Wednesday, May 31, 2017

謙遜、十字架と説教


「十字架ー謙遜を与える説教の土台」というテーマの下に、ジョン・パイパーは、こう書いています。「十字架は謙遜を与える説教の土台でもあります。なぜなら、十字架には説教者と会衆の高ぶりを打ち砕く(十字架につける)力があるからです。。。他人からの誉れを愛する思いを十字架につけるという『死刑する行為』でもあるのです。」

そして、ガラテヤ6:14を引用するのです。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

「しかし、人の高ぶりがそれ(神を誇ること)を邪魔します。それを取り除くために、パウロは自分の説教に及ぼす十字架の効力を述べています。彼の重要な点は、『十字架のことば(1コリント1:18)』は説教者と、聞く者の高ぶりを打ち砕き」ます。

「キリストの十字架の伝道師」: 十字架と説教

Sunday, May 21, 2017

昇天記念式


先週の土曜日父と母の昇天記念会は、とても良かったです。


受付の父と母の写真の下に陛下さんからもらった父の勲章。

音楽、賛美歌、思いで話、軽食を交えた一時。

小岩井牧師による聖書メッセージは、父と母の大好きな聖書のヨハネ3:16から。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」


父と母の灰は、同じ器に。

200年ほど来て下さいました。感謝!

日曜日の地元新聞に記事が

Wednesday, May 17, 2017

十字架と説教


「神は説教の目的達成を妨げる二つの障害を、キリストの十字架で克服したのです。十字架は、神の義が人の高慢を拒絶るという外的壁を崩し、そして人の高ぶりが神の栄光を拒否するという私たちの内にある壁をも崩すのです。そうすることで十字架は、客観的には説教を有効にするための土台となり、主観的には説教は人々をへりくだらせるための土台となるのです。」ジョン・パイパー「なぜ説教の中心が神なのか」より

1コリント1:23−24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

Sunday, May 7, 2017

私は、ウェールスのリバイバルを見た


日露戦争の頃(1904〜5)遠いウェールズで素晴しいリバイバルがおこりました。日本とロシアの2人が同じ教会で礼拝していました。祖国どうしが憎みあっていても、2人は、平和を持って仲良く、自分の国の可能性を胸にして、リバイバル(素晴しい聖霊の働き)の為に祈っていました。2人の心の中では、リバイバルが祖国の苦悩の唯一の救済であると分かっていました。ロシアの牧師は、途切れた下手な英語で、ひたすら祈りました。日本人は、より流暢な英語で祈っていましたが、魂の感情をコントロール出来ませんでした。次の日、新聞にこうありました。『東のほうでは、ロシアと日本は、戦っている!しかし、西の小さなウェールスのチャペルでロシアと日本の間は、平和!』
本「私は、ウェールズのリバイバルを見た」より

使徒の働き3:19−20「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」

Thursday, May 4, 2017

父と母を敬う


父母のMemorial Service(記念会)は、5月20日(土)2時から(食会は3:30頃から)行われます。場所は、南松本のJA虹のホール芳川(松本市芳川村井町小原459−7)。父母を共に覚えたいかたは、どなたでも歓迎します。連絡は、0263−28−9836。


父は、今週の火曜日、4月25日、天に召されました。母は、2年半ほど前、天に召されました。2人を心から敬います。子供の頃、聖書・エペソ6:1−3を暗記させられました。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」母は、半分冗談でしたが、こう言っていました。「長く生きたいか?ジャー、従え。」ですから、今、私は、2人を覚える事によって、彼らの神を誉めることによって、敬いたいです。

両親は、広く人々に仕えました。2人の情熱は、主とその教会に対して大きかったでした。松本平で6つの教会の開拓に協力しました。豊かな命聖書書店をはじめました。長野県中で聞かれたラジオ番組(SBC)をもっていました。教会と直接関係ないことにもたずさわりました。小さい子供から大学生の数えきれない英会話の生徒をもっていました。父は、有明高原寮と松本少年刑務所で聖書を教えました。この奉仕があって、陛下さんから勲章をもらいました。母は、他の多くの集いを含めて、2000以上のPTAで講演しました。教育や家族だけではなく、差別やビジネスについても語りました。父と母の仕える心を見て、尊敬しています。

しかし、両親は、何よりも、2人の主イエスを讃えることによって、彼らを尊敬して欲しいと私は思うのです。もう一つ暗記させられた聖書の箇所は、あの有名なヨハネ3:16でした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」両親の神、また私の神は、人格の無い神ではないのです。神は「世を愛された」のです。創造主の愛は、人格的です。その愛は、ただの言葉(口先)や哲学や道徳ではなく、神の尊い一人子、イエス・キリストという人格的なお方です。御子は、十字架上で私たちが死ぬべき死を代わりとなって死んで下さいました。御子は、復活しました。私たちがただ信じ仰ぎすがることによって命が与えられます。死後の命だけではなく、御子の死と命によって、私たちは、素晴しい希望を持って、今も真に生きることが出来るのです。私たちの恵み深い神ほど素晴しい、尊敬に値するお方はいるでしょうか?私は、父母を敬いながらも、今、それ以上に、生ける神を畏れ誉めたいです。

第2次世界大戦中、私の父は、フィリピンで、日本軍と戦いました。言うのは辛いですが、父は、日本人を憎んでいました。戦争後、大学中、上の聖書の箇所に、父の心が向けられました。「神は、世を愛された。」世は、憎んでいる敵を含めるのだ、と思ったのです。それで、父(母も)は、50年近く、日本の松本で、元敵であった方々に真実に仕えました。2人は、この世にはいないですから、私は寂しいです。が、このように人を愛する心を両親に与えた主を特に畏れ敬います。