Wednesday, December 2, 2015

「見える御言葉:聖餐式」



私たちは、クリスチャン生活をあまりにも複雑にしているのではないでしょうか?私たちの主イエス・キリストは、聖餐式をはじめに行った時にこう言われました。ルカ22:19「私を覚えてこれを行いなさい。」(1コリント11:24−25)礼拝、また人生の全て、は、イエスを覚えることにまとめられる、と私は、確信します。

メッセージの聞く御言葉だけではなく、見える言葉が必要です。聖餐式が必要です。宗教改革のジャン・カルヴァンはこう言いました。「(カトリック)が伝える一つの祝福の代わりに、私たちは、三つの祝福を強調しています。一、主は、御言葉(聖書)の中から私たちを教えます。それで、聖礼典(洗礼と聖餐式)を通して、それ(御言葉)を確証します。そして、最後に、聖霊の光によって私たちの思いの中にそれを照らして下さいます。。。でなければ、それらは、ただ私たちの耳を叩き、ただ目まで来て、内なるものを影響しません。」

聖礼典は「外から見える印であって、それによって、主の私たちに対する善意を証明し、証しします。。。神の恵みであり、外から見える表象によって宣言されます。()御自身へと導く肉体的なものであります。そして、肉体にある私たちは、霊のものを仰ぎ見るようにさせられます。」

聖餐式をラテン語やギリシャ語で言うと「ユーカリスト」です。「ユー」(eu)は、『よく』で、「カリスト」(charist)は、は『感謝する』という意味です。よく感謝する、と言う意味です。聞くユーカリストは、説教ですが、見るユーカリストは、聖餐式です。聖書を語る説教も、口に入れる聖餐式も、両方、生ける神へと、その救いの感謝と讚美に導くのです。

カルヴァンは、少なくても毎週、聖餐をお祝いするように、勧めています。他の全ての集会にでも、行うように、勧めています。カルバンのいたスイスのジネーブでは、御言葉と共に、常にしていました。

ここまで大事なのです。そして「主を覚える」必要は、私たちの毎日の歩みにあるはずです。常に、主を思い、信じ、崇め、また、主の御言葉を行うのです。

「主は、私たちの信仰の弱さを知っています。ですから、見えるように、味わえるように、触るように、聖礼典を下さいました。パンと杯が確かに見えるように、神は、確かにあなたを、キリストを通して、愛しています。。。確かに、キリストは、あなたのために死なれました。この食卓で、信仰は、見えるものに成るのです。」

聖餐は、確かに福音を全ての人に「告げ知らせるのです。」(1コリント11:26)それによって、活かされ、活きるのです。

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