米国ミズーリ州・カベナント神学校の学長・ブライアン・チャペル氏。主著でもある“Christ-Centered Preaching” (キリスト中心の説教) Christ-Centered Preaching, Bryan Chapell: Amazon.com: Books。
インタビュー
—初めての来日で、牧師・信徒と接して強く印象を受けたことは何か。
日本の教会がクリスチャン人口1パーセントで停滞しているという話を聞いていたので、少数派としての内向的なところを感じさせられるのかなと思っていた。だが、福音を伝えたいと奮闘する真摯な姿勢と、主に熱心に仕えたいという思いが伝わって来た。私に対しても、寛容に接してくださったので、とても励まされ、心を強められました」
恵みを動機とした従順は重荷ではなく喜びになる
—公開授業と講演会では、教会学校やグループ集会などで説教の奉仕をする信徒にも呼びかけられ、参加した。信徒であっても、聖書から説教を語る奉仕を行う上で、心に留めてほしいことは何か。
「福音中心、恵み中心、キリスト中心の説教が語られるべきだということ。恵み中心ということは、自分自身の生き方に焦点を点当てて、罪悪感や自分の行いからではなく、神からの愛によって私はきよくなりたいという願いを伝えることです。神の愛を深く知ることによって、人はきよくされるのです。」
「恵みによる救いが分かることが必要です。自分の努力や行いではなく、神が愛してくださっているという、神の愛によって動機づけられた人は、神が愛するように動きます。この恵みは、聖書全体に表されているので、教会がこれを発見するならば、新しい力になります。」
—講解説教としての「キリスト中心の説教」のもっとも特徴的なところは何か。
「講会説教の目的は、巻物をひも解いていくように、聖書のテキストから神は何を語られているのかを提示することです。聖書では、主イエス御自身がみことばはすべて私(イエス・キリスト)のことを指し示していると、エマオの途上などで教えておられます。この文脈を忘れてはなりません。異端でさえ、自分たちの教えを指示するかのような聖書のテキストを提示します。それは、聖書全体がキリストご自身とそのみわざを指し示すという文脈を無視した解釈をするからです。」
「『キリスト中心の説教』には、『キリストの贖ないによる講解説教』もしくは『贖罪的文脈の講解説教』というサブタイトルがついています。聖書全体が、すべての聖句があがないの必要と目的を含んでいます。もちろん、すべての聖句の一言一句がとり上げていることではなく、すべての聖書の箇所に表されている神の恵みが、やがて聖書全体で指し示しているキリストに導くのです」
—実際的、それをどのように語り、伝えればよいのか。
「聖書から説教するとき、4つの問いと答えを心がけるといいでしょう。①『私は何をすべきか』は導入です。②『どこでするのか』は、どのような場面かを問います。③『なぜ従うのか』と④『どのように仕えるか』の問いは、恵みの原則で答えることです。実践的で、励まし支えることが恵み中心であることです」
「キリスト者の愛によって、神に従いたい、と思うように人は変えられます。主を喜ぶ事は、あなた方の力になるからです。神を愛することが、よりよい(キリストの)証人になれる秘訣です。(神から愛されている)喜びを示すから、他の人をキリストに導き、喜びを与えることができるのです」
モットーにしていることは私は「キリストの大使」
—結婚に関する著書も執筆していますが、家庭人としてモットーにしていることはあるか。
「コリント人への手紙第二の主題でもありますが、自分は『キリストの大使』であるということです。『キリストの大使』というと、一般的には海外への宣教師であったり、牧師のようにみことばを宣べ伝える働き人のことを考えるかも知れません。しかし、私は家庭において『キリストの大使』です。妻に対しても子供に対しても、キリストの代理です。キリストが接するように、家族に接するようにしたいと願っています。ですが、私がわがままな態度をとってしまうようなときは、神の恵みが私にとって必要なことですから、神に叫び求めます。私の態度を見て家族も神の恵みを求めるでしょう」
[遠山清一]
2006年6月11日 クリスチャン新聞
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