずきました。

それで、牧師は、男のことを怪しく思いはじめました。牧師は、とまって男に聞くことを決めました。「ここで何をしているの?」年老いた男は、自分は、工場の労働者で、お昼ごはんは、30分間で、力を得る為に祈りに来たと。「工場は、遠いから、数分しかいないし。ひざまずいて主に祈る時、こんなふうに祈るんだ:『わしの罪を取り除いて、友達に成ってくれた時以来、わしは、どんなに幸せか、あんたに伝えに来た。わしは、祈りかたは、良く知らんが、毎日、あんたのことを思い出しているんだ。だから、イエス様、わしの名は、ベンで、ただ挨拶しに来たんだ。』」牧師は、恥ずかしく成って、ベンに「良いよ、いつでも祈りに来ても良いよ。」と
言いました。

「行かなくちゃー。ありがとう」とベンは早く去って行きました。それで、牧師は、前やったことが無かったが、祭壇でひざまずきました。そこでイエスと出会い、彼の冷えた心が溶け、愛によって暖かく成りました。涙が頬に流れながらも、老いたベンの祈りを再び祈りました。「私の罪を取り除いて下さって、友達に成った時以来、私は、どんなに幸せか、あなたに伝えに来ました。私は、祈りかたは、良く知らないが、毎日、あなたのことを思い出しています。ですから、イエス様、私です。ただ挨拶しに来ました。」

ある日、お昼が過ぎて、牧師は、ベンが来なかったことに気が付きました。数日がさらに過ぎても、ベンは、来なかったので、牧師は、少し心配しはじめました。工場で、ベンについて聞いて、病気だと分かりました。病院は、ベンのことを心配していましたが、逆に彼は、皆を喜ばしていました。一週間共にいたベンは、病棟に変化をもって来ました。彼の笑顔と喜びは、人から人へと広がって行きました。人が変わることが彼の報酬でした。

看護婦長がどうしてベンがそんなに喜んでいるか理解出来ませんでした。なぜなら、花も、電話も、手紙も、お訪問も全然なかったのです。牧師は、病棟に残りました。看護婦の心配をベンに伝えました。彼を愛する人は一人も来なかった。身寄りもいない。驚きながら年老いたベンは、笑顔で話しました。「看護婦は、間違っているよ。彼女が分かるわけは無い。彼は、いつも来ているよ。毎日の昼に、彼わしの特別な親友が来るんだ。あの、彼は、座って、わしの手を取って、近よって、こう言うんだ。『私がベンの罪を取り除いて、友達に成れて、私は、どんなに幸せか、あなたに伝えに来ました。毎日、あなたのことを思い出して、あなたの祈りを聞くのが大好きです。ベン、私は、イエス・キリストです。ただ挨拶しに来ました。』

Wednesday, October 16, 2013

『AからZ』


「恵みの福音は『私たちの信仰のABC』だけではなく、福音は、私たちの信仰の『AからZ』です。」テム・ケラー

"The gospel of grace is not just the 'AB-Cs of our faith' but the gospel is the 'A to Z' of our faith." Tim Keller

『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』ローマ 1:16-17 

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プディング


プディングを)母はわざわざ手作りしました。一生懸命料理したものを冷蔵庫に入れ、一日かけて固めるのです。。。ある日の午後、6人の子供のうち誰かが親指くらいの大きさの 穴をプディングに残したのです。犯人は親指をつっこんでそれにたっぷりとプディングをつけてぺろりと食べたのでしょう。。。母は頭の良い人で『一列に並んで親指を出しなさい』と言い、一人づつ順番に親指の大きさを測ったのです。犯人は兄のゴードンでした。プディングの穴はどれだけの大きさの指が入るか表していたのです。。。聖書全体が人間の堕落した状態を示しているということはつまりどの箇所もそれが書かれなければならなかった程の問題があったということです。穴、すなわち堕落状態が示されている時は同時に穴を埋めるべき容積の神ご自身についても何かが明らかになっています。。。聖書にみられる穴、つまり人間の堕落は人間が実際に盗みを働く盗人であるが故に神様が何をしなければならなかったのか何をしているのか(救い)を 示しています。」ブライアン・チャペル

「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」ローマ5:20後半


Tuesday, October 8, 2013

ブログの目的


上にあるように、私、ダビデ・ジャンカー、が『福音バカ』です。「釣りバカ日誌」のハマちゃんが釣りに夢中になっているように、私はキリストの福音と恵みに夢中になっているのです。

聖パウロはこう書いています。「私たちはキリストのために愚かな者です。」(1コリント4:11)また「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と書いています。(ガラテヤ6:14)福音は、三浦綾子氏によると、聖書のエッセンスで「最もたいせつなこと。」(1コリント15:3)私達の主なメッセージです。


キリスト者の「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(1コリント1:23)『ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』(ローマ1:15−17)福音は、私たちを、キリストの姿に変える素晴らしい力があるのです。また、全てを変える恵みがあるのです。それを信じる信仰が基本です。ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンも、牧師も、宣教師も。


私のブログは、キリストの福音を全ての分野に適用するように勧めようとしているのです。私とともに、キリストの福音にある『恵み』に魅了され、それによって活かされ、仕え、それを伝えようではありませんか?


Monday, October 7, 2013

わたしの望みは主イエスだけにある


1、わたしの望は主イエスだけにある 揺がぬ礎
真の光よ その高き愛と 永遠の平和
真の慰さめ すべてのすべてよ

2,この世に来られた 神の独り子は 恵みと真に
満ちておられる主  十字架の苦しみ 御神の怒りを
その身に負われて 人を救われた

3,闇夜にさ迷う 世界を照らして 輝く栄光
イエスの甦り  主イエスの勝利に 死の刺折られて
尊い血潮は わたしを贖う

4,恐れは消え去り 罪は赦された わたしの歩みは
御手の中にある  この身をイエスより 離すものはない
終わりの時まで イエスに拠り頼む

教会福音讃美歌359

日本語で聞く:教会福音讃美歌359番「わたしの望みは」 - YouTube

英語で聞く:Gettymusic - Online music

「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」聖書・1コリント 3:11 

Monday, September 23, 2013

命がけであなたを救われた方。。。



昔アメリカにある少年がいました。彼は早くに両親をなくし、祖母と二人で住んでいま した。ところが二人が住んでいる家が火事になってしまったのです。祖母は少年を助けようと2階に上がり、炎に巻き込まれ死んでしまいました。取り残された少年は2階から助けを求めました。ところが火の手は大きく、集まった人々もどうにもできません。ある男が家の周りを良く観察すると2階まで届いている鉄パイプを見つけました。彼は焼けただれた鉄パイプを昇りました。男はその少年を見るとしゃがんで背中を見せ言いました。「私につかまりなさい」その背中に少年がしがみつくと、男は再び焼けた鉄パイプを降りてその子を助けたのです。  

数週間後その少年の保護者を決定するために村の集会場で話し合いの時がもたれました。初めに農場主が立ち上がり言いました。「私は大きな農場をもっています。子供がのびのび遊ぶことができます。」次に教師が言いました「私は教師です。家にはたくさんの良い本があります。その子に最高の教育をほどこすことができます。」村一番の金持ちが言いました。「私の家は広く。立派な庭ももっています。家庭教師を雇い、その子に十分 な教育をほどこすだけでなく、おもちゃ、旅行などたくさんの楽しみを与えることができ る。」次に村一番の名主、有力者が言いました。「私の家の子供になることが誰にとって も名誉なことではないでしょうか?」 

しかし、少年は顔を顔を上げません。一人の男が静かに後ろのドアから集会場に入ってきました。男は黙って少年の前に立ちます。少年は顔を上げました。その男の顔に見覚えが あるようですが、思い出せません。男はそっとポケットからその両手を出し、少年に見せ ました。その手のひらにはひどいやけどのために出来た傷跡がありました。その両手は命をかけて、焼けた鉄パイプを上り下りした痕跡を留めていたのです。少年はそれを見ると男に飛びつき、ひしとすがりつきました。 農場主が去っていきました。教師が、金持ちが去っていきました。有力者が去っていき ました。最後に少年と男の二人が残りました。

わたしはこの話しが本当にあったことなのか知りません。しかし、ある真実を的確に指し示しています。私たちの多くが何と教育や暮らし向き、お金、地位などに惑わされ、それらを得る計画によって一生を費やしていくものでしょうか。それらのものは声だかに叫びます。『これこれのものがあれば幸せになれる!それがあなたの希望だ!』と。しかしあなたを焼き尽くす炎から助け出されたお方はいつもその両手をあなたに見せ、あなたに対するご自身の権利、主張を思い起こさせるのです。命がけであなたを救われた方、イエスさまはご自身のいのちを身代わりにし、わたしたちを神の子、神の養子としてくださいます。私たちの足下には地獄の炎が燃えています。そのままであれば、いずれあなたはこの世とともに焼き尽くされてしまうでしょう。しかしあなたのために命をかけて救いに来られ た方がおられるのです。その方にすがりついてください。あなたが真にその方のものとなるのが神の計画なのです。

「彼(イエス・キリスト)はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」聖書・イザヤ53:3−5

Sunday, September 22, 2013

『汝盗んではならない』



「『汝盗んではならない』これについて説明しましょう。これは自分に属さない ものを盗ってはいけないという意味です。他人の所有物を盗ってはいけないし、他人の名 声も取り上げてはいけません。この戒めは旧約聖書の十戒に出てきます。新約聖書にもで てきます。ということで『汝盗んではならない』について真実の情報を伝えました。そして 結論はやってはいかん、これは悪いことだ、なのです。さあ、この戒めについて理解した と言えるでしょうか?ここで私は何を言い忘れたでしょう?キリストのことを言い忘れて います。『律法は私たちをキリストに導く養育係、または家庭教師である』とパウロはガラ テヤ(3:24)で言っている」のです。 ブライアン・チャペル

Monday, September 16, 2013

「摂理と救い神」エステル書



‎メッセージを聞く:摂理と救いの神

読む。。。。

クリスチャンは、サケと似ていると私は思うのです。サケは、流れに抵抗して、卵を上流で生みます。クリスチャンは、無神論の社会の流れに抵抗して、日本を祝福するのです。日本では、クリスチャンは、たったの0.5%がだけではなく、クリスチャンは「出る釘」です。ですから、「打たれる」のです。。。。このような環境の中で、私たちクリスチャンは、心身ともに疲れる時があります。疲れはてて、ただ「長いものに巻かれ」たい時があります。キリスト者として「筋を通す」のはあまりにも大変な時があります。祝福する力が亡いように感じる時があります。

日本は、エステルの環境に似ています。エステル書の大きな特徴の一つは、「神」の名前が一回も出て来ないことです。しかし、神の名前が記されていない理由があるのです。著者は、意図的にそうしたのです。神の民、イスラエルは、神を神と認めなかったから、ペルシャという国に追放されたのです。また、エステルがいた環境ペルシャは「神なき社会」でした。神々を信じていたが、真の神の存在はないように見えたのです。神なき環境の中で、神の民は、どうのようにして生きるべきか、とエステル書は教えているのです。

私たちは、主要人物<モルデカイやエステル>は、立派な霊的な信者だったと思うのです。しかし、神は、イスラエルに『私を真に礼拝出来る環境—イスラエルーに帰りなさい』と命じられました。しかし、モルデカイやエステルは、帰らなかったのです。不従順で、霊的でなかったようです。

今も、日本のような「神なき社会」の中で、神の民は、こてんぱんにやられ、弱っています。私もそうです。答えは、究極的には、キリスト者自分自らにはないです。摂理と救いの神にあるのです。

1.      1:1—4:14、摂理の神を新たに確信しましょう。

1:1、ペルシャは、当時の中国と似て、広い範囲—アフリカの北部から、ヨーロッパの南部、アジアのインドまでーを治めていました。3節、アハシュエロス王は、巨大な宴会を開きました。4節、高慢な心で自分の「栄誉」を見せびらかしました。しかし、11節、そこで終わらないで「王妃ワシュティ」を見せびらかしたかったのです。12節、「しかし、王妃ワシュティが。。。拒んだ」とあります。それに腹立った、アハシュエロスは、ワシュティを追放しました。その代わりに、2:2、新しい王妃を求めした。

2:8、多くの他の美しい女性とともに、エステルは、城に連れて行かれました。彼女は、9節、管理人ハガイや、15節、「全てのものに好意を受けた」だけではなく、彼女が長い期間準備されて、17節「王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」神の摂理によって、エステルは、女性として、ペルシャの一番大事な立場に置かれました。

しかし、幸運が一転します。3:1、悪人「ハーマン」も、とても大事な立場に置かれます。。。。2節、神の民の一人モルデカイは、「長いものに巻かれない」のです。皆がハーマンにぺこぺこ頭を下げていますが、モルデカイはしませんでした。「モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」4節、モルデカイが「ユダヤ人」だということを知って、ハーマンは、怒り狂い、ユダヤ人の敵となりました。8節、ハーマンは、ユダヤ人の全滅をたくらみ、ことの背景を知らないアシュエロス王に陰謀をそそのかしました。13節「書簡は急使によって王のすべての州へ送られた。。。。若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪えとあった。」。。。6百万人のユダヤ人を殺したアドルフ・ヒットラーのように成りそうですね。

4:1&3、この陰謀を知ったモルデカイ、ユダヤ人とエステルは、激しく嘆き悲しみました。8節「モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。」そして、13−14、モルデカイは、エステルにこう忠告しました。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」神の主権と摂理です。

真の神の名が語られていない世の中にあっても、存在する神は、主権と摂理をもって、神の選ばれた人エステルをその立場に起きました。日本の歴史や、今の現状を見ると、真の神の存在と恵みをほとんど見えません。しかし、今の日本でも、私たちは、神の見えない手を信じなければ成りません。自然界を見て、神の存在と博愛を知ることが出来ます。しかし、聖書を読んで、神がいて、歴史と国々を治めていることが分かります。少数のキリスト者として、どんなに自分自身の弱さを感じても、見えるもののトリコにならないで、聖書を見て、見えない神を信じ仰ぐのです。「上を見て歩こう♪。。。。」神を仰いで歩こう!

バーバラさんは、去年、神の導きによって、ステラ・カックス先生の招きによって、奉仕しに高松に来ました。不思議に、丁度その頃、ステラさんは、心臓の病いで、病院に入院し、手術を受けることに成りました。また、不思議に、バーバラさんは、看護婦さんでした。ステラさんのケアをしました。私は、彼女にこう言いました。「神様ってすごいなー。私たちは、手術のことは知らなかったが、神様は、前もってバーバラさんを備えました。」「神の摂理によって、他のいろんな奉仕の可能性が止められ、私はここに来ました」と彼女は言っていました。摂理の神は、大きな働きもしますが、バーバラさんのように、細かくステラさんのために働くお方です。

2.      4:13−10:3、救いの神を新たに確信しましょう。

繰り返します。13−14「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」それを聞いて、三日間断食したエステルは、16節、死を覚悟して、王の所に行き、民の救いを求める、と決意しました。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」なぜ死を覚悟しなければならないのでしょうか?4:11、誰も、王妃であっても、許可がなければ、王の前に立つことは出来なかったのです。しかし、5:2、王の前に立ってエステルは、また「好意を受けた」とあります。そこで、王とハーマンとエステルの宴会をお願いしました。

エステル書のカギとなる箇所は16節です。「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」エステルは、すばらしい決断をしました。しかし、エステルは、民を救うために死を覚悟しただけです。私たちの主イエス・キリストは、罪人を救うために実際に死にました。命を捧げたのです。イエスは、真の救い主です。

5:14、高慢を極めていたハーマンは、自分に屈しないモルデカイを死刑にすることを決めて、エステルと王の宴会に行きました。その間、突然、2:21−23に記録してある、モルデカイが王の命を救ったこと、がやっと王の耳に入りました。そして、6:5—12、不思議に、敵ハーマンの手によってモルデカイが「栄誉」を受けることになりました。ハマーンの身の回りのものがこう言いました。13節「あなたはモルデカイに負けかけておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。」

ハーマン、王とエステルの宴会は何回も開かれました。7:3、エステルは、やっと話しました。『王妃エステルは答えて言った。「。。。私の民族にもいのちを与えてください。私も私の民族も、売られて、根絶や死にされ、殺害され、滅ぼされることになっています。。。」アハシュエロス王は王妃エステルに尋ねて言った。「そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。」エステルは答えた。「その迫害する者、その敵は、この悪いハマンです。」』そして、『ハマンは王と王妃の前で震え上がった』とあります。

7:10、ハーマンは、モルデカイのために立てた柱に、逆に、死刑にされ、モルデカイは、ハーマンの財産や権利を全て王から頂きました。が、まだ問題があったのです。エステルの民、ユダヤ人は、まだ、ユダヤ人全滅の法律の支配下にあったので、ユダヤ人はまだ危険にあったのです。エステルは、王にこう語りました。8:6「どうして私は、私の民族に降りかかるわざわいを見てがまんしておられましょう。また、私の同族の滅びるのを見てがまんしておられましょうか。」

神の救いは、エステルを通して、働いたのです。エステルの説得によって、8:11、王は、ユダヤ人が自分の身を守る権威を与えました。また、15節、モルデカイも、大臣になりました。9:1「この日に王の命令とその法令が実施された。この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」10:3「。。。ユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、(ペルシャ人を祝福し)ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」ユダヤ人を祝福したのです。9:17、18、19、22、何回も書いてありますが、民は喜び踊ったのです。神の救いを喜んだのです。9:22 「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。」

モルデカイやエステルは、神なき世の中にいたのです。二人とも、特に、いわゆる“敬虔なクリスチャン”ではなかったようです。しかし、神は、主権者で、真実なお方で、摂理を持って民を救ったのです。この日本においても、私たちキリスト者は、心身ともに疲れる時があります。私たちは、自分自らの弱さ、足りなさと罪深さを感じます。しかし、聖書と信仰によって、目を上げて、心の目で見えない神を見る必要があります。この方は、国々と歴史を治める神です。それと同時に、この罪深い、信仰の弱い、傷ついている私たちをかえりみるお方です。このユダヤ人のように、私たちは、自分の罪によって、滅びて行くものです。エステルは、死を覚悟しました。しかし、神は、それ以上のことをしました。人となり十字架上で、私たちの罪を負い、代わりに死に、私たちを救ってくださいました。真の神、イエス・キリストは、復活し、今全て治め、私たちを常に助けてくださるお方です。

“リンカーン:信仰と勇気の人”と言う本にリンカーン大統領についてこう書いてあります。イリノイ州のニュー・セーレムとバンダリアにいる間、大統領に成る前のアブラハム・リンカーンは、まだ”人生哲学“を見つけてはいませんでした。なぜなら、あまり熱心に求めていたわけでもありませんでしたし、必要性も感じませんでした。しかし、イエス・キリストによる心の支えがなかったから、息子Eddieの死は彼にとってあまりにも耐えられないものになったのです。。。スプリングフイルド第一長老教会の牧師、ジェームス・スミス博士、が息子Eddieの葬儀を行いました。心を痛めていた親は、希望の光を求めて、牧師の一言一言を熱心に聞きました。。。葬儀の後、リンカーンは、牧師を探して、牧師の”心の旅”について聞きました。リンカーンは、牧師の正直なところに興味を持ちました。牧師は、神を疑っていた時もあったのです。その時の牧師は、時間をかけ、キリスト教について熱心に学び、神をも試しました。彼の疑いの一つ一つが解消されました。その結果、牧師は、キリスト教の弁明The Defense of Christianity)と言う本を書きました。。。リンカーンは、その本を借りました。家に帰って、弁護士でもあったリンカーンは、裁判の準備するかのように、その本の一言一言を読み、疑い、熱心に考えました。それを終えて、彼は、ため息をしたそうです。子供の頃、彼が信じていた純粋な聖書にたいする信仰は、大人の彼の理論的考えによって弁明されたのです。リンカーンは、聖書が神の誤りのない御言葉である、イエス・キリストにある救いは確かである、ことに信じ安らぐことが出来たのです。このようにしてリンカーンは、救いの神—イエス・キリストーに出会ったのです。
しかし、また、その神は、摂理の神でした。リンカーンが大統領に成った時、耐えられないような試練にあいました。国は(奴隷解放戦争とも言える)南北戦争戦争にてよって裂かれ、多くの血が流され、リンカーンの家族にも不幸がありました。やがてリンカーンは暗殺されることになります。しかし、彼は、聖書を大統領の執務室の机に置き、熱心にそれを読み、神に祈ってことで良く知られています。彼の支えと成ったのは、国々と歴史を治める神、摂理と救いの神でした。彼は、奴隷解放に用いられたのは『自分が立派だからではなく、摂理の神が黒人の救いを願っていたからである』と確信していたのです。弱いながらも、彼は立ち上がっただけなのです。

私たちキリスト者は、日本の救いのために立ち上がらなければ成りません。しかし、原動力がカギです。神は、聖書のアブラハムにこう言いました。「あなたの子孫—イエス・キリストーを通して世界の人々が祝福されます。」何回も何回も、サタンや世間は、世界がイエス・キリストによって祝福されないように、アブラハムの子孫を断ち切り滅ぼそうとしました。エステルの時もそうでした。しかし、摂理の神の救いによって、神の民は守られてきました。やがて、アブラハムの子孫の最高の子孫—主イエス・キリストーが、世界を祝福するために来ました。人々は、また、彼を断ち切ろうとしました。しかし、その十字架の死は、私たちたち人類の救いに成りました。そして、復活された主イエス・キリストは、今も、彼を信じる信仰によって、世界の国々の人が祝福しています。日本人もそうです。信じてない方でも、その恩恵を受けています。。。私たちは、この福音を新たに信じて、雄々しく強くイエス・キリストに従い、慈愛を示し、福音を伝えるのです。

エステルは「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と言いました。NHKの大河ドラマ龍馬伝で坂本龍馬は「命を狙われるくらいの事をせんと、日本は変わらんぜよ」と言いました。十字架上で主イエス・キリストは、日本だけではなく、人類の救いのために命を捧げました。この恵みを味わい、新たに感動し、キリストの栄光と人の祝福と救いのために、苦戦しながらも、私とあなたは、自分を捧げるのです。

メッセージをもっと聞く:満濃キリスト教会

Thursday, September 5, 2013

啓示は贖いの解釈でもあるので す。


「啓示(聖書)は贖いの解釈でもあるので す。ですから啓示を適切に見るためには贖いを脈絡的に覚えなくてはなりません。魚眼レンズを通して見れば贖いの脈絡は見えてきます。啓示の脈絡と内容は贖いに関し てはまだ種の形かもしれません。(例えば旧約聖書)しかしそれは後に実るメッセージ(新約聖書)と複雑に関わってい て、そのつながりが明らかになるまでは適切に理解したり伝えたりできないのです。」ブライアン・チャペルはゲハーダス・ボスを参に

「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」創世記 3:15後半

Tuesday, August 27, 2013

『モーセが荒野で蛇を挙 げたように人の子もまた挙げられなければなりません。』


聖書は「すべては結びついています。」これは有機的原則と言います。

例えば。。。「イエス様は言いました。(ヨハネ3:14)『モーセが荒野で蛇を挙 げたように人の子もまた挙げられなければなりません。』。。。イスラエルの民は何度もつぶやきました(民数記21:5〜9)。神様にまで文句を言ったので毒蛇が送られました。そして咬まれて、泣き叫び、モーセに助 けを求めたのです。神はモーセに青銅の蛇を荒野に掲げるように命令されました。そこで モーセがそうすると神はモーセを通して民に語られました。『これを見上げて生きよ。これを見て生きよ、自分に信頼せずに、私が与えるもの を信頼せよ。』ではイエス様が先ほどのことばを言われたときは何を意味したのでしょう か?それは『私を見上げて生きなさい。自分に信頼するのではなく、神様が与えるものに 信頼しなさい。』ですね。さてなぜイエス様がこう言う意味で言ったと分かるのでしょう か?それは前と結びついているからです。」ブライアン・チャペル

Thursday, August 22, 2013

「聖書神学」


『啓示とはみわざに関連する働きを示す名詞だ、神は次々にご自身を明らかにされる。つまり啓示は歴史を通して発展しつつあ る過程で長期の継続的な働きなのである。』ゲハーダス・ボスの著書「聖書神学」Biblical Theology

ブライアン・チャペルはそれを分かりやすく説く。「複雑な言い回しですがつまりこうです。サムソ ンよりパウロの方が贖いの計画をもっと知っていた。サムソンが知っていたことが間違い だったのではなく、パウロが更に知っていただけのことです。それは啓示は継続的で発展 的だからです。神はどんどん神の計画と目的を明らかにされています。これが発展的原則 です。」

(これが『聖書神学』または『発展的原則』。また、このようにして聖書を解釈し、講壇から説くべきである。下のルカ24:25−27でイエスはそうした。)

「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」  ルカ24:25−27


Friday, August 16, 2013

「ナパームの爆弾の少女」



有名な「ナパームの爆弾の少女」という写真(左)で知られているキム・フックは「熱い、熱い」と叫びました。ベトナム戦争の頃でしたが、彼女は、カンボジアとベトナムの国境あたりでアメリカの空襲にあいました。「三日後、両親は(私の)遺体を引き取るため病院に来ました。しかし、その時奇跡が起きたのです。父が病院で働いていた古い友人に出くわし、娘を助けてくれと懇願したので熱傷専門の病院に移されました。」

何年も経って後、彼女は、図書館でいろいろな宗教書を読みました。ある日、聖書に出会いました。「その中についに答えを見つけることが出来たのです。神様が私の人生に何か目的を持っておられることを知りました。」教会に行ってイエスは「罪に苦しむ私たちの為に十字架にかかって死ぬ為にこの世に来られたのです。。。私は、受け入れました。。。それ以来、人生が変わったのです。」


夫と二人でカナダへ亡命しました。それで「あなたの敵を愛しないさ。あなたを憎む者に善を行いなさい」と聖書の言葉を読みました。「私を苦しめた敵(アメリカ人)を簡単にゆるしますなどと言えません。ただ、苦しみから解放されるには赦しを学ぶ必要があることは分かりました。。。今は、全く憎しみを感じません。」


「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」ルカ23:34


ベトナム戦争でナパーム弾攻撃により裸で逃げた少女

CHILDREN OF WAR "TRANG BANG INCIDENT - YouTubeビデオ


Friday, August 9, 2013

どのように贖いのメッセージを解読する


「ひとつひとつの聖句からどのように贖いのメッセージを解読するか?。。。こころの中に一眼レフのカメラをもって魚眼レンズを通して全体像をみるのです。魚眼 レンズを通して何が見えるでしょうか?対象物が周囲のものと一緒にみえますね。聖句のもう一つの見方というのは細部に視点をせばめるのではなく、常に周囲に目を向ける方法です。これは大きな構造のどこに当てはまるか?脈絡はどういったものか?。。。どんな異端者でも聖書から引用できるのは脈絡を無視して使うから です。最高の組織神学もそうしていますが、一般に聖書神学は組織神学と違っていかにしてそれぞれの箇所が脈絡に、特に贖いの背景にそっているかを一番重要に考えています。歴史を通して神様が徐々に解き明かされている恵みのメッセージにこの聖句はどう当てはまるだろうか?。。。これらのみことばは贖いの脈絡にどう当てはまるのか?」ブライアン・チャペル

「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」  ルカ24:25−27 

Sunday, August 4, 2013

堕落状態&贖いの要素


「では聖書全体が人間の堕落状態に焦点を絞っているのはなぜでし ょう?答えは明らかです。それぞれの聖句に含まれる贖いの要素についての保証とそのニー ズを示すためです。」ブライアン・チャペル

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:23-24

Wednesday, July 31, 2013

「キリストを宣べ伝える」シリーズ


ブライアン・チャペル博士(Bryan Chapell)による、キリスト中心のメッセージの説教論シリーズ

第一回、キリスト中心のメッセージの中核

第二回、キリスト中心のメッセージの手


第三回、キリスト中心のメッセージの希望


当時、ブライアン・チャペル博士は、ミズーリー州カバネント神学校学長、現在はイリノイ州ペオリア市、恵み長老教会の主任牧師


Tuesday, July 30, 2013

この状況で神が与えようとした恵みは何なのか?


「真の堕落について本気で考え始めると、私はそのみことばを次のような 気持ちで求めるようになるのです。”この状況で神が与えようとした恵みは何なのか?私がこの人たちに似ているのならその恵みは私にも必要なはずだ”。」ブライアン・チャペル

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:23-24

Friday, July 26, 2013

反クリスチャン的でしょう。


「人をみる時その人が穴だらけのチーズだとみて下さい。。。人はみんな穴だらけ、だからイエス様の声として語るわたしたち説教者はこの穴を埋めるために何を話すべきだろう、何が彼らを補えるのだろうと自分に問うべきです。。。もし人々が自分自身の行いで問題を解決できると思うよう になったら、これはクリスチャン的メッセージでしょうか?反クリスチャン的でしょう。」ブライアン・チャペル博士

希望



「聖書全体が堕落した状態に焦点をし ぼっているのは堕落状態の人間に希望を与える目的ですべてが書かれたからなのです。こ れにはさらに深い意味が含まれます。聖書のすべてが堕落した状態に焦点をしぼっている ということは、わたしたちに次のように考えなさいということです。”この聖句をみてい くにあたってこれは希望を与えるために書かれたことをおぼえよう。希望のためにこれは 聖書にのっているのだ。”」ブライアン・チャペル博士

Wednesday, July 17, 2013

クリスチャンらしいものをメッセージ


「どの聖句を取り次ぐにしてもみことばに忠実でありたいと願うなら、真実クリスチャンらしいものをメッセージの真ん中に常に据えることそれはキリストです。」

「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」1コリント1:23

Sunday, July 14, 2013

キリストのメッセージを常に心に刻み込んでおく



「わたしたちはいろいろな場所でみことばを取り次ぎますが、。。。聖書全体を通して書かれているキリストのメッセージを常に心に刻み込んでおく事です。」ブライアン・チャペル博士、シリーズ:キリストを宣べ伝えるより

「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」1コリント1:23

Thursday, June 27, 2013

宗教改革のスローガン



宗教改革のスローガンは、次の通りです。「信仰による救い。しかして、善き業への救い」に続くのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:8−10

Thursday, June 20, 2013

「恵みという炎をともし、またさらにともすのである。」


「一つ一つのこの情熱が眠りから覚めて徘徊し、その強欲の対象の臭いをくんくんとかぐ。この情熱はあわれな優柔不断の魂を背景から奪い、その人は疲弊する。彼は何度溝の中に叩きつけられ、泥で息を詰まらせ、へりをつかんで再び光りに向かって立ち上がっては、自分の手がそれから離れ、もう一度暗闇に戻るのを感じなければならなかったことか。しかし、彼はついに霊的生活の法に屈するのだ。 ーーそれはこの世で最も理解されていない法であり、何よりも彼をうんざりさせる法であるが、それなくして救いの究極的保持という恵みを獲得することはできない。要求されているのは自我の放棄であるが、これはパスカルの次の言葉に完璧に表現されている。『完全かつうるわしい放棄。イエス・キリストの、そして私の霊の指導者への絶対的な服従。』

人は、あなたは自由な人間という称号にふさわしくないことか、自分自身が主人に服従しなければならないなんて、と嘲笑するかもしれない。。。しかし、この隷属は、実際は奇跡的な解放なのである。というのも、あなたが自由であったときでも、自分自身のために鎖を造りそれを身につけ、その鎖を刻一刻、さらにきつくしめることに全時間を費やしていたからである。自分は自由だと思っていた年月、雄牛のように、自分の数えきれない遺伝病のくびきに屈していたのである。生れ落ちたときから、犯した罪がことごとく生き続け、なおいっそうあなたをとらわれの身とし、他の罪を生じさせてきた。あなたが屈したお方はあなたに自由の奴隷になってほしいとは思っておられない。つまり彼はあなたの束縛の循環を断ち切り、あなたの半分消されてはいるが、なおくすぶっている願望に対して恵みという炎をともし、またさらにともすのである。」

フランソワ・モーリヤック

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」ヨハネ 1:16 

Friday, June 14, 2013

キリスト教と親鸞


2011年6月15日、水曜日の夜10時、興味深い話しをNHKの歴史話ヒストリア』で見ました。人はみな、救われるべきもの法然と親鸞 探求の道~」という題でした。番組が言っていたのは、法然は、念仏を唱えれば救われる、と教えていました。弟子親鸞は、ただ「阿弥陀仏」を信じれば救われる、と教えていました。彼ら自身がそれを発見(悟った)ように、番組が語っていました。しかし、法然(11331212年)と親鸞(11731262)の1000年以上前から、聖書の多く箇所に「イエス・キリストとその十字架を信じると救われる」とあります。はたして、法然と親鸞の教えは彼ら自身の教えだったのでしょうか?それとも、聖書からとったのでしょうか?

私が20歳の頃、現在の安曇野市の新田で英会話を教えていました。クラスで「Amazing Grace」を歌っていました。キリストの驚くべきばかりの恵みを歌っていました。そのクラスの皆の家庭に訪問していました。その一つは、お寺でした。そこの責任者は、私にこう言いました。私たちも「信じる事によって救われることを教えていますよ。聖書からとっています」と言って私は驚きました。小京都の金沢に住んでいた時も、その地域の仏教は聖書から来た事を聞きました。

その後、私は、調べました。中国にも住んでいたジョン・ヤング博士は、徒歩で中国まで、と言う本の中にこう書いています。804806年ころ、弘法大師という僧侶が中国に行き、仏教の寺院に住んでいました。景教(キリスト教の東の教会)の隣りで、接触していたそうです。806年、弘法大師がキリスト教の他の書類を含めて、聖書のマタイの福音書5章〜7章と、マタイの他の部分を京都に持って帰ってきたのです。西本願寺にあるそうです。後、親鸞は、毎日何時間をかけてこのキリスト教の書類を勉強したそうです。安曇野市のお坊さんや、金沢市の仏教の言っていた事を立証しました。確かに、従来の仏教と違っていました。キリスト教に似ていたのです。

マタイ5:3にこう書いてあります。「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」また、マタイ7:1013にこの出来事がありました。「イエスがマタイの家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見た(宗教家の)パリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス・キリストは、実に、弘法大師の700年前、法然と親鸞の1100年ほど前にこの言葉を語りました。

そのまた1000年ほど前(今から3000年ほど前)に、ダビデ王(イエス・キリストの先祖)が詩編51編1−2にこう祈っています。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」聖書の最後の黙示録21:6にこうあります。イエス・キリストは、こう語っています。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」

法然も、親鸞も、(釈迦も、弘法大師も)素晴らしい人だったと私は思います。しかし、法然と親鸞の教えの大本に行く事が最も重要なことです。イエス・キリストの言葉、いやイエス・キリストご自身にさかのぼる事が大事です。イエス・キリストを予言したイザヤ53:5、6でこう書いてあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」イエス・キリストの身代わりの十字架の予言です。実に、イエス・キリストの700年前のことです。

イエス・キリストの40年ほど後にプウロはこう書きました。ローマ3:24−25「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」イエス・キリストが私たちの罪を十字架上で負い、裁かれたのです。私たちは、ただ信じ仰ぐことによって、救われ、神の極めた恵みにあるのです。

法然は、修行と共に恵みを教え、親鸞は、恵みのみを教えました。仏教の専門家でもある大和昌平牧師は、聖書の異なった特徴は「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」と説明しています。新たに十字架のキリストを仰ぎ、讃え、伝え、表しましょう。

参考:福音バカ: 「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」

Wednesday, June 12, 2013

「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」


2012年1月8日(月)、香川県の教会が特別講演会をもちました。50名以上の牧師や信徒が参加しました。大和昌平教授が不思議なことを言いました。仏教の法然親鸞が、900年程前に『恵みによる救い』を説いでいた、と言いました。法然は、修行と共に恵みを教え、親鸞は、恵みのみを教えました。大和師は、聖書の異なった特徴は「創り主の恵みはキリストの十字架に表れている」と説明しました。

造り主は、人間の罪を見過ごすことは出来ないのです。なぜなら、主は、聖い聖い聖いお方だからです。しかし、いっさいの罪のないイエス・キリストは、私たちの罪を自分のものとし、十字架上で代わりとなって裁かれたのです。私たちの代わりに地獄の裁きを受けたのです。これが聖書で説く、愛と恵です。それを信じる、イエス・キリストをただ仰ぐものは、救われるのです。私たちは、創り主の計り知れない愛の対象となるのです。その恵みによって、神を愛し、隣人を愛し、『良い行い』をするのです。

法然と親鸞の実に1000以上前に使徒パウロがこう書きました。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」聖書・エペソ2:8−10

キリスト者は、キリストの十字架のみ業の恵みを信じ味わい、その恵みと愛を人々に示すのです。「あなたの敵を愛しなさい」と言うキリストの言葉を覚えますが、敵であった私たちが創り主によって赦されてように、私たちは赦すのです。宗教改革のスローガンは、次の通りです。「信仰による救い。しかして、善き業への救い」に続くのです。

参考:法然と親鸞