Sunday, May 27, 2018

「十字架のスキャンダル」


1コリント1:23−24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」



「つまずき」という言葉は、ギリシャ語で「スカンドラン」という言葉で、私たちのスキャンダルという言葉が語源です。

産経ニュースで「スキャンダル政局」とありました。「今年の日本政治はスキャンダル一色であります。」財務省の事務次官、新潟県知事。。。アメリカの”Me too!”運動がありますが、映画プロデューサー、大統領まで。

でも、この箇所で言っているスキャンダルは違うのです。23節、十字架がスキャンダルなのです。『え!!!』

当時、人々は十字架の事を聞くだけでも、スキャンダルで、つまずきだと思って、いわゆる「不祥事」だったのです。ギリシャ人にとって、十字架は、犯罪人が受ける、恥さらしの死刑で、立派な教師は、そんなようにはされないはずです。ユダヤ人にとってメシヤは、栄光の救世主なので、死ぬはずはないと思ったのです。

でも、十字架は、今でもスキャンダルなのです。世間は、道徳を掲げます。「良い人になりなさい。平和のために尽くしなさい」と言います。でも、これは、注意しないと、私たちの自らの能力やプライドを高ぶらせます。聖書は「いやいや、十字架が全てです。あなたの道徳は、あまりにも小さいものです。あなたは、あまりにも弱くて、迷っていて、御子イエスの十字架以外には救われないのです。」これが世間の感情を害し、腹を立たたせ、つまずきと成るのです。。。でも、私たちにとって、十字架は、素晴しいのです。

聖書以外の全ての宗教は、こう教えます。私たち人間は『救いを得るために、何かをしなければならない。』しかし、聖書は『いやいや、救いを頂くためには、神が何かをしなければ成らなかったのです。それは、十字架です。主は、あなたの死ぬべき死を死ななければならなかったのです。』英国国教会の牧師ジョン・ストットは、こう書きました。「『キリスト』(御自身)が神の御業による宗教を意味する。キリストが完成された御業を通して成した神の御業。」正に本当の『神業』です。これが世間にとって気に食わないのです。。。でも、私たちにとって、十字架は、全てです。

『自分が立派だ』と思う人にとって十字架は、つまずきです。十字架は、お世辞、きれいごとを言わないのです。人は「あなたは、罪人だよ。あなたは、十字架を必要だよ」と聞きたくないのです。人は、自分で自分を救えると思うのです。スコットランドの聖書学者FFブルース氏は、こう言いました。十字架は「私たちの全てのアチーブメント(達成)とメリット(功績)を切り崩します。黙って、十字架にかけられた恩方から受けなければ成らないのです。」自分でやれるというプライドのある人にとって侮辱なのです。。。でも、私たちにとって、主イエスとその十字架は、麗しいのです。

多くの人にとってイエスは、ただの良い教師であって欲しいのです。救い主には、成って欲しくないのです。十字架抜きのキリストが欲しいのです。

私たちでも、人に好まれたく、皆と合わせたいのです。誰も、不愉快にさせたくないのです。その結果、一番肝心な「十字架に架けられたキリスト」を除いてしまうのです。

十字架は、教会で見えて、イアリングや首飾りにして、中には、十字を切る人もいます。でも、意味は、ピンと来ません。私たちがどんなに十字架がつまずきであったり、スキャンダルである事を知らなければ、その素晴らしさが分かり、感動し、変えられません。

生ける神様は、聖なる聖なる聖なるお方です。私たちは、罪深い罰に値する者です。本当は、スキャンダルの恥を負うべき者は、私です。あなたです。スキャンダルを解決するために、神様と和解するために、誰かが私たちの罪の責めと恥を負わなければならなかったのです。生ける神であるイエス・キリストが十字架上で、その罪を負い、スキャンダル『罪』となったのです。2コリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」代わりに裁かれたのです。ただ信じ仰ぐ私たちが、逆に『義、正しい、清い』と認められるのです。いや、それだけではなく、神の子どもと言う名誉のある身分を受けるのです。

十字架がなければ、私は、あなたは、スキャンダル、疑惑、恥さらしのままです。

でも、恵みによって、麗しい主イエスに、十字架に、その恵みに預かったのです。

明治時代の頃、ヘボン式ローマ字で有名なジェームス・ヘボンは、日本の横浜などで、宣教師、医者、教師として活躍していました。ヘボンの家に、キリストの十字架につけられた絵がありました。しかし、キリシタン禁制の時代だったのです。神奈川奉行がこの絵を差し押さえようとししていたのです。その時、奉行の方が「ヤソ(イエス)はなぜ十字架につけられているのか?」と尋ねたら、ヘボンは十字架の愛について語りはじめました。(当時の日本人、は「愛」について全然を知らなかったのです。)それは「ご利益のようなものか?」「いえ、そうではありません。愛は、相手のために命を捨てることができるものです。」「そうか、愛とは慈悲に近いものだな。」「いえ、もっと深いものです。自分を傷つける者さえも抱きしめることができるものです。子供が母の手を振り切って、危険の中に自ら入ってしまうように、私たちも自分で何をしているのかわからない罪の中にいます。危険な火事の中に何も知らないで飛び込む子供のような私たちを助けるために、イエス様は十字架の上で代わりに死なれたのです。」その奉行の方は、やっと愛について理解しはじめました。その後、ヘボンは、大使館専属の医師に任命されました。身の危険が及ばないためだったのです。不思議に、十字架の愛について尋ねたその奉行の方がその提言をしてくれたのです。彼は十字架の愛について理解したのでした。

「危険な火事の中に何も知らないで飛び込む子供のような私たちを助けるために、イエス様は十字架の上で代わりに死なれたのです。」主イエスは、自分の安全を顧みずに、危険に突っ込んで行って、私たちを救いました。主は、酷いふう扱われ、暴言を吐かれ、十字架につけられました。正に「十字架のスキャンダル」です。

しかし、私たちにとって主イエスとその十字架は、何よりも、誰よりも、素晴しいのです。1コリント1:24後半「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

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