Wednesday, January 8, 2014

キリスト中心のメッセージ 第三回キリスト中心のメッセージの希望


ブライアン・チャペル博士による学び
    キリストを宣べ伝える、聖書全体にあるめぐみを伝えよう
キリスト中心のメッセージ 第三回キリスト中心のメッセージの希望

2 前の2回の学びではクリスチャン的メッセージをするにはキリストをしっかり 中心にすえることが大事だと語ってきました。これは単純に聞こえますが、しかし 自分がこれまでどんな説教をしてきたかを考えれば、そうでもないことが分かりま す。キリストをメッセージから外すことは、いとも簡単にできるのです。  

なので最初の学びでは”イエス様の声とともに語るにはイエス様ご自身のメッ セージを保つこと”といい。クリスチャンのメッセージにキリストを保つ大切さを お話ししました。2回目は具体的にはどうするのかを話しました。聖書の釈義方法 について、上っ面をなでただけではありますが、しかし新しいレンズをつければど の聖句をとっても、贖いの真理を見極められることを学びました。皆さんにとって 聖書のどこを読んでいても、贖い的に読む道が開けたなら嬉しく思います。  

では、重要な点を復習しておきましょう。どのみことばでも贖い的に考えるため にはどのようなレンズを使うのでしょうか?一枚目のレンズはこの聖句は贖いを与 えられる神様の本質、特性について、何を教えているか?です。そして二枚目は贖 いを必要とする人間の本質ついて何を解き明かしているか?これら2つの問いかけ を忘れないでください。神様の本質や特性は何だと言っているか、 人間の本質や 特性は何だと言っているかこれらの問いを忘れなければ、自ずと贖いの要素がつか めるようになります。

目標:
3 今回の学びの最終的な目標は、贖いのメッセージの影響を知ることです。聖書 を贖い的に分析することは重要であると理解した上で、私たちはその手段を得まし た。ではそれはどんな聖化をもたらすのでしょうか?私は皆さんにキリスト中心の メッセージが信者の生活にどのような影響を与えるか、分かっていただきたいので す。日常生活に与える影響はどうか?ここに隠された主題があります。あなたに とって変えるとはどういうことですか?何が人を変えると思いますか?説教も宣教 も、カウンセリングも果ては子育ても、どの働きをとってもそのゴールは、主が 人々を変えていくことです。しかし教理的には結局、何が人々を変えていくと思い ますか?

I.キリスト中心のメッセージを通して聖さを刺激する
A.何が人を聖くするのか? 4 今回は何が人を聖くするか考えます。まずキリスト中心のメッセージを通して それをするために、次の質問からはじめましょう。何が人間を聖くするのでしょう か?特にすでに救われた人々について考えてましょう。何が彼らをより聖くするの でしょうか?避難を浴びせまくることでしょうか?それとも恵みの約束を強調する ことでしょうか?この質問は昔からありました。ローマ人への手紙6章1節をみる と明らかです。パウロは恵みばかり強調しすぎたと感じたので”恵みが増し加わる ために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか”といいましたね。つまり何世 紀も前から人は恵みについていろいろと考えてきたのです。そして未だにそれぞれ の世代が議論を重ねています。恵みについて私たちはいくらでも語れます。でもそ のうちのどれくらいがよくて、どれくらいが放蕩をうながすことになってしまうの でしょうか?

5 ここで面白い話をひとつご紹介しましょう。ブラッドフォードというピューリ タンが獄中で死を間近にしているときにあるアナバプテストと議論しました。おも しろいですね。二人とも牢屋で死を待っているのに、恵みの本質について神学的な 議論をしていたのですから。まずはこのアナバプテストが言いました。”神の愛を 人々に保証し続けてはいけない、もしそんなことをしたら、人間は何でもしたいこ とをしでかしてしまう”これにブラッドフォードはどう答えたでしょう?”とんでも ない、神の愛を保証し続ければ、人間は自分ではなく主の望むことをやるようにな る。”これが基本です。神によって心から生まれ変わった人間の性質がどう働くの かを言い表しています。

6 恵みを保証することに対する懸念は、「堅忍」にまつわるそれと似ています。 私たちは信者について不安を感じているのです。「神に拒絶される心配はないと 言ったら、何のために信徒はまっすぐで狭い道にとどまるでしょうか」そう思う と、「神様は絶対拒絶することはないと言うのはよくない。さもないと、みんなや りたい放題になってしまう」と考えるのです。「一度救われれば永久に救われる」 とするのは堅忍と同じで信徒を自由にします。同じ理由で次の事も思います。「恵 みの保証ばかりしていたら、何のために神の民は聖くなくてはならないということ になるだろう?」ここでもう一度あなたに問います。「裁きがあると脅すことと、 恵みの約束とでは、どちらが人間を真の聖さに導くのでしょうか?」

1.ウェストミンスター信仰基準は何と言っているか?
7 信仰基準は何と言っているでしょうか?オーソドックスな方法をとってみま しょう。正しい方向性を教えてくれるといいですね。ウェストミンスター信仰基準 20章キリスト者の自由について、中略があるのでご承知ください。  

キリストが福音の下にある信者のために買い取られた自由は、罪責・神の断罪的 なみ怒り・道徳律法ののろいからの自由と、(中略)罪の支配から(中略)の彼らの解 放と、彼らの自由な神への接近、奴隷的恐れからではなく子のような愛と自発的精 神から神に服従をささげることにある。 (後略) 

8 なぜ人間は神様に仕えるようになれたのでしょうか?キリストに与えられた自 由によって恐れから解放されたからです。では何が理由となって人間は抑制される のでしょうか。奴隷のような恐怖からではなく、子供のような愛情と自発的精神か らです。19章の6をみるとこうあります。  

(前略)それで、人が善を行い悪をやめることは、律法が一方を奨励し他方をとめ ているゆえ、彼らが律法の下にあって恵みの下にいないということの証拠にはなら ない。  

つまり服従しているからといって恵みの下にないということではないのです。 信仰基準はさらに続きます。 

 (7)上に述べた律法の用途は、福音の恵みに反対せず、かえって、見事にそれに かなっている。

次はキリストの霊による抑制についてです。  

すなわちキリストのみたまは、律法に啓示された神のみ旨が行うように求めてい ることを、自由に喜んでなすように、人間の意志を従わせ、またそれをなす力を与 えられる。  

つまり聖い行いとは、自由に喜んで行われるのです。ではそのために論理的に必 要なものについて話していきます。ここでもう一度最初の質問に戻ります。何が人 を聖くするのでしょうか?裁きがあるとの脅しか、恵みの約束か?

9 無理強いや脅しによってしたことは義とかけ離れています。それは実は自分を 守りたいとか自己をアピールしたいという思いであり、神の栄光には値しません。 そこには、救われた者の身勝手さがあるだけなのです。礼拝堂に座っている平均的 信者にとって神様に奉仕しようという動機は一体なんなのでしょう。なぜ教会に来 ている人たちはすべきだと思われることをするのでしょうか?かなりの割合の人は 次の理由で奉仕していると思います。 

「だって奉仕しないと神様が怒るから」さて、もし私が神様に奉仕する理由が神様 が怒るからだったとしたら、私は誰に仕えているのでしょう。それは自分です。自
分が得したい、自分を守りたいのです。もうひとつ多くの信者が惑わされる大きな 理由があります。私たちもその理由をもとに神に仕える様、訓練しているくらいで す。すなわち「神様にどんどん奉仕して、この世でもあの世でもご褒美をもらお う。」天国に豪邸を建てようとゆう動機です。信者の多くは何かをもらうために仕 えています。でもご褒美が欲しくて奉仕しているとしたら、結局誰に仕えていると 思いますか?やはり自分ですね。ここにも救われた者の強欲があるだけです。

では 奉仕を聖くする唯一のものは何なのでしょうか?それは自分が良いことをしても何 も得るに値しないと深く信じることです。人間の善行など何も得るに値しません。 悪を遠ざけることもできなければ、褒美をもらうこともできないのです。さあ、何 も得しないと知りながら奉仕しているとしたら、誰に仕えていることになるでしょ うか?やっと神様に仕えていることになります。自分のためではなく、自己を真に 無にして、神に仕えているのです。神を愛しているから、仕えているのです。  ではもう一度聞きます。人を聖くするのは何でしょうか?行動の変化だけを言っ ているのではありません。本当に人を聖くするのは何でしょう?それはズバリ恵み の約束です。私たちは恵みのみによって救われ、恵みのみによって聖くされます。 もし他のことが動機だったら、よく働けないでしょう。裁きが恐いなどの理由で神 に仕えていたら、その奉仕は律法的な行いにはなるでしょうが、聖いとは言えませ ん。むしろ聖くないと言えるでしょう。正しい行動をとっていたとしても、間違っ た動機でしていれば、それは神ではなくて、自分に仕えていることになるのです。 私たちの働きを聖くするのはただひとつ、恵みの本質を深く理解することです。神 様だけが人間を御前に正しくしてくださいます。人の働きではありません。  

神に仕えるにあたって個人的な動機が少しもあってはいけないとは言っていませ ん。人間的な例で見てみましょう。例えば仕事の帰りに妻に花を買ってきたとしま す。それを渡すと妻が言います。「まあ、あなたありがとう!でもどうして?」 「そりゃあいいことだからだよ。僕にとって」さあ、妻はその花をどうするでしょ うか。もし自分のためというのが最大の動機で花を贈ったのだとしたら、これは妻 に対する侮辱です。でもただ愛しているから、花を贈りたかったというのであれば 妻への愛が最大の動機となります。動機にも上から下へ順位というものがありま す。花を贈れば夫婦の仲も上手く行く、人にものをあげると心が豊かになる。結婚 生活の祝福にもなる。そんなことは分かっています。でも最大の動機は妻への愛で なければならないのです。他にもあって構いませんが。つまり神に従えば結果的に 祝福を受けると知って奉仕したとしても、それはそれでいいのでしょう。ただし最 大の動機が自分のためでは神のために仕えていることにはなりません。恵みのおか げで私は自分の仕事がなんであるかいつも教えられ、それてしまわずにいられま す。自分の働きには神様の好意を勝ち取る力はありません。もし私たち奉仕者が自
分のためを思って必死に働いたら、信仰基準の最初のところさえ、満たせないこと になります。すなわち神の栄光を表すものとして、不十分なのです。 

2.聖書は何と語っているか? 
10 信仰基準ばかりでなく聖書も見ましょう。資料をごらんください。第二コリ ント5章14節ですが、「キリストへの愛が私たちを取り囲んでいる」とあり、キ リストへの愛が福音を伝えることへと駆り立てることが分かります。ローマ人への 手紙8章15節「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた のではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『ア バ、父』と呼びます。」第一ヨハネ4章18節「愛には恐れがありません。全き愛 は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」さらにキ リスト降誕が書かれている、ルカの福音書1章68節と74節にはこうあります。 「主はその民を顧みて、贖いをなし、...恐れなく、主の御前に仕えることを許され る。」 

11 ではもう一度最初の質問を繰り返します。恵みの約束か、裁きがあるとの脅 しか、どちらが神の民を奉仕へ導くでしょうか?今聖書を読んで明確になりました ね?どんなに脅されても、ひとは聖くなりません。

12 ハーマン・リダボスの「パウロとその神学概要」Paul,An Outline of His Theologyにコロサイ人への手紙3章3節以下に関する注解があります。中略しな がら読みます。 

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に、神の 内に隠されている」というという御言葉にこたえるように、命令が後に続いてい る。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い 欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」人は、キリストと共に死んだとたん に、地上のからだの諸部分、むさぼりを殺したことにはならないとあり、そして いっときも早くそうすべき理由が続いている。(中略)このように叙述に基づいて命 令があります。(中略)一目でわかるが、叙述のあとに命令がされており、その順序 が逆になることはない。どの場合も、叙述のあとに(「ですから」、「そういうわ けで」などの言葉によって)命令がきて、まとめられている。

13 要点はこうです「叙述のあとに命令がきて、その順番は逆にはならない」こ れはどうゆうことでしょう?命令とは、”しなければならない”、”神に従わなけれ ばならない”、といったことで、”盗んではならない”、”妻には忠実でなければなら ない”、”主の名をみだりに唱えてはならない”などです。
 
そういう命令のあとでキリストのうちにあるあなたが必ず、理由や事情を叙述し なくてはならないということです。その順番は逆になってはいけません。「キリス トに受け入れられたいなら、これこれしなさい」では、恵みも何もあったものでは ありません。神様に受け入れられたいなら、神様に好かれたいなら、あれあれしな さい。違いますね?すでにキリストのうちにいるから、命令に従えるのです。本当 の自分を生きられるのです。順番は大事です。人間はすぐ順番をめちゃくちゃにし ます。かわいがってあげるから、いい子になりなさい。神様が祝福してくださるか ら、福音をオーソドックスに説教しなさい。私も親切にしてあげますから、もっと 私に優しくしてください。しかし、福音はまったくその逆なのです。それを今私た ちは理解しつつあります。まだ私たちが敵であったときから、神様は私たちをすで に愛してくださいました。愛してくださったのです。  

神は私たちが成長するようにもして下さいました。それはすべてを変えます。私 たちの説教の方法を変えます。講壇に立ち、命令について説教するときは、そうし たからといって神様から愛されるわけではない、と伝えなくてはなりません。”愛 されるのは、あなたが神の民だから。神様があなたを神のものとしたから。あなた の働きではなく、あなたが今神のために生きているからだ”と伝えなくてはなりま せん。  

子育ても変わります。妻と私は子供がまだ幼い頃に、自分たちの間違いに気づき ました。そして実際、子供に対する話し方を変えることにしたのです。”それまで は悪いことをするのは、お前が悪い子だからだ”という傾向がありました。でも神 学を全面にうちだすと、言うことがガラリと変わったのです。”それはしてはいけ ない、お前はお父さんの子だし、神様の子だから。本当の自分らしくありなさい” そういうようになりました。本来の自分でありなさい。それを元に生きなさい。人 の性質をその行動ではなく、置かれている状況をもとに判断してみましょう。 ”お前はキリストのうちにあって、家族の一員であり、お父さんの子供だ。その本 来の自分を生きなさい。何をしようともお前が誰であるかは変わらないのだよ何を するかという以前に、お前とお父さんの間には絆があるのだから”ここで中心にあ るのは、絆です。命令の後には叙述しましょう。順番は変えずに。

14 これがしっかりと理解できれば、キリスト者として生きるための一番大切な 動機が見えてきます。規則は変わりません、しかしそれに従う動機は変えられるの です。恵みの下にあっても盗むのは良くないことです。盗みに行っていいのか?い いえ、規則は変わりません。盗みを働くのはやはり間違っています。ではなぜ盗ま ないのですか?罰が怖いからですか?褒美がもらえなくなるからですか?違いま す。従う動機は変わりました、自分を愛してくださった神を私も愛するからです。 神はたとえ私が盗みを働いたとしても、なお愛してくださるでしょう。それほどまでに大きな愛を見せてくださったのです。だから、神が与えてくださった人生を、 相応しく生きていくのです。規則は変わらないが、従う理由は変わると分かりまし たね?

3.なぜ議論されるのか? 
15 ではなぜ罪悪感を使って脅すべきかどうか、昔から議論されていると思いま すか?信仰基準はもとより、聖書でも明確にされているのに。クリスチャンは自分 の行動を正して欲しいと思っているからです。私たちは罪人である他人や私が、ど うすればもう罪を犯さなくなるだろうかと考えます。  

少なくとも短期的にみれば、一番明らかで効果的な方法は神様に拒絶されると か、罰が下るとか言って脅し、おまけにあなたの救いは疑わしいとか言うことで しょう。そういった言葉は人の行動を変えるのには、かなり効果的です。しかし果 たして適切でしょうか?仮に適切だとしても、制限無しに言っていいのでしょう か?  

この質問を煮詰めると、最終的に行き着くところは、ここです。「人間の行動 と、神様の受け入れとの関係について、何を信じているか?」

16 人間は神の受け入れの前に聖くなるのか?それとも神の受け入れの後に聖く なるのか?神様の受け入れによる結果か?それとも原因か?言い換えれば、人間は 聖いから神様に受け入れてもらえるのでしょうか?それとも神様に受け入れても らったから聖くなるのでしょうか?どちらでしょう。  

前回、ポール・ポイストラという良友と出会い、共通点を見つけたときの嬉しさ と驚きについて話しましたが、私と彼はまさに神の摂理によって、まったく違う場 所から導かれ、出会えたのだと思います。カベナント神学校には、まったく違う バックグラウンドをもった教授が集まっていますが、みんな同じように経験を通し て、恵みのメッセージの必要性を実感した様です。私自身は神学校を卒業後、多少 説教が上手いとか、特技があるとかで評価されて、すぐに専任牧師の職に就くこと になりました。そして2つの教会で牧会をしましたが、いずれも歴史の古い教会 で、最初のところは100年以上、次のところは200年位の歴史を持っていまし た。二番目の教会は、イリノイ州で最初の長老派教会で、スコットランドから来 た、サムエル・ワイリーという宣教師によって開拓されたものです。ワイリーの名 は歴史の本にも載っていますね。そういう教会で働くのは、ある意味素晴らしいも のでした。でも時にはその歴史が、一番頭痛のたねとなりました。ひとつの理由 は、知識面でも信仰生活の長さでも、私を越えている人がいたことです。私なんか よりずーっとよく聖書を知っていましたよ。ところが信仰生活の長さや知識の豊か さにも関わらず、律法に重きを置き、愛や、喜び、平安、自制といったことには関心がないようでした。だから信徒も牧師も、互いに怒っていることがよくありまし た。比較し合う傾向もありましたね。新しい信者が来ても、クリスチャンらしい慣 習やきまりを守らないと、容赦しませんでした。タバコを吸ってはいけない、ガム をクッチャクッチャかんではいけない、そういうことをする女の子と出歩いてもい けない。それはみ~んな知っていることで、それを知らない人は疎ましく、出て 行ってくれた時には、正直喜んでいました。でもある時私は思いました。”なんで こんな風なんだ?”主イエスについて、信徒も私もよく語っていましたが、実際に はイエス様に相応しい性質をすこしも持っていませんでした。はっきりいうと、私 は信者たちに本気で腹を立てたことが何度もありました。でも次第に問題は信者で はなく、牧師である自分だと気づいたのです。説教は悪くないと思えました。言っ ていることも、示していることも、教理的な面も、ところがカウンセリングがどう かしていたのです。例えばふしだらな行いをした、ある夫婦にカウンセリングして いたとしましょう。そこで私がいろいろ話して、なにやらプロセスを経て行けば、 とりあえず行いは変わりました。でもその夫婦を一年、二年、三年と見ていると問 題となった行いはたしかに収まっているのですが、頻繁に鬱状態におちいっていた り、ほかの不品行を働いていたりしていたのです。こんなはずではないと思いまし た。行動は変わったが、霊的に健康ではない、そこで私は自分が何を言っているの か確認してみました。するとこんなことを言っていたのです。”いいですか、神様 に愛してほしいと思うなら、そういう不道徳なことはやめなさい。神様にかわい がってもらいたいなら、神様が喜ぶことをしなさい”聞こえましたか?叙述の後に 命令がきていました。神様の好意を受けたいなら、何かしろだなんて、これでは祝 福も何もあったものではありません。神様との間柄について、話してはいました が、私が教えていたのは”行いさえよくすれば、神様に愛してもらえる”というもの だったのです。この夫婦が三年間どんどん鬱状態に入っていったのは当然です。あ る意味で私は彼らと神様の間をどんどん広げていっていたのです。私のひどいカウ ンセリングが、神様と彼らの間に人の働きという恐ろしいくさびを打ち込んでしま いました。彼らの行いがよければ、神は愛してくださる。悪ければ、神は彼らを見 捨ててどこか他の星へでも行ってしまう。私は自分のしていることを見直さなけれ ばいけませんでした。正直なところ、これまで教えてきたことを振り返ると、絶望 し、おまけに他の教え方を知らないという事実に愕然としました。要するに、私の 説教は信徒に向かって、”変わりなさい”というだけのものでした。”みことばにあ ることを言っているのに、どうしておかしくなったんだろう。盗んではならないと 書いてあるから、盗むなと教えているだけなのに。どうしてこんな風になってしま うんだ”そこで本当に聖書の贖いのメッセージとは何なのか、釈義しながらも恵み の本質を説くにはどうしたらいいのかと考え始めました。そのとき、シドニー・グ レイダナスの本や、ポール・ポイストラのような人と出会ったのです。
 
そして影響を受け始め、聖書全体のメッセージが何であるか分かりだすと、きっ とそれが私の言うことを変えるだろうと確信しました。カウンセリングや説教はも ちろん、子育ても、また妻との仲において。”妻よ、君にあきれたり、夫婦喧嘩を したりしたときも僕は愛を持って振る舞っているから。この先も夫婦であることは 変わらない。そりゃ喧嘩もするだろうが、夫婦の絆はしっかり守る。そうしないと 僕らは条件付きの愛の中に生きることになる。それは破局を呼ぶだろう。君は僕の 妻で、僕らは契約の絆を結ぶ、究極的にはお互いのためを思ってとる行動も、お互 いを憎んでとる行動もこの絆を左右することはない。この絆はあらゆるものを含ん でいるのだ。お互いがどれほど違うかということも。”  先ほども言いましたが、最終的な質問はこうです。人間は聖いから神に受け入れ られるのでしょうか?それとも神に受け入れられているから聖いのでしょうか?ま た、人の行動が変わったとか、変わらないとかを理由に愛するか、愛さないか決め るべきでしょうか?また罪悪感を植え付けたり、罰で脅かせば、人は聖くなるので しょうか?それとも恵みを保証すればよいのでしょうか?

4.聖さの方程式
聖さと受け入れの順番を逆にした2つの方程式 
17 資料をみてください。聖さの方程式を考えてみましょう。私たちは本当は何 を信じているのでしょうか?知的にではありません。知的には同じことを信じてい るはずです。しかし実際に信徒に話しているときはどうでしょうか?疎ましくいら つく相手にどうやって語っているでしょうか?

18 聖さと受け入れの順番を逆にした方程式は、たぶん次のようになります。も し罪悪があるなら、何か悪いことをしでかしたのならば、それを捨てて正しくしな さい。罪悪は行動を正すことによって、帳消しにされます。では行動を直せば、罪 悪が帳消しになるとしたら、結局それは何とイコールになるでしょう。律法主義で すね。(1罪悪÷(行動×正す)=律法主義(パリサイ主義))長老派は改革的であ りますが、同時に律法も続けて用いられると信じています。ですからやはり行動が 正しくなるべきだとしていますが、ではそれは方程式にどう当てはまるでしょう?

19 罪悪を帳消しにするただひとつものはなんでしょう?キリストの働き、神の 恵み、一言で言えば、そう十字架です。十字架が空欄に入ります。では自分の力で はなく、神の働きによってのみ罪悪がなかったことにできると分かったら、次は何 が起きるでしょうか?愛と感謝であって欲しいですね。感謝を持って答えるので す。感謝から生まれた行動の実体は何でしょうか?それは悔い改め。これが真の悔 い改めです。自分の罪が十字架によって消されたこと、自分ではなく、神の働きに
よって罪が赦されたことが分かれば、心の中に神への愛が芽生えます。恐怖感では ありません。良い行いを小銭のようにためて、自動販売機から赦しを買うのではな く、私たちは無条件に愛してくださる神様を愛しているのです。その愛のうちから 感謝が生まれ、真の悔い改めへと導かれます。みことばはぜんぶがそのように語っ ていることを忘れないでください。(2罪悪÷十字架=帳消し=感謝×行動の変化 =悔い改め)

20 放蕩息子の父親は息子が反省の言葉を言う前に、既に受け入れていました。 もちろん言葉の後にも受け入れていました。息子が遠くにあらわれ、まだその声も 聞かれないうちに父親はどうしたでしょう?走っていって、抱きしめて、口づけし たのです。それから息子は、「私は天にもあなたにも罪をおかしました。」と言い ましたが、その前にもう父は愛を示していました。息子に父の愛が分かったのはそ れよりさらに前、豚のエサを食べたいと思ったときです。お父さんの雇い人ですら これほどひどい扱いは受けていない。そう思い、父親の本質を悟ったのです。神様 の本質は人間を引き戻し、連れ戻してくださるのです。放蕩息子が帰郷前から父親 の愛を確信していたのは、恵みが悔い改めより先に与えられていたからです。ロー マ人への手紙2章4節にはこうあります。”神の慈愛があなたを悔い改めに導くこ とも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。”もし 神様が閻魔みたいに怖いだけの存在だったら、だれがそのような方のところに戻り たいと思うでしょう?自分がどれだけ失敗しても、どれだけひどい罪をおかしても お父さんは両腕を大きく広げて何時でも待ってくれている。それが分かるから、こ ういう神様のところに戻りたいと思うのではないですか?

21 私はいやというほど自分の罪を見てきました。あまりにもひどすぎて、奉仕 の職に就いてからも何度も嫌気がさしました。でも私は神様の優しさや、神様が誰 であるかが分かっています。罪にも関わらず、愛と恵みを注いでくださること。だ から私は神に帰るのです。神は私を罪から遠ざけ、みもとに引き寄せてくださいま す。恵みの約束が悔い改めの力となります。

22 真の悔い改めは自分ではなく、神様へ導きます。

II.キリスト中心のメッセージにおけるふさわしい動機付け
23 では次のトピックに移りましょう。大きな2です。キリスト中心のメッセー ジにおけるふさわしい動機付けですが、根本的には、単に昔ながらの改革的信仰の 原則を実行することなのです。すなわち神様のご計画の全体像を見せる。早い話が
それです。説教でも、カウンセリングでも、学びでも、神様のご計画の全体像を伝 えましょう。

A.神のご計画の全体像を見せる 
24 なぜかと言えば、理由も説明せず、正しいことをしなさいと命令だけされれ ば信徒は間違いなく傷つくからです。また、その信徒は神様に受け入れてもらった り、愛されたりするのは、自分の行いや能力次第なのだと思い込むでしょう。その 結果、こちらが人助けのつもりで言ったことが逆に人を傷つけることになります。 新しい信者はやるべきだと教えられたことを一人で一生懸命しようとします。でも 一人でできるわけがないのです。だから私たちは常にキリストが力を与えてくださ るのだと伝えなくてはなりません。いつもいつも、すべきことばかり言われ続けた ら、新しい信徒はめげてしまうか、思い上がるしかありません。神様から遠ざかる と、この二つのどちらかしかないのです。完全にめげるか、すべてをやり遂げたと 思い上がるか。

25 聖化をテーマに説教していても、人の働きと神様による受け入れの関係を表 す方程式に恵みを入れ忘れたら、それは道徳主義か律法主義で終わってしまいま す。人間は恵みによってのみ神様に受け入れられます。どんな善行もしょせんは不 潔な着物にすぎないのですから。聖化も恵みによってのみ起こるのです。すばらし い働きをしたから聖化が起きるわけではありません。よいおこないは、聖化された 結果、生まれるのです。救いに感謝して捧げた働きを神様は恵みをもって受け入れ てくださいます。でもその受け入れも、人間の聖化も、恵み以外の結果ではないの です。

26 恵みはすでに保証され、神の愛もすべて間違いなく与えられているので、今 以上に神の愛を受けることはありませんが、神様に従えば、さらなる祝福を受けた り、神様とより親しい交わりを持つことができます。しかし従うのに失敗したから といって、拒絶されることはないのです。

27 訓練を受けることはあるかもしれません。きっとあるでしょう。罪の結果と して、訓練されるのです。しかし、それがどれだけ厳しいものであろうと、父から の訓練であり、間違いなく子供のためを思う愛の印です。  私だって、車の激しく行き交う通りに息子が飛び出そうとすれば、きつく叱りま す。なぜ厳しくしつけるのか?簡単ですね、愛しているからです。ヘブル書にもあ ります。”神様は愛する者たちを訓練される”と、そりゃそうです。愛していなけれ ば、しつけも訓練もできません。それが箴言のメッセージでしょう?”自分の子供をしつけない親は、子を憎んでいるのです。”訓練、すなわちしつけのなっていな い子供はどこへいっても一生鼻つまみです。ですから、もしわが子を愛しているの なら、しっかりと訓練し、しつけることです。神様も私たちを愛されているから訓 練してくださいます。ここで注意すべきなのはあくまでもそれは愛によるべきで、 罰が中心ではいけません。”言うことを聞かないと怒るべ~、叩くべ~、お仕置き だべ~”ではないのです。訓練と罰の間には雲泥の差があります。  

しかし、混乱しやすいのは確かなので、言葉の意味から理解してみましょう。罰 という言葉には処罰、刑罰という概念があります。悪事を働いたから処罰する、と いうわけですね。ではここで聞きましょう。イエス様は私たちの罪の処罰のどれだ けを背負ってくださったでしょうか?すべてです!神様はあなたの罪を、あなたの 子供の罪も、教会に集う信徒の罪も、すべてご自分のひとり子に負わせました。で すから、あなたはもう処罰を受けることはないのです。なのでキツ過ぎるというよ うな訓練を受けることがあっても、神様からの愛が減ったということではありませ ん。神様の目的は私たちを傷つけるものから守り、私たちの家族や教会に災いをも たらすものから守り、愛の道へ引き戻すことなのです。愛だけが人間を連れ戻して くれます。ですから神様を愛に満ちた父親としてみましょう。言うことを聞いたと か聞かなかったとかの理由で、罰を与えるような閻魔ではないのです。人間は心の 中で神様とサタンの場所を入れ替えていることがあります。

28 神から訓練を受けることはあっても、罪に対する処罰を受けることはもうあ りません。親から無条件に愛されていると信じている子は精神的に健康です。それ と同じように、天の父から無条件に愛されている、それは疑いないと教えられてい れば、神の子も霊的に健康でいられます。これから非常に単純なことを言います。 意味をはっきりさせるために。

29 人間は恵みのみによって救われる。人間は恵みのみによって聖化される。

30 人間は努力しなくていいと言っているのではありません。でも、たとえ何か 神様を称えることをしたとしても、それをする力は誰に与えられたのでしょうか? 神の霊です。人間は恵みによってのみ聖化されます。そして、恵みによってのみ守 られるのです。

B.行動を正すふさわしい動機とは?
31 それはそうでしょう。人間の善行はしょせん不潔な着物であり、そんなもの では、御前で自分を守れるわけがありませんから。ということは行動を正すにふさ わしい動機付けは、福音の働きから出てくることになります。しかし行いを正すに
ふさわしい動機とは何でしょう?盗んではいけないと教えるのは当然ですが、それ
にはどうゆう動機が隠れているのでしょう。

1.キリストによって示された愛に感謝し応えたい。
32 ひとつはこれ、”イエス・キリストによって示された愛に感謝し応えたい”と いう動機です。この感謝の応答こそが、聖書が示されている、クリスチャンらしい 行いをしたいという最大の動機ではないでしょうか。罪悪感は聖さを求める動機と して使われてもいいのでしょうか。講師の権限で言ってしまいましょう。答えはイ エスであり、ノーです。誤った形で罪悪感を使うと、信徒は神の愛の確かさを疑い ます。そして聖さを単に神に受け入れられるための手段と考えてしまうでしょう。 これは”不潔な着物でも神様に受け入れられる”としてしまうので、誤りです。  

罪の意識にかられた信徒は、神に従いますが、それで愛されようとしたり、罪悪 感を取り除いてもらおうとしたりしてしまうので、よくありません。しかし、罪悪 感が適切に用いられると、愛に応えたいという気持ちを呼び起こします。自分が罪 をおかせば、ひとり子までも犠牲にしてくださった神の愛を裏切ってしまうことに なる。そうなりたくないから、従いたいと願うのです。  

神学者は時々、主観的罪悪と客観的罪悪という言葉を使い分けます。何か悪いこ とをすると罪悪感を覚えますが、これは主観的罪悪です。では客観的罪悪は何かと 聞かれれば、何と答えますか?イエス・キリストの義の衣に包まれた私たちは、ど れだけの罪悪を背負っているのでしょうか?キリストの十字架のわざの後、神の法 廷で私たちは客観的にどれだけの罪悪があると言われるでしょうか?ゼロです。実 際には、罪悪感は聖霊が人間に罪を自覚させるために、使っているのです。”私を 愛し、ひとり子さえくださった神様に私は背きました”と分からせるため、罪を自 覚できるから、”神様が見せてくださったこの愛を裏切ったなんて、自分は何とい うことをしてしまったのだろう”と思えるのです。すると神に向かって、あふれる ばかりの愛が湧き出てきて、神に従いたいという気になります。  

罪の自覚によるのです。神様からの客観的な贈り物に気がつけば、罪悪はすでに 取り除かれていることが分かります。すでに処理されているのです。私や皆さんの 罪のために、世の始めから子羊がほふられ、罪悪はすでに帳消しにされています。 罪を悟ることは告白へとつながります、さらには悔い改めとなり、そこから新たな 気持ちで神に従うことになります。神の民に向かって次のように言うのは絶対にや めましょう。すなわち”神に仕えなさい。そうすればこれまでの悪行のおかげで肩 の上にどっさり乗っかった罪悪を自分で取り除けるようになるから”罪悪を背負っ て、来る日も来る日も神様に仕えて欲しいと願う者、がいると思いますか。”どれ だけ自分が悪かったか分かっているのだったら、もっと神様に仕えなさい。自分の したことはもう分かっているだろう。どれだけ間違っていたかも知っているな。どれだけ神様を悲しませたかも。神様との関係を正したいなら、まだまだ罪の意識を 感じ続けろ!”そんなこと言って誰が喜ぶでしょう?サタンです。サタンは人間の 弱みを突きます。つけ込む方法を心得ているのです。そして山ほどの罪悪感に、人 が押しつぶされていくのを、見たがっているのです。でも、神様はこうおっしゃい ます。”頭を上げなさい、わたしはお前が何をしたか、よく知っている。どれほど 間違っていたかも、でももうそれはしっかり取り除いてやった。お前の罪悪も、心 に感じていることも、わたしに従わなかったことも、すべてをイエス・キリストの 十字架に持ってきなさい。すべての罪が完全に赦されていることが分かるから。キ リストの恵みと、愛のすばらしさを確信して、新しい人生を歩むのだ”まさにこれ が力、主にある喜びこそが、我らの力なのです。神様の恵みが人を御前に正しくし てくださる。究極的にはそれが力となって、新たに従い、聖くなれます。

33 ですからキリストを見上げましょう。神がなされたわざ、教え、十字架で示 された憐れみを見上げること、神様から逃げるのではありません。神様を閻魔みた いに思うのはやめましょう。神様から逃げず、いつもキリストを見上げているこ と、それがサタンには脅威なのです。なぜなら、そうしていれば、罪が人間から離 れていくからです。良い罪悪感は恵みが与えられ、神に近づいていくことへの感謝 となり、喜んで従うことへと結びつきます。これは奴隷的な恐れとか、へつらいで はありません。主が私たちの力である以上、神に仕える最大の動機が、奴隷的な恐 れや、へつらいであるわけがありません。なぜならクリスチャンは、キリストとと もに御国を相続するもので、勝利の人生を送っているのですから、何も恐れること はないのです。

34 ハイデルベルグ信仰問答の86番がこれを要約しています。あまりにも正直 な質問で、私は好きです。 
「それでは、わたしたちが、一切の、わたしたちの功績なしに、ただ、キリストの 恩恵によってのみ、悲惨から救い出されたのであれば、なぜ、わたしたちは、善き 業を為さねばならないのでしょうか。」鋭い質問ですね。信仰を通し、恵みのみに よって救われたのならなぜ、よくあらねばならないのでしょうか?良い行いをし たって、何も変わらないではないですか。  

答えはこうです。それは私たちが、この恵みに対して全生活を持って、神に感謝 を示し、わたしたちによって、神があがめられるためであります。すべては恵みに よるのになぜ神に従うのか、それは神様を深く愛しているから。神がして下さった ことに心から感謝しているから。恵みに満たされた人間は自然と神に服従するよう になるのです。

35 みことばにその証拠を探してみましょう。
ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あ なたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生 きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。  

なぜささげなさいと言っていますか?”神のあわれみのゆえに”です。

2コリント 5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。  

ここはさきほども引用しましたが、神の愛が取り囲んでいるから、私たちは和解 のメッセージを取り次げるのです。  

テトスへの手紙2:14以下には恵みの厳しい面が書かれています。神の恵みが 全人類を救うために現れたからには、不敬虔と、この世の欲に対し、しっかりノー と言いなさいと教えているのです。なにがそう教えているのでしょうか?恵みで す。恵みはすべきことを教え、してはならないこともしっかりと教えてくれます。 恵みは教えています。イエス様を深く愛しているなら、裏切るような行いは我慢で きないはず。だから、イエス様の栄誉を傷つけるようなことには、ノーと言いま しょう。これこそが、最大の動機となるべきだと聖書は教えています。神を称える 方向へと人間の行動を変えてあげたいなら、私たち説教者はこの動機を与えてあげ ましょう。”感謝の気持ちで答えるのです”と。

2.愛の神が啓示された、罪の結果を避ける。
36 動機付けの2番目は、愛する神が啓示された、罪にともなう結果を避けた方 がいいというものです。言い換えれば、命令に背かないのはいい事だ、と教えるこ とになります。ローマ人への手紙の一章では、悲しい表現が3回繰り返されていま す。神様は人間を罪に引き渡された、とあるのです。罪がどれだけ悲惨な結果を生 むか神は知っておられました。しかしそのままにしておいたのです。救われた者に 対する訓練が、お仕置きのような処罰とは違うことは、先ほど話しました。より多 くの罰を与えて、痛めつけるのが神様のやり方ではありません。しかし、もし私が 車道に飛び出そうとすれば、神様は止めて”怪我をするぞ”と言って警告なさるで しょう。同様にふしだらな行いをすれば、家庭が崩壊してしまいますよと、私たち が信徒に言うのは、その罪の結果を避けさせたいからです。神様は人間を愛してい て、それをしっかりと伝えられています。愛していなければ警告なんかされないで しょう。警告すらも、愛から出た結果なのです。

3.神が愛している信徒をあいする
37 最後に、どうしたら信徒たちを神に従うように、動機付けできるのでしょう か、と聖書そのものに聞いてみました。すると答えはこうでした。神様が愛してい る信徒たちをあなたも愛することです。神様は信徒たちを愛しておられます。だか
ら私たちも、赦しと尊敬をもって接するべきなのです。困難なことも対処しなけれ ばなりません。なぜわざわざ自分に敵意を示す相手に、みことばを述べ伝えなくて はならないかといえば、神様が彼らを愛しているからです。私たちは神様を愛して いるのですから、神様が愛している信徒をも愛するのです。  

今回の学びをまとめてみましょう。本質的には規則は変わらないということ。恵 みがあるからといって、盗んでもいいということにはなりません。

38 規則は変わらないけれども、動機は変えられます。また、キリストを中心に した贖いのメッセージは、子育て、説教、教え、交わり、カウンセリング、生活の すべてに通じます。

39 最終的にしたいことは、罪悪感ではなく、恵みによる動機付けです。恵みに よる動機付け。

40 次は歯の浮くようなセリフですが、本当だからいいます。愛より強いものは ありません。恐れはそれほど強くありません。脅しも、強欲さもさほど強くないの です。罪悪感だってそう、この世で、愛に勝るものはありません。教理はみことば をどう読むかに影響を与えますが、私たちが考えるべきことは、神との絆で合理性 ではありません。聖書を解釈するとき、合理的に考え、シンボルを探ったりするの は確かにいいことです。しかし、基本的には私はそうゆうことには興味がありませ ん。合理的なことよりも、絆の方に目がいきます。究極的に伝えたいこと、それは 私たちのような罪人に注がれる、神様の愛がどれほど素晴らしいか、それはもう溢 れるばかりだということです。この愛を動機にして、仕えるべきです。他の何かで はうまくいきません。本当です。長続きしません。私たちが語る説教の核、原動力 は神様への愛でなくてはならないのです。他のものでは、福音の働きを伝えるパ ワーがありません。

41 多くの説教者が、説教の目的は信者に、罪悪感を与えることだと思っていま す。また聴く方にも、恵みをもらうためには、罪悪感を感じる義務があると考えて いる人がいます。説教などで、こう言われたことはないですか?”いやあ、今日の メッセージはよかったですよ先生、なかなか痛いところをついてくれました。実に すばらしい”こういう信者は、罪悪感を取り去って欲しいとは思っていません。懺 悔の思いに酔いしれたいのです。それが義務だと思っています。聴く人を聖書で叩 きまくって、罪悪感を植え付けるのが仕事だと思っている説教者も多くいます。そ れをそのまま受け取るべきだと考えている信者も、同じ位たくさんいます。”先生 の仕事はムチでぶつことです。それを受けるのが私の義務です。自分が悪いものだと感じたとき、「あぁ神様との関係を正した」と実感できるのです”こうではなく て、主を喜ぶことがちからとなるのです。罪はすでに遠くに取り去られました。 

 確かに人は神様に背きました。正しいものは一人としていません。私たちは神様 の前に罪人です。しかし、神様の恵みは我々の罪よりも、遥かに大きいのです。で すから、クリスチャンならば、イエス・キリストの恵みのうちに強くありなさい。 このメッセージは忘れてはなりません。

III.キリスト中心のメッセージをふさわしく用いる 
42 まとめて言うならこうなります。私たちがしなければならないことは、信者 に自分自身を、いやしの道具とさせないことです。これが基本です。キリスト中心 のメッセージや証しについて話すと、よく聞かれます。”本当にすべてのメッセー ジに、キリストの名前を言わなければいけない、ということですか?どのメッセー ジもイエス様の名や、十字架を出せばいいのですか?”これじゃポイントがずれて います。私はいろいろな同義語を入れ替えて使っていました。キリスト中心、贖い 的、福音、神の愛、つまり本質はこうです。人はスイスチーズみたいに穴だらけ、 その穴を埋めるものは何であるか、伝えるのです。人々が帰っていく時、穴は自分 で埋めなければいけない、と思わせてはダメ。自分のちからではなく、神様により 頼むように、しっかりと理解してもらってから、帰すのです。何千、いえ何万通り もの方法があると思いますが、これらの事を中核として押さえていれば、キリスト 中心のメッセージとなるのです。イエス様の名前を入れるかどうかではありませ ん。人間が自分の手で、自分を直すことはできない、と理解させること。そうすれ ば、神様により頼むようになるでしょう。伝える方法はほんとに何千通りもあると 思います。ウェストミンスター信仰基準19章にあります。「キリストの御霊は... 人間の意志を従わせ、またそれをなす力を与えられる」私たちはちからを与えてく ださる方に、信徒を導くようにしましょう。あれとこれをしなさい、だけでおわっ ていないでしょうか。

43 キリストの恵みとちからを充電するコンセントが、どこにあるかきちんと教 えてあげなくてはいけません。罪を告白し、悔い改めたあと、恵みによって、キリ スト・イエスの養子となったことを、信徒が分かっているかどうか、確認してくだ さい。私たちが彼らを神の子にしようというのではなく、神様がすでにそうされて いるのです。彼らの聖霊の働きを祈っていけば、いつでも頼れる神のちからが用意 されていることを、認められるようになります。それができれば、次のみことばに も確信を持つようになるでしょう。第一ヨハネ4章4節「あなた方のうちにおられ る方が、この世のうちにいる、あの者よりも、力がある」神様が聖霊を通して、も う示されているように、真のちからはすべてに打ち勝ちます。単にそう感じるだけでなく、みことばがそう語っているから”自分はキリストにあって生まれ変わった のだ”と信じた時、信徒は勝利者となれます。聖霊が示した罪をおかさない者とな るでしょう。私たちの語ることはすべて、神様の元に行かなければいけないと、信 者に納得してもらうためのものなのです。説教の終わりに”今週とるべき新しい5 つの行動”を与えても、効果はありません。確かに規則は変わりませんから、行い は正しくなって欲しいです、でも従う理由はどうなっているでしょうか。神様を愛 しているから、従っているでしょうか?人々は自分では作れないものを神様から受 け取っていると分かっているでしょうか?

結論:2回、ひれ伏す
44 頭に描いてください。フランシス・シェーファーという人はこう言いまし た。”手ぶらで神様のところに行きなさい”これは義認のときです。神様のところに 来て”私はこれこれを持ってきて、今から捧げますから、私を受け入れてくださ い”と言うのはいけません。だから手ぶらで行くべきだと、シェーファーは言った のです。次はとても強烈です”私たちが神のもとにきて聖化を求め、神に従おうと するときは、2回ひれ伏さなければならない”ここがシェーファーらしいところで すが、最初は形而上学的な神秘にひれ伏す、すなわちキリストにおいて、神様がな してくださったことにひれ伏すのだ。次は服従を表すためにひれ伏すのですが、で もこれが、神様のみわざに対して、先にひれ伏していなければ、無意味で間違って いるとシェーファーは言うのです。ですから、最初に神様がなしてくださったこと にひれ伏し、そしてもう一度ひざまずく。これはどういう意味でしょう?  

私たちが説教をする時、テーマが救いでも、聖化でも、基本的に人々に伝えるこ とは、”手ぶらで神様のまえに来なさい”です。いつも、なぜ神様が私たちを愛し、 また私たちの子供や妻を愛してくださるかを、宣べ伝えましょう。自分の働きやお こないによるのではないと教え、つねにキリストのみわざを指差してあげましょ う。神にはクリスチャンとして生きるための愛と、ちからと、喜びがあります。あ なたのメッセージの真ん中にキリストのメッセージが据えられますように。

45 祈りましょう。天のおとうさま、福音が私たちの語ることばを形作りますよ うに、そしてその言葉が、あなたが愛し、私たちも愛する信徒のこころを捕らえま すように。私たちのこころを開き、イエス様の素晴らしさを分からせてくださいま すように。あなたのうちにある喜びによって、強められますように、イエス様の御 名によってお祈りします。アーメン。

No comments:

Post a Comment