Thursday, February 11, 2016

「大いに喜ぶ」1ペテロ1:6−9


哲学者、科学者、また熱心なキリスト者ブレーズ・パスカルは、こう書きました。「喜び、喜び、喜びの涙。」キリスト者の喜びとは何でしょうか?

不思議な事ですが、天地を創られた神は、人となりました。イエス・キリストのことです。これを最近クルスマスでお祝いしました。この方は、30年の間、待って、公の奉仕をはじめました。はじめのステップは、12弟子を選ぶことでした。その中の一人は、この1ペテロの手紙のペテロでした。ペテロは、イエスの一番弟子でした。最後の晩餐の時に、イエスは、ペテロにこう言いました。ルカ22:31−34「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」皆さんは、この話を良く知っていますが。ペテロは、失敗し、イエスを否みました。しかし、イエスの言葉を思い出してください。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロは、神の偉大な恵みによって立ち直ったのです。彼は、教会のリーダーとなり、最後に殉教もしました。彼が書いたこの手紙1ペテロを通して「兄弟たちを力づけて」います。。。今日のメッセージを一言で、アメージング・グレース〜驚くばかりの恵みです。それを体験すると、喜ばざるおえないのです。

1ペテロ1:1−5にあるよう、私たちも、神の恵みとあわれみ、イエス・キリストの十字架と復活、「朽ちない遺産」と「生ける望み」を体験したのです。このキリストの「アメージンググレース」(驚くばかりの恵み)に対する私たちの最大な返事は何でしょうか?先ず、伝道に夢中に成る事ですか?ルールをいっぱい守る事ですか?まじめに生きる事ですか?。。。いいえ!6節「そういうわけであなたがたは大いに喜んでいます。」8節にもまた繰り返されます。「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

パスカルは、この恵みの喜びについてこう書きました。「炎。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢者の神ではなく。確信、確信、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神、イエス・キリストの神。私の神、あなたの神。世界と全てが忘れられ、神のみ覚える。人間の魂の偉大さ。福音で教えられている方法のみによって神は発見される。喜び、喜び、喜びの涙。」。。。「喜び、喜び、喜びの涙!」。。。キリスト者の喜びとは何ぞや?

1. 6節後半、私たちの恵みによる喜びは、「試練の中」にあるのです。

ペテロは、こう書いています。「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのです。」「悲しみ」とありますが、信者たちが決して木や石でないのです。人間としての感情はあるのです。私たちは、苦悩に傷つけられ、危険を恐れます。貧しさは苦しみであり、迫害に耐えるのは厳しいのです。

ここの「やむをえず」(ギリシャ語でエイ・デオン)は、「仕方なしに」とか、「いやいやながら」ではなくて、「必要ならば」という意味合いがあります。「必要とあれば」試練に出会い、「必要とあれば」激しく悩むのです。光栄と試練、喜びと苦しみ、天のような金と地上の泥との混ざった人生です。「大いに喜ぶ」ことと、「悩む」こととは矛盾しないで、大いに喜ぶがゆえに悩み、悩むがゆえに大いに喜ぶという不思議な人生です。このように小畑進牧師が説明していました。

御利益宗教と違って、キリスト教は、十字架の苦しみの宗教です。先ず、私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみの恵みによって、キリスト者、神の子どもに成ります。私たちの行いや道徳によるものではなく、神の一方的な恵みによってです。しかし、この上もない恵みにあっても、キリスト者は、「試練の中」にある者です。キリストに従うことはイバラの道でもあります。「出る釘は打たれる」のです。「悲しむ」時もあるのです。でも、主の恵みは、あまりにも優れているから「大いに喜ぶのです。」恵みを思い巡らすと、試練の辛さは、喜びに変えられるのです。

インド、マドラスの司教がトラヴァンコールで、ある子どもに会いました。この子どもは、多くの方にイエス・キリストを伝え、彼女の静かな忍耐によって何人かの方がイエスを信じるようになりました。しかし、言葉に表せないような試練と迫害にあったのです。司教にあった時、体中に叩かれ傷の跡があったのです。司教がこう聞きました。「我が子よ、どうやってこれを耐えたのですか?」驚いた彼女は、彼にこう答えました。「司教様、あなたは、キリストのために苦しむことを好まないのですか?」

2.6−9、私たちは、「試練の中」にあっても喜べるもう一つの理由は、その試練に目的があるからです。

数年前の3.11の東北での9.0の大地震と10メーター以上の大津波が押し寄せて来ました。20,000程の尊い魂が亡くなりました。ある人は、聞くでしょう。“Where is God?”(神はどこにいたのか?)『神が愛と力を持っているなら、なぜ神はその災難を許したのか?』。。。しかし、試練に意義があるのです。私たちには、その苦しみの意義は全ていや全然分からないかもしれないが、無意味ではなく、意味や、目的があるのです。

試練は、クリスチャンでない方にとって理解できないと思います。しかし、この箇所は、クリスチャンに試練の目的を教えています。この箇所に、試練の三つの目的を書いています。

一、    7前半、試練は、信仰の尊さを証明する。
金を掘り出すと、必ずし純金ではないのです。金も「かねかす」や「かねくそ」を落とさなければ、金本来の光を発揮することが出来ません。ですから、高い熱の「火で精練」されるのです。ペテロは、こう言っています。「あなたの信仰は、その精練されながらも、朽ちる純金よりも『尊い』です。」

試練で磨かれた信仰は、金にひとしいどころか、金よりも尊いと断言しているのです!試練を通った信仰の前には、輝かしい黄金でさえも、何でも無いのです。私たちはそれほどの宝を抱いているのです。

ある方は、クリスチャンに「あなたは信仰をもっておられてよいですね」と言いました。我に返ったクリスチャンはこう思いました。「そうなのだ。僕は信仰をもっているのだ。それは実によいことなのだ。いや、それどころか、とても『尊い』のだ。」

この「精練された」と言う言葉は、神の賞賛を受けるためにテストする、と言う意味です。多くの場合テストは、人を落とすためです。しかし、神からの試練やテストは、神の賞賛を受けるためです。試練の最中に落ちるためではなく、失敗しながらも合格するためです。人の称賛を求めると不合格に成ります。しかし、十字架のイエスの愛とその称賛を仰いでいる私たちは必ず合格します。

二、    7節後半、神が誉め讃えられる。
この「称賛」と言う言葉は、「讃美」と言っても良いです。私たちが試練を通ってより尊くなり、合格すると、神が誉め讃えられるのです。しかし、神への「讃美」だけではなく、神への「栄光」とさらに神への「栄誉」ともなるのです。ペテロが似たような言葉を繰り返しているのは、『神の栄光』は(試練を含めて)全ての究極的な目標であると言っているのです。

ウェストミンスター大教理問答書のはじめの質問。「人間のおもな、最高の目的は、何であるか?」その答え。「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」試練の中にあっても、イエスの恵みを喜んでいれば、神を讃美することは可能です。試練も神の栄光となるのです。

三、  9節、救いに導く。
私たちは、過去、主イエス・キリストの十字架によって救われました。イエスが十字架上で代わりとなって罪の罰を受けて下さいました。また、私たちは、その救いを体験しました。私たちは、現在、聖霊さまの力によって、罪の力から救われています。聖化とも言われています。9節では、将来/未来の救いを語っています。私たちは、罪のある世から、天に救い上げられます。

父は、10年以上前に、屋根から頭先から落ちました。私は、病院で、意識がはっきりしていなかった父に詩編23編を読みはじめました。父は、いやがりました。なぜなら、詩編23編は良くお葬式で読まれます。父は、まだ天国に行きたくはなかったのです。私や母は、違います。できるだけすぐ天国に行きたいのです。なぜでしょうか?自分の罪、他人の罪は、多くの試練を生み出すからです。自分の罪を含めて、罪のある世から罪のない天国へと逃れたいのです。今は、自分の天に召される時ではないが、神の時に、その救いが必ず来るのです。試練の原因となる罪の存在から救出される時を期待しています。

無心論や進化論では、ただ宇宙は、ビッグバンによってはじまり、混乱の状態から、不思議にこの秩序ある宇宙と世界が偶然にできたと教えています。進化論によると、宇宙にも、人間にも、目的がないのです。すなわち、苦しみにも目的が無いのです。逆に、弱肉強食の世界で、物や人が死に、滅亡すると、進化論は教えています。しかし、聖書は、逆です。聖書は、全てに目的があると教えています。人間が車を作る目的があるように、神が人を創った目的がるのです。あなたの人生に目的があるのです。この箇所のように、試練にも目的があるのです。

3.8節、私たちの恵みによる喜び、試された喜びは、色んなふうに表現されます。

「二目惚れでした」と私は家内にあった時のジョークを言います。大きな両目で見て惚れました。普通は「一目惚れ」と言いますね。キリスト者のキリストに対する気持ちは、「一目惚れ」でもないのです。「ゼロ目惚れ」です。「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じて」いるのです。ペテロは、3年半、イエス様と一緒にいたのです。でも、信じたり、愛したりしたが、イエス様を3回も知らないと言って、否みました。しかし、私たちは、過去も今も一回もイエス様を見たことがないが、愛し信じているのです。私たちの「信仰」そのものも、とても「尊い」のです。

「ああ、どうせ生まれるなら、二千年前にパレスチナに生まれればよかった。あのころイエスを見ていたら、もっと恵まれ、もっと幸いで、もっと熱い信仰をもてた」などと言ってはなりません。「見ないで信じる者は幸いです」という主イエスは約束しているのです。

ペテロはこう言ったのではないでしょうか?『私たちは見ての聞いての信仰だった。けれどもあなたがたの信仰は全く純粋な信仰なのだ。なんと、あなたがたは主イエスに会ったこともなく、一言も耳にしたことがなかった。それなのに、それなのに、君たちは熱心だ』小畑進。ペテロが聖霊様に導かれてこう書きました。「あの人々は見てもいないのに信じて、生命がけで苦難と試練にあっても喜んでいる!」神ご自身を、見ないで信じ、生命をかけて喜ぶ私たちを、どれほどいつくしんでいるのでしょうか?

しかし、そこで終わらないのです。彼らは「ことばに尽くすことができない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」試練にあったのに、イエス・キリストを見たこともなかったのに、阿波踊りではないでしょうが、少なくても心は踊っていたのです。ペテロは、また言葉を重ねています。1枚「ことばに尽くすことができない」ほど喜んでいる。2枚「栄えに満ちる」ほど喜んでいる。3枚「おどる」ほど喜んでいる。

これはキリスト者のより深い,高い、広い喜びを意味しています。私たちは、確かにイエス・キリストを信じ、愛し、喜んでいます。しかし、聖霊様の特別な恵みによって、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」時があるのです。

天国に召されたロイド・ジョンズ牧師は、このように例えました。私たちは、人生の中でイエス・キリストと歩んでいます。確かな信仰、愛と喜びがあるのです。しかし、突然一方的な恵みによって、イエス様が抱き上げて下さるのです。「我が子よ、愛しているよ」とささやいて下さるのです。その時に、この世にないような、天国のような「喜び」を体験するのです。前は、信仰の確信がありながらも、疑ったのです。しかし、もう疑いは、晴れて、確かな確信を持つのです。。。個人としてこれを体験することができます。が、リバイバルを通して教会として体験できるのです。神が下す体験ですから、強引に体験できるものではありません。しかし、そのために熱心に祈り、イエス・キリストの十字架と復活の恵みを心に抱くと、それを体験する可能性は高まるのです。

14世紀ごろの思想家・聖職者、トマス・ア・ケンパスは、こう言いました。「喜びて神のささやきの鼓動を聞く人は、幸いなり。」「神のささやきの鼓動」は何ですか?試練のまっただ中にあっても、『あなたは私の愛する子』と言う神のささやきです。パスカルは体験をこう書きました。「炎アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢者の神ではなく。確信、確信、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神、イエス・キリストの神。私の神、あなたの神。世界と全てが忘れられ、神のみ覚える。人間の魂の偉大さ。福音で教えられている方法のみによって神は発見される。喜び、喜び、喜びの涙。」冷静な学者でもある、パスカルは、取り乱しているのです。なぜなら、恵みのキリストにあったのです。まじに喜んでいるのです。試練にあっても、キリストの恵みを知っているから、試練の目的をも知っているから、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」のです。キリスト者の阿波踊り!


この喜びがあると人々は、イエス・キリストに引かれるのです。テモシー・ケラー牧師はこう書きました。「私たちの人生に福音が働き、喜びという効果をもたらすと、証の莫大なエネルギーとなる。こんなに素晴らしいことを黙っていれるだろうか?(。。。でも)このエネルギーがなければ、私たちは悔い改め、そのエネルギーが流れるまで、神を求めなければならない。」。。。悔い改めましょう。主イエスとその福音を新たに信じましょう。喜び踊りましょう。

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