私は、小さい頃から、聖書に触れ、ヨハネ3:16、エペソ6:1などの聖書を暗記させられました。『させられ』を強調しています。いやだったのです。しかし、8才の頃、アメリカに行きました。父が何回もいろんな教会でメッセージして、招きをした時、私は、前に行きました。しかし、Evangelineおばちゃんから福音の話しを聞くまで、ピーンと来ませんでした。おばちゃんは、Maxwellおじいちゃんの家に来て「字の無い本」を通して分かりやすく福音を説明し、私は、本当に信じました。間もなく、洗礼を受けました。
が、私は、ずっーと、福音が義認(救い)のためだけにあると思い、聖化(成長)の為でもあるとは知りませんでした。クリスチャン生活の‘はじめの一歩’は、キリストだと思いましたが、その次のマラソンは、実際は自分の頑張りだと、思っていました。私は、高校の頃から、ジャン兄のような先輩の歩みを見て、聖書を読むようになり、クリスチャン生活を具体的にしはじめました。7年間、聖書大学・神学校に行き、10数年間、TEAMの宣教師と単率宣教師をしました。。。しかし、何か変でした。私は、ただただ疲れていました。多分、霊的に燃え尽きていました。前、ここにいた時も。なぜなら、私は、結構強い意志があったので、それによって聖くあろうと思いました。でも、落ち込んでいたり、怒ったりたりしていました。しっかりリードしていたつもりでしたが、家内に対して権力を振るいすぎました。。。何か間違っていたのです。
ある時期、私は、静思の時間で、出エジプト記を学んでいました。気が付いたのです。20章の『十戒』の前には、イスラエルの救いー贖い。後は、天幕と犠牲。掟を囲んでいたのは恵みでした。また、マルコを学んで、ポイントは単純で、キリストとその贖いで、それに対するシンプルな信仰でした。で、ちょうどその時に、ジャン兄がチルダズ博士の『人を造り変える福音の力』(The
Transforming Power of the Gospel)のテープを下さいました。これだ!と思いました。。。
でも、神は、私に深い試練を与えて下さいました。私たちが再びTEAMの宣教師として日本に帰れるように、アメリカの母教会に行きました。でも、違う頁(different
page)にありました。ちゃんとした仕事が見つからなかったし、人間関係が崩れ行きました。自分の命を取ることをも考えたくらいでした。。。でも、そのどん底に、神の恵みがあったのです。家内の古里の香川の高瀬で住み、開拓伝道をしはじめました。そこで、ニューヨークの長老教会のチモシー・ケラー牧師の本を読み、インターネットでメッセージを聞きはじめました。有名な本は、日本語にも訳されている「放蕩」する神です。私は、福音によって、変えられはじめました。静思の時間に先ず、私を贖ったイエスを礼拝することを強調しはじめたました。。。家内と子どもとの関係が変わりはじめました。前のように怒ったり、落ち込んだり、いらだったりしないようになりはじめました。。。メッセージは、前と同じ講解説教(expository
preaching)でしたが、内容は、キリスト中心、福音中心、恵み中心のメッセージに変わりはじめました。。。課題の多い私には、福音しかなかったのです。
ローマ1:15−17「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
7節を見ると、明らかにこの箇所とローマ章全体が主にキリスト者に書かれているのです。「福音は、。。。救いを得させる神の力」は、クリスチャンに語っているのです。もちろん、その「力」は、Nonクリスチャンにも及びますが、特にクリスチャンに及ぶのです。知っている通り「力」という言葉は、ギリシャ語で”dunamis”で、ダイナマイトという言葉の語源です。ここでは、破壊力のある力では無く、人を救う、変える、癒す、聖くする「力」を意味しています。。。。信じて、すがって下さい。主イエス・キリスト、その十字架の愛、その復活の力があなたを救い、変え、癒し、聖くします。
「信仰に始まり信仰に進ませる」は、ギリシャ語では’ek
pisteos eis pisten‘です。最初から最後まで信仰という意味です。パウロは、それを、旧約聖書のハバクク2:4で強調しました。「義人は信仰によって生きる」と引用し、キリスト者の全生涯が信仰の土台によって生きることを説得しています。信仰によってはじまり、行いによって進むのではなく、信仰によって進むのです。。。。あなたは、ただ頑張って、疲れていませんか?全ての源である主イエスを常に信じ仰いで生きようではありませんか?そうすると、主は恵みから来る「行い」を下さいます。
ローマ書全体が、キリスト中心、福音中心、十字架中心、恵み中心であることを教えています。ローマ章12:1、パウロは「そういうわけですから」と書いて、ローマ1章〜11章のキリストの恵み深い福音を読者に振り替えるように語っています。「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに(ローマ1章〜11章)、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」全身全霊を神に捧げることを促し命じる前に、愛の道に歩むように語った前に、聖くありなさいと教えた前に、パウロは「神のあわれみ」をまた繰り返し、強調してます。
私たちの一番大きな罪は、福音を常に信じないことではないでしょうか?十字架の愛が十二分であっても、今もその「力」(”dunamis”)が及んでいることを信じないときが多すぎないのではないでしょうか?有名なプーリタンジョン・オーウェン「あなたが父なる神に課す最大の悲しみと重荷、そして最大の不親切は、神があなたを愛しているということを信じないことである。」それに対してナビゲターズのブリジェスはこうコメントしました。「父なる神の最も大きな悲しみは、私たちが神の名を汚す恥ずべき罪を犯すことであるとオーウェンが語るのであろうと予想していたかもしれない。確かに罪は神を悲しませるが、オーウェンは、神の愛を疑うことはもっと神を悲しませると言っている。」。。。信じなさい!信じましょう!
今が「危機の時代」であることは明白です。日本の教会は、今苦しんでいます。私は、香川にいた頃、周りの教会は、苦しんでいました。高松の教会も苦しんでいました。あの教会も、あの牧師も。西香川の私たちの周りの教会もそうでした。牧師の高齢化、病気。ある教会は、礼拝人数は5名とか。
私の家内の兄は長老教会の牧師で、去年の8月から仙台で被災者援助と開拓伝道をはじめています。が、同じ長老教会の引退牧師村瀬俊夫はこう書きました。「教会の福音伝道に無くてならないものは、長老教会の裃ではなく、福音そのものの輝きではありませんか。十字架と復活の福音は、それを聴く者に、罪の赦しと永遠のいのち、そして神の子とされる特権を与えます。この福音が率直に告げられ、受け入れられる礼拝は、神の恵みへの感謝の応答として、明るく楽しく、愛と喜びに満ちています。それこそ、救いを求める人々の必要に応えるものなのです。」(「日本の教会の現状と展望」)教会とクリスチャンの中で、福音が輝くと、外にも輝くのです。人々は、その輝きに引かれるのです。
ですから、福音に活きようではありませんか?福音を自分達に、隣人に伝えようではありませんか?「数年前のことですが、ナビゲーターの有力なリーダー(ジェリー・ブリジェズ)が、数百人ものクリスチャンの前で話していました。彼自身の福音に対する見方が、彼のクリスチャンリーダーとしての仕事を阻んでいたということを明らかにしました。。。。彼は言いました。「自分の人生を一本の線で表わすことを考えてみて下さい。一番左側にある点を、あなたが生まれた時としましょう。そして一番右側があなたの死です。真ん中にあなたがクリスチャンになったことを示す十字架をおいてみてください。生まれてから十字架までの間で、あなたに一番必要だったものを一言で言い表すと何ですか。」ほとんどの人は『福音』であると答えました。「それでは、」彼は続けました。「十字架のからあなたの死までの間で一番必要なものは何ですか。」『成長』と答える人もいれば、『聖化』と答える人もいました。。。。「以前の私でしたら、きっと皆さんに賛成したことでしょう」と彼は告白しました。「ナビゲーターとして、私なら多分『弟子訓練』と答えたことでしょう。しかし今の私は、それは『福音』であると答えます。」
スチブン・チルダーズ博士はこう書きました。「グッドニュース!クリスチャンにとっての素晴らしいニュースは、私たちの冷たく、かたくなな心のための神様の治療法があるということです。その治療法は、人の心を変える福音の力にあるのです。そしてその治療法は、私たちの再生だけでなく、私たちがキリストの似姿に変えられることをも目的とします。そしてその目的は、ただ単に罪の赦しを得させるだけでなく、私たちを真実に神を礼拝し、人々を愛する者へと変えるのです。」
そして、福音は、クリスチャンの全ての分野(area、領域)に適用されるのです。なぜなら救い主は、主(全ての全ての主権者・王)であるからです。。。私の静思の時からはじまるのです。で、妻に対する態度—エペソ 5:25「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」十字架が力の源でもあるし、模範でもあるのです。他も。子供と接す時も、信大で教えるときも。。。でも、また、プロテスタントとしてメッセージの分野も。
米国ミズーリ州・カベナント神学校の学長・ブライアン・チャペル氏はインタビューにこう答えました。「福音中心、恵み中心、キリスト中心の説教が語られるべきだということ。恵み中心ということは、自分自身の生き方に焦点を点当てて、罪悪感や自分の行いからではなく、神からの愛によって私はきよくなりたいという願いを伝えることです。神の愛を深く知ることによって、人はきよくされるのです。。。。恵みによる救いが分かることが必要です。自分の努力や行いではなく、神が愛してくださっているという、神の愛によって動機づけられた人は、神が愛するように動きます。この恵みは、聖書全体に表されているので、教会がこれを発見するならば、新しい力になります。」(聖書全体がキリストご自身とその恵みを指し示している)
作家司馬遼太郎は、「明治と言う国家」で明治維新についてこう書きました。「幕末のいわゆる志士のなかで明治の革命後の青写真、国の設計図をもった人は坂本龍馬だけであっただろうと思いますが、それは勝(海舟)という触媒(しょくばい)によってできあがって行ったものでしょう。さらにいえば、(ヴェレム・)カッテンデーケが勝にとっての触媒だった。それが龍馬にうつされてゆく。」勝は、咸臨丸でオランダ海軍の武官カッテンデーケにあいました。カッテンデーケを含めるオランダ人が船の上で「讃えよ神を」を心から歌っていた姿を見て、勝の心に何かが動いたのです。後に、勝は「讃えよ神を」を日本語に訳しました。後、彼は、天に召される数週間前に「私はキリストを信じる」と告白しました。。。でも、維新の触媒となったカッテンデーケは、何を信じていたのですか?オランダのクリスチャンの多くがハイデルベルク信仰問答を信仰の軸にしていました。その「問1」は、次のとおりです。「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」その「答」は、「わたしのからだも魂も、生きる時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです。このお方は、ご自分の貴い血によって、わたしのすべての罪の代償を、完全に支払って下さいました。。。」。。。この福音がカッテンデーケと勝を直接動かし、後に龍馬と日本を明治維新へと動かしたのではないでしょうか?全てを変える神の恵みが福音にあるのです。私達の行いによってではなく、キリストの行いー十字架の愛ーによって、私達の罪が赦され、私達は変わりはじめます。この恵みによって動かされ、私達の生活全て、また社会国家まで変えられて行きます。
そのような力が福音にあります。。。私は、しばしば失敗します。しかし、福音に活かされ、宣べ伝えることが私のパッション(熱い志)です。あなたの、この教会のパッションにもなって欲しいです。
(2013年の4月に豊かな命教会でメッセージ)
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