Monday, December 26, 2016

Saturday, December 17, 2016

協立病院のクリスマス


12月10日、豊かな命キリスト教会が松本駅の近くにある協立病院で患者さんなどに仕えました。他がクリスマス・ソングやストリーを分かち合い、私(写真)は、短いクリスマス・メッセージ(ネーセン・ノーマンのクリスマス)をしました。私たちは、人々の魂だけではなく、体や精神の必要に答えるべきであると私は、思うのです。スタッフと患者さんが豊かにキリストのシャロームを体験するように、お祈り下さい。

Monday, December 12, 2016

「キリストは何者?」詩編110編 



先ず、聖書を開いて、詩編110編を読んで下さい。詩篇110編、聖書日本語

「キリストは、いったい何者?」と言うと少し失礼ですね。でも、キリストは、あなたにとって「困る時の神頼み」のように、ただの利用する神ですか?ただの素晴しい模範、素晴しい先生ですか?。。。クリスマスは、キリストの誕生日で、世界中で、そろそろお祝いされます。世界が使うカレンダーは、西暦を使って、キリストの生涯によってはかられています。キリストが主人公の聖書は、世界ダントツ一位のベストセラーです。イエス・キリストほど、人類と歴史を影響した方はいません。ただの先生だったら、このようなインパクトを残す事は出来るでしょうか?

イエス・キリストは、いったい誰ですか?詩編110では、キリストには、真の王、真の祭司である、と教えています。真の預言者を含める、キリストの『三職務』を見たいです。

1.キリストは真の預言者。

この箇所は、このキリストの職務に触れていません。が、少し説明したいです。詩編110は、イエス・キリストについての宣告です。キリストの一つの職務は、真の預言者です。モーセは、申命記 18:15でキリストの事をこう予言しました。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」当時の預言者は、罪を指摘し、赦しを宣言しました。神の言葉を預かり、語りました。しかし、イエスは、神の言葉を語っただけではなく、言葉そのものです。福音書ヨハネによると、イエスは、神を明確に告げる預言者、『言葉』である、とあります。ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神の御性質を言葉と生活を通して完全に啓示たのです。なぜなら彼自身は、唯一の神だからです。

日本の天皇陛下*は「現人神」と言われました。しかし、第二次世界大戦の最後、彼は、それを否定し、「人間宣言」をしました。。。でも、イエスは、永遠に真の生ける神です。私たちが唱える二ケア信条にこうあります。「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」

東洋の宗教では、全てを神々にしてしまいます。しかし、生ける神は、全てが存在する前から存在している、超越している神です。イエス・キリストは、こう私たちに語っています。「私は、単なる人間ではないです。私は、生ける神です。」。。あなたは、神である真の預言者キリストを何よりも誰よりも求めていますか?聞き入れていますか?人生の中心にしていますか?

2. 1−3節、5−7節、キリストは真の王。

御子なる神イエス・キリストは、一節、王の王として、父なる神の「右の座に着いている」とあります。終末の頃、2節後半「敵」を、イエスは、完全に「治める」のです。2節前半、天の父は、キリストを支えているし、3節、キリストの聖徒も、彼を支えているのです。とんで、5節後半・6節後半、治めているイエスは、敵対する「王たちを打ち砕く」のです。「しかばね」は、死骸(しがい)で、死んだ人のからだ、のことです。それ「で満たし」とあります。これは、5節、終末の頃の「御怒りの日」です。

文字通り読むと圧倒されませんか?このように読むと、どう感じますか?欧米や日本では『悪』の存在をそんなに感じません。でも、北朝鮮など国では、その国民は悪をとても感じます。核兵器、拉致、飢えている子供達、クリスチャンの迫害などを考えると、この悪のある世の中で『神様、何もしないのか?悪は勝利するのか?』と疑問に思うのです。。。いや、いや!小畑進牧師は、こう書きました。「メシヤは、やさしい、いつくしみ深い、といって、侮るなかれ。」新約聖書の黙示録19章後半にこうあります。「見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があった。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを支配される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた。。。」

存在する神は、都合良い神ではないですね。神は、真に愛に満ち満ちた神です。が、同時に聖なる聖なる聖なるお方です。「いずれ人は裁かれない」と思えば、裏切っても、操っても、殺しても、良いのです。欧米では「神がさばかれる事」は人気のない立場です。が「神が裁かない」といいう考え方は、全く間違っています。神は、罪を憎み、正義を愛するのです。全てが神の前に立たされます。地獄は、確かにあるのです。。。憎しみが愛の反対ではなく、憎しみの反対は無関心です。人を愛すれば、愛しているからこそ、怒る時があるのです。愛する人が暴行され、いじめられていると、無関心でいられないのです。真実と平和を破壊しているから、神は、悪と不正に対し怒るのです。でも、神の怒りは、爆発するような怒りではなく、愛する者を食尽しているガンのような悪に対する落ち着いた確かな徹底した怒りです。

なぜ私たちキリスト者は、暴力や復習をしないのでしょうか?主が正しく裁く時が来るからです。ある国では、復習の連鎖が見えます。『あなたは、私の目を取ったから、私は、あなたの両目を取る。神が正さないから、私が正す。私が剣で撃つ。』でも、神は、悪、不正に対してけして無関心ではないのです。私たちが復習をしない理由は、正しい神いずれ正しく裁いて下さる確信から来るのです。神は、正しい裁きを私たちの代わりにして下さるのです。神が全てを正す事を知ると、私たちは、自制をし、裁きを神に委ねることが出来ます。もし神が不正と不真実に対して、無関心で、最終的に裁かなければ、その神は、礼拝に値しない神です。でも、この箇所のように、終わりの日に、敵、王たち、国々は、生ける神に弁明し、裁かれる時が確かに来るのです。。。新約聖書のローマ12:19−20前半「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。』」

天皇陛下は「陛下」と言われています。でも、他の国イギリスなどと同様、実際には日本を治めまていません。昔、天皇家は、陰から藤原家によって多く操られました。天皇は、鎌倉幕府と徳川幕府の頃も、日本を治めませんでした。今も、ご存知の通り、象徴天皇です。。。でも、将来未来も、今も、イエス・キリストは、全て治めています。彼を受け入れない全ての人々を裁く為に帰って来ます。。。大事な質問は、これです。主は、あなたの人生の全てを治めていますか?あなたは、キリストを知って、悔い改め、信じていますか?今して下さい。なぜなら「今は、恵みの時です。」

旧約聖書の時代では、王様がいました。ダビデが王の時は、全ては大丈夫でした。でも、ダビデより偉大な王がいます。キリストは、恵みと力をもって今も全て治めています。神は、将来全てを治めるだけではなく、今も恵みによって治めています。裁く権威もあれば、恵みの御支配もあるのです。世俗的な支配ではないですが、キリストは、全てに勝った王の王です。自然、歴史、国々、教会を治めています。。。私たち自身は、キリストの敵でした。しかし、王であるキリストの十字架の贖いを通して、和解させられたのです。私たちは、神の者、神の国民となり、さらに、神の子供、王子となったのです。私たちの王であるキリストは、私たちを守り、必要を備え、こらしめて下さいます。王は、私たちの戦いを戦い、私たちの内にある罪が支配しないように、私たちを治めて下さいます。キリストは、正義と慈愛を今も確かに実践しています。。。私たちは、彼を王として、全ての生活を変えるのです。私たちは、王の掟に従うのです。私たちは、この恵みを独り占めにしないで、王の祝福と福音を広めるのです。社会に貢献し影響するのです。

ビクトリア女王がある時、自分の牧師からキリストの再臨について聞きました。彼女は、こう言ったそうです。「ああ、ファラール博士、私がまだ生きている間、主が再び来られるのを願っています。」「なぜですか?」と聞かれたら、女王は、こう返事しました。「なぜなら、私の冠を、崇敬と畏敬の心で、主の足下に置きたいからです。」あなたは、どうされますか?

3.4節、キリストは真の祭司。

4節を跳ばしたのを覚えていますか?回りの節と違っていましたね。イエスが治めたり、裁いたりする中で、突然、キリストは「とこしえの祭司である」と宣言されました。イエスは、預言者や王だけではなく、祭司です。回りは、裁きですが、ここは、哀れみです。。。「主は誓い、そしてみこころを変えない」は、この宣言は、何よりも確かである、何よりも、キリストは祭司である」と言っているのです。

天皇陛下は、神道の最高位であり、「宮中祭祀」と言われているそうです。
古代から現在まで、天皇の一番重要な勤めは日々の祭祀であり、国の為に祈る事だそうです。。。昭和天皇は、戦争の最後は、平和を勧めていました。が、初めは、戦争を応援し、指示していたようです。マッカーサーがその証拠を処分しました。なぜなら日本を治める為に天皇は必要でしたから。天皇は、自分の戦争責任を認め、国民のために死ぬ、とマッカーサーに言ったようです。。。でも、天皇は、本当の意味で、私たちの罪の為に死に、私たちを救い贖うこと出来ないのです。しかし、私たちの為に、罪を贖った方は本当にいるのです。詩編110のように、敵、王たち、国々が裁かれるのなら、私たちも、裁かれるべきです。私たちも、罪あるものですから。しかし、裁きだけではなく、イエス・キリストは、哀れみを用意されたのです。。。旧約聖書の祭司は、常に、贖いのいけにえを捧げなければなりませんでした。が、大祭司であるイエス・キリストは、一度だけ、十字架上で、私たちの罪を負い、私たちの代わりに裁かれたのです。私たちが裁かれないように、キリストは、代わりに犠牲となったのです。そして、御自身の血潮を天の父に捧げたのです。。。とこしえに祭司」であるように、私たちの罪は「とこしえ」に赦され、私たちは、永遠に愛されているのです。今も、キリストは、愛を持って私たちに仕えて下さるのです。続けて真実に取りなして下さるのです。

あるクリスチャンは、人の祭司に懺悔(ざんげ)し、罪を告白し、赦されると信じています。でも、聖書では、私たちは、直接、真の祭司であるキリストに罪を告白し、祈る事が出来る、とあります。「永遠の祭司」キリストはいるのです。ヘブル4:14「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか?(16節後半)大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか?」

“Who is Christ?”「キリストは何者?」イエスは、真の預言者。特にこの箇所では、真の王、真の祭司です。主イエス・キリストこそ真に期待出来る恩方です。昨日、真田茂人氏が招かれ、私たちは、スイス村サンモリッツでグローバル・リーダシップ・サミットに参加しました。仕えるリーダーシップについ聞きました。今月の8日にトランプ氏がアメリカの大統領として選ばれました。ある方は、リーダー、人、をとても期待します。確かに頼れる存在になりたいです。でも、何よりも、誰よりも、真に頼れるお方は、イエス様です。キリストを望み仰ぎ崇めましょう。

*注意:私は、現在の陛下さん達とその家族をとても尊敬しています。軽井沢で2回あっています。

Monday, December 5, 2016

GLS


先月の素晴しいグローバル・リーダーシップ・サミット信州大会に参加出来ました(松本地域)。およそ70人が来ました。ライブスピーカーは、真田茂人氏で、仕えるリーダーについて語りました。。。主が、教会の為だけではなく、日本国中にしもべリーダーを備えるように、祈っています。

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。。。『あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。』」ヨハネ13:3−5、13−17

Thursday, December 1, 2016

「救い主を探し求めなければなりません。。。」


「救い主を探し求めなければなりません。主が地上におられたとき、人々がご自身と交わりを持つように招かれました。こうして人々は主を知るようになり、また、主を知ることによって、父なる神を知るようになりました。。。主イエス・キリストは、現在肉体においては、われわれと共におられませんが、霊的には現在もわれわれと共におられます。われわれは依然として、主を探し求め、見出して主と交わりを持つことによって、父なる神を見出して、知ることが出来るのです。主イエスを見出すまで探し求めた人が、この世に対して、われわれは神を知っていると、あかしをすることのできる人なのです。なぜなら、われわれが心を尽くして主を探し求めるなら、必ず主を見出すことができるという約束があるからです。」ジェームズ・パッカー、著書・神について

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」聖書・マタイ2:1−2

Wednesday, November 16, 2016

主イエス・キリストを信じていなければ...


「神を信じていると言っている信仰の価値(英:worth、尊さ)を厳しく吟味する(英:acid test)なら、主イエス・キリストが極めて大事)です。人々が主イエス・キリストを信じていなければ、神を信じていると言っても、何の勝ちもありません。主イエス・キリストを信じていなければ、人生や生活について高い見解を持っていても(何お勝ちもありません)。主イエス・キリストを信じていなければ、戦争を信じていなくっても、良い事をするべきと信じていても、何の関係もありません。私たちの主また救い主イエス・キリストを信じていなければ、神の栄光の為にやっていると信じていて、他の人の為に大きな犠牲を払っていたとしても、完全に無駄です。」マーティン・ロイドジョンズ

"The Lord Jesus Christ is the acid test of the value of any supposed belief in God... That people say they believe in God is of no value whatsoever unless they believe in the Lord Jesus Christ; that people may have very exalted views about life and living does not matter at all unless they believe on the Lord Jesus Christ; that people do not believe in war, or that they do believe in doing good, does not make the slightest difference if they do not believe in the Lord Jesus Christ. The fact that people may make great sacrifices for the sake of others and, as they believe, in order to praise God, is utterly useless unless they believe on our Lord and Saviour Jesus Christ." Martyn Lloyd-Jones

ピリピ3:8−9「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」

Wednesday, November 9, 2016

際立った教義的神学


「いろんなところで勝ち取られたキリスト教の勝利は、際立った教義的神学によって勝ち取られました。キリストの身代わりの死と犠牲を徹底的に伝える事によって。キリストの尊い血と十字架の身代わりを示すことによって。信仰による義認を教えることによって、また、十字架に付けられた救い主を信じるように宣べる事によって。罪による破滅、キリストによる贖い、聖霊による新生を伝えることによって。銅の蛇を高く上げる事によって。『見て生きよ!信ぜよ!悔い改めて、改心せよ!』と人々に伝える事によって。」J。C。ライル、1816〜1900のイギリスの牧師。ライル福音書講解 ヨハネ1 、J C ライル著 

”The victories of Christianity, wherever they have been won, have been won by distinct doctrinal theology; by telling men roundly of Christ’s vicarious death and sacrifice; by showing them Christ’s substitution on the cross, and His precious blood; by teaching them justification by faith, and bidding them believe on a crucified Saviour; by preaching ruin by sin, redemption by Christ, regeneration by the Spirit; by lifting up the brazen serpent; by telling men to look and live—to believe, repent, and be converted.” JCRyle

1コリント1:23「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが。」

Wednesday, November 2, 2016

良い行い



「真に、良い行いの功績によって私たちは、信仰に至るのではないのです。しかし、信仰がはじまるのは、良い行いが続くためです。」聖アウグスティヌス

“It is not, indeed, the merit of good works that brought you to faith; but faith begins, so that good works may follow.” Saint Augustine

エペソ2:8−10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

Thursday, October 27, 2016

謙遜


「神の道が何であるかを私に聞くならば、私は、第一謙遜であり、 第二に謙遜であり、また第三も謙遜である。他に教訓がないと言う事ではないが、謙遜が私たちのすることの先に行かなければ、私たちの努力は、虚しい。」聖アウグスティヌス
“If you should ask me what are the ways of God, I would tell you that the first is humility, the second is humility, and the third is humility. Not that there are no other precepts to give, but if humility does not precede all that we do, our efforts our meaningless.” St. Augustine

エペソ4:2「謙遜と柔和の限りを尽くしなさい。。。」 

Thursday, October 20, 2016

『 仰ぎ見て救われよ』


あの有名なイギリスの説教者チャールズ・スポルジョンは、救いの体験をこう話している。「私は、そこで、すぐに救いの道を見た。私は今にも盲目になってしまうのではないかと思うほど見つめた。やみは過ぎ去り、太陽を見た。私は自分の席から飛び上がり、これらのメソジストの兄弟たちの中でも最も熱狂的な者と一緒に、『ぼくは、ゆるされているんだ』と叫ぶことができるように感じたのである。」

もっと読む:ラスベガス日本人教会 Blog『 仰ぎ見て救われよ

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」イザヤ45:22

Wednesday, October 12, 2016

“Suffering will either make you bitter or better.”


"Suffering will make you bitter or better." 英語を勉強しましょう。”Bitter”と”better”の似た言葉にかけています。あなたの苦しみは、あなたを”Bitter”、苦ヶしくするか、あなたを”better”、より良くするか?です。

キリストの苦しみと贖いがあるから、あなた自身の苦しみは、あなたをキリストの素晴しい似姿に変えて行きます。あなたに知恵を与えます。神お一人で十分と実感します。苦しみを味わうと、神に嘆いても良いのです。でも、キリストの十字架の苦しみ、その愛、主の御支配を実感すると、あなたは、感動し、希望に燃え、讚美し、変えらるでしょう。

G. K. チェスタートンがこう書いています。「私は困難という熱い湯に入るのが好きだ。それは私を清潔にしてくれる」からです。神の目、聖書、から苦しみを見ると、それをいわゆる「好み」、それは私たちを聖くして下さるのです。

ローマ5:3−4、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

Thursday, October 6, 2016

責任



第二次世界大戦中、戦争の責任は、どこにあるかが明白でありませんでした。NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 4 「開戦・リーダー達の迷走」 - YouTube 今も、豊洲の移転問題においても責任者は、誰かがはっきりしていません。豊洲、責任者特定できず 都が検証報告 小池知事「責任感欠如」:日本経済新聞。過去も、今も、責任の不透明性が浮き彫りになっています。

『クリスチャン・ジェントルマン』とも言われていたクリステー・マシュソン(Christy Mathewson、18801925)は、変わったふうに責任をとりました。彼は、17年間、ニューヨーク・ジャイアンツのピッチャーでした。殿堂入りもしました。彼は、ある試合、いわゆる"bang-bang play" (バング・バング・プレー)でボールとほとんど同時にホームに着きました。審判がタッチアウトであるか見えなかったから、マシュソンのほうに向きました。そしたら「私はアウトだ」マシュソンは認めました。そのすぐ後、驚いていたキャッチャーに「私は、教会の長老だから真実でなければならないのだ。」リーダーは、真実で、責任をとるのです。

エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」


Thursday, September 29, 2016

詩編51編 「神よ。御恵みによって。。。」


ぜひ、先ず、詩編51編を読んで下さい。


私の名詞には、レンブラントの有名な絵「放蕩息子の帰還」があります。そこの右の方に、冷たい兄の視線が描かれてあります。しかし、父の愛の手、放蕩息子の悔い改め、回復が描かれてあります。放蕩息子は「私です」とよく言う時があります。この詩編51編で、似たような豊かな神の御恵みが祈られています。

51編の条文に「ダビデの賛歌」とあります。ダビデ王は、造り主に選ばれた王様でした。恵みを奏でていた人でした。しかし、高慢になって、ウリアの妻「バテ・シェバ」と姦淫を犯してしまいました。罪を隠そうとし、ダビデに忠誠を誓って戦線にいたバテ・シェバの夫ウリアまで殺してしまいました。そこに「預言者ナタン」が来て「あなたです」と、ダビデの罪を指摘しました。。。ある方は『私は、このような罪を犯しません』と言うでしょう。危ないですね。ダビデは、偉大な人でした。彼は、芸術家、音楽家、指導者、つわもの、神に愛されて者でした。ダビデの心にそのようなものがあれば、あなたの心にないと言えるでしょうか?

でも、罪に陥る時どうするのでしょうか?また、罪から守られるようにどうするのでしょうか?神の言葉、詩編51によると、主とその恵みに寄り頼み、祈るのです。。。二通りの恵みにすがるのです。一つは、1−9、罪を赦す恵み。二つは、10−19、力を与える恵み。罪が赦され、従う力が与えられるように、祈るのです。

1.1−9、罪を赦す恵み。

1節「神よ。御恵みによって」とあります。この基盤に立って、祈り、また赦され、力が与えられるのです。この「恵み」という言葉は、ヘブライ語で「ヘセド」で、神の『真実な恵み』(約束された愛、誓いによるあわれみ、変わらないいつくしみ)という意味です。。。この恵みがダビデの心に溢れていなかったから、バテ・シェバとウリアに酷いことをしたのです。

「ヘセド」の意味を考えましょう。。。創世記15章、神様は、アブラハムにあらゆる約束をしました。そして、その誓約を結ぶ為に当時の世界によくあった儀式を行いました。動物を二つに切って、約束を結んだ2人両方がその間を通るのが通常でした。「約束を破ったら、この動物が裂かれたように、私も裂かれても良い」と誓っていたのです。しかし、神は、アブラハムを眠らせ、神お一人が、その裂かれた動物の間を通りました。神お一人で約束を結んだのです。恵みです。神は、私たち人間の弱さ罪深さを知っていたのです。神は、こう言っていたのです。『人々の罪と不真実さのゆえに、私が裂かれる時が来る。その代償は、私が払う。』1800年ほど後、イエスは、十字架上で、私たちの代わりに裂かれ、裁かれたのです。「私が全てを払う」と神の側から約束を誓ったのです。揺るがない基盤です。。。1節、この真実な「御恵み、情け、あわれみ」があるから、直感に反することですねが、つまずいて罪を犯しても、赦しを祈り、神と回復出来るのです。。。この優しい強い恵みに感動し、心をいっぱいにするなら、勇敢に長く従う力もあるのです。

1節「私のそむきの罪、(2節)私の咎、私の罪、(3節)自分のそむきの罪、私の罪、(4節)私は罪を犯し、(5節)私は咎ある者、罪ある者」。特に3節後半「私の罪はいつも私の目の前にあります。」預言者ナタンの忠告の後、ダビデは、責任転換していないで、罪の責任を取ったのです。神に対して反逆罪を犯しているのを認めたのです。4節前半、ただ人に対してしたのではなく、「私は(聖い神様)あなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」神の愛を裏切ったのです。神を悲しませ、神の恵みを踏みにじったのです。。。他の人になすり付けないで、あなたも、罪の責任を取りなさい。自分の罪を正直に見て、その罪を告白し、それを悲しみ、罪を憎みなさい。

英国の有名な新聞が質問を出しました。「この世界の何がまちがっているのか?」この問いに対して、クリスチャンの作家であるGK・チェスタトンがこう返事を出しました。「記者殿、私です。敬具。GK・チェスタトン。」。。直感に反することですが、あなたも「私です」と言えますか?。。。私たち自身のいわゆる小さな罪をも悔い改めましょう。犯罪学で「割れ窓理論」(broken window theory)と言って、窓を壊すような小さな犯罪をも取り締まると、大きな犯罪を抑制出来ると言うことです。私たちの間違った心や態度から解決を見いだしましょう。

「赦し」をある幾つかの似た言葉によって、描かれています。1節後半「ぬぐい去って、(2節)洗い去り、きよめて、(7節)除いてきよめて、きよく洗って、(9節)ぬぐい去って。」繰り返されています。。。赦しを意味する言葉の一つは、「帳消し」と似て、金銭などの借金や債務が消えることを描いています。帳簿のいわゆる「棒引き」です。。。私たち豊かな命教会は、最近、すごい額の返済を全て帰しました。私は、はじめ、どうなるかな?と不信仰でした。ある時は、ぎりぎり。ある時は、お金がなかったから、休んだり。ある時は、他から助けを得たりしました。神の恵みと私たちの努力によって、今のいわゆる「帳消し」になっているのです。。。でも、第三者返済という制度もあるそうです。他の人が身代わりに払うことです。。。私たちの罪の負債は、主に神に対してですから、私たちの努力や、行いによって、償いきれないのです。ですから、値なしの恵みによって、キリストが十字架上で身代わりとなって、償ったから「赦して下さい」と懇願できるのです。「私の(いわゆる)債務を除き、帳消しにして下さい」と叫ぶのです。

7節後半「そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」恵みと赦しの結果です。これは何を描いているか、私たち信州人は、よく分かります。雪が降る時、普通汚れているところが、奇麗になります。すでに奇麗なところも、さらに奇麗になります。あの小さな罪も、大きな罪も、つまずいている私たちは、キリストの血によって「雪よりも白く」なり、神様から見て、奇麗で、清いと見なされるのです。。。子供の時、雪を見て楽しんで喜んだ以上に、8節、赦され癒されると、「楽しみと喜び」の踊りが帰ってくるのです。

2.10−19、従う力の恵み

ある人は、こう言うでしょう。「私は、何回も同じ罪を犯してしまいます。もうむりです。」ここで、ダビデは、従う恵みをも願うのです。本当の神様と交わりをもっているキリスト信者は、続けてこう祈るのです。

10−12、「私の罪を赦すだけではなく、私の心の修正ではなく、10節『神よ。天地を劇的に造ったように、私にきよい心を全く造り変えて下さいゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』(11節)聖い聖霊を豊かに与え、御霊によって、従えるようにして下さい。主よ、罪赦されるだけではなく、(12節)『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』」。。「苦しい時の神頼み」ではないです。「ゆるがない霊、喜んで仕える霊」を願っているのです。。。スコットランドの牧師であったロバート・マリー・マックシェーンはこう祈りました。「主よ、赦された罪人がなれる限り聖くして下さい。」

恵みによって、罪が赦され、力が与えられているダビデ王は、神へと回復されるだけではなく、人へと回復されました。確かに、ダビデは、罪を犯した時、家族や国に大きな苦しみを与えました。でも、それと同時に、確かに敗者復活したのです。。。あなたが恵みを真実に、更に体験すると、12節「仕える霊」が与えられます。

13節、私たちは、新たに教えることが出来るのです。回復された私たちは、「そむく者たちに」回復と従順の「道を教える」のです。そして、13節後半「罪人は、(神よ)あなたのもとに帰りましょう。」ダビデがこの詩編で回復の道を教えているように、私も、あなたも、新たに教えることが出来るのです。

小畑進牧師は、こう語りました。「いったい説法、説教とは何なのでしょう。人一倍品行方正な者が透(す)き通った規律を垂示(すいし)する(示し教える)ことだったのでしょうか?否。否々(いや)。人一倍罪深く、人並みはずれた前歴の者が、己の俎(まないた)の上にのせ、たたき台として、『われが如き極悪人にして赦されたり。さらば、皆さんが、どうして救われないことがありましょうや。臆せず、この神に帰り、よりすがれや』と語ることだったのではありませんか?」

「『宗教法人法案』が出された時のことです。キリスト教会は一致団結して反対に回りました。その理由は、その法案に、『前科のある者は宗教法人の役員になることができない』という一頁があったからでした。他の宗教の人々は、『宗教法人の役員たる者は、清浄潔白でなくてはならぬ。したがって、前科者を役員から排除することは当然』としたのに対し、『とんでもない。宗教法人だからこそ、前歴がどうあろうと役員になれないことがあるべきでない。むしろ前科者が役員をつとめるくらいでなければ』というのがキリスト教の立場だったのです。」

14−15、私たちは、新たに讚美すること出来るのです。ダビデは、罪指摘された時、暗闇と失望に落ちたでしょう。どのようにして、ダビデは、この深い淵から舞い上がって歌うことができたのでしょうか?14節前半「救い」と赦し、その恵みを真実に体験したのです。ですから、14節「舌」は「高らかに歌う」のです。15節「誉れを告げ」伝道までするのです。

豊かな命教会で「花も」という素晴しいプレーズソングを歌います。一節「ここにいずみはわく、涙をすぎるとき、やがて実を結び、笑い声に満ちる。(折り返し) 花も雲も風も大海も、かなでようかなでようイエスを、空にひびけ、歌え魂よ、恵みを 恵みを 恵みを」「涙をすぎるとき、。。。歌え魂よ、恵みを!」

16−17にクリスチャン生活の聖く歩む秘訣が書かれています。真の謙遜です。。。ある伝道師は、英国のウェールスで多く用いられていました。でも、ベテランの牧師達は、こう言っていました。「彼は、まだ低くされてない。砕かれてない。」。。16節、ダビデは、外見的な宗教や慣習に捕われることは、危ないと言っているのです。長くクリスチャンいわゆる『やっている』と危険です。恵みを忘れ、高慢になります。その時、つまづきます!神が望んでいることは、先ず、形式的な宗教ではなく、17後半「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」全ての罪の根っこは、高慢です。それは、神に対して心が堅く、柔軟でなく、敏感でない心です。真に謙遜な心、自己主張が砕かれた心、頑固な高慢が謙虚な悔い改めの心に成る必要があるのです。良いことしても、それをも悔い改めるのです。。。宗教改革を起こした「九十五か条」の「1」で、ルターは、こう書きました。「1、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、〔マタイ4.17で〕『悔い改めよ』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを願ったのである。」悔い改め謙る心があると罪の力は弱まるのです。より聖く歩めるのです。。。多く用いられているニューヨークのケラー牧師は、一日に何回も、退いて、悔い改めの時を持ち、謙るのです。ですから、広く用いられているのではないでしょうか?

18−19、社会も、広く回復出来るのです。「どうぞ私ばかりか、この国、この民に御いつくしみを、また、堅固さを。」『社会がしっかりして、すこやかになりますように。』ダビデ王の罪によって、国家は、一番暗い危ない時にありました。しかし、回復されたダビデは、個人個人に教え、個人で讚美しただけではなかったのです。18節、都市の「エルサレム」、19節、公の礼拝にまでもインパクト残せるようになったのです。18節前半「ご恩寵」とありますが、1節の「恵み」のテーマに戻ります。恵みを真に体験する私たちは、個人だけではなく、教会、社会、隣人をも影響することができるのです。

ある人は「本当は、人は、変わらない」と言ってしまうのです。でも、ひどい罪を犯したダビデは、恵みと悔い改めによって、赦され、変わったのです。本や映画で有名なの「レ・ミゼラブル」に出て来る警察官ジャベールは、ジョン・バルジャンについて「しょせん人は変わらない」と言うのです。でも、ジャベールは、バルジャンの事を知らないのです。バルジャンは、高価なロウソクを盗んだ罪を神父さんに赦され、そのロウソクまで与えられたのです。深い恵みを体験したバルジャンは、劇的に変わるのです。彼の善良な人柄と言動が町の人々に高く評価され、市長にもなっていくのです。フォンテーンやコゼットを犠牲的に愛するのです。著者ヴィクトル・ユーゴーは、回復の福音を知っていたと確信しています。

どんなに人生をめちゃくちゃにしても、十字架を見て「父は、私をイエス様よりも愛しているのでしょうか?」と不思議に思えるのです。恵みによって赦され、変えられるのです。

Monday, September 19, 2016

燃え尽きからの回復


「燃え尽きからの回復はたやすいものではありませんでした。時々それは暗いトンネルの中のぬかるんだ道のようでした。けれども、神様はいつも私のそばにいて、私を教え、私を引き上げ、そして微笑みながら道を照らし、希望を与えてくださったのです。」アスリー・ボーマン

もっと読む:燃え尽きからの回復 Beating Burnout

詩篇42:11「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」

さらにもっと読む:Just Between Us Japan

Tuesday, September 13, 2016

「聖くして」


スコットランドの牧師であったロバート・マリー・マックシェーン(1813−1843)はこう祈りました。「主よ、赦された罪人がなれる限り聖くして下さい。」

“Lord, make me as holy as a pardoned sinner can be.” Robert Murray M’Cheyne

エペソ 1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

Monday, August 29, 2016

花も


これは、素晴しい、プレーズソング
花も - NCM2 CHOIR - YouTube












歌詞

1.ここに いずみはわく 
 涙をすぎるとき 
 やがて 実を結び
 笑い声に満ちる 

 花も雲も 風も大海も 
 かなでよう かなでようイエスを
 空にひびけ 歌え魂よ
 恵みを 恵みを 恵みを

2.あおげ 天はひらき
 僕らは見るだろう 
 やがて 花は咲き
 栄光の主が来られる

 花も雲も風も大海も
 かなでよう かなでようイエスを
 空にひびけ 歌え魂よ 
 恵みを 恵みを 恵みを



参考:賛美『花も』|Smile Garden 〜 TOKOの日記 〜

Monday, August 22, 2016

「わが決心をひるがえすことは出来ない」


戦国時代、大名は、忠誠を変える、また裏切ることは、しびしばありました。今、家族と一緒にNHKの「真田丸」を見ています。「日本一の兵(つわもの)」と言われた真田幸村(または、真田信繁)は、裏切るようなことはしませんでした。

大坂の陣の頃、徳川家康は、真田信昌(幸村の叔父)を送り、信濃の(現在の長野県)一国を与えるという破格の条件を出しました。しかし、真田幸村は「たとえ日本の半分を賜っても、わが決心をひるがえすことは出来ない」と言って、これを拒否したのです。

私たちキリスト者も、同じことを言うのです。「キリストが私の為に命まで十字架上で捧げて下さったので、『わが決心をひるがえすことは出来ない』と主に忠誠を誓うのです。真田と違うのは、私たちは、ペテロとその否む言葉を覚え、謙虚に主にすがりつつ、誓うのです。

1テモテ1:12「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」これを御霊によって書いたパウロは、殉教の死までに忠実でした。

Tuesday, August 16, 2016

「寛容」について考える


アメリカに住んでいるカナダ人の聖書神学者D.A.カーソンが「寛容という悲寛容」について書いている。下がまとめです。全部を読みたければ一番下の二つのリンクを見て下さい。


「ここで要点をまとめてみたい。



悪しき思想や行動に対しては消極的に(一義的な意味における)寛容が示されるべきである。――彼らの悪行の要因についてはこれを大胆に指摘しつつ。



その一方、こういった悪しき思想や行動を行なっている人々に対しては、臆することなく積極的に(ここでも一義的な意味における)寛容が示されるべきである。――その際、それにより彼らが悔い改め、信仰を持つよう希望を抱きつつ。



その意味で、個々人に対する寛容というのは、養われ育まれるべき、すばらしい徳であるといえよう。」

エペソ 4:2「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合いなさい。」

前、「寛容」という「非寛容」(The Intolerance of Tolerance)―D・A・カーソン | 地の果てまで福音を

後、「寛容」という「非寛容」(2)D・A・カーソン | 地の果てまで福音を

Wednesday, August 10, 2016

NHKスペシャル「…..憎しみを越えて」


私の高校3年生の牧師、ジェイコブ・デッシェイザー、がNHKのドキュメンタリーに出ます。8月15日(月)8時からです。NHKスペシャル | ふたりの贖罪(しょくざい)~日本とアメリカ・憎しみを越えて~

NHKのウェブサイトにこうあります。「憎悪が、世界を覆い尽くしている。どうすれば、憎しみの連鎖を断ち切ることができるのか。その手がかりを与えてくれる2人の人物がいる。70年前、殺戮の最前線にいた日米2人のパイロットである。」

私は、デッシェイザーを個人的にしています。真珠湾を爆撃した淵田と東京名古屋を爆撃したデッシェイザーがキリストの十字架によって、罪が赦され、互いに心が結ばれ、共に伝道しました。

エペソ2:16後半「敵意は十字架によって葬り去られました。」

ぜひ、見て下さい。

Tuesday, August 2, 2016

十字架によって形作られる


「十字架は、生ける(私たちを)愛する神の尊いお心と御性質への最も確か、最も真実、そして最も深い窓である。」N.T.ライト - Wikipedia

"The cross is the surest, truest, and deepest window on the very heart and character of the living and loving God." N.T. Wright

けした十字架をただ個人的に救うものにしてはならないのです。私たちは、世の中を影響したいのです。クリスチャン生活にとって、十字架は、とても中心なのです。私たちは、自分の生活に、また、この世に、十字架を適用しなければなりません。

「私たちの方法、または、メッセージは、徹底して十字架によって形作られなければなりません。」ライト

"The methods, as well as the message, must be cross-shaped through and through."

ガラテヤ6:14『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

Thursday, July 21, 2016

孤独死


最近、NHKを見ながら、驚くように統計を聞きました。東京で毎日8人の老人が孤独死で死んでいます。年間、3100以上です。尊い老人が死んでいるだけではなく、見捨てられて孤独に死んでいるのです。。。私たちは、何をするべきでしょうか?この松本で、安曇野で。。。他の尊い人の為にも。


Tuesday, July 12, 2016

ガラシャ


私たちの先輩から学べる。この2人の戦国クリスチャンは、すごい。細川ガラシャ:「キリシタン・細川ガラシャの生涯」その時歴史が動いた - YouTube、と高山右近:「絶対に裏切らない武将 高山右近」歴史秘話ヒストリア。NHKありがとう。

「ガラシャ」は、恵みという意味です。この2人は、主の恵みを体験したのです。エペソ2:8−10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

Monday, July 4, 2016

御栄光の啓示の最大の時


ヨハネ13:31−32「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。『今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。』」

D. A. カーソン、カナダ出身の福音信仰の改革派神学の新約聖書学者、神学者は、注解書で、この箇所についてこう書きました。「さて、この福音書で発展させた話題を頂点に私たちを導いて、伝道者(ヨハネ)は、神御自身を啓示する最高の時を、御栄光の啓示の最大の時を、十字架の恥にある、と明確にします。」


“Now, bringing us to a climax a theme developed throughout this Gospel, the Evangelist makes it clear that the supreme moment of divine self-disclosure, the greatest moment of displayed glory, was in the shame of the cross." D. A. Carson


D. A. Carson on the Power of the Gospel - B&H Academic

Thursday, June 30, 2016

いたわる



 ノーススターの山ケンが、数年前、ファミリーキャンプでこのような話しをしました。

アメリカに留学しているときに、学んでいた聖書学校の友達が夏のキャンプの為のムービーを取りたいということで誘ってきました。自分が日本人であった為に役回りは「悪のニンジャ」。もちろん刀で闘うシーンがあって、本物ではないにしても鋭い刀を使っていたんで、「危ないなぁ」と始まる前に少し思いました。数カット撮影した後、その前のカットと同じ動きをしたつもりが手元が狂ってその刀が自分の右足に!結局15cmぐらい右のすねをざっくり切り、生まれて初めての救急車で病院へ。。。1週間ぐらい入院し、その後も松葉杖をつき、数ヶ月のリハビリをしました。。。

当然自分の頭は自分の身体をいたわって、じっくりリハビリしました。どんなに頭が「走りたい」とか、「サッカーをしたい」とか思っても、怪我をしていれば無理な指令を出して、その足を動かすことは出来ないのです。いたわってしっかりリハビリすることが一番です。頭は常に身体を気遣い、いたわるし、身体はそんな頭の指令に従います。

それと似たように、教会の頭であるキリストは、教会の私たちのベストを考えているのです。そして、教会は、自分の為に死なれた頭キリストを信頼し、従っているのです。また、それと似て、間違えをおかしながらも、夫、親、リーダーは、恵みによって、教会や家庭のベストを考えているつもりです。そして、皆が神の与えた指導者を信頼し、従うのです。リーダーに従い仕えることは、リーダーを立てた神を信頼しているからです。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ10:11

Wednesday, June 22, 2016


最近ジャン兄が父を尋ねました。(妹の近くのミシガンの老人ホーム)

母は、すでに天国にいます。母も、教会の奉仕をしながら、多く長野県のPTAなどで講演しました。

でも、父は、今年90才です。彼は「宣教師の墓地」と言われて来た松本平で50年近くキリストとその十字架を伝えて来ました。驚く事は、長く有明高原寮(少年院)で聖書を伝えた父は、陛下さんから勲章を頂きました。

父に一番あう聖句は、多分マタイ25:21です。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」 

Wednesday, June 15, 2016

謙遜


「謙遜の中に心を不思議に高める何かがある。」アウグスティヌス

"There is something in humility that strangely exalts the heart."


「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」聖書・1ペテロ5:5

Wednesday, June 8, 2016

探求ー喜び! 見つけたーキリストを!



ブレーズ・パスカルは1662年に亡くなったフランス人の天才数学者です。31歳になるまで神から逃げ回った後、1654年11月23日夜10:30、パスカルは神に出会い、深く、そして揺るぎなく、イエス・キリストへと改宗しました。そのことを小さな布切れに書き記し、自分のコートの内側に縫い付けているのが、8年後彼が亡くなった時に見つかりました。それにはこう書き記されていました。
「恵みの年1654年、11月23日月曜日、聖クレメントの晩餐・・・夜10時半を過ぎたあたりから深夜12時半頃、火事。哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信と、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神。イエス・キリストの神。『私の神、そしてあなたの神。』・・・喜び、喜び、喜び、喜びの涙・・・イエス・キリスト。イエス・キリスト。二度と主から離れることがありませんように。」
このジョン・パイパー牧師のメッセージの続きを読んで下さい。探求ー喜び! 見つけたーキリストを! | Desiring God

ヨハネ15:11「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

Thursday, June 2, 2016

「キリスト中心に詩編を語る」



ある牧師は、他の牧師のメッセージを聞いて「彼のメッセージは、ユダヤ教のラビでも語られたのではないか?」と思いました。なぜなら、何一つキリストに触れてなかったからです。でも、私たちは、キリスト者です。さらに、私たちは、キリストを中心とする福音信仰(evangelical)です。

マスターズ神学校のステイブン・ローソン博士(ダラス神学校、改革派神学校)は、詩編の講義でこう言っていました。「私たちは、十字架にある神の栄光を語るのです。」彼は、あの『説教の王子』といわれているチャルス・スポルジオンを引用し「全ての箇所はキリストに導く」(”All texts lead to Christ”)と言いました。更に、1コリント2:2を引用しました。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」

御言葉にこうあります。ルカ24:27「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」新約聖書はもちろん、旧約聖書も、キリスト中心に語るべきです。

詩編は、150回ほど新約聖書で引用されています。初代教会のはじめのメッセージは、ペテロの使徒2章のメッセージでした。ペテロは、ヨエル記の引用の後の主な引用は、詩編から来ました。そして、キリスト中心にそのメッセージを語りました。

私たちは、どうして(なぜ、どのようにして)詩編をキリスト中心を語るのか?を見て行きたいです。

色んな角度から、キリスト中心に詩編を理解する事が出来ます。
(1)ある詩編は、詩編22編のように、明確に、イエスとその苦しみを語っています。
(2)詩編は、明らかに、神中心です。でも、ユダヤ教と違い、私たちは、三位一体なる神を信じています。神は、人格的であり、人となられた神です。それは、イエス・キリストです。
(3)詩編は、他の方法で、キリストを伝えています。ダビデ王(半分の詩編はダビデと関係ある)、神殿、犠牲、「岩」(「隠れ場」)は、全てキリストの形と予言です。

聖書研究の方法で4つの段階がキリスト中心に語るように教えています。
(1)   はじめのステップは、観察(observation)です。
一、  背景などを理解したいです。どんな必要や問題があったのでしょうか?
二、  その箇所の文脈、繰り返された言葉、接続詞などを見たりします。
三、  特に詩編は、平行構造(英:parallelism対句法、並行法)を用いています。例えば、同じ事を繰り返す平行構造は、詩編2:1です。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。」対象的な形をとるのは、詩編1:6「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」
四、例えが多くあります。メッセージの時、それを活かしましょう。
五、一つ人の詩編は、多くの場合『主題、その展開、結論』という構成になっています。(2)次は、解釈(interpretation)で、観察に立って、解釈をするのです。仲介書も助かります。ある詩編では、キリストがこの段階で語られています。
(3)三番目は、総合関係 (correlation)で、神学的に、また聖書の全体のテーマをこの箇所と照合せることです。聖書の主なテーマは、もちろん、キリスト御自身です。『贖いの歴史』(redemptive history)の天地創造の神との交わり、人間の堕落、キリストによる贖いを含める事もできます。
(4)最後の聖書研究のステップは、適用(application)で、この段階で、この箇所が表すキリストの福音を生活の全てに適用するのです。

ヘセド

私は、詩編からキリストを語る一番大事なポイントは、ヘブライ語の『ヘセド』(hesed)という言葉から来ると思うのです。詩編だけでも120回以上繰り返されています。ヘセドは、「真実な愛」(英:loyalty love)という意味です。他の言葉とも、関係を持っています。あわれみ、恵み、親切。ヘセドは、人間の恵みについて語ってないません。必ず神の恵みを指しているます。

聖書の神、ヤウェ(日本語の聖書では活字の)は、イスラエル神の民の約束を守る真実な神、という意味があります。その約束の上に、更に神の愛(愛情)が含めてあるのは、ヘセドです。神がイスラエルの民への約束を守ったから、愛したから、エジプトから民を大いなる手で救われました。詩編に何回もこの救いが繰り返されています(詩編106)。

でも、この恵みが真実に『とこしえ』であるように、神が行った御業は、十字架の贖いによる「新しい契約」によって確実に決定的に結ばれました。神との契約は、恵みによる契約でもあり、行いによる契約でもありました。人間やイスラエルは、行いによる契約を守る事は、出来ませんでした。偶像に走って行きました。ですから、神は、完全に掟を守る事の出来る御子キリストを送り、キリストは、私たちが出来なかった掟を完全に行いました。そして、恵みによって、「新しい契約」を御自身の血潮によって完全に結びました。

完璧な契約です。真実な契約です。恵みの契約です。私たちが不真実であっても、変わらない契約です。離さない愛です。値しない愛です。でも、また、ここまで愛されているから、私たちは、真実でありたいのです。

そして、詩編は、このヘセドの愛に応答する文に溢れています。詩編全てを観察すると、主な応答は、明らかに、祈りです。神の恵みを知る人は祈るのです。でも、神は、約束を守るから、その約束に基づいて祈るのです。
(1)最も大事な神の真実な恵みへの応答は、讚美と感謝です。これも祈りです。詩編の後半は、この讚美で勢いをもってまとまります。讚美という漢字のように、私たちは、神の栄光と恵みの『美』を『讃える』のです。
(2)神は、恵みを真実に行う神ですから、信頼するのです(詩編31)。
(3)私たちは、神の恵みの約束があるからこそ心を開いて嘆くのです(詩編3)。
(4)罪に落ちいても、とこしえに神のものですから、恵みがあるからこそ、罪を告白が出来るのです(詩編51)。
(5)知恵の詩編もあります。神の真実な恵みに感謝する事は、知恵なのです(詩編107、特に43節)
(6)神が私たちの味方ですから、神とその民を害する敵を呪うのです(詩編137)。(これは、最後に必ず来る神の正しい裁きを理解していると思う。また、これは、さらに新約聖書の敵を愛することと共に考える必要がある。)
(7)神は、約束を守る神であるから、私たちも誓いを守るのです(詩編61)
各種類の詩編は、真実な恵みの神への応答、命まで捧げて下さるイエス・キリストへの応答です。

詩編の大事なポイントの一つは、著者の感情です。私たちは、儒教にとても影響されています。教会の「教」のように、私たちは、教育、知恵や知識をとても大事にしています。私たちは、私たちの「知」などを高めるパウロの手紙を主に語りたいのです。でも、ダビデなどの著者は、人知を超える神の偉大いな恵みを、ただ頭で理解しているのではなく、心から感動しているのです。著者は、喜んだり、嘆いたりしているのです。私たちも、メッセージする時も、知識だけではなく、感情にも訴える必要があるのです。そして、この心にも語りかけるメッセージは、カウンセリングとなり、人の心をも癒すでしょう。

牧師でもあるブライアン・チャペル博士はこう言っています。「講会説教の目的は、巻物をひも解いていくように、聖書のテキストから神は何を語られているのかを提示することです。聖書では、主イエス御自身がみことばはすべて私(イエス・キリスト)のことを指し示していると、エマオの途上などで教えておられます。この文脈を忘れてはなりません。異端でさえ、自分たちの教えを指示するかのような聖書のテキストを提示します。それは、聖書全体がキリストご自身とそのみわざを指し示すという文脈を無視した解釈をするからです。」「 聖書全体がキリストご自身とその恵みを指し示しているより。詩編も「キリストご自身とそのみわざを指し示す」のです。メッセージを通して神の栄光とキリストの福音を伝え讃えましょう。


参考:Westminster Seminary Californiaのエドモンド・クラウニー博士、Preaching Christ from the PsalmsI-Tunesの講義