Wednesday, September 2, 2015

責任という概念


第二次世界大戦後、「昭和天皇は戦争犯罪人か?」と問われました。日本を良く知っていたマッカーサー元帥は、日本の将来のために、日本を治めるために『処刑されることは最善ではない』と分かっていました。そして、マッカーサーは、天皇の罪の証拠を処分してしまいました。天皇は、確かに、戦争の最後は、平和を勧めていましたが、初めは、戦争を応援していたようです。彼も、自分の戦争責任を認め『国民のために死ぬ』とマッカーサーに言ったようです。

でも、彼は、戦争責任を問われませんでした。ある日本のリーダーは、この連合軍の寛大さを認めました。でも、ある方は、それ見て「罪の責任は問われないのか?」と思ったようです。「彼が問われないのなら、私たちも。」そして、ある学者は「その時から、日本人は、責任という概念を間違ってとらえて来た」と言っています。

どうでしょうか?ある人は、責任を負いすぎて、止めたり、ある人は自殺までしてしまいます。やり直しのきかない恵みのない行動です。ある人は、聖書の創世記のアダムとエバのように、世間のように、他の人に責任をなすり付けます。または、うやむやにしてしまいます。

クリスチャンは、責任を取るのです。でも、それは、聖書的・福音的方法です。自分の罪を認める事から始まります。本当は、自分が『黒幕』と分かるのです。「責められるべきは、私」と認めるのです。でも、また、創造主である主キリストは、十字架の上で私たちの罪の責めを全て負おって、責任を取って下さったことを信じ受け入れているのです。そして、十字架の愛によって変えられます。もう罪の責めを負っていないから、止めないで、神が与えた神と人への愛の任(任務)を喜んで努めるのです。。。英語では『責任』はresponsibility”と訳し、応答するという意味です。私たちは、十字架の恵みに応答するのです。その責任があるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:23−24

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