Thursday, October 16, 2014

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。



イザヤ49:14ー16『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。。。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。。。」』

私たちは、今から、聖餐式を通して、主とその十字架の愛を覚えます。が、それは、主が私たちを十字架によって私たちを覚えたからです。

「主は私を見捨てた」と思ったことはありませんか?。。。でも、15節「女が自分の乳飲み子を忘れようか。」私は、仕事に捕われて、子供のことを十分に気が付きません。でも、家内の奈帆は、子供に心を注ぎます。教育、服、栄養など。母親がそうなら、天の父は、より私たちのことを覚えて下さいます。でも、15節後半、万が一の場合、「たとい、女たちが(子供を)忘れても、このわたし(あなたの真の父なる神)はあなたを忘れない。」

16節「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」息子のジャシュアは、手の裏だったと思いますが、こないだ、手に何かを書いていました。宿題でしょうか、忘れないためです。でも、私たちを忘れないために、神は、書いたのではなく、とれないように、刻み込んだのです。入れ墨のように。もちろん、比喩的に言っていますが、「あなたをぜったい忘れない」と言っているのです。

でも、刻む時、痛くはないでしょうか?。。。十字架にかけられる時、主イエスの手のひらに、釘が打たれ、手が「刻まれた」のです。そして、その釘の跡のゆえに、その傷のゆえに、私たちを忘れないのです。その跡は、今も手にあるのです。。。今、このようにして、聖餐式において、私たちを忘れないで覚えて下さる方を、私たちが忘れないで覚えるのです。その傷を、その十字架を、その愛を覚えるのです。父母、兄弟姉妹、友達があなたを忘れても、主は、あなたを覚え愛しているのです。主の手に刻んであるあなたの名前を見るのです。主イエスを覚え、愛すのです。

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